はてなキーワード: オンリーワンとは
最近あった心理的なめんどくさいといえば、やや特殊な嗜好かもしれないと思ったのものを描くときに、
「○○ってどうなのかなー」
と言ったら、
「大丈夫ですよ!他人に遠慮しないで自分の好きなものを描けばいいんです!自分の描きたいものを描くのが一番です」
って言われたとき、あまりのめんどくささに誘い受け死滅しろと思った。
○○が世間的にどう扱われてるのか、特殊なのか一般的なのかマイナーなのかメジャーなのか、注意書きをつけたりして配慮する必要があるのか、そういう客観的な情報が知りたいのであって、需要が無いから描かないとか他人に悪く言われるのが嫌だから描かないとか、そういう話はしてねえよ。
それを一から説明しなきゃいけないのかと思ったら、あまりのめんどくささに気力尽きた。
つー類の発言をする奴は「駄目」って言われたらどうするんだろう。描かないのか?
他に誰もいないから恥ずかしい、も理解できない。自分しかいないと目立って気恥ずかしい、てのはなんとなくわかるけど、誰もやってないから恥ずかしくて描けないってのはまったくわからん。なんで恥ずかしいんだ?オンリーワンだと何が恥ずかしいんだ?笑われるのか?だとしたらご同類の趣味の人間を、メジャー以外を笑うんだと決め付けてるみたいでたいそう気分が悪い。
需要があろうが無かろうが特殊だろうが普通だろうが嫌われてようが好かれてようが、自分が描きたいと思ったらその時点で充分需要が発生してるから描くんだよ。
ただ、人を選ぶ趣味の場合、垂れ流しにならないように配慮したいから「それがどういうものとして扱われているのか」知りたいだけで。
「そんなことないです」って言われたい輩のせいで、たまたま誘い受けテンプレと同じ形になった発言は全部誘い受けと解釈されちまうじゃねーかめんどくせー。
★人間、選択肢が10個以上あると、かえって逡巡して行動ができなくなる傾向にある。
「首都圏以外の43道府県が選択肢」となって、選択肢多すぎて決断できない、という
状況に陥っているような気がする。
「東北のどの県を支援するか、予め決めておく、カウンターパートナー方式」を取ったように、
「世田谷区だと岩手県を紹介、杉並区だと山形県を紹介」のように
首都圏人から見ると、山形と青森、いずれも自然が豊かなんだろうが、
「山形も青森も、自然が豊かなのはわかったけど、どっちがいいの?
今度の旅行でどっちに行けばいいの?
迷っちゃって面倒だから、旅行取りやめ」てなことになりかねない。
ビジネスも同じ。
その点、韓国と相対する福岡県であれば「日本で一番韓国に近い都市」ということで、
北海道は「日本で一番ロシアに近い都市」ということで、差別化が可能。
青森が「ロシアとの交流」を標榜しても、地理的関係では北海道に負けるし、
大分が「中国との交流」を標榜しても、地理的関係で長崎に負ける。
であれば、多少「こじつけた理由」で、他国(非英語圏が望ましい)と
「A国のことなら、B県に聞いてしまえ」というまでにのぼりつめればいい。
例えば、大分県の「こじつけ理由」として、大分県は地熱発電が盛んである。
であれば、地熱発電が盛んなインドネシアと、カウンターパートナーとなる。
具体的には、
・大分空港からジャカルタへ直行便、ジャカルタ以外の複数都市にも直行便
・大分銀行が、日本企業(県内企業)のインドネシア進出サポート
・大分県内のNHK/民放で、インドネシア語のバイリンガル放送
・県内図書館にインドネシア語書籍、インドネシア関連書籍揃える
・インドネシア系企業・商店が集積する「インドネシア村」の設置
「インドネシアに強いかどうか」ということで、明白に差別化できる。
在京企業もインドネシアビジネスしたい場合には、大分に行ってビジネスした方が
他県も、こじつけでいいから、外国とカウンターパートナーの縁を結ぶ。
鳥取は砂漠研究が盛んだから、中東の例えばサウジアラビアと縁結びする。
りんご栽培が盛んな青森は、中国アメリカに次いで世界3位のリンゴ大国のポーランドと縁結びする。
さくらんぼ栽培が盛んな山形は、世界1位のさくらんぼ大国のトルコと縁結びする。
多少こじつけでもいいから、その地域の「強み」が生きる相手国と
縁結びするのである。
こうすれば「青森と山形、大同小異、どんぐりの背比べ」じゃなく、
「青森はポーランドビジネスの拠点、山形はトルコビジネスの拠点、日本国内でオンリーワン」となる。
非英語圏諸国は、英語が通じない、通じづらい、というハンディを抱えている。
そのハンディを、カウンターパートナー先の県が、教育・マスコミ総出で
解消してあげるのである。
この構想は、今47都道府県にばら撒かれている「各県インフラ4点セット」を、
逆に利用してやれ、という発想である。
各県インフラ4点セットとは、空港・国立大学・地銀・県紙(テレビ)である。
明治以来150年の歴史を誇る、47都道府県の4点インフラを有効活用しないのは、
いかにも惜しい。
橋下新市長が、オーケストラへの補助金をカットするのではないか、ということで、
オーケストラ(市内に4つもある)が危機感を強めているらしい。
元々府知事時代にも補助金をカットしており、この文化補助金への姿勢の違いが、
「はてな」では橋下批判派が多いが、2ちゃんねる(&まとめサイト)では圧倒的に橋下支持が多数。
「文楽は兎も角、オーケストラなんて西洋のレプリカしか出来ない、
こんなの国内に1箇所あれば充分」
「こういう団体に大阪市から天下りが横行している。こういうのを徹底的に叩くべき」
そのために目に見えて判りやすいオーケストラをまずターゲットにした」
「オーケストラって、日本ではアッパークラス向けの教養なんだよな。
ローワークラスに支持される文化でなきゃ、税金投入できないよね」
などなど。
これはダブルスタンダードじゃないのか?」という批判がある。
半分もっともな気がするが、半分間違い。
橋下が狙っているのは、イベントや文化の「選択と集中」というコトなんだと思う。
要は、オーケストラに補助金を出しても、東京の二番煎じ三番煎じにしかなれない、
「ナンバーワンにもオンリーワンにもなれない」ということを、橋下は判っているんだろう。
「二番のスポット、三番のスポットを選んで来訪する」ということは、あまり考えづらい。
