はてなキーワード: 斜陽とは
地下へ続く階段を下りると、そこには明るくてにぎやかなテナントが入った地下ショッピングセンターがあるはずだった。
階段と地下街を区切る鉄の扉を開けると、節電のために極度に減光された照明がかろうじて灯っていた。
足音が反響した。足音は雑踏でかき消させるくらいの賑わいだったのにここには、私ひとりしかいなかった。
広告用のポスターを飾るであろう装飾が付いた枠には、A4のコピー用紙が貼られていた。用紙には、マジックで雑に手書きされた「禁煙」の文字がおどっていた。
本来は、広告の一等地だっただろうに、今は朽ち果てることないステンレス製の装飾が繁栄をの象徴ではなく、衰退の象徴となっていた。
地下街でかろうじて残っている書店へ足を向けた。
ギリシャ式の建築様式を模した石の装飾が豪華な噴水のある池がコンパネで埋められていた。その上に貼られた1mあたり300円で切り売りされている人工芝がいっそう気持ちを泣かせた。
若いカップルが待ち合わせしたり、子供が泣き喚いていたりして、ここも賑やかな場所だったんのだろう。
かつて店舗だったスペースには、板で簡単な養生がされていて、中をうかがうことはできないようになっていた。
その養生を隠すために貼られた紅白の幕が寂しさに輪をかけていた。
私が過去の賑わいを知らないほかの街からやってきた旅行者ならば、廃墟感に萌えるという感情がわきあがるかもしれない。
しかし、ここがこの街で一番賑やかでおしゃれで最先端をいくスポットだったことを知る身としては、この衰退感は見るに耐えないのであった。
つづかない
私の実家は千葉の片田舎にある。もっと言ってしまうと、田舎をイメージしたCMによく出てくる小湊鉄道沿線だ。その沿線(と呼ぶのも躊躇われるような僻地だが)にバブル最末期に出来た新興住宅地に私の実家は建っている。
駅に着きバスを待つこと20分。やっとやって来たバスに乗り込むと、乗客は私を入れて3人。本当に素敵な田舎だ。
実はこれでも便利になった方だ。去年まではバスも通らず、駅から家までは歩くかタクシーぐらいしか交通手段がなかった。歩けば相当速く歩いてやっと家まで一時間、タクシーだと1500円はとられる距離。まあこれがうすのろのろとしたバスに乗って200円になったのだから、桁違いに便利になったと言ってもバチは当たんないと思う。
さて、そんな素敵なバスに乗ってしばらくすると他の二人の乗客は降りてしまって、バスは私の貸し切りになった。この調子だとバスは長続きしないだろうと思っていると、急に10人くらい客が乗ってきた。みんな小柄でランドセルを背負っている。小学生たちだ。そこは、小学校にほど近いバス停だった。
この小学校も私の実家のある新興住宅地から遠かった。距離にして3.5キロ。子供の足で歩いて45分から50分くらいの距離だ。今さっき乗ってきた子供たちも、大方は私の実家のある住宅地の子供たちだろう。あの距離を歩かないですむようになったのだから、この子たちも嬉しがっているだろう。
さて、子供たちとバスに揺られて10分弱。目的地である住宅地が次のバス停になった頃だ。子供たちは誰が降車ボタンを押すか、みんなで相談し始めた。そんな子供たちを後目に、私は降車ボタンを押す。え、今の誰が押したよ?!と子供たちが騒ぎ始めるなか、私は黙って手を挙げた。
最初は私が何故手を挙げているのかわからない様子だった子供たちも、ちょっとするとなぁんだというような顔をした。けれども、あなたが押したのか、という意味合いのことは一言も言わなかった。きっと私のことをオバサンと呼んだらいいのかお姉さんと呼んだらいいのか分からなかったからだろう。賢い子供たちだ。
そしてそれをきっかけに、バス停までの短い間子供たちと話した。バスが出来てから通学が便利になったと子供たちは口を揃えて言っていた。けれども朝はバスの時間が上手く合わなくて、バスに乗っていると遅刻するとも。
