はてなキーワード: 鎌倉とは
それがまさしく、鎌倉が世界遺産になれなかった理由なのよ。当時の建築物がほとんど残ってない。鎌倉大仏だけ。
関東は1923年の関東大震災で倒壊や火災が起きて、多くの歴史的建造物が倒壊して残らなかった。1995年阪神淡路大震災では京都は震源から離れていたが、関東大震災の震源は相模湾沖なので、実は震源に近い神奈川県の方が東京より揺れが大きく、倒壊で多くの建物が失われた。
震災被害は横浜も極端で、実は横浜には開港当時の洋館は一件も残っていない。すべて関東大震災のときに壊滅した。皆がありがたがって行く山手の洋館は、関東大震災後に逃げてしまった外国人を連れ戻すために建てられた洋館。居留地時代の洋館が見たければ、神戸の旧居留地十五番館まで行かないといけない。
横浜に行ったついでなら、山下公園とか場所ぐらいわかるでしょ。山下公園は関東大震災の復興祈念公園で、当時の震災瓦礫で埋め立てして作られた公園。横浜の関内地区の沿岸部は関東大震災で一回地盤沈下してて、昔の洋館とかは倒壊後、海に沈んでしまった。横浜の関内地区は一帯が住居表示未実施区域だから地番は明治から大きく変わってないが、沿岸部は関東大震災後に復興で引き直してるから、昔の地割がどうだったのかすら正確には不明。
横浜市役所を桜木町に移すときに、発掘調査が行われて、今では遺構の一部が公開されてる。あれが関内で一番古いものだな…昔は、横浜公園の庭園の石灯籠が一番古いって言われてたのよ。横浜公園一体は、幕府がオランダと共謀して作った人集めのための遊郭後なんだよね。そこの岩亀楼っていう遊郭の石灯籠。軍事的に東京から切り離しやすい今の横浜・関内一体に外国人を集め、唯一の開港場としてアメリカに認めさせるためにはどうしたらいいかって、江戸幕府がオランダに相談して、オランダが提案したのが遊郭作ることだったのよ。
なんか鎌倉って定期的にディスられてるよな
鎌倉は歴史の長い一種のコミュニティなので、テーマパークとしては別に何てことないよ。俺にとっては東慶寺を守る一円の美しい家並みだし、友達にとっては雪ノ下と八幡宮だけが鎌倉だし。ジャパニーズエッセンスたる京都は鎌倉を気にしないで大丈夫。長谷寺がクソなのは完全に同意する。昔から寺というのはああやってギンギラの伽藍で金を稼いだという乱暴な意見もあるが、だからといって侘び寂びの浸透した現代にそんなものを踏襲してどうするんだという感じ。
要約:鎌倉は進んでるとおもてましたわw
鮭のいいアラが手に入ったので早速お粥よ!
ちょうど昨日生鮭ぶっこみたい!って言っていた矢先、
本当に偶然ちょうど良くおあつらえ向きに鮭のアラがあったのよ!
しかも100円!
安っす!
いいでしょー!
まあアラなので魚をさばいた後
魚の身を切り出したあとに残る部分なのね。
アラの当たり具合によっては
良いアラに当たることがあるのよね。
そんで早速鮭粥に挑戦!
生の鮭なので、
霜降りにして明星になったころ粗品でもらったキッチンペーパーでちゃんと水拭いて、
わかるかなー?
わかんないだろうなー?
生臭さを処理したつもりだけど、
いざ鎌倉!ばりに
お粥にしたら鮭のというかー魚の生臭さが際立ってたわ。
まあ食べられないってワケではないけど、
ちゃんともうひと手間
塩振っておけばよかったわ。
そして粗品でもらったキッチンペーパーで出てきた水分をおさえてって手間。
わかるかなー?
わかんないだろうなー?
その手間を怠ったがゆえの結果として
ちゃんと下処理しないと生臭くて笑うわ。
下処理怠らないようにしなくっちゃって思ったわ。
味はまずまず美味しかったし、
面倒くさいけど骨もある程度取り除いて鍋に突っ込むべきべきだったわ。
お粥の柔らかさに対比して骨の硬さが余計に目立つのよ口の中で。
一回試してみて鮭感を感じたかったので、
次回はちゃんと下処理するか、
だいぶ高いけど切り身の鮭で本格鮭粥を試してみるかだわね。
鮭粥もなかなかパンチあって私は好きよ。
パンチの中にも優しさがある感じがして、
もちろん冷凍餃子お粥の中にも優しさがあることを私は忘れていないから!