音楽専門家なら兎も角、一般人ならまずは「一番のスポットをチョイスする」
であれば、努力しても一番スポットになれそうもないオーケストラへの投資は、
言ってみれば「捨て金」になる、ということになる。
あるいは人材獲得競争でも同じ。音楽を目指す人材が、まず志望するのは「一番の交響楽団」であり、
二番手以降の楽団は「一番を落っこちた人間が、仕方なく来る」ということになる。
その点、「お笑い」は、現時点では一番手としてブランド化がなされており、
それをエッジ化、先鋭化することによって、一層の観光流入が期待できる。
イルミネーション・マラソンは、東京や神戸の二番煎じ、の面は否めないが、
まだまだ逆転可能であり、「御堂筋」という舞台装置を最大限に活かせば、
「オンリーワンへの投資のカット」ということになるので、議論が分かれるところ。
橋下氏の判断は「オンリーワンであるが、あまりにもニッチなので、コスパが悪い」という
ことなんだろうが・・・
たとえばマルチリンガルになれない人。(まさか日本自体の需要が落ち込んでいるのに日本語だけあれば生きて行けるよ!なんていうお花畑はいまい。「ほどほど」の生活で満足するにしても日本語は捨てる時代が来よう。)
たとえば自己PRもできない不器用な人から。(自らの成果も説明できないような人は要らないということです。リスクを取れ、というのは狩猟民族になれ、と同義ですよ)
たとえば大学にも入れないし、卒業もできない人から。(もっとも、はてな界隈ではこういう人ははじめから非人扱い、死んでも自己責任だろ、シラネ、かもしれませんが)
たとえばコンサルなどのような人(それを本業として生活はできなくなるぞ、という意味で)
たとえば音楽で飯を食ってる人の9割(文化的にメジャーでない日本は商業的にも芸術的にも消滅するでしょうね)
たとえば外食で飯を食ってる人の9割(スタバもなくなるでしょうね)
だいたい上に挙げたような人がだんだんと底辺に移り、人間含め自然消滅するでしょう。
凡人が生き残るために努力は不可欠です。格差の上の方に居続けるためには「適切な努力」が必要です。
仕事終わって帰ってきたら延びてるなー
元増田です。
こんなクソどうでもいい答えで納得するような質問すんなって話ですよ。
あの手の質問って、一般常識を見る質問だもの。
新卒が最近やらされてるYES/NOで答える性格診断テストみたいなモンだよ。
「誰かに常に見られている気がする」とか「100万円落ちていて誰にも見られていなかったらネコババしますか」という類のやつ。
普通はこっちだろうという方じゃないのにしたり、
「こんなテストに何の意味があるか判りません」とか欄外に書いちゃうヤツがたまにいるので、まあまあ続けてやってるけど。
クソどうでも良い答えすら準備できないクソ以下をはじく質問だから、あんなんで良いんだよ。
たまに熱意があるなーってのも判るからそこそこ楽しいし。
No1とか2とかいう話を聞いて「売上(利益でも収益率でも時価総額でもなんでもいいけど)を基準にしてんだな」とか
超短絡的思考をする面接官の考えるクソみたいな質問には辟易してるんですよ。
短絡思考の馬鹿が社内向けエクスキューズのしやすさを基準に考えたような茶番に。
学生じゃないですけど。
だって話が分かりにくいんだもの。
あの文脈でNo.1とか2とかって話を聞いて、
オンリーワンじゃなくて、ナンバーワンの話だなあって理解がそれほど曲解だとは思えないが。
で、会社規模でも売り上げでも何でもいいけど何を基準にしてるかわかんねーけどそのあたりじゃね、とあたりを付けただけ。
何基準でNo.1なの?学生じゃないなら致命的じゃねその話の分かりにくさ。
しかも書いてないで相手に伝わらなかったら相手のせいなのですかそうですか。
拍手から「あれはデリケートなジャンルなのでパスとかにした方がいいですよ!」ときた。
やってらんね。
あのなー、こちとらお前らみたいなのが鬱陶しいからわざわざ.htaccess使って検索避けしてんのよ。
寧ろ「検索避け済みサイトのみリンクフリー!」とかって言ってる人達からの無断リンク(別にそれを悪い事だとは思わんよ)がサーチエンジンに拾われて、うちのサイトの所在がバレてんのよ。
いや、別にばれてもいいけどどうでもいいけど面倒だから自衛で検索避けしてる奴のサイトが、気にしてるらしい良識ある腐女子(笑)のサイトのせいで見つかるって変な話だよね。馬鹿馬鹿しい。
(メタタグあったら中身まではインデックスされないよね。それっておまじないすらしてないってことだよね。違ったっけ)
とにかくさ、今の状態で既に一般人様との区切りはついてんのよ。トップにBLサイトですって明言してるし。
お前らみたいにわけのわからん隠語を使った説明なんぞしてないよ。あれものすごく失礼だよね。相手に分からん警告とかハイハイワロスワロス。
そりゃ別ジャンル扱うわけだから、ジャンルで区切ったりはする予定だったけどね。
そもそも扱うアレがオンリーワン状態だから、こっそりやる予定だったけどね。
いちいちんなこと拍手で言ってくんな。あのジャンルがデリケートになったのはお前らが隠せ隠せって騒ぐからだってばよ。
だからあのジャンルに関わるの嫌だったんだ。でもやりたいんだよなあ。
寧ろこの閲覧者を避けるためだけにパス制にしたい。そんな午後。
以下その理由
そうすると、オンリーワンの大事な人じゃなくて、その他大勢の男性の一人になってしまう気がする
旦那が自分にとって唯一だからこそ、一生かけて愛せる
もっとも、初めて体を許す前にそれだけ愛するに足るかどうかは凄く吟味した
やっぱり、処女あげたから大事にして欲しいってのがある
それだけを理由にするほど図々しくないけど、
それも旦那に自分をつなぎ止めたいと思わせる理由の一つにできると思う
旦那だって今更今の年齢で、新たに処女とつきあえる可能性も稀少だしね
まあそれ以前に快適な暮らしとおいしいご飯で懐柔してメロメロにしてからだけど
ぶっちゃけ、今ネット通販とかで結構いいオモチャもオカズも豊富
リスクのある生身の男なんか、正直不要
これは虹厨の主張と一緒だけど
セックスは子供作りたい相手以外とは、無理にしなくても全然困らない(性欲的な意味で)
追加
考え方が幼いのは自覚してる
だってスイーツだもんw
ちなみにどのツリーでもレスつけてないよ念のため
追加2
ってことでいいのかな…かな?
