はてなキーワード: 不正解とは
横だけど、トレーニーはみんな仮説ぐらいは持ってるよ。
やり方が色々あって、不正解が見つかりにくいのがウエイトトレーニングっていうだけのこと。
体調や関節の痛みなんかでもメニューはフレキシブルにどんどん変わるし負荷も変わる。
あなたは回数にこだわってるみたいだけど、セット間の休憩をどれぐらい取るかも凄く大事だし、
ウエイトトレーニングでもっともっと大事なのは栄養だったりする。
ツリー読むとあなたは「高負荷」とか「10回」とか「糖質制限」とか、ウエイトトレーニングについて一応は勉強したつもりなのはわかる。
でもその知識ははっきり言ってまだ何の役にも立たないレベル・状態と言わざるを得ない。
何を専門にしてる人なのかわからないけど、「全体感」とか「フィードバック」とかいう用語にしても
血肉になっていないふわふわ感を感じる。一事が万事。
どうもちょっと、勉強や座学ばっかりで理論倒れ傾向になってる学生さんのような印象を受ける。
最近思うのは、正解とか不正解とかっていうのはあんまり関係ないのかなぁと。
繋がろうとする時の”摩擦”を起こすのが何よりも大切であっ
て正しさとか納得ってことよりまずはことばのやりとりによって、存在を認め合うことが最優先の目的だと
なんだろう、この全部が一つの円の中に入るんじゃないかって言う感覚。
それぞれが異なった領域にあって、全く関連が無いように思える事象であっても、
なんだか全てが繋がっていて孕んでいる本質は全てに共通しているんじゃないか?という
漠然で曖昧、でも確信めいた感覚。点と点が線になり線で織り成す集合体は
円になるような感じ。
☆
私たちはチャンスをつかむためではなく
チャンスを逃さないために日々研鑽を積んでいる。
無駄な時間を過ごすためにある場面では無駄を省き効率的に進むことを
求める。
さらなる効率的にすごそうとする意志に変わっていく。
☆
点と点が結びついて線になる瞬間は
そことそこが結びつくのか、とか
そんな分野にヒントがあったなんて!って思う。
悲しいけれど私たちには
点と点を結ぶ方法はない。
結ぼうとしても無理。
唯一できるのは点を増やすことだけ。
線の材料になる
点を増やすことだけ。
☆
切り離して考えると損をしてしまうような気がしてならない。
全てが繋がっていて、
全部一緒なんだと思う。
見えてる形とか表現の仕方は違っているけれど
それぞれの領域で最終的に行き着く本質は
どれも一緒なんじゃないかと思う。
誰もが自分の虹に辿り着ける。
そんな感じ。
http://anond.hatelabo.jp/20111026224025
ここだけ読めばその通り。
だけど、大元の説明が間違い。
「自分が好みの異性を、レイプして人を殺すことを妄想して楽しんでいる人」
に対して
「自分が好みの異性が、(他の人を)レイプして人を殺すことを妄想して楽しんでいる人」
という例を挙げて「一緒でしょ」と伝えても、伝わるわけがない。通じるわけがない。
それに対し「通じなかったのか、嫌な顔された」と書くこと自体が、間違い。
受験の現代文と違って、筆者が自ら考えを吐露しているんだから、他人である問題文作成者が勝手に作って提示した選択肢よりは真に近いですよ。
あなたの考えと、「男」の考えは違うし、そもそもあなたの述べている「一緒でしょ」の理屈が間違っているから、あなたの考え=正解にはなりません。
そもそも、筆者が何を考えて書いたかではなく、「書かれた文章から何が読み取れるか」が国語ですからあしからず。
もし筆者が意図したものと違う答えだったら、それはあなたが意図した通りに文章を書けていないからでしょう。
あなた自身は、男に話が通じないで、嫌な顔されたことに対し
『普段あれだけ巨乳がどうこう貧乳はアカンとか何とか所構わずエロネタ振りまいてくるくせに自分がオカズにされんのは拒否反応』
と書いていますが、そもそもあなたの男に対する説明が論理破綻していた時点で、男の反応が何によるものだったのか正確にわかりません。
それを、
『普段あれだけ巨乳がどうこう貧乳はアカンとか何とか所構わずエロネタ振りまいてくるくせに自分がオカズにされんのは拒否反応とか都合良すぎンだよカスが』
と断じているところに、問題があります。
あなたの説明では、「いや、異性に対する性的興味でエロネタ話すのと、異性がホモセクシャルであるという妄想広げるのは違うだろ」と思われたから、通じず、嫌な顔をされた可能性がありますよ、と。
何度言えばいいんですかね。
答一 ア
答ニ ウ
答三 ア~エ全て(全てあり得る)
http://anond.hatelabo.jp/20111026222633
そもそも、元増田のたとえは、おっぱい星人と太ももも至高派との対立とも違う。
自身が異性が好きで、その異性の良しあしを語り、自己の性的欲求を語るのと、自身が異性が好きだが、その異性が他の異性と性的交渉を重ねていることを妄想して楽しむのとでは、大きく違う。
http://anond.hatelabo.jp/20111026222713
をやり直し。
http://anond.hatelabo.jp/20111026220956
http://anond.hatelabo.jp/20111026220541
想像力と理解力の欠如。
下の練習問題をやってから、
http://anond.hatelabo.jp/20111026222713
をやり直そう。
問一 婦女子をレイプするのが大好きで、暴行殺人ばかりしている男に、「お前も人殺してるんだろ。それと一緒で、俺も殺人見るのが好きで、よくスナッフフィルムとか見るんだよね」と言った。
問二 問一の発言に対し、男が「お前のそれと俺のそれは同じじゃない。お前の行動は理解できない。俺は自分がレイプするのが好きなんだ。人が殺してる現場なんか見ても何も楽しくない。人が殺してるのを見るだけで何が楽しいんだ。わからん」と答え、嫌な顔をした。
この際、論理的に間違っていたのはどちらか答えよ。
