はてなキーワード: 立派な大人とは
さわやかな日曜日の朝、香ばしいコーヒーのにおいに導かれて、寝起きのぼくはママに挨拶しにいこうとしたけれども、
その前にパパを起こしてあげなきゃと思って、「パパおはよう!」って元気に寝室のドアを開けた。
「おいおい、今日は日曜日だよ」と、ねむたそうに言うパパは、きのうまで働きっぱなしだったから、疲れているのはむりもない。
パパのボールはとっても速くて、バットのスイングも力強いから、ぼくの最高の練習パートナーなんだ。
「ねえねえ、公園に行こうよ、起きて起きて!ママがコーヒーを淹れて待ってるよ」
「勘弁してくれよ。もっと寝かせてくれ」
ぼくはがっくりして、いったん寝室を出ようとするものの、ドアをにぎる瞬間にひらめいた。
よーし、ベッドで暴れちゃえ!
その日の夜、ぼくが部屋で読書をしていると、ママがノックした。
「パパのボールはつぶれて、バットは折れちゃったんだって。ママ、今からお見舞いに行ってくるね」
ああ、もうパパとは野球ができないんだって思ったら、急に泣きそうになったけれど、ぐっとこらえて、
「ぼくも行く」と言う。
「だめよ、あなたはお留守番していなさい。ごはんは作っておいたから、食べて待ってて。なるべく遅くならないようにするね」
夕飯の野菜炒めはすこししょっぱかった。
ランプの明かりがほのかに照らす薄気味わるい部屋の中で、自分の咀嚼する音を聞きながらちょこんと座っていると、
にわかに朝の記憶がよみがえってきて、きょう初めての涙がほろほろ流れた。
「お前もいずれは立派な大人になるんだぞ。パパはいつでもお前のそばにいる。」
いつかパパの言った言葉が頭をかすめる。
パパのようなかっこいい大人になりたいのに。
なんで置いていっちゃうの。
ぼくは、パパともういちど野球がしたい。
ママからの電話は、のこった野菜炒めの皿を冷蔵庫の中に入れようとするときに鳴った。
「入院中、DVDを見たいってパパが言うから、わるいんだけど、あなたパパの書斎から探して持ってこられる?」
荷物であふれるパパの書斎を探っていると、見慣れないパッケージのDVDが目にとまる。
"豹変"ってなんて読むんだろう。これを持って行って、パパに聞いてみよう。
そう思ったときだった。
ぼくのボールとバットは、みるみるうちに大変化を起こし、大人の階段を一気にかけ上ったのだ。
その瞬間、ぼくはすべてを悟った気がして、パパに申し訳ない気持ちになった。
今日、仕事の合間にこの岩崎夏海氏のこの記事を読み、唖然とした。
なぜ若者のリテラシーは欠如しているのか?(2,912字):ハックルベリーに会いに行く:ハックルベリーに会いに行く(岩崎夏海) - ニコニコチャンネル:社会・言論
http://ch.nicovideo.jp/huckleberry/blomaga/ar506361#comment_input
なぜ人は年を食うと必ずこういう「最近の若者は、、」という言説を弄するようになるのだろうか。
考察といえるものはほとんどなく、ただゆとり教育の影響で、最近の若者はリテラシーが欠如し、世の中をなめているだの、自分に甘いだのと書いている。
色々言いたいことはあるが、一つ言うならば、ゆとり世代は決して世の中を舐めているわけではない。ただ絶望しているだけだ。
考えても見てほしい。バブルがはじけたとき、10年の不景気のとき、震災のとき、生まれてこの方、全く「大人たち」のいいところを、見てたことがない。「昔はジャパンアズナンバーワンと言われてたんだよ」などとバブル時代への未練ばかり口にし、危機が起きれば、あたふたするばかり、優秀な出る杭があれば、全力で潰しにいく、そんな閉塞した日本を作ったのは、他でもないあなたたち、おっさんだ!