一生懸命体全体を使ってコミュニケーションしてくる子供たちと話すことは楽しかった。しかしそろそろバス停に着いてしまう。私は簡単に降りる準備をした。夕日が眩しくて外していた眼鏡をかけ直しただけだが。そうしたら、子供たちは口々にこう言ってくれた。その眼鏡、カッコいい!と。大切な方から贈ってもらった思い入れのある眼鏡だったので、その子供たちの感想が余計に嬉しかった。
そして、田舎道に沿って突如現れる、総計200戸ほどの住宅地の中心にバスは着き、みんなで揃ってバスを降りた。そこからは散り散りで、みんな手を振って別れた。
私は心地よい余韻に浸りながら実家までの短い道のりを歩いた。10人くらいの子供たち。みんな仲良そうにしていた。
私はようやく気づいた。この住宅地にはもう10人ほどしか子供が居ないのかと。
この住宅地はバブルの最末期ほどに売り出されたものだ。その時三十代の戸主を持った核家族が移り住んできて二十年。彼らは五十代になり、その子供たちは二十代で自立のときだ。ここに建っている家々は皆核家族用のもので、複数世代が住めるものじゃない。私だってちょうどその世代だ。私が子供の頃はこの住宅地はもっと賑やかで、小学生だけでも百人近くはいたではないか。それこそ、あんな小さなバスでは乗り切れないくらいに。
この住宅地は、確実に斜陽の中にある。分かっていたはずだ。考えればすぐに分かることだ。そんなことだが、実際に子供たちの姿を見なければ、何も分からなかった。
この住宅地はこれから、ゆっくりと老いてゆくのだ。その事実に愕然としながら、私は実家の扉を開けた。そこには、もう随分と白髪の混じった母が、小学生だった私を迎えてくれるのと同じようにして待っていてくれていた。
日本は確実にダメになるだろう。関東以北は原発の影響で、今楽観視されている以上に無茶苦茶になると思う。今後10年20年以上はろくでもない土地としてあり続けるのではないだろうか。北海道の方はよく知らないけど、少なくとも東北、関東あたりまでは水俣病や枯葉剤、チェルノブイリと同様に、長く険しい道を辿ると思う。影響が目の当たりにされない今だからこそ楽観視されているだけで。
そんな細かいことは抜きにしても、日本という国には我々20代以下は誰も期待していないだろうし、今後は生ける屍として実際の死ぬ日を待つ他はないだろう。
私は普通の会社員で、そこそこ普通の、ブラックとは言えるか言えないか微妙なラインの会社につとめて3年になるけれど、辞めたくてしようがない。日本の会社には未来がない。日本というマーケットにも未来がない。そんな気がする。これが、昔で言う753現象の杞憂であって欲しいとせつに願う。
実際はどうだろうか。日本の社会は50代以上の社会である。50代以上の50代以上による、50代以上のためにある社会である。20代の私は、50代以上のために働いている。50代以上が住みよい社会を作るために働いている。それも実際は、現実が見えていない50代以上の意見に従って、なんとか現状維持を、50代以上の、高度成長期からバブル期に実現した夢の灯火を消さないための努力を、行わされているような気がする。日本ではイノベーションが起こらない。それは、若者が実権を握っていないから。高度成長期にたくさんのイノベーションがここ日本においてでも起こり得たのは、若い世代が多数存在したからだと思う。若者が多数派である、ということは、若者の意見も取り入れざるを得ない市場が存在するということになる。今の多数派は老人である。老人には先が見えているのだろうか。新しい技術を理解できるのだろうか。受け入れることが出来るのであろうか。老人が老人同士で老人のご機嫌取りに奔走している間に日本は良くて斜陽、没落、マーケットも存在意義も、ゴミクズのように消え失せてしまうだろう。どこかが日本に取って代わるということは無いと思う。日本の築いてきたポジションも今の状況も特殊だから、日本という国が第一線にいた事すらそのうち忘れ去られるだろう。
