はてなキーワード: 予算配分とは
茨城県民以外はまったく興味が無い話だろうが、つくば市「総合運動公園」の計画を聞いてから、市内に3万人規模の陸上競技場ができると聞いて興奮している。しかし、ぐずぐずしていると、茨城国体もラグビーワールドカップも終わってしまう。
勘違いしてるようだけど、この様な不正を行った人間は他の大学にも居るし、
その後、大学が個人に請求する形になってる。
今回の件ではそのへんが曖昧になってる。
国からの研究費返還の話が全く出てきてない気がする。あれは理研が内部で直接出した研究費だから国から返還請求は直接は出来ないのかな?
いずれにしろ、あれだけのことをして解雇だけで済まされるのは納得がいかない、
と思ってる人は多数。
ロクな成果を出さずに博士を取ってる人は大量に居るけど、
ロクな成果も無いのにあそこまでのポストを取って研究費を自由に使ってる人間はまともな理系研究職には居ない、ってか直ぐ弾かれる。
そのジャンルでは割と強豪校で、某マイナー競技のマネージャーを、その部にいた友人に頼まれて、まぁ他にやりたいこともないしいいよーと引き受けた
部費獲得の折衝とか試合スケジュール、練習場所やスケジュールの確保連絡、備品管理、対外交渉もろもろ
あらかじめ決められた練習メニューのチェックや成果をメモして顧問やコーチ、部員と共有、練習試合やらのスコアリング、ぐらいが平常時のルーティン
夏と冬に合宿やるんだけど、その時は特別予算があって、その中で予算配分を顧問、部長・副部長と相談しながら決めて
マネージャーは私一人だったから、食材購入や調理は部員3人を当番制で手分けをしてやった。
何十人分ものごはんを色んなくだらないことをキャッキャと話しながら作るのは面白かったし、みんなそれぞれ色々な気持ちを持って取り組んでるのねとか
あの人とあの人はあんまり実は仲良くないのね、とか、恋バナとか、そういうのがとにかく楽しかった。
テーピングとかは手が届くところはみんな自分でやってたしやりにくい場所は男同士でやってたw
冷やす、道具を用意する、以上の医療行為、ケア行為は保険校医にお願いしにいってた。
大会期間中は運営補助もやったりするので、かなり忙しかったけど、他校のマネージャーと仲良くなって
練習試合やら別の大会やらで再開した時にキャーってなったりして、そういうのもすごく楽しかった。
最初はルールもあんまり分からなかったけど、色々勉強して、教えてもらってすごく面白くなった、スコア付けなきゃならないし必死。
マネージャーやったきっかけで、それまで運動音痴でスポーツは自分ではできそうにないと思ってたけど、色んな競技を見るのは大好きになった
それに趣味程度なら自分でもやってもいいかと思って、テニスを始めた(大学に入ってから、今でもやってる。あんまりうまくはならないけど)
3年のインター杯予選で負けて引退。1年生にマネージャーで入ってくれた子が居たのでその子に引き継いで
慌てて受験勉強のペースを速めて、がんばってがんばって、現役で志望大学に入れた。
色々な折衝やらなんやらで、マネージャー同士が仲良くなって、部活の引退後は、サッカー部のマネ、野球部のマネとつるんで行動してた、一緒の予備校の講習に行ったり
サッカー部マネは某有名私立大学、野球部マネは某有名国立大にそれぞれ合格
3人とも特に、部員とのロマンスもなく、普通に大学生になり、彼氏が出来たり別れたりしながら、一人はお母さんと主婦をやっている、一人は独身でばりばり働いてる。
私もまだ働いてる、バリバリかどうかは分からないけど。仕事は、色々大変だけど納得がいく仕事にはつけている。
「おにぎり握らせるなんて何の意味もない」って言いきっちゃうのが、心底理解できない。
少なくとも私は、高校生活がとっても楽しかったしマネージャーをやって後悔もしてない、失敗したとも思ったこともない、
むしろ自分が今まで見てこなかった新しい世界が見られて、すごく良い経験だと思ってた。今、楽しんでいるスポーツ趣味を得られたのは高校時代のマネージャー経験のおかげだってのもあるし
どんなことであれ「それを選択した結果、別の道が消失する」のなんて当たり前なのに、なんで「間違った道」だと決めつけるんだろう。
ある人が「自殺したいくらい苦痛である」という表明をした場合。
まあここでは、そんなことをWebで書きこんでた場合くらいの事例でいくんだが、そういうときぼくらはそれをどれくらい助ければいいんだろうな。
この場合「ぼくら」というのは「ぼく」の複数形であるという意味が一個目で、「社会」っていうのが二個目の意味だとする。
まず前者なんだが、ぼく個人として、なにすりゃいいんだろう。
またなにをするにせよしないにせよ、どう感じればいいんだろうな。
自分の内側を見つめると、痛ましい、可愛そうだ、何とかしてやりたいものだという気持ちが存在する。のだが、その一方で、身勝手だ、卑怯だと感じる自分もいる。率直にいうと、脅迫をされたかのような不快感も感じる。
すごくざっくりいうと、感情的、道徳責任を個人はどう負担すべきなんだろう? という話になる。
二個目の視点、社会として、「自殺するような苦しみを抱えた人々がいてそれを減らす」というのは重要なミッションだ。社会機構の健全さを保持するためにもぜひ必要だし、そんな暗い感情の蔓延した社会は、たとえ自殺そのものがないにせよ、治安悪化や消費マインドの低下など、あらゆる不都合が起きるだろう。経済合理性から見ても、「自殺するような苦しみを抱えた人々」を減らすのは正しい。
ただまあ、社会の視点において「かわいそうだから」救うというのは、それは違うだろう。また、「そういう人々を減らす」のがミッションであって、ある特定個人のオリジナルな生を救うというのは、優先順位が低い。