「ゆとりは、ゆとりは、」といちいち一括りにして非難するが、それだってあなたたちおっさんが勝手に学習時間、分量を削減して、その後学力テストが下がり始めると騒いでやめた見切り発車のせいではないか。学習する分量や時間を減らせば、点数が下がるなど当時の中学生でもわかる当然の帰結だ。
こんな風に「最近の若者は、、、」という前に、一度くらい「おっさんたち、やるじゃん!かっこいい!」と思わせるようなことをしてほしいものだ。行動や成果が伴っていないのに口ばかりでは、ゆとり世代がおっさん達を見限るのは当然である。
こういう言説を読む度に、我々はさらに「立派な大人たち」に絶望していくのである。
元記事
もうすぐ35になってしまう。
結婚8年目。
20代は、まだまだ自分は子供だし、子供を産んで育てるっていう自覚も自信もなかった。
30代になってそろそろ子供のこと考えなきゃって思ったけど、趣味が楽しかったし、旦那が転職したりして、もう少し落ち着いたらって先延ばししてた。
真剣に考えはじめたのは、34になってから。収入も余裕ができてきて、そろそろ子供のこと考える?って話をして、基礎体温とか測りはじめて排卵日にSEX。
でもそう簡単に出来るもんじゃないんだね。歳のせいもあるんだろうけど。生理が来るたびヘコむ。
正直今でも、ものすごく子供が欲しいってわけじゃないから、不妊治療とかしてさらにつらい思いをしたくない。
今のままでも十分幸せだし、自由気ままな生活に満足してるけど、子供の居る生活ってどんな感じだろう。いろいろ大変なこともあるだろうけど楽しいだろうなって思ってしまう。
あと、子供がいなかったら旦那が死んじゃったあとさみしいだろうなとか。
もうほとんど諦めてて、子供にお金がかからない分家でも建てて猫でも飼おうかなって考えてる。
デキ婚が批判されてて、結婚も出産も計画的にって言われてるけど、自分が一人の人間を産んで育てられるくらい立派な大人になったって自覚することが出来る日なんて死ぬまで来ない気がする。計画的にとか経済的にとか、考えれば考えるほど産もうと思えなくなる。なんとなく育てられるって思えてきても、自分みたいに手遅れになることがあるし。
だったら、出来ちゃったっていう現実突きつけられて、自覚せざるを得ない状況をつくったほうがいいんじゃないかって思う。もちろん自覚出来ない親が少なからずいることは問題だけれども。
「中年ってなんだろうと思ったときのこと」(http://d.hatena.ne.jp/kaz_ataka/20130428/1367154990)というブログ記事を読んだ。
私は今すでに31歳で、今年32歳になるけど、まったく自分が中年であるという意識は無い。また、今自分が31歳であるという事実自体、まだうまく馴染めていないように思う。
31歳というと、10代や20代前半だったころのイメージでは、もう「立派な大人」で、社会の中でそれなりの役割を果たしていて、その後の人生を生きぬいていく上での土台やそこからくる自信が、ある程度確立しているはずと思っていた。しかし、実際のところ、まだとても、そのころイメージしていた「立派な大人」にはなれていない。たしかに一応仕事にはついているし、自分の家庭もある。でもまだまだ仕事の上で自分にしかない専門性を身に着けているとは言い難いし、数年先自分がどうなっているのかさえまるでわからず、迷うことばかりだ。あと数か月で32歳(!)になるなんて信じられない。
このイメージと実態のギャップは、ブログ記事の筆者の方同様、私も学生生活が長くて、社会に出るのが遅かったという影響もあるかもしれない。