手軽さと簡単さと食べ応え強さと
人類はまだ生の魚を取り扱いには早すぎるのよ。
そうそう!
今度はって思い付いたんだけど、
鯖缶粥試してみようかしら!
これなら冷凍餃子に匹敵する手軽さと簡単さでは負けないと思うし、
ニュートンさんが木からリンゴが落ちてきてアイデアが閃いてリンゴ粥を作ったように
私もそれと同じ要領で
ちょうど鯖缶の縁の角の部分がクリンヒットして私の頭に当たったような衝撃よ。
私の頭の上で
でも顔面を含む頭もセーフよね。
幸い血は出なかったので良かったけど、
4回転のフォーシームより遅い2回転なので、
その分なんとか遅い回転中に鯖缶の賞味期限を見極められるような芸当を身に付けるぐらい、
その大谷翔平選手が投げた鯖缶も頭に当たったら危ないから気を付けた方がいいわ。
あなたも気を付けてね。
うふふ。
例のその鮭粥よ。
そうそう思い出したけど、
ちなみに小盛りのやつで
こしらえたんだけど、
世の中便利なものがあるのね。
覚えておくわ。
桃缶買ってきたわよ。
たまに食べたくなる甘んまい桃缶よ。
それを1つ桃缶ウォーラーにしてみました。
桃炭酸桃も桃よ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
僕がまだ大学生だった頃に先生と出会った。先生と言っても大学や学校の教師ではない。私がそう呼んでるだけだ。ど田舎の裕福な家に生まれた僕は故郷の親や教師、同級生たちの俗物さに呆れ、期待を抱いて大学に進んだ。父は「息子が大学に進んだ」という誇らしさと「学問をやらせると小難しくなってろくなことがない」という相反する思いを抱えていたようだ。期待して進んだ大学でもまた学生や教師たちの俗物さに呆れていた。夏休み、やることもなくて鎌倉でぶらぶらしていた時に先生と出会い、そこから交流が始まった。
先生は私と同じ大学の卒業生だった。生まれが資産家の家らしく、30代前半だったが仕事はせずに洋書や論文を読んでブラブラしていた。先生の家には奥さんとお手伝いさんがいた。奥さんは先生よりもかなり年下で、裕福ではないものの、しっかりと躾られてきたお嬢様だった。2人に子供はいなかった。先生は学問に造詣が深く、俗っぽさもなく、僕は先生と共に人生最後のモラトリアムを過ごした。
大学の卒業が決まる頃に先生が若くして亡くなり、故郷の父も病気で亡くなった。
僕は父の財産と、遺言により先生の財産も相続した。大学の教授と友人の伝手で官吏の職に就き、若くして未亡人となった先生の奥さんと結婚し俗物な役人として暮らしている。
ちょっと時間が余ったので、屋島にも行ったのだけれど、行った後に「これが屋島の戦いの屋島か!」ってすごいテンション上がった。
勝手に瀬戸内海のどこかの島かと思っていたり、こんな急峻な山で山の上にいる方が圧倒的に有利そうだけど義経はよく攻めたなと現地に行って初めて気づいたことがいくつもあった。
ふと、高松の学校では、「この屋島の戦いのあった場所はあの山です」とか教えられたりするんだろうなと思うと急にうらやましくなった。
(私は歴史の教科書には決してでてこないような地方の出身で、そういう経験はなかったので)
京都とか奈良とか鎌倉とかその他歴史の教科書に地元の地名がでてくることがあった経験のある人はどんな感じだったか是非教えてほしい。
誰にも明かしたことはないけれど、恋多き人生を送ってきた。10代の頃はそれはそれは惚れっぽく、けれどお付き合いの具体的なイメージが沸かないから、すべての恋を胸に埋めて大人になった。大人になると途端に恋は人間関係と結びつき、恋人になるなり、失恋するなり、別れたり復縁したりと暮らしに影響を及ぼすようになった。