そんな女がいるわけないっていうのを示すのも、悪魔の証明、だよねえ?
頭に浮かんだ話を漫画や小説にするのが楽しくて、続きや新作を期待するクラスメイトたちに囲まれ、満たされていた毎日。
しかし、中学校に入ると、次第に周りから人が減っていった。
ジャンプやサンデーやマガジンの連載漫画の話はしても、それ以上の領域はダサいオタク趣味として皆敬遠し始める。
他にも、部活やら定期考査やら、小学校とは大きく日常が変わったというのもあるのだろう。
わざわざアマチュアかそれ以下のものを作る人間を取り巻き、もてはやす必要も、暇もない。
思春期を迎え、他人の価値や能力を認めるのは自分の価値を下げることに繋がると、特に同年代に対して無意識のライバル心を強く持ち始めていたというのもあると思う。
結局、漫画や小説が書けるというのは、かけっこで一番早いとか、新幹線の停車駅を全部言えるとか、皆より少し秀でていたり、特殊な技能を持っていることが羨望の対象だっただけ。
小学校の頃はクラスないし、学年や学校や遊び場が僕らの「世界」の全てだったからこそ、ナンバーワン、もしくはオンリーワンでいられただけでしかなかった。
僕らにとっての「世界」が一気に社会というレベルにまで広がり、色々なものをその基準で相対的に見るようになると、一気にその価値は暴落した。
中学校でも、最初こそ、小学校時代からの縁で僕が何かを書いているのを見て集まる人がいることに鼻の穴を膨らませていた。
僕は常にみんなの中心にいて、同年代の中の絶対的な勝者、そこらの奴とは違う特別な人間だと優越感に浸っていた。
でも、いつしか周りにいるのが特定の数人だけになっていて、女子には遠巻きに見られ、自分が中心にいるグループと他のみんなとの間に物理的にも隙間があることに気付かされて、激しく動揺した。
ゼロではないとはいえ、自分の周りから人がいなくなったのは凄まじい衝撃だった。
僕の書くものは僕自身であり、その変化は「お前という人間の価値は実は大した事がない」と宣告されたようなもの。
以降、隠れて授業中に書く以外、文芸部でだけ活動するようになった僕は、先輩や顧問に褒められることを根拠に、「自分は人とは違う」「自分は優れている」と思うようになったのは、単なる現実逃避だったと今では思う。
分かる人は分かってくれる、分からない低脳なんて無視しろ、僕は才能があるんだと、ことあるごとに自分に言い聞かせていた。
天才と言われる人種はもっと早くからだろうけども、そうでなくとも中学くらいになると、その「才能」より秀でた結果を出す人間が現れる。
それは必ずしもスクールカーストの上位に位置するわけではないだろうけども、少なくとも「才能」によってある種のヒエラルキーの上位に認識される現実が、僕の絶対的な価値観になっていた。
だからこそ「才能」を裏付けるために、小学校の時のような「人気」ではなく「権威」を求めた。
その人たちに認められるのがすなわち自分の「才能」ゆえだという思いは、市が募集しているジュニア文学賞を取るに至ってピークに達した。
そして、三年生に進級して先輩がいなくなる頃、自分は先々文芸で社会的に認められるのが当然の人間だという意識しかなかった。
ネタを探したり、物語を書くために読んだ本のせいで色々と得た雑学のお陰であちこちで博識キャラで認識されたことに気をよくし、哲学書に手を出してみたり、感想や校正を求める後輩に偉そうに指摘して批評していたあの頃の思いあがった黒歴史は、今でも時間を遡って殴りつけてやりたいと思えるほど酷い。
そして同時に、オタク趣味も変わらず持っていたため、あとはよくあるワナビ街道まっしぐら。
ラノベの世界を知り、自分なら簡単にこの作者たちを追い抜ける、もっと素晴らしいものを書ける、と当然のように思っていた。
小学校からやっていた自分は一日の長どころではないものを持っているのだから、市の文学賞を取ったくらいなのだから、と。
設定を細かく決め、物語を練りに練った自称大作を、高二の頃に自信満々で応募。
「大賞受賞作」の帯とともに書店に並ぶ光景と、「高校生作家」の響きを頭に思い描いていたところに届いたのは、落選の知らせだった。
ふむ、何が拙かったのだろう、ライトノベルに自分の書くものはそぐわないのだろうか、もっと大衆向けを意識しなければならないのだろうか、ファンタジー王道のあの作品やSFのあの作品は、などと思いながら二つ目を書いて応募し、また落選。
受験をはさんで数年それを繰り返してことごとく撃沈し、完全に自信を失った。
それでも諦めきれなかったが、どうしようもなく煮詰まっていた僕が次に逃避したのはネットに投稿される二次創作小説だった。
その頃はまっていたアニメの二次創作を書いて投稿すると、知らない人から感想メールが来て、そこに並ぶ褒め言葉に感動。
次第にその数が増え、アクセスも増え、いつしか小学校の頃の自分に戻ったように感じていた。
僕が書くものを楽しみに待っている皆がいる。
僕の書くものを褒めてくれる、認めてくれる。
さらに、そのジャンルから本職の作家になった人もいるということが希望と自信になっていった。
まさかの縁で、本職作家さん(ラノベではない)とも知り合えたとき、もはや自分の中ではそのジャンル内での本職デビュー最有力候補の気になっていた。
やはり僕には人に認められるだけの才能があり、その縁で更に素晴らしい才能を持つ人とも知り合う事ができたとまた増長していた。
その頃、二次創作作者の中で中堅キャリアの良作作家という評価を得ていたことから、そろそろ頃合いだと思い、「僕がその実力を認める作家仲間」に声をかけて、また新人賞に応募。
そして見飽きた選評。
受賞した人の出版された作品を読んでみると、自分の応募作がそれらに比べてそこまで劣っているとは思わないし、自分のほうが上だと思うものも珍しくない。