ただ、時間があっという間に過ぎていくこと、まだ何も成し遂げられていないことへの焦りはある。いつも頭の中の端っこのほうで、『このままだと何もできないまま40歳をむかえてしまう。体力のある30代のうちに必死に頑張って、今後の人生の生き抜ける実力を磨きたい』という思いと、『いつ死ぬかわからないのだから、今を精一杯楽しむべき』という思いが葛藤している。特に、昨年子供が産まれてからは、どれだけ子供との時間を過ごすかと、仕事や勉強への時間を費やすかの配分で悩むことが多くなった。
こんなグダグダな感じだけど、まあこんなグダグダ感が31歳というある意味中途半端な年齢にはふさわしいのかもしれない(世間一般の30代前半というのは、どんなもんなのだろう?もっとちゃんとしてるのだろうか)。
結婚しても独身とあまり変わらない生活をしている(ちなみにもうすぐ2年経つ)。
嫁が仕事や飲み会で帰るのが遅く(日が変わってから)になっても何とも思わないし、俺もそうなることもしばしばある。ちなみに今日はまだ帰ってきてない。
同僚の保守本流の立派な大人!という雰囲気の九州男児は、「奥さん(主婦)が旅行で電車が着くのが23時になるから(片道1時間くらいかかる)東京駅まで迎えに行く」と言っていた。
それって逆に言うと「帰るのが23時になるというのは通常許されない異常事態であるから特別に迎えに行く」ってことだと思うんだよな。たぶん。
あの二人に「実際」何を求めてるか、です。
すんげく意地悪く言うよ、言うよ。
「乙武さんの味方のワタシ」とか
安心してるてのが見える。
でもそれこそ差別じゃね?って思うの。
貴重と感じられる部分が多分にあって、
実際魔法掛けてるのは、掛けられてるのは誰?って話だけど。
大きなのお友だちの一部は、はるかぜちゃんを使って
すっきりしてるだけだったりしないかと思う。
だからはるかぜちゃんに立派な大人になってほしいと願いながら、
言っているけど、それを受け止める側に思うところがあるわけです。
ああ、私にとっての立派な子供てのは「大人なんて信じない」です。
って言える人、どれくらいいるんだろう。
だからさ、はるかぜちゃんがネットの世界で実際何を学んでいるのか、
それを想像できなくて怖いんだ。
なんて書いて送ったらさー、きっとすごく自覚的な
お返事がいただけそうな想像をするんだけど、それはそれで
怖いんだよなー。
隙がなさすぎることの隙というか、
受け入れる側にバイアスがあることも理解して、
そこにちゃんと余裕までつくってしまっていて、
そういう形ではるかぜちゃんはもう完成されてしまっているのがさ。
のがさ。
「それをはるかぜちゃんに獲得させている」ことに
どこまで気づけてるんだろうって思うわけです。
14万人のフォロワーの何割がそれを持ってて
一度も使ったことないんだろうとか想像したらぶくくくく。
多分そんな心配しなくても、
ステ振りして生きていくんだろうけどさ。
はるかぜちゃんが彼らを捨てるか、
彼らがはるかぜちゃんを捨てるか、どっちに収斂するんだろうね。
いわゆるボーダーや、境界性人格障害というのが存在することは知っていたが、他にも複数の人格障害が存在し、「自己愛性人格障害、回避性人格障害」というのがあるということを先日知った。
特に「自己愛性人格障害」は夫にしてはいけないらしい。15年も一緒にいて今知ったことがあまりにショックで、書くことで気持ちを整理している。
人格障害は病気とちょっと違うから、薬なんかじゃ治せないらしい。ただ、本人が自覚することはほとんどないらしいが、夫は10年ぐらい前から人格障害を自覚していた様子。自分はボーダーだと信じていた。
自営の仕事で辛い局面に何度も立って、それが彼を気づかせてくれたのかな?とも思う。…と信じたい。が、その頃から極端な厭世主義者になってしまい、世の中の悪と自分が決めたことに関する仕事はことごとく引き受けなくなってしまった。1度成功しているから、2度目を期待して(ま、私もだけど)はや10年。ヒットを出せないと、恥ずかしくて故郷には帰れないと言う。その気持ちはわからんでもないが。大の大人が10年近くもプータローをできるんだろうか?
