はてなキーワード: miXiとは
なんとなくこんなイメージだけど、あってる?
30代:twitter Instagram LINEタイムライン Hatena
40代;twitter Facebook Youtube Hatena
70代:Twitter
ワイは法律関係の職につくnot弁護士やが、司法試験を受験していた経験をもとに解説していくで。
まず誤解が多いんやが、憲法は国と国民の間を規律するものであり、私人間(法人を含む)に直接適用されることはないんや。
じゃあ憲法の効力は私人同士の問題に一切影響を及ばさないかというと、そんなことはない。
具体的には、民法90条(公序良俗に反する行為は無効)や、民法709条(不法行為責任)を介して、間接的に効力を及ぼすんや。
具体例を出そうか。
たとえば中学校でビラを配っている生徒がいて、そいつを退学にしたとしても、それが直接憲法違反(21条1項)ということにはならない。
あくまで、退学を定める校則が、生徒の表現の自由を侵害するものだとして、民法90条に違反して無効、とされる。あるいは、校則自体は無効とならないとしても(公序良俗に違反し無効というのはハードルが高い)、校長の下した退学処分が一般的に校長に与えられた裁量を逸脱するものとして、民法709条違反になり、損害賠償等を支払わせる判決が下ることになる。
この判断には、学校側が保有する教育内容を自由に決定する権利だとか、校内秩序を保つために生徒たちの活動を規制する権利だとかも当然考慮される。また、未成年であれば後見的な見地からの制約にも服するだろう。これらを比較考量したうえで、生徒側の表現の自由が勝つと判断された結果なんだ。
では、ツイッター社の件はどうだろう。利用規約や、それに基づくアカウント停止処分は民法90条や709条に違反していないだろうか。
まず、トランプ側の権利は、表現の自由だ。しかし、表現の自由は無制約ではない。
一方でツイッター社は営業の自由(22条)がある。これに基づき利用規約を設定し、違反した者については退会処分、アカウント停止をする権利がある。しかし、これは経済的権利であり、一度傷つけられると民主政の過程で回復困難な表現の自由に比べて、保護必要性が薄い権利といわれている。
そうすると表現の自由>営業の自由としてトランプが勝ちそう(事実メルケル等の言説はこのあたりが拠り所と思われる)だ。
しかし、考えてみるとトランプはアメリカ大統領であり、そもそも意見の発信力が強い。むしろ彼は私人というより、実質は公権力だ。
また、SNSサービスはツイッターだけではない。ツイッターが嫌ならFacebookでも、バイドゥでも、mixiでも使えば情報の発信はできる。もちろんツイッターに比べると情報拡散力は弱いかもしれないが、少なくとも公共に意見を発するツールはツイッターだけではない。
そうすると、本件で侵害された表現の自由の救済必要性はあまり高くはなく、利用規約は民法90条に反しておらず、また今回のアカウント停止処分もトランプによる暴動扇動等の客観的根拠に基づくものであり、民法709条の不法行為に該当するものとはいえない。
よって、今回ツイッター社の処分は、トランプに対して何ら責任を負うものではない。
こんな感じかな。
https://news.livedoor.com/article/detail/19513038/
これを読んで、とても悲しくなった。
この死んだ人は時代に取り残されて、自分の時はある時期から止まって
それ故、バイトから抜け出せないし趣味もアップデートできない、そんな金銭的余裕もなかったのかもしれない。
時代に取り残されていく自分を思いながらも日々時を重ねて、孤独死。
結局どうだかだなんて本人以外分からないのだけど、この記事では彼を幸せであったと評する。
はてブとかの反応を見ると、勝手に決めつけんなとかいう意見もありながら
こういう生き方、死に方に好意的とかあこがれを持つ人が相応にいる様だ。
わからない。
何が幸せなんだろう。
自分自身も40代も直前となったここ数年を振り返る大学を卒業して就職、
それから30位までは環境の変化とか立場の変化もあって時代とともに進んでいる気がしていた。
だけどここ数年は何も変わらず、今の立場、今の状況に足踏みをしている気がする。
仕事もそれはそれで経験を重ねるたびに小器用に立ち回れるようにもなった。
だけど、趣味だとか興味が徐々に新しいものに向かなくなって、インスタとかtiktokとかまぁやらないよね。
思考とかもそうだ。経年を経て自分の思考が熟成されていった感があったのは30位まで。
そこからは何も変わらない。日々を消化して、過去を見て徐々に足踏みをしていく。
人それぞれとはいえ、徐々にそうなっていくんだろう。
そういう状況を実感している中にこの記事を読み、他人ごとではないなと思う。