何故落選なのか分からなかった。
知人の本職の先生にも度々話を聞かせてもらって参考にし、応募した仲間うちでも互いに批評と推敲を重ねたのに何故なのか。
それで何かがふっと切れた。
今年はどこにも応募していないし、そのつもりもない。
ワナビ熱が冷めてしまったということだろう。
今でも書くことは好きだ。
でも、素人文芸の枠でいきがってるのがせいぜいということなのだと思う。
「僕が認めた二次創作作家仲間」ではない人が、件の先生に声をかけられているらしいという噂を耳にした。
僕と同じように「中堅キャリアの良作作家」と言われていたその人は作家志望ではないはずだった。
そのアニメ好きが高じて趣味で二次創作文芸をしているだけで、創作を始めてまだ数年、オリジナルを書いた経験がなく、二次創作の発表作品数も僕より少ないというのは聞いている。
読書もあまりすることがないらしいのに何故なのか全く分からない。
マンツーマンで数時間色々な話をされ、数年中にデビューしろと言われたらしい。
僕はお願いして時間を取ってもらい、軽く話を聞かせてもらっただけである上、そんなことは言われもしなかった。
「才能の差でしょ」と妹に言われたけれど、多分そうなんだろう。
度々思い上がり、叩きのめされ、浮上してまた思い上がり、を繰り返しているだけだった自分には、「天性の才能」なんてただの夢物語だった。
それが本当に誰しもが夢見るだけのものだったならよかったのに。
「才能」という言葉、それが表すもの、僕も欲しかった。
モチベーションを上げる方法なんて、無い。
やる気。
バイタリティ。
似たような単語だけども、要は全部「自力で努力する事が出来るか」ではないでしょうか。
ジョセフ・ジョースターも「ガンバルとか努力するとかって単語が大嫌い」と言うくらいです。
僕だって嫌いです。誰だってそー思う。
好きな事にただ黙々と打ち込んで、勝手に結果がついて来る時ってありますよね。
それは客観的に見れば「すげー努力してる」という様に見られるのですが、本人は至って「努力したとは思って無い」んです。
ただ単に、興味があって楽しかったから、のめり込んでいっただけ。
努力ってのは、直感的に苦手だったりイヤだと感じる事を『我慢して』、無理やりに継続して克服・突破する事ではないのかなあと。
事実、今まで自分が今までの人生において色々と優秀な結果を残して来た過去を振り返っても、
全部が全部「楽しかったからのめり込んで、結果が勝手に付いてきただけ」だったりするんです。
「苦手だったけど我慢して続けた結果成績を収めた」なんてこと、一度も無いです。
好き嫌いで言うところの「美味しいと思えたから嫌いな食べ物では無くなった」みたいなもんです。
嫌いなものを無理やり食べ続けてても、好きに変わるわけないんです。
何かしらの切っ掛けで美味しいと思わない限りは不味いままなんです。興味すら沸かない。
得意な事は自然にできる。
自分では「大したこと無い、私には普通にできる事だ」、と思っていても、
他の人から見たら「私には出来ない凄い事」と言うように認識の違いが結構あったりします。
そこは謙遜する必要も無くて、自分の強みとして認識していれば良いんです。慢心する事無く。変にプライドを膨らませる事無く。
だったら、自分の得意分野で頑張って、知るほどに次々と勝手に湧き出る興味の触手を伸ばしていって、更に自分個人の強みというものを生かせばいいんじゃないだろうかと。
「自分が苦手と思ってる事」は、「それに関しては普通にできる」と認識してる他人様に任せて、いとも簡単にサラっとこなしてもらえれば良いんじゃないでしょうか。これこそ役割分担。
苦手な人が頭を茹らせて苦戦している時間が勿体無いのではないかと。得意な人に任せた方が円滑に進むし、得意分野にて別の仕事に関して最大のパフォーマンスが活かせるのではないかと。
苦手な事を無理やりやらさせられたら、そりゃモチベーションなんて上がるはずも無い。
自然と興味が沸いた事に向かって突き進めば、結果として
(我慢の強制を他人に強いる事が大好きな日本人が大大大好きな言葉である、)
「努力をした」という事になる、のでは無かろうか。
本人は得意分野を夢中でガシガシ掘り進んでるだけで、
苦手な人から見たら本当に苦痛な作業なのに、みたいな。
短所を克服するよりも、長所を伸ばせるだけ伸ばそうってのが俺の持論です。
モチベーションは勝手に沸きあがるものであって、本心では嫌だと思っている事に対してはモチベーションなんて上がるはずが無いんです。どんなに理論的に頑張らなければ行けないという考えを後付けしても、義務や強制になれば逆にモチベーションは下がるのではないでしょうか。
つうわけで、モチベーションを上げる方法なんて、ありません。
好きな事だったら寝食を忘れるほどに好きなだけ打ち込めれる。勝手にモチベーションなんて上がってる。
その自然に沸きあがるモチベーションの個人差こそが、「オンリーワン」なのでは無いでしょうか。
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海外勉強サイトでの英会話を投げ出していた事に気づいてもう一度取り組もうと思ったものの、
目標や原動力など沸きあがるモノが得に無かったので、なんでかなあとボーっと考えてた結果
自分の中から生まれた拙い考えを書き起こしたのが、上記の拙文であります。
お目汚し失礼致しました。
各駅周辺にストリートミュージシャンがいて、
とにかく目立とう、自分の曲を聴いてもらおう、個性を出そう、と
たぶんオリジナルな自分(達)を一所懸命表現してた。のだと思う。
その渾身(かどうか知らんけど)の曲を足を止めて聴いた場所はひとつもなくて、
目的場所へ向かいながら、聴こえてくるフレーズだけを聴くともなしに聴いてたんだけど・・・。