一番重大なのは、私が唯一夫を信頼して疑わなかった「強すぎるほどの責任感」、これがハリボテだったということ。
人格障害のことを調べていて、はっと気づいたのだった。
その責任感は、相手にバカにされないための完璧さを求めるがための「あがき」ともとれる言動で、責任感ではなかった。それに気づいた昨夜はショックで、今までの尊敬が一気に冷めてしまうと同時に、ここ15年の彼の行いが、すべて優しさや思いやりからではなく、他人にどう見られるか、他人に謗られたくない、自分は正しく立派な大人でなければならない、という完璧主義からきているものだったこと。母親が年老いたことで全てが上手くいかなくなってきたために、今まさに逆ギレ行動が私に向かって起きていたこと。
すべて辻褄が合う。
もしかしたら、ある種の鋭い人は、夫のそういう面を肌で感じ取っていたのかもしれない。私や息子可愛い母親は、全く気づかなかったというのに。
ガラガラポンで放り出された私は、これから、当てもなく独居することに。今、夫がやってくれている全ての親切がどうにも嫌らしく汚らわしく感じられてしまう私は、私の方がおかしいんだろうか? ただの飯炊き女&セックスマシンだったのか?
周りの友人も「いい旦那さんだね」って言ってくれる。そりゃそうだ、そういう夫を演じ続けるのが夫の大命題なんだから。
世の中の女性に気を付けてって言っておきたい。いつか、病気になるかもしれない、事業がうまくいかなくなるかもしれない、不景気で収入が減るかもしれない…そういう人生の危機のときしか、自己愛性人格障害の人は正体を現さない。「運悪く」何もかもうまく行っていると気づけない。
それには、付き合っているときにとことん彼の育った環境を聞いておくことだ。ググればどんな人がなり易いか、たくさん書いてある。フェミニストはうれしいけど、それが心からのものなのか否か、ときどき吟味してみるといい。
夫の場合は、その原因とも思われる出来事を昨夜聞かされた。なんとなくは聞いていたけど、あんまり立ち入ったら申し訳なくて詳しく聞いてこなかった私も悪い。何しろ世の中にそんな人種がいるなんて思いもしなかったから。
経済的に恵まれていた夫は、欲しいものは全て手に入れ、いじめられると親がしゃしゃり出、自分は悪いと諭されることなく、大人になってしまった。社会人になっても居心地が悪くなると(1つでもボロがでると)コロコロ職場を変えた。
夫の母親は未だに私を嫁と認めず、自分の息子が成功しなかったのは全て私のせいだということになっている。病気になってしまった妻なんかさっさと別れて帰ってきなさいといい、それができないのはお金目当ての嫁のマインドコントロールだという。…そんな華麗なる一族だったなんて先週初めて知ったし、籍もいれてくれないし、私には事実上の夫といっても何の金銭的メリットもない。保険金の受取人だって母親のままで、せめて1/2ずつとかにもしてくれなかった。わたしはさっさと彼を受取人にしていたけど、さっき変更しようと決心した。
いつもインターネットで上司とか友人とかの愚痴言う奴っているじゃん。
これの心理がよく分からなくてちょっと考えてたんだけど、ウンコで例えていったらやっと理解できた。
だからトイレに入ってウンコするんだけど、やっぱ人がウンコしてるところって見たくないじゃん。くせーし。
(いや石川はウンコしないよ派とかスカトロ派とか変態野郎はひとまず黙れ。)
でも子供とかおじーちゃんとか、我慢できないから漏らしちまうわけだ。
それが自分の子供だったり世話になったお袋だったり仕事だったりすれば、あーやっちゃったかって。世話してやるかって気になるわけよ。
でも自分のケツ拭ける立派な大人が、いつもウンコ垂れ流しながら何の感謝も反省もなく生活してみろ。そいつと縁切りたくなるだろ。
つまりだ。
俺らって愚痴吐かなきゃやってられんだろ。ストレス溜めこむと体に毒だし、そりゃあ一つや二つ仕方ない。
だから皆ボヤきたいんだけど、やっぱ人の愚痴なんて聞きたくねーじゃん。うぜーし。
