はてなキーワード: キリスト教徒とは
いまホッテントリに入ってるやつだけど、上記みたいな言葉を揶揄するような意味で使うなって話。
まあ、これも使い方というか、すこし言葉足らずになっちゃうのが問題なんじゃないかと。
小泉ジュニアの“ポエム”は、中身のない雰囲気だけの下手くそでダメなポエム、なんだよね。
もちろん世の中には素晴らしいポエム(詩)も沢山あるけど、下手くそなポエムも溢れてる。
“プロレス”に関していえば、今の日本のプロレスは真剣なのかもしれないが、力道山のプロレスとかはヤラセだったんだろうし、アメリカのプロレスはシャーアップされてシナリオあるの前提でみんな見てるって話だし、まあ少し前の話だけど“空中元彌チョップ”みたいなのもあったし。
単にプロレスってひとくくりにするんじゃなくて、“街頭テレビ時代のプロレスかよ!”とか“和泉元彌のプロレスじゃあるまいし”とか、適切に言葉をおぎなうようにしたい。
神学論争についてはブコメにも指摘あったけど、難解なものというより、“それキリスト教徒にとっては大切な話かもしれないけれど、クリスチャンじゃない人にはよく分からないしどっちでもいい”みたいな話だと思う。
あと、ブコメにも“ラベル貼り”ってあったけど、ちゃんと貼ってるラベルは有用だよね?
ってかクスリとか、ちゃんとラベル貼っておかないと、下手すりゃ人が死ぬし、ラベルを間違えて貼られないように頑張ってる人もいると思う。
問題なのは“ラベル貼り”そのものじゃなくて、“粗雑なラベル貼り”や、間違ったラベル貼り”なのだということは気に留めておきたい。
逆に自分は見ず知らずの他人を助けたいと思うか?もし自分がそういう人間だというのなら、まず自分を助ければいい。それでこの話は終わり。
よって、余裕のない自分を余裕のない自分が助けるのは現実的には不可能困難である
誰も助ける人がいないなら、助けることができうる人は自分しかない
それもまた正しいと思う
思いはするが、一方でまた、余裕がない自分が自分を助けられるはずもない、というのもまた事実である
「他人は変えられないが、自分は変えられる」と自己啓発本や自己啓発セミナービジネスで言われる常套句であるが、本当にそうだろうか?
一見、自分は自分でコントロール可能に思えるが、本当にコントロール可能なのだろうか?
コントロール可能であるとしても、まず疑問に思う、考えてみる、というワンクッションを置いているだろうか?
よしんばそういう善きサマリアの人が現れたとしても、「なんとかなりたい」と考えている人の方が圧倒的に助けやすいのでそっちを救いがちだ。
調べてみるとサマリア人の話の真意は宗派によっても大きく分れるようであるが、
サマリア人とは異国の人という意味が込められているように思える
しかしながら、米国人や中国人は日本人を助けた、といった感じの話である
助けた理由としては、隣人愛として誰であれ困っている人を助けなさいという考え方もあるだろうし、
助けてくれた米国人や中国人はキリスト教徒だから助けただけである、という考え方もあるかもしれない
しかし、いずれにせよ、他人を助けることに何らかの見返りを求める話ではないというか、
ここで見返りとして考えられるのは神によって死後与えられる永遠の命であって、
「なんとかなりたい」と考えている人がトリアージとして優先されるとか、そういう話ではないのである
というか、トリアージと考えても、助かる人を優先するなら軽症者が優先されてしまうわけで、それはそれで変な話である
これも宗派に寄る考えであり、私の考えは異端や邪教なのかもしれないが、
現実的に誰であれ助けるということは不可能であり、それは端的に述べれば人は神ではないからである
誰であれ助けることができ、助けるべきであると豪語する人がいるならば、それは自分を神と思っている人である
我々人にできるのは神様の良き考えを倣う、ベストエフォートしかありえないのである
また、イエスは例え話をするのみであり、真意をズバリと語ったり解説はしない
私はシンエヴァを観に行ってはいませんが、エヴァもまたTVの最初から真意をズバリと語ってはいません、謎だらけです
どうやらシンエヴァで謎を比較的具体的に直球で説明口調に語るようですが、それでも謎は残っているのではないでしょうか?
まず、例え話とか回りくどい話し方をすれば考える人は考えるはずです
例えば、エヴァというアニメが何が言いたいのか分からない、と思ったとして、
いや、何が言いたいのか知りたい、謎の真実を改名したい、考え続けたい、という人に分かれると思うのです
ここで、エヴァが何が言いたいのか分からん、難しいからつまらない、もう観ない、
という人と同じように、イエスが語るのは例え話ばかりだ、何が言いたいのか分からん、
イエスとしても、神様がそういう回りくどいことを言っていて、自分はそのまま伝えてる面もあるので、
意味が分からないと言われても、俺が説明するよりお前らひとりひとりが考えて見つけろよ、
ということでもあると思うのです
分かる人には分かる、
そういえば、早稲田のインタビューで、人類補完計画って何だったんですかね?みたいな質問に対し、
庵野氏が、分かる人には分かると思うですけどね…、と語るに留め、それ以上は語ってなかったと思うのですが、
まあ、そういうことです
イエスというか、神様的には、例えで書いても分かる人には分かるんで…、ということであり、
逆に刺さらない人には刺さらない話なんで、そういう人たちは自分の客ではないのでどうでもいいです、
ということだとも考えられます
善きサマリア人って何やねん?
というのも、当時の人々でないと当時の空気感が分からなかったりするわけで、真意が掴みづらいと思うのです
エヴァだってシンエヴァだって、これから50年後、100年後に初めて観る人たちからすれば、
この人たち何を言い争ってるの?バカなの?