どうすればいい?海外に逃げるか。海外で何が出来る?その前に、英語ができるか。ほとんどの人間が出来ない。その上で、付加価値もない。日本の企業は専門職を除いて、一般社員に付加価値は付けない。少なくとも、外国では通用しない、日本というムラ社会での掟に従う術しか教えない。外資とか商社とか、外国とバンバン渡り合ってる人もまた別だろうけど、大多数の、一般企業に勤めている、なんの価値もない、どこにでもいるような、大多数のただの大卒の一般社員は、行く宛を見失った。今の新卒就職前線はその煽りを直で受けてるんじゃないか。無価値であるということの。
さあどうする。
わたしは何年かユー子SIerに居て、飽きてWEB屋に転職しました。
人それぞれだと思います。
特にチームKが好きだ。
去年だから、チームの発足からはかなり時間が経っている。AKBといえば劇場だぐらいの知識はあったので、とりあえずYoutubeやニコニコあたりでライブ映像を見まくった。CDやDVDを買うにしても、曲が多すぎてどれから手を付けていいかさっぱり分からなかったからだ。
で、「生歌」とタグがついている動画を見て、ああやっぱこれだけ踊ってたら生歌じゃないよな、と思って、生歌を聴いてみたいと思うようになった。
普段はあるバンド(全員男)を聴いていてライブに行くのが楽しみ、ライブのアレンジが楽しみでしょうがない、という感じなので、録音音源=その場のアレンジがなくて残念だと思ったのだ。ライブならやっぱ、一言のかけ声みたいなやつでもいいからその場で出してる声を聴きたいから。
Youtubeで生歌で探した結果、右におすすめとか関連動画って出るじゃん?あれにモーニング娘。が出てきたのだ。今現在のモーニング娘。
すごい!と思った。特に高橋愛と田中れいな。ファンが作った動画だったしコメントもファンが書いてたから、それ読んでテンション上がって余計すげえな!と思った。
AKBは生歌あんまりない、ということを知って残念だった。ものすごくものすごく残念だった。
俺はライブ=そこで歌ってる、だから、ダンスしてる姿も見たいけど、やっぱり自分がいる場所で同じ瞬間に、その場で出してる声が聴きたいから。
酷なことを求めてるなとは思う。
スケジュールは詰めまくりで、あれだけ人数がいて、あれだけ踊りまくって、なおかつうまく歌えというのは、惨いと言ってもいいと思う。なんか、ごめんなと思う。
AKBとモー娘。の動画をランダムに見ながら、色んな思いがわき上がってきた。アイドルに触れるのはほぼ初めてなので、ちょっと距離を置いた視点だったかもしれないけど、まだ十代〜二十代半ばぐらいまでのこの子達の将来が幸せであってほしい、というようなものに総括される思いだった。
AKBにはある種の痛ましさがある。今しかないのだ、今だけなのだというような、女性アイドルなら仕方のない刹那感。そして背後の操作が非常にうまい。楽屋裏も込みで売っている、そしてそれを皆暗黙の了解で呑んで今を追いかけている。
モー娘。にはそれがあまり感じられない。戦略上それを見せないということかもしれないが、タフでストレートなパフォーマンスだ。その場で見せられるもののみで勝負しているように見える。
また、モー娘。にはやはり「世間一般の目線は全盛期は過去であった」がつきまとう。あまりそこに悲しみがないのが不思議だが、世間の目やメディアの目はそうだろう。斜陽ながらも戦う王者だ。いや本当に、シングル曲のタイトルとかはマジでかわいそうになるぐらい酷いけど、ライブの彼女らは本当にかっこいい。乱れることもちょっと外すこともある、生の声の力はすごい。
AKBは今もまだ「これから」だ。後発が先発よりも優れているのは常に大前提(だと個人的には思っている)なので、もっと伸してくるだろう。まだ彼女らは挑戦者だ。展開も先発の成功/失敗に学んでがんがん行ける。バラエティや冠番組で見る彼女らは、側面をもっと見たい知りたいと好奇心をかきたてるし。
AKB vs モー娘。のバトルを見られたらすごくいいんだけどなと思っている。
楽曲面だけを見ればAKBがかなり勝っていると思うので、モー娘。のプロデュースをもっと頑張ってほしい、その上でアイドルの二強状態をものすごく見たい。
モー娘。というかハロプロ全体をざっと見ていて思ったが、本当に、本当に、残念なのである。つんくもうちょい考えろ。なぜだ、なぜお前は同じ男なのに分からない?