(いや人の愚痴聞くのが生きがいですとか愚痴は状況改善の第一歩ですとかキラキラした野郎はひとまず黙れ。)
でも子供とかおじーちゃんとか、我慢できないから漏らしちまうわけだ。
それが家族だったり世話になった先生だったり職場の上司だったりすれば、あー苦労してんだなって。聞いてやるかって気になるわけよ。
でも自分のケツ拭ける立派な大人が、いつも愚痴垂れ流しながら何の感謝も反省もなく生活してみろ。そいつと縁切りたくなるだろ。
だから言いたい。頼むから健全な人間ならウンコはトイレでやってくれ。クソくせーままこっちに来るな。
お前らにとってそこはトイレかもしれないが、そのトイレには壁が無いんだよ。臭うんだよマジで。
介護がいるってんなら壁のあるトイレに行ってくれ。頼むからインターネットを巨大な公衆トイレにしないでくれ。
例えば、大麻について。
アメリカ人の彼に、マリファナを吸ってると言われてちょっとひきました。
アメリカでは、吸ってる人が大半と聞きました。彼は、まじめな方だと知ってますが、いつからやってるかは、わかりません。ただ、今は、学生だから、、、社会にでる時には、立派な大人としてやめてほしいんです。ちなみに、ハワイと東京の遠距離です。連絡手段は、電話のみです。どんな言い方で言えばいいのか?どんな、接し方をしたらイイのか?アドバイスお願いします。
補足
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1330232288
日本でも大麻がそこら中に売られています。海外では三割~半分くらいの人が経験者だと聞いてかなり引きました。煙草の方が害があると言いますが、どっちもどっちだと思います。薬の力を借りてまで楽になりたいかと思ってしまいます。現実逃避してやっていることを無理に正当化するところが一番腹が立ちます。私は煙草も酒もやらないので住む世界が違うのだわと思いました。
私は将来観光ビザを取得して世界中を観光したいと考えています。数ヶ月程度ですが。しかし、ここまで大麻が蔓延していると幻滅してしまいました。国自体ではなく、使用している国民に。もし誰かと仲良くなったとしても使用者なら絶対に関わり合いたくありません。観光なので知り合いもできないと思うので私は無関係ですが、何だかショックです。それは日本も同じですが。
自分でも偏見を持っているのはよく分かります。しかし、どうしても幻滅しますし、人間性を疑います。視界に入るのも気持ち悪いです。でも煙草は当たり前すぎてあまり違和感がないのもおかしいと思います。
皆様はどう思われますか?
http://okwave.jp/qa/q5734123.html
こんな感じである。
大麻を好きな人も居るし、嫌いな人も居る。嫌いな人の中には、自分は使わないけど人が使うのは勝手だと思う人も居れば、それを使う人の人格を否定する人まで色々な人が居る。カリフォルニアみたいに医療大麻を認めてるところもあるし、日本みたいに厳しく規制している国もある。そして今のところ規制している国の方が多数派だ。
実際のところ、大麻が人体に有害だという事例はあまり無いようだ。と言うのも、タバコのように煙で吸い込む場合は気管支の病気を引き起こす可能性は高まるだろうし(これについては回避策は色々あるけどとりあえず)、見方によっては有害だと言える意見もあるのかもしれない。さらに未知のリスクもある。しかし、同時に医療効果も存在する。この医療効果というのはおおざっぱに言うと、痛みをやわらげて気持ちを楽にするのとその他色々って感じで、例えば末期がんの患者にとっては精神面ではかなりの効果があるだろうが、それによってがんが治って命が助かるとかそういうものではない。したがって、多少の副作用はあっても大勢の命が救える薬とは違い、医療用に大麻を使おうという原動力は起きにくい。医療効果はともかく、単純に楽しいから大麻が好きだって人がいっぱいいるんだけど。つまり、大麻はメリットとデメリットの両方あって、そのデメリットは毎日交通事故で死ぬことを恐れながら暮らしていくのが馬鹿らしいのと同じ程度のもの、と言えるかもしれない。
