はてなキーワード: チェスとは
努力をする、という行為はそもそも矛盾であって、人間は努力をしないようにできている。更に言えば、人間は努力をしてはいけないという命令を脳から受けつつ生きる。
というのは、努力をする、という行為が必要な時点で、それは努力するべき価値のない物事だからである。夢中は努力に勝る、という言葉があるように、本来成功する努力とは無意識的なものである。つまり、「努力しなきゃ」という客観的観点と、有意義で効果的な努力は不協和なのであって、「努力しなきゃ」とか意識してる時点で、貴方はその物事に向いていないし、もっと言うと、その物事に関して努力をしたところで極めて期待値が低く、恐らくコスト(努力)に比してあまりにも小さなリターンしか手に入らないか、あるいは全くリターンが手に入らないか、最悪、リターンどころか自身のマイナスにしかならないということなのである。
脳はそのことを知っているので、そもそも客観的に見て「努力が必要」と感じた時点で自分の体にブレーキを掛ける。「努力が必要=期待値が低くあんまりやらない方がいいこと」なのである(それが我々人類におけるこれまでの生存戦略だったのだ)。本当に向いていることは「努力しなきゃ」とか考えるまでもなく体が動くし、特に意識なく精進していけるものであって、要は才能がない人間の努力は無駄どころかその人間の心身を蝕むことになるという厳然たる事実を脳は知っているのである。だからこそ脳は人の体にブレーキを掛ける。「やめとけ」と。だから、人は努力ができないのが普通なのだ。
例えば、もし原始時代において、あんまり期待値が高いわけでもない試行を繰り返す個体(努力をする個体)がいたら、周りの人は彼にこう告げるであろう。「お前そんなことしてないでもっと向いてることやれよ、コミュニティを存続させるために重要なこともっとあるだろ、あるいはそういうのはもっと向いてる奴に任せとけよ。コミュニティが存続しねえとお前も生きていけないんだから、お前がやるべきことは他にもあるってことくらい分かるじゃねえか」と。はい。明らかにこのような忠告は正しいし、正鵠を射ている。そういうわけで、「努力をしない」あるいは「努力と感じられるような努力はしない」が人間の生存戦略となっているのである。これは極めて合理的なことで、人間は要するに努力できないように作られているのであるし、努力という行為は人間の生存戦略上の矛盾なのである。
とは言え、原始時代はともかくとしても現代においては、一人の人間が期待値の低い努力をしていたところでコミュニティの存続には特に関係がないので、そういう「努力」が許容されるようになっている。しかしながら、「努力」と認識し「努力しなきゃ」と思っている時点で人間の生存戦略に矛盾していることには代わりない。脳は、そのような努力をしている人間に対して、絶えず命令を送り続ける。「やめとけ」「向いてねえぞそれ」「多分ほかのことやった方がいいと思うぞ」などなど。
繰り返すが、そのため人間は脳の影響によって「努力」というものができない(やりにくい)のである。
才能のあるやつにはそういうことがない。あるいは、あったとしてもごく少ない。脳は才能あるやつにこう告げる。「その調子だぞ」「向いてるぞ、それ」「その研鑽は期待値高えからそのまま続けろ」などなど。というわけでこの文章は才能のあるやつには向けられていない。才能のあるやつにおいて努力は努力じゃねえので生存戦略において矛盾はない。彼はそれを殆ど無意識に行い続ける。多分ドーパミンとかそういうのも結構出るので、むしろ努力をやめることができなくなる。
とにかく「努力しなきゃ」と考える時点で貴方は凡人である。脳としては「やめとけって……」の無限打診を続けるしかない。とは言え、そういう負のスパイラルに没入しても、原始時代においてはそういう期待値の低い試行をし続ける人間は下手するとぶっ殺されちゃうんだけれど、現代においてはぶっ殺されずにそのまま負のスパイラルを続けることができる。この文章は、そんな負のスパイラルを続ける人間に向けて書かれている。