「明日もし世界が明日終わってしまうなら」
「もし明日世界が終ってしまうとしても」
こんなフレーズが通りすがりに聴くともなしに聴いた4組中、4組が歌ってた。
えーとつまり、100%、世界が終わってしまう曲だったという訳だ。
ひと組めを聴いたとき、おー若いなーと思い、
ふた組めを聴いたとき、こいつもかと思い、
三組め、四組め・・・。
世界って終わっちゃうの?ていうか、なんかの合言葉みたいなキーワードなの?
それとも「世界が終わるとしたら」っていうフレーズを入れるってルールの競作大会?
ストリートミュージシャンがステレオタイプでどうすんだ。
なんつーか、他人と違うなにか・オンリーワンを追い求めているべき(というのは俺の偏見だけど)
なにかをしている気になってる(ように見える)っていうのことそのものがすげー終ってんなーと、思った。
そして、反射的にそんなふうに思っちゃったりしちゃったことに気がつくと、
若者パワーに無意識に期待を持ってた自分が焙り出されたように気もして、
歳とっちゃったんかなあ、ハァ、とがっくりしちゃったりなんかもした。
[blog][music]学校で教えてくれない、芸術を評価するための6つの視点
http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20091025/1256479650
はてブクマしてほっといたがコメントを後から読んでみた感想を増田に書きますよ。
あ、先に断っとくとブログ主じゃないですよ。
主さんの考え方とはおそらく明らかに違うことをざっと書きますので。
さて、センス至上主義の人たちってのはことごとく残念な方が多いですね。
僕も頭は悪いけど、どんなことでも自前で考えることを辞めてはいませんから、
この人たちと比べりゃ少しはマシかなと思っています。
なぜマシかな?と思っているかを書きましょう。
芸術に限らず物事を見るっていう行為には、必ず束縛されるものがあります。
物事を見るヤツの脳みそです。
脳みそ(全身の神経、肉体を含んでもいいです)にはそいつが生きてきたあらゆる経験が蓄積されています。
全部喋るワケにはいかないので、芸術鑑賞に限りますが、
鑑賞するにも当然経験というものが大きなファクターを占めることになります。
というか、芸術における生来のセンスなんてものは人間には備わっていません。
しいて言えば、生まれた環境、育った社会で目にし耳にしてきた事、この蓄積が異なるくらいでしょうか。
ですが、肉体の素質の差というのは、確実にあります。
有名な話ですがピカソは10歳ごろには既にものすごく達者な写実絵を描かれていたそうです。
そんなに幼いころにすばらしい絵を書けたという事はものすごいセンスの持ち主ということじゃないか!と言われるかもしれませんが
残念ながら全くの早とちりから来る誤りです。
写実絵というものは、インプットとアウトプットの精度の問題であり、センス云々は全く関係しない分野なのです。
つまるところ、肉体性能…筋力とかじゃないですよ。この場合は目の力、空間把握能力、そして手の器用さです。
これが達者だったからピカソは幼くしてすばらしい絵がかけたんですね。
あ、こういうとまた文句を言うヤツが出ますね。
写実絵というのもセンスは必要ですよ。
構図のとり方、ライティング、描くものの配置など、考えなければならないことはたくさんあります。
生まれ持ってのセンスなどではなく(そもそもそんなものは存在しないといいましたね)、蓄積されたセンスですがね。
ピカソの絵はルールを破っているということを理解できてはじめて意味がある。守破離と言うヤツですね。
ルールが無いヤツは最初から型破りなんて出来ないんです。ルールが先にあってこそ、型破りを実行することが出来る。
美においてルールとは、観察と経験の蓄積と人間の肉体感覚によってのみ規定されるものなのです。
かつては文化圏、文明圏ごとに感覚が分かれていましたが、ネットによってある程度統一化されてきているなぁと感じます(脱線)。
精巧な写実絵を幼くして書くことが出来たピカソは、それまでの画法と異なる彼独自の画法で表現を行っていく道を行った。
何故かと言えば、それが彼が伝えたいことを彼が伝えたい人に一番伝わる方法だとピカソが結論したからでしょう。
優秀な表現者というものは、ここでは芸術家のみの例を挙げていますが、文筆家にしろ、技術者にしろ、あるいは一個人でも同じですが、
自分が伝えたいことが自分が伝えたい相手に、どうすれば伝わるのかを常に考えているはずなのです。
純粋な芸術なら、当然、芸術家本人が持つ問題意識(単純に環境破壊とかそういうものでなく、
「赤ちゃんをどうやって可愛く描くか」のようなライフワーク的なものも考えられますね)からなるテーマがあり、
それに対する回答が作品となるでしょう。受け手は問題意識を理解してほしい鑑賞者であり、作者自身でもあります。
商用芸術では昨今では仔細なマーケティングが行われていることは周知の通りです。
それがたとえアウトサイダーアートだとしても、自覚的に商売としてやるのであれば
自分が何をしているのか、自分はそれをどうしたいのか、どう売り込みたいのか、考えているはずです。
それが理解されるかどうかは別として、自分が伝えたいことを自分で明確に出来ない芸術家は大成するはずがありません。
伝わるアテの無いものを創ることは幼い子供や、本当の趣味人に与えられた特権と言えるでしょう。
「そんなこと一切考えて物を作ったことなんて無いけど芸術で暮らしていけているよ!」という方は
きっとダウンタウンの松本氏における浜田氏の様な素晴らしい相方と出会えたのですね。おめでとうございます。
さて、問題は伝わる方です。
自分の見たことの無いものを鑑賞するとき、人はどうするでしょうか?