シチュエーションを理解しよう。
以下の練習問題からやり直そう。
問一 元増田いわく「女の品定め」ばかりする男。彼の行動は、次のア~エの内どれによるものと推測できるか
問二 元増田が男に例示し、「(男も女も)一緒でしょ」と示した話は次のア~エのどれか
ア 生物学上男のヘテロセクシャルが、生物学上女の二人をホモセクシャルであると仮定して、二人がパートナーであると想定する性的妄想
イ 生物学上男のホモセクシャルが、生物学上男の二人をホモセクシャルであると仮定して、二人がパートナーであると想定する性的妄想
ウ 生物学上女のヘテロセクシャルが、生物学上男の二人をホモセクシャルであると仮定して、二人がパートナーであると想定する性的妄想
エ 生物学上女のホモセクシャルが、生物学上女の二人をホモセクシャルであると仮定して、二人がパートナーであると想定する性的妄想
問三 その話は、男には通じず、嫌な顔をされたらしいが、その理由として考えられるものは次のア~エのうちどれか、当てはまるものをすべて選べ
ア 元増田の話で、自分自身も異性から性的視点で見られる対象だと自覚したから
イ 元増田の話で、元増田がバカで論理性の欠如した人間だとわかったから
何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。
いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである。
それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。
「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。
で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり、過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。
さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社の社長か直接の上司か新聞のコラムかテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかもドヤ顔で)聞かされるし、それがあなたを人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入を保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。
ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。
さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。
ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるものが自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。
つまりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。
じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているか?あなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。
ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈で自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああいう仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。
何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分をごまかしてきたんだ?あれはドラキュラの映画か小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分をごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。
そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生を渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか?
自分で自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメな性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいからうつ病やアスペルガー症候群や統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。
メンヘラどまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないから自殺の理由はあんまりわからないことになっている。「死にたい」という言葉は冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか?
そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分をごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実の世界にはとっくの昔に絶望していて、ネットの世界にしか居場所がない人もいる。
こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?