直接的すぎるんだ、モー娘。の歌は。いくらメロディーラインが美しくてもタイトルや歌詞で萎える。ど真ん中っていうのとそのままっていうのは違うんだよ…そしてなぜかやや古い。古典や青春の輝きぐらいまで古くなくて、絶妙に「思い出すと恥ずかしい」レベルの古さをなぜかずっと保っている。いくつなんだよお前は。
秋元康はそのあたりめちゃくちゃにうまい。ストレートなテーマを、その単語を使わずに思わせる、そういうのが本当にうまい。青春時代を鬱屈して過ごしました、かわいい女の子に憧れてしょうがなかったけどそれだけでした、そういう思いをワンクッション置いてぶち当てましたみたいな、まあ共感するのだ。有り体に言うと。
それが意図的なものだったとしても、気持ちよく乗っかってしまえるなら関係ないし。曲に乗らないでも詩として成り立っているというか。
俺は勝ち負けを笑いたいんじゃない。弱肉強食の世界だって言うのは分かるけど、ファン同士でワナに引っ掛けてライバルのアイドルを落とすようなのは嫌だ。
いい曲が聴きたい。アイドルにしか歌えないいい曲っていうのは確実にあるから、アイドルが歌うその姿に見惚れたい。歌に入れ込みたい。プロデューサーにはこっちの心をくすぐってほしいし、その歌にどっぷりハマらせてほしい。仕事の疲れいやしたい。
いつまで彼女達のことを、このアイドルグループの中で見られるのかなと思うと、涙が出そうになることがある。女性アイドルは後から後から幼い後釜が出てきて、活躍できる期間は大体短くて、そのことを思うと悲しくて仕方がない。
俺の意見がドヤ顔かどうかってのは正直どうでもいいんだけども(ドヤ顔で拒否しようと返事だけはするという人間もいるしな、俺みたいに)
http://anond.hatelabo.jp/20110112135524
↑のようなブコメが増えたから、すなわち石率が増えた、衆愚化だ、という導出が理解出来ないんだよなー。
まああとで遡るけども、ムラビトの質が気になった時点でそのコミュニティは斜陽だよ。どのみち辞めりゃいいじゃんでFAだし。
ああ、そういえば、http://anond.hatelabo.jp/20110112141513で
大体、ニコニコやtwitterははてブのように情報を格付けするサイトじゃないから、あれはああいう方向でいいんじゃないかな。
Twitterもニコ動ニコ生も格付けしてるでしょ。はてブのUSER数が格付けと直結しているなら、ニコ動のコミュニティレベルやフレンド数に被ウォッチリスト数、動画再生数にコメント数、マイリスト数、宣伝も立派な格付けだし、Twitterのお気に入られ、被RT数もそれだけで十分格付け足りえる。
米Yahoo傘下のソーシャルブックマーク、Deliciousの現状はかなり危ないようです。たしかにツイッターやフェースブックなどの新興勢力の台頭で有力なソーシャルブックマークの一つであるDeliciousの存在感が薄れてきたなとは感じていました。
そういう自分もDeliciousユーザーでした。Deliciousくらい有名ならそう簡単にサービス終了はないだろうという寄らば大樹の陰的な発想で。しかし時代は変わり、いつ閉鎖が決まってもおかしくない状況。別のサービスに乗り換える人がいても不思議ではありません。Deliciousから移行するならはてなブックマークかGoogleブックマークあたりでしょうか。
しかしGoogleブックマークは外部からのデータインポートに対応していないんです。Deliciousからエクスポートしたデータをブラウザ経由でインポートするしかない。しかしブラウザ経由だと苦労して付けたタグが完全消滅するという諸刃の剣。
こんな記事もありましたが、この記事の方法は非常にめんどくさいです。どういう方法かというと、Firefox経由でGoogleブックマークの新規登録画面を呼び出し、DeliciousからエクスポートしたブックマークのタイトルとURLとタグを自動で入力しては保存。また新規登録画面を出してはタイトルとURLとタグを入力して保存。これを全てのブックマークに対して繰り返すという方法。一件ごとに入力及び保存する時間があるのでブックマークが数千件の人は半日がかりですよ。Googleブックマークが外部からのインポートに対応していないのでこういう方法をとるしかないのですが、技術的にはそんなに難しくなさそうですよね。Googleさんの技術力を以てすればなおさら。単にやる気がないのか、それとも他のサービスから移住してほしくないのか。
