はてなキーワード: 仙人とは
「なぜ揺れるのが嫌なのか」
わざわざ「胸を揺らす」というフェティシズムの発露に透ける作り手のねちっこい情念と、それを喜ぶ受け手の欲望を幻視するから。要するに「オタクキモい」というのが論理よりも先立ってるとは思う。個人的には「胸が揺れるからなんだ」と思わないでもないが、一方でこういう騒動があるたび「胸を揺らすこと」に並々ならぬこだわりを持つ人たちが顔を真っ赤にしているのではないかと思えるほどの必死さで胸揺れを擁護し、抗議者を悪し様に罵っているのを見るにつけ「これは子供の教育によくない…」という感情も生まれてくる。
てなことはさておき、現代において「揺れる胸」というのは「揺れる髪の毛」より性的な含意がある。だいたい自分の娘の髪の毛をブラッシングしたりで触れることはあっても、胸を触ったりはしない。「女性の胸」はそういうパーツであり、その延長線上で「胸が揺れる女体」を「いたずらに性欲を興奮または刺激させ、かつ普通の人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」と見做す方向の社会的判断はありうる(主に「女体を保護すべき」という家父長的思考と、「女体を男の性的欲求に利用すること許すまじ」という側面のフェミニズム的思考と、「えっちなのはいけないと思います」という付和雷同的大多数といったところか)。社会ではそういう綱引きがあり、現状どちらかといえば、胸を揺らしたがる勢力のほうが劣勢にある。
なんにせよそれは「創作が悪意によって不当なレッテルを貼られている」ということではない。そういう時代なのである。いま我々はミニスカートの女性を見ても特段なにも感じないが、過去にはそれで神通力を失った仙人すらいたという。いつか胸揺れに誰すらも心乱れなくなり、胸が揺れた揺れないといって相争うことのない日が来れば………そのときはそのときで別のトピックで大騒ぎするんだろうね。
このところ常に死にたいとうっすら考えているような感覚で生きている
楽しいことがあってもふと「そういや死にてえな」と思い返して楽しさが冷めていく感覚。
そしてそれは大体みんな同じような感覚を抱いているんだろう、死にたいと思っていない奴はむしろ相当の楽天家か馬鹿の少数だけと思っていたが、どうやらむしろ死にたいと思っている人の方が少数派らしい。
別にいじめられているとかブラック労働がとかじゃない。それなら別にそうじゃない人は死にたいと思わないだろう。理由はSNSを始めとする社会に蔓延する憎悪があまりに重苦しく苦痛だからだ。
最初に断っておくとこれから出てくる加害者たちを擁護する気は無い。
もちろん悪い事をした人が悪いのだが、ことある事に槍玉にあげてその都度完膚なきまでに叩く多数をみて「ああ嫌だな」と何となく感じた。
スキャンダルに対してその当事者がネットで槍玉に上がったことはそれまでにもいくらでもあった。
思い返せば小保方氏や野々村議員もその例だろう。ただ彼らは音MADにされたりクソコラを作られたりと、もちろん本人してはたまったもんじゃないだろうが、スキャンダルをコメディとして消化しようとするものだった。
もちろん、ひき逃げの加害者を音MADにしろという訳では無い。こちらは明確に被害者がいる以上そんなことが許されるわけが無い。
それでも、一人の人間が憎悪の対象として消費されるのを見て擁護はなくても同情はしてしまう。
あまつさえ、上級国民とかいうこれまでなかった言葉まで使って高齢者富裕層まで主語を広げて叩く日には、「フランス革命でラボアジェを処刑した国民はこういう人達だったのかな」と思った。
オリンピックの諸問題の方々、金メダルを噛んだ市長それがし、不倫した芸人なにがしや声優なにがし等々。取っかえ引っかえの回転寿司状態だ。そしてその度に地獄のようなコメントが溢れる。これを書いてる途中に声優それがしが死にかけているらしい。書いている途中に知ってめちゃくちゃ偶然だが、遅かれ早かれそういうことが起きるのは明白だっただろう。
なぜそんなことになったかといえば、これらの人達は「わかりやすい自分と関係ない悪」だからだ。
家族や上司などといといった簡単には解決できない問題、更にはウイルスなどといった実体のない敵によるストレスは人類全体に重くのしかかってくる。「正義をもって悪を誅す」というのはそのはけ口としてとてもよく働く。自分のストレスや不安から目をそらすことに精一杯な人達はますます想像力が欠如して盲目になり、ましてや、加害者の心情なんて想像しない。
要はストレス解消のために叩いてもいい大義名分を持った人が求められているのだ。
こういう人達が活動を自粛したり降板したり表舞台から退いたり、ましてや自殺したら「責任を果たせ」だとか「逃げるな」だとか言われる。
そして決まって「被害者を思うと…裏切られたファンを思うと…」とかがくっついている。その綺麗事、大義名分になんの意味があるのか。
「次の悪者が現れるまで後腐れなく叩かせ続けろ」って言え
大体そういう人たちは何を以て責任を果たしたと認めるのだろうか。謝罪しても当事者でもないのに「誠意が足りない」だの「被害者には許さない権利もある」とかいうくせに。じゃあ目に見えればいいかといえば「金で解決しようとしてる」とか「上級国民が」とか言い出すくせに。
そして死んだら「責任から逃げるな」とかいう。むしろ自分が死の遠因になったという責任から逃げているのはそっちだろう。
開会式のいじめがどうとかいうミュージシャンそれがしを集団で叩くといういじめの構図をもって成敗した気になっているのは、悪趣味すぎるコメディかと思った。