有名人とかある会社の社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在の成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。
ぼくらだってああいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)
にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまですら過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去をイジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。
ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。
何かがおかしい。少なくとも「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリしている。毎日を食べて寝て生きていくうえで、いまの「その感じ」を何十年も続けていくという実感がもてない。肯定できない。納得できない。誰かがぼくにむかって幸せですか?と聞いてきたら、幸せですとは答えられない。
いつからそうだったんだろう?昔はもっと幸せだったか?でも、思い出というのは美化されるものだ。学校生活もいまにして思えば楽しかったなーなんて思ったりするけど、もうちょっと自分にたいして誠実であろうとするなら、あの当時楽しいこともあったけど、それよりもよりいっそうのつまんないことが多くあったことを無視してはいけない。ぼくが覚えている楽しいことといえば、学生生活の10年ほどの期間のうち、文化祭だの友だちと鳥取砂丘へ行ったことだのクラブへ通っていたことだの付き合っていた彼女との甘い日々だの(それすら全体のほんのちょっとしか覚えていない)夜通し語りあったことだのびわ湖で数えきれないくらいやったバーベキューだのである。
それのいったいなにが問題なのか?ぼくはその輝かしい思い出たちのことはぼんやりとでも覚えていて、楽しかったなあといえるんだけど、それ以外のなにもなかった日のことは思い出せないのだ。いま例に挙げた以上のたくさんの思い出たちが学生だった10年間には「詰まっている」のだけど、よく考えてみてほしい。10年間を日数に置きかえると3650日になる。でも、ぼくが思い出せる限りの楽しかった思い出を全部積み重ねてみて、そのうちのどれだけの割合を占めるだろうか。きっと1年分もないし、半年分もないかもしれない(「いや、さすがに半年分はあるでしょ」と思うなら記憶力を頼りに187個の思い出をがんばって思い出してみることだ)。もっと期間を短くしたら相対的に割合は増えるが、例えば思い出す時期を高校の3年間に絞ったとしても、その1095日間のうちで思い出すことのできる楽しかった思い出はきっと3ヶ月分もない。
「楽しかったなあ」と感じる昔は膨大な日数の忘れられた日の墓場の上に立っている記念碑だ。「昔は良かった」なんて無条件に、盲目的に言っている人は半分ウソつきだとおもう。下にある墓場がぜんぜん見えてない。あるいは見えてないんじゃなくて見たくないから見ないようにしているだけかもしれない。思い出というのはその10倍を超える数のまったく思い出せない、なんの中身もない日を含めた日々から選んだ「マイベスト」みたいなもんだ。それで思い出が「詰まっている」だなんて日本語がちょっとおかしい。
で、ぼくが言いたいのは、それを自覚してもうちょっと自分に誠実になって、懐古主義に陥るのはやめよう、昔と同じように今も楽しいよ、ということではない。むしろその結論を否定するものだ。ぼくが問題だと思うのは、ぼくらがそんなふうに「よく考えてみると昔はそんなに楽しいわけじゃなかった。それはわかった。いまもそんなに楽しいわけじゃないけどたまには楽しいこともあるからそれでいいんじゃないか」という考え方に陥ってしまうことだ。つまり、過去が現状を納得させる道具になってしまうことだ。
さっきは「楽しい思い出」に焦点を当ててきた。こんどはそれとは逆の「イヤな思い出」を見てみる。人間の脳はよくできていて、イヤな記憶は脳がそれを判断して都合よく消し去ってしまうということを聞いたことがある(ほんとかどうかしらんけど)。きみのお父さんかお母さんかおじいちゃんかおばあちゃんか叔母ちゃんか叔父ちゃんか勤めている会社の社長か直接の上司か新聞のコラムかテレビに出てくる偉い人か、とにかくそういう年配の人に「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」的なことを言われたことがあるだろうか。もうあの言い方にはぼくは心底うんざりしている。聞いてもいないのに何回でも(しかもドヤ顔で)聞かされるし、それがあなたを人間的に成長させるとか、安定した暮らしを実現させるとか、収入を保証するとか、そういうことに結びついていると彼らは思い込んでいる。聞いてもいないのに昔の苦労話をえんえんと語ってくるし、そういう苦しい時代がいまの住みよい日本を作ったとかいう話にまで発展したりする。
