はてなキーワード: レッテル貼りとは
つい先日、台湾総統選が行われた。
政治のことはよくわからないが、中国は台湾の一国二制度をやめ、省の一つとして制定し、台湾を含めた「一つの中国」の実現を目標としている。
一方台湾は、中国とは全く別の独立国として建国したいという目標がある。
中国では抗日戦争ドラマや映画には悪い日本軍人が出てくるのはお決まりなのだが、それを手助けする国民党軍もまた決まって登場する。これはもう中国で戦争ものといったら外せない登場人物になっている。
ストーリーはどれもお決まりパターンで最終的には絶対的善である共産党軍の勝利で終わる、というものであり、勧善懲悪ものの教科書のようなものばかりである。
そういったドラマに慣れ親しみまた公教育などでも国民党軍の悪事に触れてきている中国人にとって台湾人とは、非国民の後代であるという認識が非常に強い。
それで特に最近は何かにつけて「台湾独立」という話題がニュースを賑わらせており、中国人ならば台湾に対して「中国を困らせる子悪党」という認識を少なからず持っている。
簡単に言うと、中国大陸人は「立派な大人」、台湾人は「悪さをしでかす悪ガキ」であり、中国人としては、悪い大人に騙されている子供(台湾)に早く家に帰ってきてほしい、そんな風に台湾に対しての思いがある。
中国の庶民レベルでもこのような台湾人に対するレッテル貼りが存在する限り、台湾が中国側からの話に耳を傾けることは到底あり得ないだろう。
彼女はとある中国人の音楽家と知り合いになって色々と話し込むうち、その人の生い立ちの話になった。なんでも、彼が幼少の頃、両親が国民党であったという理由で共産党軍人に●されてしまったが故に、共産党を非常に恨んでいる、というのである。そういった観点で中国共産党を見たことがなかった友人にとって、大きな衝撃だったようだ。
それ以外、何もない。
というか被害届すら出されていない。
もちろん民事訴訟も起こされていない。
これが最低限、被害届が出されているなら少し話が違うと思う。
でも現状何もない。
とくに直近に世の中を騒がせたジャニーズの問題があるから余計だ。
あれがなければ、世の中の受け止め方もかなり違ったものとなっただろう。
しかし、ジャニーズ問題のあとでは最早疑わしきとは関わらず、が鉄則になりつつある。
ことの真偽はともかくとして、疑いがあるものとは関わりを持たない、が正義になりつつあるのだ。
果たして、こんなふうな排斥活動をしていくのは正しいあり方なのだろうか?
先にも書いたが、せめて被害届の一つでも出ていいれば随分と話は変わる。
しかし、そういったものも出さずに、ただ被害にあったとだけは週刊誌に話す。
これはどういったことなのか?
穿った見方をすれば、被害届を出して実際に捜査されると困ることがあるからではないか?
とも考えられなくもない。
週刊誌が名誉毀損で訴えられた場合、その報道の内容が真実かどうかは関係がないらしい。
ただその報道をするうえで、きちんとした取材が出来ていたかどうかだけが問題になるらしい。
その取材に不備があれば週刊誌は敗訴し、取材に問題がなければ報道した内容が間違っていても勝訴する。
つまり実際に事件性があったのかどうかは問題とならないということだ。
これは恐ろしいことだと思う。
それなのに全くそういうことは無視してただ週刊誌に書かれた、ということだけを根拠にして一人の人間を排斥するのが正義だとされる世の中。
それを批判することは「意識のアップデート」が出来ていないというレッテル貼りと言論統制。
恐ろしい世の中になってしまったと思う。
「賛否はあるけど、全体的に良くはないけど極端に悪くもない。期待外れだった」
くらいなのが民主党政権。
悪夢の民主党系の話は、そもそも10年以上前の話を好き好んでする人は基本老害で、大体まとめサイトとかネットのネトウヨ文化で青春を過ごした
「情報の真偽より声の大きさとレッテル貼り。とりあえず左翼ぽいものは全否定し自民党や右翼は「最高ではないけど」と偏った中立公平仕草をして持ち上げる」
というリテラシーが低いネトウヨ闘士が多いんで、青春時代に脳みそに焼き付いた悪の民主党を今更否定できなく、当時の思い出話(と当時のまとめサイト)を根拠に何回も同じことを繰り返してるというパターンが多い。
元増田の件も同じだけどお前は恵まれてるって言われて、それが事実だった場合セルフイメージに傷がつくのでその手の発言を封じたいってだけの話じゃねぇの
素直にうらやんだり、素直に悔しがったり、素直に憧れるのは体力がいる。それよりもちょっとスカしたふうにふるまったり、すごい人をかえって下げてみたりしたほうが全然傷つかない。でもそんなひねくれやこじらせた自意識や他人に対するレッテル貼りは、人間を不自由にする。
これが最初の定型発達を攻撃する発達障がい者にかかる言葉なんだとしたら、定型として気持ちはわかるけど結構ギリギリ攻めてるよな
これ思い出したhttps://note.com/ao8l22/n/n382fcb80113b
「できる人」をバカにするのはもうやめよう
インターネットの悪いところの1つとして、「できない人」の声が大きくなるところがある。「要領よくできる人」「コミュニケーションがうまい人」「なんだか楽しそうにしている人」のことを、そうじゃない人が「自分はできないけど」と自虐含みでバカにする。羨ましさが反転して攻撃になる。