もちろん自分が知らないずっと前からこういうことはネット、リアル問わずあっただろう。でもそれはメインストリームではない。
しかし、一億総発信社会/コロナ禍となってユーザーが生成するメインコンテンツが憎悪になってしまった。
そこに需要が存在すれば当然供給も発生する。メディアも問題があった人たちが如何に極悪人であったかを強調するために過去を漁って露悪的な記事を量産する。
もう現代においてピカソやワーグナーのような人はもう出てこないんだろうな。そして悪事はバレたら社会的に抹殺されるのだからますます陰湿になるか一撃必殺になるかのどちらかだろう。
膨れ上がった憎悪は関係ない人をも蝕むようになる。こんな社会に耐えるくらいなら消えた方がいい。いわんや当事者にしては想像を絶するものだろう。
こういうことを言うと起こりそうな意見に先に返しておく
・「悪いことをしたのは向こうなのだから当然だろう」「報いは受けるべき」
別に自分は「誹謗中傷はやめよう」とか「加害者にも人権はある」とか道徳の先生みたいなことを言うつもりは無い。これは絶望の言語化であって啓蒙ではない。
そもそもそんなことずっと言われ続けているのに悪くなる一方なのだから無理なのだろう
個人的にその原因は、歴史的に人類は「罰する」と「赦す」を神に丸投げしてきたからじゃないかと思う。
シャリーアを引き合いに出すまでもなく、法とは神が定めた道徳を人間にわかりやすくしたものだ。神の代弁者・執行者として悪人は裁かれ断罪された。逆に言えば、刑期を終えるとは「神が赦したのだから私達も赦そう」という理屈だろう。私刑が許されないのは、同じ理性の範疇内の人間が人間を捌くこと自体傲慢で歯止めが聞かないからだろう。
それが現代になって神が死に、ネットによって「罰する」と「赦す」が急に個人個人の人間の与えられたら上手く使いこなせるはずがない。何を以て許せば良いのかも分からない。だからこそ憎悪はどこまでも増幅し、終わりがないのだろう。
・「確かにクソなことはあるがネットにもリアルにも善意や楽しいことだってあるだろう」
それは確かにそう。実際自分もある程度いわゆるオタクなので「次のイベントが生きる糧」だの「2期を見るまで死ねない」だの思っていた。
でも最近ふと、なぜそれらが好きか理由を考えたら、自分は死にたいという感情を麻痺させる麻薬に過ぎないと思っていたことを悟った。一回そう思ってしまったらもうその麻薬は直ぐに効き目が切れるようになった。
これも確かにそう。ジャコモ・レオパルディという人も「世間とは立派な人間たちに対抗する悪人どもの同盟、あるいは寛容な人たちに対立する卑怯者どもの集まりだということである。」とか言っている。その通りだと思う。でもネットをやめたとてこの社会に逃げ場なんてあるのか。分断と対立・不寛容が加速するこの世界でネットのような憎悪が現実にも染み出していることはキャンセルカルチャーなんかを見るまでもなく明らかだろう。情報自体から隔絶された世界で仙人のように生きればいいのか。そうしたら確かに死ななくても良いかもしれないが、憎悪を撒き散らす人達が野放図に暮らして、そうでない人が隠れていきなければいけない世界ならますますこの社会はクソだろう。
・「この恨みにまみれた投稿だって憎悪を増やしているだろうブーメランじゃないのか」
その通り。だけど今更ネットにデブリがひとつ増えたとて誤差だろう。
繰り返すがこれは現実への諦念であって啓蒙ではない。だからこそ聞きたいのは、どうやってこの憎悪の中死にたいとも思わずに生きていられるのだろう?
世が世なら仙人と呼ばれたろうになぁ…
髭も伸ばして仙人になろう
私の小学生からの付き合いの友人で、不思議な仙人じみている子がいた。
俗世離れしてるというか達観しているというか、なんか悟ったような感じで、運動とか勉強とかが特別できるようなわけでもなかったけどそのほわほわした雰囲気がみんな好きだった。
不思議なことにその子を魚釣りに連れて行くと餌の付け方もわからないような初めてなのにその子だけ他の3倍くらい連れたり、その子と一緒に歩いているときだけナンパがやたら来たり(もちろん私含めて周囲がブスなだけかもしれないけど)
とにかく何か色々と惹きつける子だった。もしかしたら私も惹きつけられてたのかもしれない。
あるとき旅行にいって、田舎道を夜に歩いていたらぞわぞわっと不思議な感覚がした。
「もしかしておばけとかいるのかもね」みたいな話をしたら「たぶんいるよ」って会話を今もまだ覚えてる。その言葉にさらにぞわぞわしたことも。
結局その場ではおばけにいたずらされることもなく(怖かったけど)街中に戻ったんだけど、彼女に惹きつけられたであろう街中の暴走族が突っ込んできて彼女は死んだ。
最近ふと街中を歩いていたら彼女のことを思い出して今ここに書いている。彼女がいたことをこの世に記してから、私も彼女にもう一度会いたいと思っている。
鳩に餌あげてる人とか仙人っぽいよね
CMの量。もう末期なんだろうな。
結婚前にテレビ見てたのはもう10年以上前。独身時代はずっとテレビ無しで生活してたから、その感覚で考えると絶対CM時間めちゃくちゃ増えてると思う。
山奥に住んでるおじいさんに取材してたが、
・愛媛の山奥で家見つけた
・家におじいさんがいた
・おじいさんは昔東京にいた
・けどここに来た。何故か
・理由はおじいさんの両親が亡くなった
という項目ごとに内容が2、3分くらいでまとめられてたが、項目消化するごとに3分くらいのCMを挟んでくる。
内容もそんなに引っ張らなくても予測つくようなもの。おじいさんに対する他意はもちろん無いが、構成力クソすぎてこりゃ世間もテレビ離れするわ、と。
もうテレビも終わりが近いのかなと思った。