ある意味それはほんとうかもしれない。もしかしたらぼくら若者はそういうエピソードをもっとありがたがって聞くべきなのかもしれない(でもその話はもう何回もテレビで聞いた)。頭ごなしに否定するわけじゃないけど、話したいから話してるだけなんじゃないの?って感じがときどき透けて見えたりする。年配の人が必ずしもいいアドバイスばっかりくれるわけじゃないってこともなんとなくわかる。十分に人生経験を積んだ人だってコンピュータじゃなくて人間なんだから、間違いや勘違いはある。ましてや、この世界に正解とか不正解なんてものがあるのかすらぼくらにはよくわからない。そういうこともあって、だいたいのエピソードは右耳から入って左耳から抜けていくばっかりだ。脳にとどまらない。しかし、後で見るように実際もっと状況はひどいのだ。
さて、イヤな思い出の話にもどると、イヤというより冒頭に述べたようなモヤモヤとした暗い感じ。マスコミ風にいうと「閉塞感」ってやつを、いま思うことはできても昔もそれがあったかを思い出すことは一見あまりしないように思える。普通ぼくらが昔のことを思い出すときはさきほどのように「楽しい思い出」ばっかりを並べ立てたがる。ぼくらはなんにもない穏やかな日のことはあんまり振り返らない。
でも、おじいちゃんやおばあちゃんが太平洋戦争のことなんかを語ってくれることはある。そういう歴史的に大きな負の遺産は、「忘れてはいけない、繰り返してはいけない」という理由で語り継いでいくことを推奨される。バブル崩壊後、90年代の「失われた10年」なんてのもそういうふうに語り継がれていくかもしれない。楽しい思い出とは逆のイヤな思い出も時折覚えていることがある。どちらにせよ衝撃的なことはわりと覚えていたりするもんだ。中学生活の3年間ずっとイジメられた人なら、その記憶を忘れられないと思う(でもやっぱりいじめられなかった日のことはあまり覚えてないかもしれない)。
ぼくらの世代はどうなの?なにか世代とか社会情勢とかそういうもののせいにしていいの?あらゆるものが自己責任っていわれてるこの世界で?しかし、それはけっこうあり得る話なのかもしれない。さっきの話を総合するとね。
つまりだな。ぼくらはさっきも言ったように「昔はよかったなあ」なんていうふうに考えてしまいがちだ。で、よく考えると実はそう楽しいことばかりでもなかったことに気がつく。「でもあのときけっこうつまんないこととかつらいこともあったよねー」って話になる。単純に楽しいだけの思い出から、いや実は悲喜こもごもだったという一歩進んだ結論にいたる(それにひきかえ、イジメられた人はイジメられた過去を死ぬまで許せないかもしれない)。ここで思考停止してしまうと、ぼくらはさっき言ったような年配の人達と同じことを将来の若者に言い出してしまいかねない。いいことも悪いことも含めて過去をまるごと「あれでよかったんだ」と肯定してしまうかもしれない。
じゃあ、いま現在に戻ってみよう。ぼくは何回も「このままじゃよくない」と思いながら生きてきた。きみはどうだろう?現状に満足しているか?あなたいま幸せですか?それにYESといえる人が何人いるだろうか。ぼくはそんなに多くないと思ってる。イジメられた過去をひきずったままの人はずっと前からこの位置にいるかもしれない(しかしそれはもっと暗くてもっと深い闇)。
ぼくの場合やほかの人の場合、そういうときにはよく講釈で自分をだますようにしている。そうして自分の不幸せを否定しようとする。例えば、ああいう仕事に比べたらマシだとか、誰それという友だちはもっと大変そうだとか、家があるだけ幸せだとか、どこどこの国に比べたら贅沢言ってられないとか。もっとポジティブな感じにだますことだってある。人はどんな環境におかれても幸せを感じられるとか、つらいのはいまだけで私は友だちや家族に恵まれているからちょっとくらいの逆境はへっちゃらだとか、(年配の人の助言をもとに)こういうつらい時こそ自分が成長できるときだとか、時間が解決してくれるとか、そんなことをぶつぶつ言いながら毎日をしのいでいたりする。そう考えるとイジメられた人は自分をだますのが難しいと思う。
何回だ?いままでに「つらい…」「死にたい…」「消えてなくなりたい…」「orz」と感じたときに何回そうやって自分をごまかしてきたんだ?あれはドラキュラの映画か小説かなんかのセリフだったと思うけど、「いままでに何人の生き血を喰らってきたんだ?」みたいなことを聞かれて「おまえは今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」みたいなことを逆に聞き返えされてビックリするっていう、有名な場面があったと思うねん。ぼくももう忘れたけど数えきれないくらい自分をごまかしてきたはずだと思う。数少ないいいニュースは、その回数は今まで食べてきたパンの枚数よりはきっと少ないということだ(ぼくは毎朝食パンを食べる)。
そんなことは誰もが考えることで特別なことじゃないとか、そういうごまかしがあるからこそ人は前へ進んでいけるとか、人生において挫折を味わってこそ人間的に深い情緒を身につけられるとか、そんな反論はいくらでも挙げることができる。必ずしも楽しいことや気持ちのいいことだけを受け取って人生を渡り歩いていくことはできない。人生100%バラ色だなんていう人はいないと思う。でも、それにしてもぼくらは自分のことをごまかしすぎじゃないか?