けれど、ただ胸の中にアルバムをこしらえて、目が奪われ体に火がついたような一瞬を大切にスクラップし、眠れない夜や開放的な歌を耳にしたときついページをめくってしまうような、眩しく淡い恋はあの頃で終わっている。そして夏が私にそれを思い出させる。
入学したときはぽっちゃりした坊ちゃんみたいだった佐野くん。実はピアノが上手くてプログラミングにも長けていて、卒業する頃には背まで伸びて花より男子に出てきそうだったのに、おっとりと優しく人を立てる性格がずっと変わらなかった。
クラス替えの自己紹介で将来の夢を聞かれて、低い声でぶっきらぼうに「DJ」って答えた佐伯くん。全く意味がわからなくて、大人っぽすぎてドキドキした。家に帰って辞書で調べて、ラジオのディスクジョッキーのことと理解して、その夜はラジオから佐伯くんの声が流れ出るのを想像した。
ずっと一匹狼だった小山くん。いじめスレスレのいじりが起こるとすっと話題を変えていた。先生含め全方位につれない対応だったのに、裏表のない態度が一目置かれる存在だった。同じ小学校から進学してきたユカちゃんと話すときの笑顔だけが特別だった。
ロッカーが隣で、ふっと中を覗かせてもらったら、ぴしっと教科書が整列していた坂上くん。ゲラゲラ笑う大胆な人なのに几帳面なんだ!と驚いて、自分のロッカーを見られないようにあわてて閉めたら目があってニヤッとされた。扉の裏にコピーした時間割がまっすぐ留めてあった。
くるくる天然パーマがキュートだった加藤くん。ずっと冴ちゃんに片思いしていて、冴ちゃんが誰と付き合ってても視線の熱が変わらなかった。一度男女混ぜこぜで鎌倉の花火大会に行ったとき、一番はしゃいで盛り上げてくれたことを思い出す。あのとき冴ちゃんが彼氏の呼び出しで早く帰ってしまい、それでも続く明るいトークには抱きしめたくなるほど痺れた。
その花火大会の日に家に寄せてくれた吉住くん。浮いた噂一つない柔和なカタブツで、誰にも平等に接するフェアなところを尊敬してた。ご両親とのやりとりも穏やかでユーモラスで、その後何度もみんなで家に通わせてもらった。高校で柔道部に入ってあれよあれよと体が分厚くなり、人懐っこい熊のようだった。
眉毛を一生懸命整えていた竹内くん。今思えばきっとノンバイナリーな人だった。男子グループに上手く馴染めていなかったけど、料理部に入って人は人自分は自分って感じに対処していた。ミステリアスで目が奪われた。
バスケ部の永田くん。学校ではまるで話したことなんてなかったけど、偶然電車で会ったとき、家のことや好きな本の話など、横浜〜藤沢まで楽しくおしゃべりできた。クラスメイトの陰口など一切言わなかった。鞄の角がすり切れていて、でも持ち手はきれいにしてあって、ものを大切に使うんだなと感心した。
テニス部の藤本くん。華やかな容姿で人目を引いたのに、結局誰とも付き合わず、いつも友達とふざけているか本を読んでいた。一度バスの中で何を読んでいるか聞いたら水滸伝だった。読書するとお小遣いもらえるんだよねと言っていたけど、きっと本当に本が好きだったんだな。
藤本くんの親友で、ある日突然私に現国を教えてと持ちかけて水木くん。勉強なんてしてこなかったけれど、医学部に行くって決めたからと言っていた。弟の病気を直せる医者になりたいってそんな漫画みたいな‥と思ったけど、全力で学ぼうとする姿勢にはむしろ教わることばかりだった。卒業生総代になって、答辞の添削を任せてもらえたときは胸が詰まった。
サッカー部で副キャプテンをしていたのに、引退試合の直前で怪我をしてしまい、試合には出れずコート外から大声で指示を出していた榎木くん。試合終了が近づくともう何も声を出すことなく、ただ制服の白シャツがはためいていた。
回転ドアの向こうに、自転車の後ろ姿に、夏の朝夕、暑さが残る淡く眩しい光のなかに男子学生を見かけると思い出す。みんな素敵だった。私恋ばかりしていたけど、それは当たり前だった。