(↑デリケートな話題なので間違った意見が混ざってたらごめんなさいと先に謝っておくけど、大体そんな感じだと思われる)
ここで冒頭に紹介した「大麻を使用する人を極端に嫌う人」の話に戻るが、彼・彼女らは大麻について正確な知識を持っているわけではないのに、極端な拒否反応を示している。原因として日本国の法律で禁止されてる=犯罪だからというのがあるかもしれないが、それよりも極端に未知のリスクを嫌う人が一定数存在すると見るべきかと思う。また、アルコールはかつてのアメリカでは禁止されていた。社会が進歩していく中である時アルコールという精神に作用するものが流通しているのはよく分からないけど怖いな、と思う人が多数派になったので規制された。酔って暴れる人もいるし事故を起こす人もいたのが理由になったはずだ。結局の所アルコールを規制し続けることは出来なくて、メリットとデメリットを秤にかけた上で、現在の条件付きの規制に至っている。これこそが人間社会が最初はリスク回避的に、でも結果的にアルコールを認めてきた歴史である。だから大麻も同じような過程を経るとは言わないけど、その可能性も無きにしも非ずだろう。
人間社会の中には未知のリスクを嫌う人間が一定数存在するのは、生物としての進化の結果当然のことなのだろう。誰もがよく分からないものを簡単に受け入れてしまってたらある時絶滅してしまうかもしれない。一方で、リスクを好む人間も居て、そういう人たちがあらがい続けた結果アルコールのように社会に認められることもある。東京都の青少年健全育成条例についてもよく分からなくて怖いので規制しようという動きなので、大麻やアルコールと似た話だと感じた。条例反対派の人はこれから人間社会に害がない(この場合は、漫画が犯罪に結びつかない)ということを証明し続けていくことになるのだろう。さて、どうなるのか楽しみだ。
ヒョードルが負けた。2000年に高阪に負けて以来、じつに10年ぶりの黒星だそうだ。その高阪戦だってファーストコンタクトで不運にも目の上を切ったヒョードルにドクターストップがかかったもので、負けたヒョードルはピンピンしていたし、高阪は済まなそうにリング上で頭を下げていた(このときの高阪の態度はじつに立派だった)。
昨日、ヒョードルは三角締めを取られたそうだ。柔道出身なのにストライカーとしても異能者だったヒョードルは、今までだって何度も三角に取られる展開を経験していたはずだ。相手を倒して前からマウントを取りに行けば、まず下の選手は三角を狙う。それを100%の確率で潰しきってきたヒョードルが、わずか1分かそこらで三角を取られたというのだから、やはり、ヒョードルのなかに変化というか、退化が訪れていたと考えるべきなのだろう。
ぼくはヒョードルと同い年だ。33歳という年齢は、若者というにはトウが立ちすぎているし、かといって立派な大人というには精神的にも銀行口座的にも決して豊かな蓄えがない、そんな感じの世代だ。いわゆる氷河期、76世代といわれるぼくたちの年代でもっとも有名なのはたぶん中田英寿だろう。ぼくは中田がペルージャでのデビュー戦でユーベ相手に衝撃的な2発を叩き込んだことをよく覚えているし、彼が旅人に転じたのを微妙な気分で眺めたりもした。
この10年、中田もぼくも、その程度の差はものすごいのは当然なのだが、いずれも挫折や苦悩を経験し、己の限界を知り、別の道を模索したりしてきたわけだ。ぼくはといえば、ようやく、なんとなく、今後の生きる道のようなものが見え始めてきている。
10年前、大きな挫折を経験したぼくは、その後3年くらいを無為に過ごした。心を殺して死んだ目でアルバイトに勤しみながら、いつ死のうか、とそんなことばかり考えていた。駅のプラットホームで思わず座り込んでしまったこともあったし、アルコール中毒寸前までいったこともあった。6畳風呂なしのアパートは荒れに荒れ、押入れのなかはネズミの死骸と糞でとんでもない悪臭を放った。