生来のセンスがあれば、ちゃんとした評価が下せるのでしょうか?
それとも、間違っていてもセンスで感じたことが正しいのだと言い切れるのでしょうか?
順を追って考えれば、殆どがまずそのものをちゃんと見ようとするはずで、
目にした瞬間エレクトリックサンダーが全身に走るような至福の体験を得るなどということはありえないはずです。
人間なんてもんの見た瞬間に出る感情は、自分がそれまでに見てきたものから割り出すように出来ているんです。
人は完全にわからないものと触れる時、評価を下すには多少の時間を要するのです。
生来のセンスなるものがあるなら、そんな時間は必要ないでしょう。何も考えずその場でパッと決めてしまえばいいのです。ゲド戦記はクソ、とか。
ま、ゴッホみたいに死ぬまで放置されてから評価される画家もいますから、そんなヤツはセンス0の大馬鹿者であると断じてしまえるわけですが。
ちょっと古いですが、アイフォーンをはじめてみたとき、
「ああ、ついに完全タッチパネルの携帯が発売されるのだな。人類の革新だ」って思った人は先に記事を読んでる人だけで、
そうでない人は「キーパッドないの?」「液晶DEKEEEEEEEEE」「なにこの□」のように、
見た目からはこれまでの携帯とは形が違うから、どういうものなのかを判断しようとしたと思います。
芸術だって同じです。見たことが無いような作品、バックグラウンドがわからない作品を理解することは出来ないのです。
ゲルニカを最初に見た時、僕はこの絵が壁画として作成されていることがわかりませんでした。
あと感じたことは、「ちょ先生教科書に微グロ入ってるんですけどこれ」くらいのもんです。
だってなんか変な生き物が人を食んでいるんですから。
戦争の絵って言われても戦争まんがははだしのゲンしか知らない僕からしても大いに差があり(だって人間しか出て無いですからゲンは)、
「戦争関係なくね?マジキチ」としか考えられなかったことを思い出します。
今ではこの絵がどういう背景で、どういう意図を持ってかかれたものかわかります。
だから、あの大きな絵に描かれた一つ一つの人物、動物にどんな意図があるのか、
それがピカソという偉大な画家の考えと一致するかはわかりませんが、僕なりに思いをはせることは出来ます。
即断即決で評価を下す必要なんて無いのです。時間がたてばわかることだってあります。それが蓄積されたセンスの成長なのです。
一つの作品を前に、作者とその時代、昔の自分、今の自分、そして作品そのものと触れ合う体験が出来るのが芸術鑑賞なのです。
同じような体験として、聴かなくなった音楽を久々に聴いたときの感覚があるでしょうね。
卑近な例で示したとおり、自分自身というものは変らないように思えて、
仕事や学校や人間関係を経ることで常に変化しているものなのです。
センスなんて言葉を確信的に使ってはいけない理由はこの一点なのです。
使っても問題ないのは人を褒めるときくらいでしょう。それ以外の場面では、使わない方がいい。
人間のセンスはある程度のブレ幅までは抑えられるが、完全に固定できない。
それなのに、センスなどという曖昧模糊なもののみを後ろ盾にし、
他に根拠の無い好き嫌いを強弁するなどという子供じみたマネは
それとも、共感できれば、自分が根拠なく、しかし好きだ、正しいとは感じることが出来ればそれでいいのでしょうか?