自分で自分をだますことができなくなったときに、精神的に病んでしまうのかもしれない。ぼくの狭い観測範囲をして実感するのは、最近マジでメンヘラとかうつ病とかコミュ障とかリストカッターとかひきこもりとかニートとかそういう人が増えたなっていうこと。単に病気としての認定がされやすくなったとか、ひきこもりであることやニートであることが、いまやあまり珍しいことじゃなくなってうるさく言われなくなったこともあるかもしれない。統計を出すほどマメな性格ではないのでおおざっぱな感覚だけで言うけど、彼らの数は増えてると思う。それにたとえ「認定がされやすい」とか「いまやあまり珍しくない」とかいうことが事実だとしても、それ自体が彼らの人数が増えていることの結果になっているとおもう。病気の認定がされやすいからうつ病やアスペルガー症候群や統合失調症などのを含めたいわゆる「メンヘラ」が増えたのか。それとも、「メンヘラ」が増えたから認定がされやすくなったのか。卵と鶏はどちらが先に生まれたのか。
メンヘラどまりならまだマシで、最後に行き着く先は自殺だったりする。年に3万人という自殺者の数は、実はそんなに多くないという説があったり、実は公表されている3万人より実際の自殺者数はもっと多いという説があったりする。ふつうに考えるとわかることだが、幸せなのに自殺する人なんていない。死んだ人はなんにも言わないから自殺の理由はあんまりわからないことになっている。「死にたい」という言葉は冗談やせっぱつまった言い方に関わらず最近多く聞くようになったと思う。もはや「死にたい」に特別な意味なんてないのかもしれない。でも、その言葉のなかにたとえ単にかまってほしいがためのウソやなんかが含まれているとしても、全体として言及数は増えているのならウソの割合と本当の割合も増えているんじゃないだろうか。宝くじで当たる確率が何千万分の1しかないとしても、数千万人の人が宝くじを1枚ずつ買ったらかなりの確率で誰かは当たることになる。1万人に1人しか言わなかった「死にたい」が、もう流行語みたいになって100人に1人は言っているとすると、そのなかで冗談で言ってる人の割合も本気で言ってる人の割合も増えてるんじゃないか?
そんなふうにいまの状況を説明するいろんな要素がある。慎重に考えたほうがいいとおもう。「これは大丈夫」とか「これはダメだ」とか、個々の要素についていくつもの言い分を挙げることができる。しかし、どれだけ言い分を挙げても「これでいい」とは思えない。それだけはハッキリとしている。またぼくは何日か何週間か、うまくいけば何ヶ月かあとに「もうイヤだ…」って気分が襲ってくる。で、そのたびにどうにか自分をごまかす。ぼくのまわりにはその周期がもっと短い人もいる。毎日毎日うんざりしている人もいる。向精神薬と酒を同時に飲んでトリップするしかない人もいる。他人を攻撃することでしかストレスを発散できない人もいる。手首を切ってほっとする人もいる。時間を貴重におもうあまり遊びや趣味を必死に探しまわって疲れてしまう人もいる。せっかくの休日を寝て過ごすくらいの元気しかない人もいる。現実の世界にはとっくの昔に絶望していて、ネットの世界にしか居場所がない人もいる。
こんな状況がいいわけがない。自殺しなかったり病気にならなずに、なんとか今日まで生きのびた人は「苦労したから」そうなったのではなくて、単に運がよかっただけだ。で、そういう運のいい人だけがぼくらの目につくところに現れて説教していったりする。もし、この閉塞感に耐えきれないでみずから死を選んだ人が目の前に現れたら、「若い頃の苦労は買ってでもしなさい」などと言うだろうか?そのせいで死んだのに?しかし、死人に口なしだ。若い頃にイジメられたストレスが積み重なって精神を病んでしまった特に有名でもない人が、「イジメられた経験があったからこそいまの自分がある」なんて思うだろうか?