自分自身、そこまで結婚を望まなかったけど、これでもう自分の世界が変わる契機ってないなぁ、と。
40前にしてこう思うのは早いとも思うけど、未来ってのが見えないというか、現在を淡々と過去にしていくというか。
そうして徐々に徐々に、時代に取り残されて、いつかはこんな孤独死をするのか。
なんだろうなぁ、追いつくために頑張る気もしないし、死にたいほどの絶望もないし、ただ生きることを消化する日々。
消化する日々の輝きは徐々に薄れて、これ以上に無味乾燥になり、時代から取り残されるとどうなるんだろう、どう思うんだろう。
なんだろうなぁ。
日記を書こうと思った。
日記を書くのは何年振りだろう。
まずはあまり畏まらず、文体も飾らず、思いつくままに自然体で文章を綴っていこうと思う。
どうせ誰かに見られているわけでもないのだ。
格好つける必要もない。
思えば(思ってばかりだ)、人の目ばかり気にして生きているような気がする。
喋る時、声の大きさや口調、あるいは内容、大学にいるとき、他人の視線、年齢を気にしている。外を歩いているとき、他人の服装、無意識に目がいってアレコレあの人はどうだと批評したくなるのは自分が他人からどう見られてるか気にしていることの裏返しのような気がする(また、気がしてしまった)。
正直、疲れる。
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だから、誰もいない特に馴染みのない住宅街なんかを散歩しているととても心が落ち着く。
神経症と言ってもよさそうだ。
過剰に他者の視線を気にしているし、不意に暮らしの中で誰かに自分の人生を否定されやしないかと、ビクビク怯えながら過ごしている。身を強ばらせて、責められたときのために理論武装をして。
実際にそういう機会に出くわすことはほとんどないのだが、何気ない日常会話のなかのふとした発言に、弱り切った心を傷つけられたり、同じような体験をした人の恐怖心にSNSで共感してしまったりするのを繰り返しているうちに、なんだか外を歩けば蔑まれるんじゃないかと思うようになってしまった。
難儀なことだ。
なまじ人生途中まで順調に見えたがために、プライドだけは人一倍高くて、困る。
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今、これを母校の一角で書いている。
思えば(また思った)、mixiで日記を書いて友達と見せあっていたときもこの学校に通っていた。
今はコロナで対面授業は実施されていないのか、学生の姿は疎らにしか見えない。
私の青春を彩ったこの学び舎は、少し角張ってピカピカしたいけすかない講義棟が増えたことを除いて、概ね往時のぬくもりを残して私を迎え入れてくれた。
このキャンパスに舞い戻って呼吸を取り戻したようで「ああ、今まで苦しかったんだな」とようやく気付けた。
実家もかつての家も失って、未来もなく、現在も灰色の私にとって、本当に数少ない、幸せだった頃の感覚を身体に思い出させてくれる場所。
いつまでもこのまま変わらないでいてほしい。
代謝がいいことは健康の必要条件であって十分条件ではないのだ。
私は故郷に変化を望んでなどいない。
願わくば……
中学生の頃、2chとフラッシュの全盛期で、よくコンピュータ室で見て怒られていた。
また、趣味の掲示板文化が一般にも浸透した頃で、FF9の攻略本を紙で出すかどうかをスクエニが迷った話などがあった。
高校生の頃、まとめサイトが全盛期で、それによって流入したリア世代にVIPが荒れに荒れていた。
逃れたVIPerの一部がそのままなんJとか狼とかに住み着いて、「VIPは終わり」と良く弟が嘆いていた。
大学の始め頃、ニコ動がオープンし、mixiがリア充世代にまで広がった。
課題をやってると前の席の画面がみんなmixiのオレンジだった。
ニコ動はアカウント取った頃はまだβだったし、ひろゆきの差押え自動車が何なのかをみんな知っていた。
Twitterを知ったのもこの頃。当時はうんこした報告でバズるようなSNSだった。
それが30代前半かその前後の世代のネットの思い出なのだけど。
何故か世間では、Flash全盛期だった頃に小学生だった世代がネット黄金期や全盛期の民を自称しているのが納得いかない。
お前ら、同世代が米津玄師だからって自分も偉くなった気になってんじゃねぇよ。
全盛期を名乗っていいのはそれらを『作り出した側』であって、『物の良し悪しが分かるより前に消化した側』じゃねぇよと思う。
30代を全盛期というつもりはないけど、本来の全盛期は、そういうクリエイターの頭数が揃った時期を呼ぶのではないかとモヤモヤするのだった。
というか、口を開けてマダマダ言うしか出来ない奴が世代の代表みたいな口を聞くのは、例え相手が還暦だろうが嫌。自分で作ってから言え。