僕はそうは思わない。
勿論経験によるセンスは人それぞれなんで、好き嫌いはあります。
見たものをそのまま感じ取ってそれがよい体験となる芸術作品もたくさんあります。
ですが、感情にそのまま訴えかける芸術というものは、やもすれば危険物にすらなりうる可能性を捨ててかかってはいけないのです。
人類の歴史は、いかに肉体欲求をコントロールしてきたかの歴史でもあるわけです。
人間のしくみが生命機械であるとわかっている以上、感情もまた肉体欲求の一つです。つまり、制御出来うるのです。
オカルトなんかじゃありません。
あなたがメディアを通してあなた自身とかかわりの無い人間に対してどれほど多くの感情をもっているかを想像してみれば、わかるはずです。
MMRに書いてあったサブリミナルみたいなヨタなんてメじゃない恐ろしさです。
出自や成り立ちは芸術大学なんて出てませんから知りませんし、教養も無いからわかりませんが、
視聴覚(場合によっては他の感覚)を通して物事を伝え、感情を伝えるという共通点があります。
もしあなたがメディアになにかしらの違和感を感じ、それが問題であると考えるのであれば、
芸術に触れた違和感を感じたら時にも問題意識を持たないといけません。
あなたの友達がそう訴えてきたら、ちゃんと話を聞いてあげないといけません。
(ま、友達の感じたことも受け入れられないのであれば芸術鑑賞そのものの否定をしていることと同じと言えなくも無いですが)
そんな窮屈な思いはしたくないと言うなら、好き嫌いすら語らないことです。
それならセンスが似たもの同士で集まればいいじゃないかと思われるかもしれません。
それが良くないとは思いませんが、しかしその集団に居続け他の意見を聞かないことは、
徐々に感覚を麻痺させ自分たち以外の感覚への無理解をはぐくみ、閉塞へ向かって突っ走ってるだけであり、
「スイーツ(笑)」やらなにやら言って喜ぶ人間に成り下がるだけのよろしくない行為と言えましょう。
現に今の社会は閉塞したコミュニティの複号体になってしまっており、
表現という形でコミュニケーションを図る物自体の存在意義が変化していることの表れなんでしょうか。
(テレビみねー、ゲームとか興味ねぇ、美術館とかブルジョアか!などいろんな派閥がいるでしょうな)
その変化が感覚や感情のような曖昧でふわふわしていると思われているものに密着しているなら、危惧すべきことだと思います。
なんかとっちらかっちゃいましたが、つまるところ、
センス至上主義者は考え直せ、頭を使え、鑑賞してる時の楽しみ方に文句をつける気は無いから。
と、言いたいわけです。
僕としては、こんなクソ長くクソ面白くもなく他人人を完全に否定するようなシャドーボクシング的文章を最後まで読んでくれたあなたが
自分の考えもオンリーワンで世界に一つだから思想修正主義絶対反対とか言いながら
芸術作品に対して自分の考えのみを誇示し続け、異論をことごとく無視し自分と同じセンスの持ち主だけで結託して外に出ない、
あるいは自分と異なるセンスは認めず叩き潰すことに快感を覚えるようなサイコパスでないことを祈るばかりです。
だって、芸術の感じ方なんて、人それぞれでしょう?
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/08/31/AR2009083101099.html
これによると"fraternity"らしいな。今英英辞典が手元に無いんでニュアンスはわからないけど。
His political vision, he says, is a "spirit of fraternity." As he explains it, this means "every person should have a bond to society by making oneself useful and being needed."
なんつーか「もともと特別なオンリーワン」的な雰囲気で捉えられてる感じかなあ。萎えるわ…。
ごめん間違えた。「社会にとって有用で必要とされるような人間になるべき」って感じか。これは同意する。でもポッポの言う「友愛」のニュアンスとは違う気がするけど。この意味だとサヨクが怒りだしそう。
http://www.oup.com/oald-bin/web_getald7index1a.pl
fra•ter•nity /fr{shwa}'t{phon_three_colon}n{shwa}ti; NAmE 't{phon_three_colon}rn/ noun (pl. -ies)
1 [C+sing./pl. v.] a group of people sharing the same profession, interests or beliefs: members of the medical / banking / racing, etc. fraternity
2 (also NAmE informal frat) [C] a club for a group of male students at an American college or university—compare sorority
3 [U] (formal) a feeling of friendship and support that exists between the members of a group: the ideals of liberty, equality and fraternity
便利な時代だ。
入学しただけで満足ってやつも多い。
今まで勉強ってしたことありません。って真顔で答えるやつも居る。
これでいまだに競争率激しいゲーム会社入りたいって言うんだから無理です。
勉強はしない。やる気も無い。
勉強できなくても就職活動に必要になる作品(=ゲーム)を作るのかって言うと作るわけでもない。
どうも自立的に何かを行っていくってのがあまり無いっぽい。
家に帰るとまずはゲームやっちゃうぞーみたいな。
でもなぜか根拠の無い自信を持ちすぎてる奴が多すぎる。やっぱりゆとり世代だわと言える点かもしれん。
なんだろ。ガンダム乗れば無敵なんだけどなぁ的なって言えばわかるかなぁ??
就職活動になれば俺すごいんですよ。的な。
意味がわからないと思う。俺もわからない。
頭も悪い。しゃべりもヘタ。考えも浅い。作品も無い。
どうするの??
その個性はすばらしいんだよ。と。
字が読めないのは個性。
授業中黙れないのは個性。
途中で物事投げ出すのは個性。
当たり前のことを当たり前にこなせないことを個性って言ってる。
うんざりする。
当たり前のことをこなせた上ではじめての個性だと思うんだが、どうも彼らの個性は違うらしい。
「個性を尊重する」
ゆとり教育の根幹だわな。個性の解釈を間違えた教師にも問題はありそうだが。
オンリーワンで良いとは良く言うものですが、まず花咲かないとダメじゃないか?
ピカソが初めからゲルニカみたいなの書いたって馬鹿扱いされて終わりなわけで。
ありのままを評価され続けてるから、批判には弱い。というか認めない。
自分の自信を壊す話も認めない。みたいな感じを受ける。
さて。
学生が「ゲーム会社に就職するためにゲーム作品を作りました、見てください。」なんていわれる。
おぉ立派立派。見せてみ。
ほぉシューティングね。
・・・・・・・・これクソつまらないんだけど、自分で判る?
そもそもシューティングってやったことある?
・・・・
びっくりするんだが、無いんだよな。多くの学生が。
名前は聞いたことあるんだけどなーとか言う。
なぜ名作なのか考えるべきだ。
どうしてユーザーに受けてたのか考えるべきだ。
何が面白いのか。何を楽しませようとして作られたのか考えるべきだ。
なんでやったことも無いゲームジャンル作れると思ってるんだろ?
俺様が作ればなんでも面白いだろ?とか作品ならどんなのでもいいんだろ?とか見えてくるわけで。
ちなみに最近の学生がやってるゲームの9割はRPG。(このバランスも酷いとは思う。)
見聞を広くじゃ無いけど最近の学生見てると、視界が狭すぎて将来が心配になる。
そりゃ就職率も下がるわなw
ちなみにうちのトコ数年前は就職率だけ見れば90%超えてた。
今年は酷くなりそう。
また今度w
(特にヘビーユーザー・古参ユーザー)に足を引っ張っぱられているだけなんじゃないかな?