有名人とかある会社の社長とか成功した人は、たとえ昔はツラかったとしても、今成功してるんだからあれは無駄じゃなかったなどとのたまう。それは成功してるから言えるのであって、膨大な数の一生負け犬人生を送る人のことはないがしろにされている。でも、負け犬の人がテレビに出てなにか演説をすることなんてない。マスコミだけじゃなくて、誰も一般人の話になんか興味を持たない。たとえネットに出てきたとしても読まれているのは有名な人のブログばっかりだ。一方、偉い人は若い頃の経験をなんでも現在の成功に結びつけて合理化する。そういう話ばっかりが世の中に出て行くことになる。
ぼくらだってああいう話がさすがにちょっとうさんくさいなあと感じている。「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」と言いたくなる。そういううさんくさい人ばっかりでなくて、ちゃんと誠実な人もいるということもなんとなくわかる。自分は人よりちょっと運がよかっただけということを自覚して、負け犬の人をないがしろにしない人も確かに存在する。(ネット上にはけっこうそういう人がいる気がする)
にもかかわらず、ぼくらは若くしてすでに過去を美化したり合理化したりしてしまう傾向がある。いまですら過去を美化してしまったり合理化してしまったりするように、ぼくらは何十年か後にいまの状況をそうしてしまうかもしれないのだ。そういうことをする度に、ぼくらが楽しかったなあとしみじみ思う、それと同じ過去をイジメぬかれて過ごした人をバカにしてしまっていることになる。少なくともぼくは、いま「死にたい」と思っている人を将来美化してしまいたくはない。「むかしは自殺未遂もしたけれど、いま私は元気です」なんて思わせることがいいことだとか、必要だったとか思わせるのにはどうも違和感がある。だから、現状がこのままで「仕方ない」などとは思いたくない。良くしていきたい。
ぼくが最近楽しいことをしたい理由には、そういう思いがある。正確にいうと、ぼくはわざわざ楽しくない不幸な人生を送りたくない。「せめて」楽しくなくてもいいから、「せめて」悲しいことやツラいことや苦しいことだけでも「せめて」取り除きたいのだ。その話はまた別の機会に…。
世の中にはやってみたい事ややりたい事がたくさんあって、それを達成したり諦めたりするうちに増えたり減ったり変わったりする。どんなことであろうが叶った時は気持ち良いし、やってて良かったと感じる。でもそれを達成することで少しずつ方向は変わっていく。
プロはすごい。努力して、自分を売り込んで、仕事を請ける。自分はプロと同じ場所にいるが、ただそれをやりたいだけだから、そこまでの情熱はない。そして上を目指すことすべてが決して良いとは思えない。今は純粋に上手くなりたい。上手くなった先は考えてないけど、上手くなれば喜んでくれる人がいる。それだけだ。
人生に正解不正解はないし、だからこそ自分の答えが正しいとも正しくないとも思わない。だけど、共感してくれる人が少しだけいてくれたらいいな。と、そう思う。
本物ってどこにあるんだろう。
いい例が音だ。
本物の音ってどこで聞けるのだろう。
ギターの弦が弾かれた音ひとつとっても、アンプを通したりパソコンで加工したり、生演奏だって言っても雑音が混じってしまっては首を傾げてしまう。
良い音ってなんなんだろう。人が心地よく感じるものって何なんだろう。
加工された純粋じゃないものに触れてより良く感じるのだとしたら。
味。調味料にしてもそうだ。その果物が使われているわけじゃないのに、その風味を好む。
ともすれば、初めて純粋なものに触れたとき味気なく感じるかもしれない。
加工された現実で生きる感性は麻痺しているのかしら。その麻痺はもう二度ととかれないかもしれないのだけれど、それってどうなんだろう。
良い悪いじゃなくて、少しもやもやする。本当に、ほんの少しだけ。
錯覚し続けることが生きること。加工された心地よさに酔っていれば、どんな姿をしているともわからない純粋なものを知らなくて済む。
でも、純粋なものってなんだ。純粋な味ってなんだ。純粋な音ってなんだ。純粋な光景ってなんだ。
純粋って幻想なのか。純粋ってあやふやなものなのか。振れ幅が大きな純粋と加工されたものとの境界はどこにあるんだ。知らされていない状況で判別は可能なのか。
自己満足とか自己判断とか自己決定とか、そんなものでしか結局物事を感じ取れない。
感じ取った物事が誰かの感じ取った物事と合致しているのかわからない。
わたしは正解を当てたのか。不正解を引いたのか。
言葉はうそをつくので信用できない。言葉は記号なので、それ自体から得られるものは結局自己判断になる。
どうして数式は正しい答えがあるんだろう。数式ってすごい。改めてそう思う。
たぶん、数字はその記号世界だけで完結しているんだ。すごく正しくて不正のない存在なのだ。