俺は凡人である。つまり、努力をしている人間である。期待値の低い試行を繰り返している人間である。
というわけで基本的には努力とかせずほかの事柄にリソースを割いた方が明らかにマシなんだけれど、そういう合理的な判断能力はとっくの昔に欠落している。
さて、そのような凡人にとって、基本的に努力というものは期待値が低く、努力なんてことはせず別の行動をした方が絶対いいんだけれど――アンチテーゼを敢えて唱えるならば、「凡人にも最高効率の努力がある」というテーゼがそれに当たる。
凡人――最も努力の費用対効果(コストパフォーマンス)が低い人間にも、その人間にとって費用対効果の高い努力というものが存在する。それは事実である。「努力は矛盾である」という原初的命題(テーゼ)を止揚(アウフヘーベン)するために、このアンチテーゼを用いる。これによってジンテーゼを生じさせる。
「制限された状態から効率の最大化を求める行為は矛盾ではない」。
これがジンテーゼだ。
努力をしなければいけない人間は、能力に制限と限界(リミット)のある人間である。よって、そのような人間の行う努力は基本的に効率が良くなく、あまり価値がない。これまでその事実を俺は言い続けてきた。とは言え、全く制限のない人間というものが存在しているかと言えば、それは誤りである。例えばチェスの世界における現人類最強の人間はノルウェー出身のマグヌス・カールセンであるが、彼に比べれば、全ての人間は相対的にチェスの能力に制限を受けていると言ってもいい。もっと言えば、チェスコンピューターには流石に敗北を喫するであろうカールセンにしたところで、能力には制限が設けられている。つまり、人間には万民において制限が、限界が、リミットが存在している。
となれば、基本的に我々の取るべき生存戦略は次のことになる。「制限のある上でいかに効率よく振る舞うかを追求する」ということである。ここにおいては、次のテーゼも成り立つ。「制限の多い状況においてある行為が可能ならば、制限の少ない状況においては尚更その行為は可能であるし、制限の多い状態に比べればよりコストパフォーマンスも高くなる」というテーゼである。これは、ドラゴンボールにおける悟空の重力トレーニングを想像してもらいたい。重力が高い状態である程度のパフォーマンスが発揮できるならば、適正な重力下においては更に多くのパフォーマンスが発揮できるであろうということだ。
そう、この場合の「重力」という比喩は、我々における一種の制限、つまり「才能の無さ」と対応している。我々は、悟空が重力において制限を受けるように、常に「才能の無さ」という重力に晒されている。そこにおいて我々は、常に脳から「やめた方が良いぜ」という圧力、その行動に対する一種の重力を受け続けているのである。これは、寧ろ努力する人間に限らず、ほぼ全ての人間が常に晒されている恒常圧でさえあると言えるかもしれない。
そう、人間は、基本的に、何らかの重力に晒されている。だからこそ、その強い圧力下において、強い重力下において行動することに慣れなければならないのである。そう、つまり、我々は努力をするべきなのだ。そうすることによって、重力の低い事柄、例えば自身における「向いている」事柄において、更にパフォーマンスを発揮できる可能性が高まるのである。
ここから得られる結論としては、必ずしもある努力は、その努力している対象(例えばスポーツとかチェスとかその他の競技とか)そのものに対する努力ではないということだ。それは、重力それ自体に対して慣れるという努力なのである。重力をある程度克服するという努力なのである。そう、努力の対象を、自身の受けている恒常圧であるところの重力へと転換させること、そのことによって我々は初めて努力に意味を見出すことができるのである。あるいは、重力そのものを、つまりは才能のなさそのものを克服することによって、本来才能のない向いていない出来事に対しても、これまで以上のパフォーマンス発揮することも、決して夢ではないのである。