最近はてなカラースターやはてなブックマークプラスなんかの導入で、はてなの経営がやばいのかと危惧する人もいるけど、新規ユーザー獲得が思うようにいかないから、こういった手段をとらざるをえないんじゃないかなあ。
昔のはてなってオンリーワン路線だったんだろうけど、最近は学校教育との提携や任天堂とコラボレーションしたりで新規顧客開拓に力を入れてるよね。旧来のはてなユーザーにとっては面白くないかもしれないけど、いつ他の国内外大手IT企業がはてなのサービスに侵出してくるかわからないから、これは当然の方針だと思うんだ。
そのわりには、どうも新規ユーザー、正確に言うと従来のIT関係・オタク界隈以外のユーザーを取り込めていないように思うなあ。現にはてなでクローズアップされるのはそういった話題ばかり。最近の人力検索のアンケートを見ても男性が7割くらいで年齢は30・40代が大半といった印象。
それに加えて、はてなは黎明期から、はまちちゃんやdankogaiや池田信夫氏やfinalventといった高齢の方が未だに人気第一線で、世代交代というかそういった人達に取って代わろうとする若い人が全く台頭してこない、これではマンネリ感が顕著でひどい。
何がひどいんだと反発するのもごもっともなんだけど、新しい人材がこないと、村社会というか排他的なイメージが助長されて新規ユーザーが入ってきづらいんだよね。変な用語やルールみたいなものができちゃってさ。若者に興味を持たれる分野の代表格の音楽・スポーツ・ファッションにしたって、音楽はパフュームやアニメソング関連ばかり、ファッションも脱ヲタ話ばかりで、しかも女性ファッションはほぼ皆無。スポーツについては言わずもがな。これじゃあ2ちゃんねると変わらない、いや正直2ちゃんねる以下だよね。おもしろ分野のエントリーだって2ちゃんねるまとめサイトばかりだもん。昔ブックマークを使った大喜利をやっていたけど、今の凋落したVIPに比べても全然つまんない。
はてなのことが好きで、はてなの存続を応援したいのなら、もっと多種多様なユーザーを取り込むべきだよ。長い目で見るとそうせざるをえないでしょう。
そのために一つの提案すると、現時点のはてなブックマークのカテゴリ分け
社会・政治経済・生活人生・スポーツ芸能音楽・科学学問・コンピュータIT・ゲームアニメ・おもしろ・動画
これを
国内政治経済・海外全般・生活(健康・ライフハックなど)・人生(恋愛や読み物など)・スポーツ芸能・音楽ファッショングルメ(主に女性向け)・科学学問・コンピュータIT・ゲームアニメ・おもしろ(2ちゃんねる関連)・動画・思想(ウヨサヨなど)・はてな(揉め事や内輪ネタ)
といったようにネットライトユーザーとヘビーユーザーの棲み分けができるように強化してみては、どうだろうか?
なんだか今のはてなはハロプロやAKB48みたいに信者一人にCDを何十枚も買わせるように仕向ける悪徳商法スレスレみたいな臭いがプンプンする。
3年生になったということで、就活をそろそろ始めようと思う。
のだが、分かってはいたことだが、『会社の求める新社員像』てのが輝きすぎてて、ビビる。
モラトリアムが終わろうとしている。
そろそろ就活始めないとな。
なるほど、エントリーシート書かなきゃならんのね。
まず所属とか色々書いて、その次は、
志望動機な。あるある。全然あるよ。
で、自己PRな。ないない。全然ね~~~~~~~~~~~~~よ。
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とある割とマジメなボランティア団体に所属していて、
アルバイトは1年の秋から接客業一本でやっている。
高校のときは短期の語学留学をしたりもして、TOEICは900点ある。
落ち着いていて協調性があるとはよく言われるが、自分の意見もはっきり主張するし、
それなりに自分から行動して色々やっているつもりである。
「自己PRってどういうこと書けばいいんすか」
と聞くと、
「自分の持ち味を過去のエピソードを通してアピールすることね。
色々やってるんだから、その中で自分が何を得たか、
何を克服してどうレベルアップしたか書けばいーのよ。
具体的なエピソードを通して、自分の行動によってどういう結果が得られたか書くといいわね。」
などと教えてもらえる。
そりゃ人並みに色々やってきて、それなりに色々得てきたという自負はある。
しかし、それって、人並み程度でしかないわけである。
人様に御開陳して、PRできるような自己かというと疑問なのだ。
そこらの大学生がちゃんと何かに打ち込んでんのよ。
でも、それから客観的に認められるようなオンリーワンを得てる奴より、
エントリーシート流し読まれて、そこで落とされても仕方ないような実績しか、
ないような奴のほうが圧倒的に多数なわけ。俺みたいに。
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君にあう企業がきっとあるはず!」
なんていう台詞もよく目にするが、ほんとうは、
要るやつはどこででも要るし、要らないやつはどこ行っても要らんのではないか。
人の意見も聞けるけど、チームをまとめるリーダーシップがある。
熱意と高い目標を持っていて、地道な行動力もある。みたいな、理想像。
だいたいそんなリーダーリーダーしたやつばっか採ってどうする気なんだ。
山か。山でも登る気なのか。船で。船頭多くして。
でもよく考えたら船で山登れるってスゲーよな。
そっか。山登りたいのか。
でも、船で山登ろうぜ!!って言い出して、みんなを実行に導いたりはできないけど、
みんながリーダーに反発しまくってるときに、
リーダーがんばってるよな、大丈夫?飲みにいかね?って言えたり、
みんなのガス抜きしてあげたりできる俺、要りませんか?
あ、雑役夫係は足りてる、と。
出直してきます。
長々とありがとうございました。