珍しいと思う。でも、もしかしたらそれはそうであるものとして作り出されたからなのかもしれないけれど。
作り出されたもの、そうであるとものとして生み出されたものに疑問を持つことは愚かなんだろうと思う。
でも、すでにそうあったもがどうしてそのようにしてあるのか考えるのであればわくわくする。
わくわくしていられれば、それで十分なのだろう。
いや、十分てことはないのかもしれない。おそらく十分条件足りえる事柄なんてないのだろう。
今日はある科目の小テストが実施された。出題範囲はあらかじめ指定されていたから、それに合わせてちゃんと勉強をした・・・つもりだった。
小テスト開始。問題を見てびびった。
問1、2、3で構成されていたんだけれども、問2が予想以上に難しく、問3は問1と問2を解かないと書けないという問題。
問1については易しい問題だったのでちゃんと解答を記入したけど、問2、問3は空白。これはやばい。
小テスト終了後、先生がすぐに採点。採点が終わると先生が怒り出した。いつにも増して結構強い口調。どうやら、おれだけでなくみんなの点数もひどかったらしい。
あの怒り方を見ると、来週の答案返却が怖い。そのときまた怒られるんだろう。出席したくねえな・・・。
家に帰ってから、もう一度その問題を見直してみた。簡単な問1もつまらないミスで間違ってた・・・。コレで全問不正解、0点確定。勉強したのに0点。おわた。
来週の講義がますます怖くなった。
先日の「16歳の高校生が公認会計士試験」のニュースもあって、無力感・焦燥感がやばい。
この状態を脱するには勉強するしかないんだけど、全問不正解が判明してからショックでもう5~6時間ぼーっとしている。おれはなにをやってんだろう。
池谷裕二という、九九も漢字もほとんど覚えてないのに、東大薬学部も大学院も主席で入ったという人がいてだな…
その人は、数学の公式も覚えられないので、問題を解く度にいちいち自分で公式を導き出して計算していたらしい。掛け算も、九九を覚えない代わりに独自の計算法で計算しているらしい。
「わかる」ことと「できる」ことは違うんだが、日本の教育は「できる」人間を育てることに特化していて、その実「わかる」人間を育てていないと思う。
例えば、分数の割り算はだいたい皆できるよな。分母と分子をひっくり返して掛ければ正しい答えは出る。でも、なぜ分母と分子をひっくり返して掛ければ分数の割り算をしたことになるのか、そもそも分数の割り算とはどういうことなのか、それがわかっている人間って、実は少ないんじゃないのか?
世間では、公式や計算式や九九を暗記してこなすことが基礎だと言われているが、本当はこの「なぜそうするのか」という理論の部分こそが基礎なのであって、ここをみっちり教えないといけないんじゃないのか。
スポーツにおける走り込みや筋トレだって、そのスポーツをやるにあたって「なぜそうするのか」という理論を理解してこそ意味があるのであって、そこを理解せずただ走りこみや筋トレをさせたって、やらなくなったら筋肉はあっという間に落ちるだけ。
詰め込んだだけの知識もそれと同じで、詰め込んでいる期間だけは非常によく「できる」けど、所詮底が浅いから、やらなくなったらあっという間に忘れて、将来ほとんど役に立たない。
でも、一旦「なぜそうするのか」を理解して覚えたことは、なかなか忘れないものだよ。そして、そうやって身に着けた思考法は、将来何かしら役に立つんじゃないかな。
でも、詰め込んでいる期間だけ「できる」人間を育てるやり方は、指導する側にとっては楽なやり方なんだよね。評価もしやすいし。
それに、なまじ答えが合っていてできていると、わかっているように見えるもんな。実際はわかってなくても。
こういう教育方法が、模範回答ばかりを求めて、自分で試行錯誤して考えられない人間を育てているんじゃないかと思う。模範回答を出すことが得意な「優等生」は、大学入試までは順調な人生を歩めるが、その後の人生で躓くことになる。
今年、君は卒論に苦しんだね。君が卒論に苦しんだ理由は自分でも分かっていると思うけど、常に外部に正解を求めたことにあるんだ。私が「どうして、それが正しいと思うの?その理由を教えて。」と聞くと、いつも君は表情を凍らせて黙ってしまったね。何度も何度も「研究には正解とか不正解とかない。誰も答えを知らないから研究になっているんだ。だから、自分の主張をとりあえず述べて、相手の反論が正しいと思えてから自分は間違っていたと考えれば良いんだよ。」と伝えたのだけど、最期最後まで君は自分の主張の正しさを自分の言葉で言えず、常に私の保証を求めたね。はっきり言ってそれが私にとっては本当につらかった。
ブクマで感心しているブックマーカーは、フィクションの読者の立場で捉えている。
コンテンツとして消費はそうだろうが(ネットで読む人生相談にそれ以外どうしろと?)