何度か訪れた再起のチャンスも、手を伸ばせばするりと抜け落ちていった。がんばって稼いだ金をかすめ取られたりもした。何もうまくいかなかった。そのたびに血が出るほど唇を噛んで、なぜだ、なぜだ、何が悪いんだ、そう自問自答を繰り返したが、巡ってきたチャンスが大きければ大きいほど、ぼくは深く傷つくだけだった。そんな日々のなかで、いつしかぼくは自分に期待することをやめた。人は希望さえ捨ててしまえば、二度と絶望に泣くことはないのだ。ぼくはそうして、生きることを選んだ。
20代の後半になったころ、ぼくは過去のいろいろなものを捨てて、新しい仕事に就いた。その会社のトップを仮想敵に見立てて、そいつらを打ち負かすことだけを考えて働いた。働けば働くほどそいつらは打ち負かされるどころか潤うわけだが、そいつらが「君が必要になった」という顔をする瞬間にだけ快感を求めて、その顔をひとしきり眺めては会社を変えた。今の会社のそいつはたいへんな強敵で、とうてい打ち負かすことなんてできそうもなく、ならばそいつに助けてもらおうと考えを変えた。考えを変えたら、時計の針がゆっくりと回り始めた。気が付けば、10年前にぼくを深く傷つけた場所が、違う立場で目の前に広がっている。
その10年、ヒョードルは勝ち続けてきたのだ。スポットライトの中で、勝者であり続けてきたのだ。そう考えたら、くらくらした。コンマ数秒、気を抜けば打ち負かされていたかもしれない。殺されていたかもしれない。そういう緊張感のなかで、ヒョードルは勝ち続けてきたのだ。
10年前、ぼくは特別な人になりたいと願っていた。その願いに目がくらみ、いつのまにか普通の人ですらなくなってしまっていた。それから普通の人を目指して、いまようやく、普通の人になれたという実感がある。
その10年を特別な人として過ごしたヒョードルは、今回の敗北で普通の「強い選手」のひとりになった。契約の関係で、少なくとももう1試合はリングに上がることが決まっているそうだ。これからもヒョードルは、勝ったり負けたりするのだろう。
本当に面白いのは、これからだぜ?
僭越ながら、そう言ってやりたい気分だ。
http://webdog.be/archives/10316_015417.php
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20100316/1268714062
もう騒ぎは収まったようで。
しかし、世の中がエロであふれるのもどうかと思う。
「マ○ロス」とかいうアニメが、電車にえっちい看板を出してたりする昨今だから、議論になって当たり前だし。
もし、学生時分にあれを見たら、テストが5点は下がっただろな。
だからって、規制しちゃえってのも変。
なくしたから+5点なんてこともないと思うし。
でも、今回の騒動の異常なのは、漫画家がわんさか出てきたこと。
要は漫画の売り上げが減っている現状で、規制なんてとんでもないってことでしょ。
この数兆円規模の産業に、大量の人員を雇用できるポテンシャルはございません。
2000年あたりから、間違いなく下り坂。(世紀末ネタが面白くなくなったし←個人的意見)
最悪50%まで業界は縮小する。
そんなこんなで、規制反対派って言うのも、俺には正義のヒーローには見えない。お金が欲しい人にしか。
規制賛成派って言うのも、無駄に、変な用語を創作して、気が狂ってるように規制規制言うだけで。
まともな人いない。
あんた達バカ?
自分が子供を作る年齢になって、教育なんて事を少しは考えるようになった。
で、なるべく立派な大人に見えるようになりたいと思った。
全く規制がいらないとは思わない。レーティングはなくてはならない。
細かく厳重に規制するべきとも思わない。表現の自由とかもろもろあるし。
でも、大人の品格はあっていいと思う。