なので素直にはてなブックマークに移行したほうがいいかも知れません。はてなブックマークはDeliciousからのインポートに対応しているので10分かそこらで終わります。タグもきちんと移されます。
GoogleブックマークにしろDeliciousにしろこれから注目されるようなサービスではないですよね。ソーシャルブックマーク自体が斜陽に入っているのか…はてなブックマークは日本のネットで小さくない存在感があるので大丈夫そうですが。
末梢神経が痛い。身体の節々が痛い。痛くて痛くて、身体が曲がってしまいそうだ。
今年もまた冬が来る。子供の頃は平気だった。僕の地方ではあまり雪が降らない。
雪が降ったら、みんな大喜びで走り回ったものだ。
それが今では、ただひたすらに寒さから逃げ回っている。あの時の快活さはどこへ行ったのだろう。
二十代後半で未だに工場の仕事をしているが、年を取るごとに寒さが僕の中で重大な問題になっていく。
神経が痛くて、手が思うように動かない。仕事もはかどらない。
『ちょっとトイレ』と言って、トイレの中で手を首と衣服の隙間に入れて暖める。血行が良くなっていく。
これも仕事だ、これも仕事だ…そんな言葉を呪詛のように何度もつぶやきながら、
僕はトイレの中で手を暖めた。
僕は何をやっているのだろう。
僕はふと、トイレの中を眺めた。
日の光がわずかしか入らないので、仄かに薄暗い。窓からは斜陽と、斜陽によって気だるさを増した
田舎道が見える。
寒さによって、空気がしんと張り付いている。
遠方からは、つまらない仕事の作業音が聞こえてくる。
少し、幻想的だ。
可能性がないこと、不可逆的なこと、絶望的なことは、幻想的になりえるのだろうか。
田舎町の閉塞感は、とてもつらい。しかしなぜだか、自分が死んでいくような心地よさも感じる。
さて、仕事に戻ろう。
今日も僕は死んでゆく。
時間増殖炉の根底を覆す離散的思考の結末が情け容赦なく溶解したる顕現者の両眼に生え聳え立った。重大なる異端者達の反発と溶鉱炉の底に眠る擬似創造主のミイラによって成し得た数世紀前の芳醇なる家庭崩壊は今まさに世紀末の老害となって三千世界を標榜する補助器具と共に虚空に青白い虹を描く。螺旋状の頭髪によってしたためられた古代の暴言は男女の偽りを越えて未完成の容器に埋もれた受難の歴史を彷彿とさせる。怠惰によって奮起された仮想動物の骨髄を三分間凝視することで隣人は体液の大半を失い上流階級の隔壁は霧散する金銭の権化と変ずる。倒壊したる我が待ち人は孤独を得てなお隆盛を極め堕ちゆく残滓を必死にかき集めながら朴訥なる教育機関に絶大なる意見を発する。事情を知らぬ犬は後ろ髪を束ねて永遠なる忠誠を誓い、一方獰猛なる電話は破壊と二日酔いを繰り返しながら最後の審判を下す。天から舞い降りた二重苦を背負ったスピーカーは約束された言葉を紡ぎながら迷惑千万な独走を止めない。終わらざる回診と大名行列が三軒先の通りを横切った後、部分的に標榜する時事ネタを頓着なしに信用した教祖ははためく裾を足元にまとわりつかせ皆と昏睡に耽る。芸術的なる忘却が明日の占いを逸脱し、爆発的な向上心が新居に佇む彼の妻を目頭からゆっくりと引き裂いて緩慢に揺らがせる。冷静なる胞子に包まれた赤子が両手に握っていた真紅の暖簾を振りほどき広がりきった面妖なるボスに個人的な報復を誓った日は満月だった。大海を飲み込んだこぐま座から西へ三歩進んだところにあるカリフォルニアは目覚しい発達を遂げた時点で蝋燭の灯の中で抱擁を重ねるのだった。斜陽の陰に隠れて耄碌した化物たちが手に手を取って乱気流から漏れでた小さな粒子を手のひらから姑息に吸収しつつ未完のとぐろを真似したハサミが突き刺さる壁に象徴された弁護士を祝う。
この問題の根源は、「子供を作ることは絶対的な善である」というここ最近の風潮だと感じる。
これを何故最近の風潮というかと言えば、映画、ドラマなどで若くして子供を作り、育てるという題材が多くみられたからだ。
多くの場合、子供を作るまでを描き、さまざまな困難はあれど、身ごもった子供とともに過ごす多好感を描いている。
この事件からうっすら透けて見える光景は、まさにそのドラマそのものである。
ただ、子供が産まれてからのロールモデルを彼女は、見つけることができなかった。