「唯一無二の正解だと思ってる」だとか「元増田だけが別の可能性に気付いてる」とかは勘違いだよ。
みんなソレぐらいわかってて楽しんでるだけ。
慎重にあらゆる可能性に配慮した回答と言うのは
「この情報だけではわかりません」と常に何も答えないことだ。
それではコンテンツは成り立たないので、
こうでしょう、と回答するだけのこと。
「問題あるのはとーちゃんよりむしろかーちゃんだろ」という「解」答は
鮮やかだし最も説得力がある。
元増田のような人は「自分だけが別の視野、他の可能性を見てる」と考えるんだけど
みんなのようなコンテンツ消費の前提に達していないだけだったりする。
みんながショーだと知って消費してるプロレスを、
http://anond.hatelabo.jp/20100316181057
制限速度は指定速度の+10km/hが原則
ぶぶー、不正解。+5㎞/hです。ゼブラカラーの車に追いかけられても「法定速度だと思ってました」と言い訳できる最高速度だからです。このくらいなら「表示の誤差」で済みます。
それから。
停止線は守りましょう。右折車が流れを妨げないように、長い右折帯が作られているのに、停止線まで行ってしまうと右折しにくくなるからか、対向車のど真ん中に居る気分になるからか、右折帯の真ん中で停まっている車がよくいます。あなたのせいで後ろは渋滞しています。あと車3台分前に出てください。停止線を守っているだけですから、それで対向車がぶつかってきたら、相手方が百パーセント悪いのです。
元増田の言い分があやふやだ、という指摘は正しい。
そもそも元増田の感じてる「心地の良い状況」にあたるゴールはどこにあるのか?を問うと
結局それは「今の現状」に限りなく近い。
つまり「今の現状」を壊さない形で自分にフィットする相手がすんなり入ってこないかなぁ、という言い分だ。
ただ、非モテが騒いでるという点においては見方がいくつかある。
それは単純にネット上で「女の子がいれば男が群がる」という図式を、ひとつのギャグのパターンとして見て反射的に行ってるヤツもいれば、中には本気のヤツもる。
そういう事態に指摘を入れることが、すでに彼らと同じ目線になっているし、その事を指摘しようとしてるこの書き込みもすでに同じ視点にまで落ちているという事だ。
本題に対するコメントはありきたりになりそうだからおいといて
ヒントを見せなければ協力した事にならないんだろうか?だったらヒントをお互いに見せない上で一人ずつ違う数字に賭けて10/11を狙い、参加賞500円を人数分と1万円をゲットするというのはどうだろう。
で、互いのヒントを見ないで数字を割り振るわけだから、自分に割り振られた数字が明らかに正解じゃない事がヒントから導き出せる場合は当然違う数字に賭けて良いという事にする。そうすれば賞金の総額は更に上がる可能性が出てくる。
それを山分けにすれば、一人しか正解できなくとも不正解者は参加賞の500円をもらえる分一人あたりの総額が上がる。二人以上正解すれば山分け金額ももっと上がる。
一攫千金を狙いたい奴がいれば、賞金の総額を賭けて山分け派とくじでも引けばいい。山分け派が勝ったら山分け派だけで分けるという事で。
一応1/11のリスクはあるけど、割り振りがヒントによって変わる可能性も考えるとかなりリスクは低いと思われる。
まあ、結託して違う数字に賭けるのは協力した事になるだろうから実際はやっちゃダメなんだろうけど。もし許されるのであればこれが自分の考えた最良策。今の段階ではね。ま、何の意味もないんだけどさ。