みたいに思われるかもしれません
原発事故なんて100年後には忘れ去られてしまって、その頃の子供たちが観たら、
ふーん、歴史の教科書で原発事故は知ってたけど、当時は話題だったんだねー、と思われるだけかもしれません
しかしながら、善きサマリア人の話には、相手に助けがいがあるかといった見返りを求める話には思えないはずです
この前「キリスト教徒でないのに教会で結婚式挙げること」って記事書いたのよ
そしたら今25件もブクマついてるのよ
俺にとっちゃすごい久しぶりのヒットだと思って喜んだのよ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210318045928
そしたらコメント18件あるんだけど
「キリスト教徒でないのに教会で結婚式挙げることを許可する教皇庁」について書いたのにさ
「キリスト教徒でないのに教会で結婚式挙げる日本人」に対するコメントばっかりなのよ
何なんだよこれ?何について書いてるかなんて普通わかるでしょ
そもそも「教皇庁が同性婚を祝福できないと公式見解」という話の流れで書いた話だし
話の流れ見なくたって本文読めばわかるでしょ
たった三行しか書いてないのに
やばすぎない?
こういう差別文書を宗教ではない会社や非営利団体が掲げてたら世間から叩かれて削除に追い込まれると思う。
ゲイのキリスト教徒って聖書読んでるの? 氏ねって書かれてるけど?
https://anond.hatelabo.jp/20210316230236
もし立派な歴史ある慈善団体で、創設者の理念や運営方針をまとめた定款のようなものとして
一、女性は子を産み育てるのが最大の社会貢献なので25歳で退団とする
のような内容の含まれた文書が大事に扱われていたら、許されないでしょう。
さすがに時代遅れだから、ほとんどのメンバーはゲイ差別や女性差別の部分には従ってないよ
イエス(創設者)はそんなこと言ってないけど、パウロって理事が差別主義者で、そいつが自分の思想を書き込んだんだ
とか言い訳してるけど、だったら、そういう時代遅れで差別的な文章は間違いでしたと認めて削除しろっての。
(今の聖書を検閲しろとか発禁にしろとかではなく、カトリックや各宗派が「今後ウチらは差別的な部分を削除・修正した聖書を使います」という意味ね)
繰り返すけど、普通の会社やボランティア団体が、こういう差別文書を「私たちの活動にとって最も大切な文書」と掲げるなんて許されないでしょう。
宗教に差別的意識が刷り込まれていたとしても、宗教ならセーフなの?
例えばその人が人事やチームリーダーで、その刷り込みのせいで同性愛者を低く評価するようになったら、それは差別だよね。
たぶんGoogleはその人をクビにすると思う。
でもそれは個人の差別心ではなく、宗教の信心からの行為ならクビは不当だよね?信条は自由だから。
仕事に宗教は持ち込むな、っていうのも仕事をしている間は無宗教になれと強要していることになるから信条の自由に反するよね。(もしかして反さない?)
能力だけで評価しろって言うならいいけど、割と最近はチームに貢献できるか?とか人間性も評価する流れになってる気がするけど、キリスト教徒のリーダーが同性愛者は邪悪でチームの輪を乱すと判断したらどうするの?
キリスト教徒にとっては同性愛者は邪悪なので、輪を乱していると考えても仕方ないよね。
別のチームに移ることはできるけど、そんなことしたら社内で反同性愛者が集まって先鋭化して会社として歪になってくるよね。
どうするんだろうね。
ヴァチカンが同性婚を祝福しないのに文句を言ってるゲイかつキリスト教徒が紹介されているけど、アホとしか思えない。お前ら本当に聖書を読んだことあるのか?
聖書の同性愛者の扱い酷すぎて笑えるので少し紹介するね(翻訳は全て「新共同訳」)
それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、
同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、
こんなことが書かれてる本を神の言葉とありがたがってるゲイのキリスト教徒がまるで理解できない。
死後イエス様に火と硫黄の地獄に蹴り落とされる己の罪深さに慄(おのの)きながらハッテンするともう気が狂う程気持ちええんじゃ。ああ^~~たまらねえぜ!
これは…すごい難しい話だ。
「沈黙」とは、神の沈黙、すなわち神を信じる人間が、神に対して祈りを捧げても、神が応えてくれない状態を指している。
なぜ神は祈りに応えてくれないのか。神は信じるもの、わたしを、わたしたちを見捨てたもうたのか。エリ・エリ・レマ・サバクタニ。キリスト教徒の方であれば、一度は聞き、考えるんだろう。
おそらく、神は人間の声が聞こえないのではない。聞こえているが答えを出さない。1人1人の人間を、その人間が思う「救い」のかたちに導かない。もっと超越的な、人間全体や世界そのものの方向付けをする存在として(人間によって)デザインされた存在だから。
そう考えると、「信仰を捨てる / 捨てない」ことや「表面的な教義に従っている / いない」ということは、神の前では非常に小さい問題だ。ただ信じる側の人間が、祈りに応えない神の声を、教えをどう聞き取り、どう人生の中で実践するか。その考えと行動のみが、答えになりえるのではないか。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM04H0I_W5A400C1EAF000
『2100年にはイスラム教徒が35%に達してキリスト教徒を1ポイント上回ると予測している』
地味にキリスト教徒も緩やかに増加する予測が立っていて、これが現実に起こるとユダヤ教も合わせて世界人口の7割くらいがアブラハム系宗教に属する人々で占められる事態になる。
地味に中国でキリスト教が増えているらしいという話もあるからあながちあり得ないことでもないのだろう。
今は5割ちょいなのでかなりの増加だ。
それでもまだリベラルが勢力を保っているなら彼らはもはや経済的格差を背景に少数者が優位を維持しているという点で民主主義に反する存在だろうな。