テキストとしては以上なのだが、些か抽象的な記述になってしまったので、具体的なアドバイスを一つだけ書いて終わりにしたい。
人は脳によって恒常圧、重力を受けている。なので上手く受け流して重力を克服するしか、我々才なき者には道はない。
誰もが言っていることだが、難しいトレーニングをすることは脳の負担を増大させる。脳からの重力を増大させる。なので、簡単なことからしなければならない。
例えば、「あいうえお」と記述することは誰にだってできる。文章の練習をしたいのであれば、毎日必ず「あいうえお」と書くことだ。そういうことから始めよう。
毎日あいうえお、と書いていると、殆どの人間は次のように思う。「『あいうえお』簡単すぎるわ」と。「何かもっと難しそうなことできるわ」と。ここにおいて、脳の恒常圧はやや薄れることになる。
そうなったならば、相対的に難しいけれど比較的簡単なことをすればよい。例えば、「あいうえお」だけでなく、「かきくけこ」から後を書くとか。あるいは、俺が実際に行ったトレーニングは、まずここに書いてある通り五十音を書き写すといったものであった。その後、脳の恒常圧がやや薄れたのを確認して、次のステップに移ったのだけれど、それは、昔暗記したとある小説のページをひたすら書き写すというものであった。自分の好きな小説のページを、同じページを書き写すのである。とにかく、物事は簡単なことから始めるのが大切だ。誰にでもできることから始めるのが、一番脳の恒常圧、重力を騙すにはうってつけなのである。
そうすることでしか我々は重力を騙せない。後は、毎日最低限栄養のある飯を食べて、ちゃんと寝て、人と会話をしよう。そんくらいである。
才なき人々は、脳を騙して、重力を克服しよう。
すると矛盾は消える。
開口一番、医者は僕に病名を告知した。予想通りの病名。驚きはもちろん、悲しみさえわかなかった。むしろ若干自分のことが誇らしくすらあった。ここ数週間医学論文を読み込みたどり着いた結論と一致していたからだ。診断の意味するところは一つだった。僕は、もうすぐ死ぬ。緩やかに、けれども確実に。一つ一つ、できて当たり前のことができなくなりながら他人よりもずいぶん早いペースで死という端点へと近づいていく。「自発呼吸」というピースを最後に残して、パズルからはピースが外れていく。それを防ぐ手立て――治療法――は存在していなかった。
病院から彼女と一緒に暮らすマンションへと向かう帰路で、僕はこれまでの自分の人生を、積み重ねてきた努力を思い返した。教授に詰められながらゼミで論文紹介をしたっけ。巨大なコードベースからなるプログラムの不可解なバグの原因を何週間もかけて追究したっけ。診断が意味していたのは、これまでの自分の努力の収束先だった。大学院で身に着けた英語論文をサーベイするスキル、もはや複雑系の様相を呈する巨大なソフトウェアの不具合をデバッグするなかで向上した問題解決能力、それらのおかげで英語の医学論文を読み解くことができたし、近頃の体の不調の原因を特定するに至ったのだと思う。僕がこれまで努力してこれらのスキルを獲得したのは、自分の死期と死に様を人よりも早く知るためだったのか?僕は自嘲した。自分がこれまで生きてきたのはうまく死ぬためだったのかと思うと妙に可笑しかった。
連続な時間軸上で物事は連続的に変化する。そのどこに境界線を引くかは恣意的にしか決められない。しかしそのことは境界線という概念そのものを否定するものではない。何手目からという合意が必ずしもとれなくともチェスの対局には常にエンドゲームがあるように、人生には常に晩年がある。医師が診断を下した瞬間に晩年が始まったと僕は解釈した。そして僕にはまだ、晩年の概形を定めるだけの力は残されていた。やり遂げなければならないことがあった。晩節を汚さないために。手遅れになる前に。彼女と、別れる必要があった。