もちろん、ドラマや映画はその後の平凡な日常を描くことはない。
その結果が、今回の事件だと思う。
元増田は、生活保護の受け方の提示が意味があったかを論点にしている
私もこのことは全く関係ないだろうと考える。
ただ、元増田が主張する理由は少し異なっている。
金銭的に、ある程度の余裕があれば子供を育てることが出来るという考えは、子供を産んだ女性全てが母性を有しているということを前提にしている。
そして、私はこの事件の彼女もその一人だと思う。
よって、その死への至らしめ方は多少特異的であったとはいえ、父親という異なる考えの他者が家族から消失した時点で、防ぐ事の出来ない結末だったと考える。
もちろん、父親以外の他者を家族内に呼び込むという手もあっただろう。
ただ、そういうことを戦略的に出来るだけの知恵は持ち合わせていなかった。
それが、日本社会の現状であり、彼女が育ってきた環境に運がなかったということだろう。
ここ数年続いた、純愛映画、ドラマのブームは、「若い女性に子供を産む」ということのすばらしさを再確認させたと私は考える。
ただ、女性の幸せが、再度、子供を産むということに集中してしまうことで、それ以外の生き方(例えば社会で活躍するなど)が軽んじられているのは皮肉である。
トラバぐらいつけたらどうだ。
まず、ITは比較的斜陽ではない。ITが斜陽ならインフラ以外は皆斜陽だな。ああ、そういうことが言いたかったのなら気にしないでくれ。
つまりは国語教育を何とかしろ、ということだろう?それならまずディベートやグループディスカッションをさせればいい。今の教育は「こんな議論の形式があります」って教えるだけだからな。小論文や説明文は夏季休業時の宿題にしてもいいだろう。このうちから10000字以上の文章生産性を向上させる訓練はしていていいはずだ。
個人的には古文漢文は今の学習量の半分でいいと思っている。削減して生まれた余裕のうち何割かをそこに当てればいいだろう(個人的には言語学的要素をもう少し増やしたいが、皆必要というわけではないからそれはなくてもいい)
私立大学は早慶以外全部潰せ、と書いたはずだ。すなわちそれを学ばないやつは大学に来る必要がない、ということ。そこまで徹底すれば高校も必修にせざるを得ない。なぜならそれを学ばない=バカが通う高校という社会的評価が下されるからな。そういうところはどんどん潰れる。
ちなみに論理は古典論理か、述語論理か。まさか様相論理までさせるわけではあるまい。
統計というか、「表や図の作成、理解とその分析」は必須だろうな。ただそれを一教科作ってまでやるというのは難しいだろう。
たとえば夏季休業に社会科学統計(地歴公民)か自然科学統計(統計)のどちらかを分析させることを宿題に出すのはどうだろう。もちろん該当する科目でそれぞれ一度は分析を経験した上で、だ。
むしろ「親と同居ヤダから結婚後は別居が常識」「親の面倒見るのヤダから国が面倒見て」
と言う最近の風潮こそが贅沢なんだろうなーと思う。
まぁ贅沢なんだろうねぇ。
でも親世代は、親との別居、親の老後の安泰、を可能にする仕組みを作ったわけだよね。
年功序列と終身雇用でほどほどの歳で家をローンで買え、親は年金で安泰、と。
望むこと自体は親世代も若者世代も一緒じゃないかなぁ。
違うとすればそれが実現可能な仕組みを持っているかいないか。
それと、親世代はそうは言っても同居と世話をする親を見ていること。
前例を見ているわけだから、いざ同居・世話となっても「まぁそりゃそうか」と思えるよね。
それに対して若者世代は別居して世話を委託している親を見ていること。
前例を見ていないわけだから、同居・世話にたいして過剰に不安を抱く可能性はある。
それに同居・老後の世話は良い話として全く伝わってこないしね。不安をあおるような話ばかりが流れてくる。
世の中平和になったから、それくらいしか苦労話が残っていなくて、
しかしまぁなんだ。
親世代が作ってきた仕組みは若者が使えるかどうか微妙なわけだが、それに代わる仕組みを作るべきなのか。
それとも斜陽の時代においては同居・老後の世話を避けるのは贅沢とみなし、素直に受け入れるべきなのか。
どちらなんだろう。
今持っているものは手放さず、これから手に入れるものは失敗ないように、と、
あなたが言うところの高望みにはまってしまっているのでは。