たとえば発達障害なら、発達障害ではない人のことを「定型発達」「健常者」などと言い、「定型発達」の生きやすさと発達障害の生きづらさを言い連ね、「定型発達」の人々が非常に無神経であるかのようにまとめる。しかしかなり言いがかり的なものもあるというか、「定型発達、そんなスーパーマンじゃねえから…」と言いたくなるようなこともある。人間、だいたいグラデーションだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/workshain/status/959066779929604096
で、クワーッとなったのを抑えるために、オードリー若林正恭の「完全版 社会人大学人見知り学部卒業見込」(角川文庫)を読んだ。とてもよかった。
すごいよかったのは、若林の言っていることがだんだん変化すること。連載の最初では「スタバで『トール』っていうのが恥ずかしい」と言ってたりするのだが、途中から「別に恥ずかしくないぞ!」と言い出す。過去の自分のネタ帳を読んでこう振り返る。
「テレビに出たい!」「お客さんに笑ってもらいたい!」となぜ素直に書けなかったのだろう。他人事のように考えを巡らせた。それを書いたら最後、いよいよ本格的に自分の力不足を直視しなくてはならなくなるからだろうな。それを書く強さなんて勿論持ち合わせていなかった。だからこそ、それを手にする気がないことを殊更に強調することが、当時の精一杯の自己防衛だったのだろう。
この辺りの文章が超絶に刺さった。素直にうらやんだり、素直に悔しがったり、素直に憧れるのは体力がいる。それよりもちょっとスカしたふうにふるまったり、すごい人をかえって下げてみたりしたほうが全然傷つかない。でもそんなひねくれやこじらせた自意識や他人に対するレッテル貼りは、人間を不自由にする。
全然関係ない話なのだが、私は非常に感謝していることがある。むかし「部屋が汚い」ということを記事にしていたら、「発達障害(ADHD)なのではないか」というコメントをもらった。それに対して私は「そうなのかな?」と思っていたのだが、自身がADHDであり、それについての文章をよく書いていたYさんが、そのことについて怒ってくれた。その怒ってくれたものの中身はあんまり覚えていないのだが、「青ちゃんは部屋が汚いことを気にしているのに、そういうレッテル貼りはいかがなものか」のようなものだったような気がする(違ったかもしれない)。
ADHDがらみの話は私の中で非常に混迷している。ADHDの特徴を、当事者やその周りの人が知っておくことは、生きやすさ、過ごしやすさにつながると思う。「どうして自分はこんなにできないんだろう」と悩んでいる人が、ADHDの情報を知ることは、とても救いになるし、大事なことだと考えている。
ただそれは当事者と、その周りの人が楽しくコミュニケーションするために知っておくべき情報であり、赤の他人がその相手を理解しやすくするためにレッテルを貼り付けるものであってほしくないという気がする。たいていそういうのは雑になるものだから。それは「発達障害」という言葉でもあるし、「定型発達」という言葉でも同様に発生している。
ttps://x.com/ao8l22/status/960065753872416772?s=20
ttps://x.com/ao8l22/status/960066055988129792?s=20
ttps://x.com/ao8l22/status/960093910063235072?s=20
②パク増
③パク増再投稿(元のパク増本人?)
自分よりプラスに見える人間をまずバカにするやり口、本当に好かない。リ..
https://archive.vn/2021.03.19-214155/https://anond.hatelabo.jp/20210319191550
はじめに、どこにもそう書かれてないのに「有徴化イコール差別」って読んじゃった誤りもそうだし、きっと現代文苦手だったんだろうねえ。
まず自分が何が正しいと思うかを答えるんじゃなく、書いてあることを答えるんだよ、って習わなかったかな?
その区別がつかなくて成績が悪くて、問題が悪いとか作者の気持ちがーとかキレてる子、昔いたなー…懐かしい気持ちにさせてくれてありがとうね。
それで、文中にある「何が差別か」は見つけられた?
さて、後半で「レッテル」を出したのはね、
有徴化の問題とレッテルの問題がイコールだからじゃないんだよ。
はじめは
と主張していたのに、あとからは
これでは、差別意識→有徴化の順になるから、有徴化されたものはすべて差別になってしまうよ。大丈夫かな?頭に血が上っちゃったかな?
多分言いたかったのはそうじゃないよね?
言い返そう言い返そうと頑張らなくていいから、ゆっくり考えてごらん。
ヒントをあげるね。
発達障害という言葉が広く知られるようになったのは十数年前で、それまでは精々「付き合いづらい人」とか「落ち着きのない人」のように見られていた。
たとえば発達障害の中のひとつにアスペルガー症候群がある。これはもちろん医療現場や療育、一般的な書名でも使われている。
過去には「精神薄弱」なんて言葉でひとまとめにされていたのが、より細かく、またより軽度なものも診断名がつくようになったんだ。これは、過去に区別されていなかったものを区別する、「有徴化」のひとつだ。
では、医療現場や療育の現場でアスペルガー症候群と名をつけるのは差別かな?
では、インターネットで「お前アスペか?」なんて煽る言葉を言うのはどうだろう。
または、実際にクラスにアスペルガー症候群と診断された子がいたとして、あだ名を「アスペ」にしていたらどうだろう?
この3つはどう違うと思うかな?
考えてみてね。
そして、元の増田には「〇〇するのが差別である」といい切っている部分があるよ。まずはそこを探してみようね。
自分で混乱させた定義に混乱しながら言い返したところでまともな議論は生まれないよ。
その感じじゃ、これまでも苦労してきたんじゃないかな?