「なんのつもりー?」彼女は無邪気に笑った。本気だとは微塵も思っていないかのような口ぶりだ。僕が信じていたように、なにがあっても僕たちの愛は揺るぎない、そう彼女も確信しているようだった。「ねえ、それ冗談だとしても面白くないかも」彼女が眉間にしわを寄せて言った。彼女の目を見ることが出来なかった。「ホントに理解できないんだけど……どうして?」妥当な疑問だった。しかし僕は返答に窮した。本当のことなんか誰が言えようか?僕の人生でこれから待ち受けていることを告げても、彼女はそれを受け入れ、最期まで寄り添うことを決断してくれるであろうことは明らかだった。僕たちのあいだに存在するものは極めて純粋な形の愛だと断言できた。だからこそ、愛する彼女にそんなことをさせるわけにはいかなかった。君が男女平等主義者なのは知ってる。でも最後に一度だけパターナリスティックに振る舞うことを許してほしい。残念ながら僕には君と一緒に思い描いた未来を歩む能力は、君を幸福にする能力は与えられていなかった。でも君が不幸になるのを防ぐことはできるんだ。僕の世話をする以外の未来が君にはあって、君はそれを選ぶべきなんだ。言うべき言葉は明らかだった。彼女の目を見据えて言った。「実は、他に好きな人ができたんだ」それを聞くなり彼女は目を見開き息を飲んだ。
それから三年の年月が経過した。秋の柔らかな日差しが窓から差し込んでいた。窓際でいつものように目の動きをキーボード入力に変換するソフトを使ってWebブラウジングをしていたところ、あの日別れを告げた彼女の SNS 投稿が目に留まった。ウェディングドレスを着た彼女がとびきりの笑顔で写っていた。様々な種類の感情が同時に生起した。混沌のなかで最初に言語化できたのは「これでよかったんだ」という思いだった。祝福する気持ちを表現しようとしたが笑顔がうまく作れない。涙が頬を伝う感覚があった。しかしそれを確かめるすべを僕はとうに失っている。ちょうど暖かな日差しが運んできたまどろみに身を任せて僕は眠りに落ちた。
なかなか思いつかないことも多けどたまに本当に、核心というかコアを芯を寸分の狂いなく叩き切った感触を感じることがある。
このお題に対して、これ以上の回答はないだろうといったボケを出せると、爽快感があります。
自分の知能がいいと言うわけでも無い、将棋とかチェスとかオセロみたいに閉じた系の中の計算力の戦いじゃない、完全にぶっ飛んだ次元を超越した思考が必要になる。思考というよりは直感かもしれない。
大喜利の答えは考えるって方法もあるけど多くの場合、直感的に降りてくる。知能と知能のぶつかり合い、脳みその計算能力で戦うゲームって思われてるかもしれないけど、実質はカードゲームに似てて、
上手い人はそれなりにあるなるネタとか、いろんなものに組み合わせることで面白くなる固有名詞とかをストックしてて、その組み合わせで戦うみたいな戦略もあるにはあるけど、知識だけではどうしもて超えられない、発想が降りてくる、そういった引きの強さみたいなところが必要で、そこらへんがカードゲームとかUNOとかポーカーや麻雀に似ている。
あとネット大喜利のときは投票する人の心も関係していて、誰が見に来ているかで成績が変わります。
同じボケも今日出すのと一年前に出すのと一年後に出すのとで、全然評価が変わるし、何なら午前午後でも評価が変わる。
ラッキーパンチがあるので、初心者がホールインワンすることもあるし、かといってベテランがそう簡単に負けるかというとそういうこともなく、じっくり手堅いおもしろボケを繰り出したりする。
なので、一般の人が大喜利のことをどう思ってるのかよくわかんねーけど、カードゲームとか麻雀とか好きな人は楽しめるよ。
何が引けるのかは自分の脳みそ次第だけど、これ面白いのか?と思いながら投稿しても、謎に高得点入ったりするし、面白いってなんだろうね。