(こういうことを言うと「留保のない生命を肯定できない差別主義者め!」とか左の人に集中砲火を受けるわけなのだが、社会ってのは個人個人を一人づつケアをしてまわれるほど繊細でもないし小回りも利かないものだよ)。
社会参加者としては、この話に対して、タッチできるパラメータはすごく少ない。1)金を出す(税金をはらう)、2)この問題の対処優先度を決める(=税金の予算配分の中の比率をきめる)、3)割り当てられた予算でとりうる政策からチョイスする、4)その執行を監視する。こんなもんだ。
1は国民の義務であり、3は効果がありそうなものを選び、4は日々の中で行うとして――2はどうなんだろう。
つまりこちらの視点は、社会的、政治的責任をどう負担するか? という話だ。
難しい問題だなあ。
そう?上の10個くらいに絞って、で十分だと思うけど。
てか、まともな研究してるのそれくらいだし。
後は、ほんとに必要なら東大的に研究所をいくつも作れば良いだけで。
そういうふうに、一つにまとめたほうが、もしかしたら、ひとつの場所なので、テニュアトラックじゃないけど、
中で移動しながら安定して行けるようなものも作りやすいかもしないし(その方が良いか悪いかはよくわからんけど)
裾野なんて実際のところ存在しない。そもそも、山型な序列なんてそれほど無い。
大学入試のレベルは東大と地方国立とかで全然違うかもしれないけど、
研究者のレベルになれば、別に東大に残ってるのが賢いわけでもないし、
研究所のレベルとしては各大学ほとんど関係ない。(てか、実際の所、地方国立の先生とかも東大京大出身とかが占めてたりするわけで。。。)
ただ、研究にはどうしても学生も関わってくるのでそこで差が出てるにすぎなかったりする。
後、やっぱり予算配分でどうしても辛い所がある。
そういうところも、上を一元化することでもっとやりやすくなるんじゃないか、という点もある。(これも弊害も大きそうだけど。)
>いやいや、でも司法制度も予算配分も民意の代弁者たる代議士と選挙の結果で左右されるわけですから、やはり民意は最上位にいると思いますよ。
大枠ではそういう理解でいいのですが「民意が最上位」と言ってしまうとやはり正確性に欠けるのです。
どこが不正確かというと「民意の代弁者たる代議士」という部分が実はずれています。
少々ややこしい話ですが「代議士は国民の代表者であっても、代弁者であることを求められていない」というのが代議制民主主義の基本的な立場なのです。
日本国の法制度は(一部直接民主制的な要素も取り入れつつ)基本は代議制民主主義に依っていますので、「民意そのもの」ではなく「民意を受けた話し合いの結果」が最上位の意志決定者なのです。
一見どうでもいい違いに見えますが、これは代議制民主主義という思想の根幹の部分です。
実際にどう違いが出てくるかというと、例えば国会議員が選挙で公約した意見を国会で話しあった結果変えたとしたら、もし「民意が最優先」であれば、その議員は罷免されるべき、というのが論理的帰結ですが、法制度はそうなっていません。これはそもそも「代議制民主主義思想」が「民意そのもの」ではなく「一般意志」を重視する思想だからです。
直接民主主義思想であれば「民意が最上位」という言い方もありえるのですが、代議制民主主義思想は違います。代議制民主主義における議会等の機関は「全市民が集まるのが無理だから」等の技術的な問題による民意のやむを得ない代替物ではなく、「民意そのものより、民意を元にした話し合いの結果の方がより一般意志に近い」というイデオロギーにより設けられています。ある意味非常に西欧的な「話し合いという理性への信頼」「衆愚への懸念」が根底にあるわけです。
※前提として、学生をもっと国が支援すべきだ、という話も異論はない。
※ただ、現在の国の予算配分がどうなっててどう変えるべきか、に踏み込んだ議論は見たことがないのであれば知りたい。
学生支援機構の奨学金を学生ローンという名称に変えろという議論がある。
理由は、貸与型だということが分かりづらい、紛らわしいから、ということらしい。
名称を変えること自体には意見はない。中身が同じならどっちでも構わない。
僕は奨学金を借りて大学に通っているが、奨学金を借りるにあたって、
貸与型であることは手続きの過程で何度も言われていて、紛らわしいと思ったことはない。
なので、普通の大学生なら、給付型だと勘違いするようなことは起きないと考えている。
僕の認識では、この議論において声が大きいのは、
1.奨学金を借りたけど返せなくなった人
2.そのニュースを見て問題だと感じた大人
である。
1.の人については、
少なくとも自分と同じ手続きを行ったのならば、勘違いは起きないはずである。
2.の人については、
よって、名称を変えるという主張の理由に「名称が紛らわしい」というのはおかしいのではないか。
この議論において、借りる立場の学生の意見はあまり見えてこない。
奨学金を借りて学生生活を送り、既に社会人になった人が返済が辛いと言っているのは見るが、
よく分かんないんだけどさ、あなたは何に対して噛み付いてるの?
つまり、そういった怠け者のモラトリアム学生が、修士に行っても何も学ぶことはない、って事は了解してくれるの?
で、その子たちが研究室の邪魔以外の何物でもないことは了解してくれる?
研究室としても何もメリットもなければ学生としても能力的に何も伸びるものはない、と。
その上で、そういう経路が確保されていて、就職とかに便利だから学生が使っているだけ、ということに同意してくれてる?
それならいいよ。
あとさ、だから底辺私学で意味わからん研究してる連中は知らんけど、