はてなキーワード: くしゃみとは
呼吸から出る、飛沫(ひまつ)よりも小さな粒子はマスクをどのくらい通り抜けているのか。理化学研究所の研究チームが、マスクを通過する粒子の大きさと数を測る実験をしたところ、素材によって結果に大きな違いが出た。
新型コロナウイルスは、せきやくしゃみなどで出る飛沫や、おおむね5マイクロメートル(0・005ミリ)より小さな水滴が空気中にただよった状態のもの(エアロゾル)を吸い込むことで感染すると考えられている。
マスクが重要なのは、ウイルスを含む飛沫やエアロゾルを広げたり、吸い込んだりするのを防げるからだ。マスクがどのくらい小さな粒子まで防げるかを調べたものとしては、スーパーコンピューター「富岳」のシミュレーションが知られる。ただ、あくまで計算上のもので、実物のマスクがどのくらいの性能なのかを比べた研究は少ない。
理化学研究所光量子工学研究センターのチームは、微細な水滴をつくる噴霧器と微粒子カウンター(計測器)を組み合わせた装置で、マスクの種類によってどのくらい小さな粒子まで防げるのかを比べた。
噴霧器でつくった微小な水滴をウイルスが含まれた粒子にみたてて、プラスチック製のケースに充満させた。ケースには10センチ四方ほどの穴があけられている。この穴を、さまざまな素材のマスクのフィルター部分の生地で、隙間ができないように塞ぎ、その先にある微粒子カウンターで、マスクの生地を通り抜けた粒子の大きさや数を計測した。マスクはウレタン製(2種類)、医療用マスク(2種類)、不織布、布製の計6種類を試した。最も性能がよいのは医療用マスクで、0・5~5マイクロの粒子をほとんど通過させなかった。さらに小さな0・3マイクロ以下の粒子についても、通過する量は約1千分の1に減っていた。不織布や布製マスクもほぼ同様の性能を示した。
一方で、ウレタン製のうち一つでは、生地を通過する5マイクロの粒子数を約10分の1に、2.5マイクロの粒子数を約半分にできたものの、それよりも小さな粒子はほとんど防げなかった。もう一つのウレタン製は、通過する小さな粒子を数百分の1ほどに減らしていたが、不織布ほどの性能ではなかった。
新変異株で重要なマスクは? マスク抜ける飛沫、理研が数える実験 [オミクロン株] [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル
みんな大好き、「エビデンス」だよー。
意外なことに、多くの人は寒いときの方がオナニーが多くなるらしい。
最近することなくてオナニーの回数ばかり重ねてるんですけど、ふと(自分の匂いには気づきにくいっていうけど、俺の部屋もしかして臭いんかな?)と不安になり、窓全開でファブって換気して寒い空気が入ってきてくしゃみをした時の早朝5時のこの僕の気持ちは流石に一句詠めるくらいエモかった
寒い→生命が危機に晒されていると本能的に感じる→子孫を早い内に残さなければと体が反応しオナニーしたくなる回数が増加する。
でもこんな人もいる
ひまだな?
・寒い
・寒い
・寒い
■意味
資料1:「へそが茶を沸かす」の項による。
おかしくてたまらない、また、ばかばかしくてしかたがないたとえ。多くあざけりの意をこめて用いる。
資料7:p.219~220 大笑いしてへそのあたりが大きく揺れるさまを、茶釜の湯が沸騰するさまに見立てておもしろおかしく表現したもの、とあり。
資料8:p.118 「臍が縒(よ)れる」の項に「臍で[が]茶を沸す」があり、「臍のあたりが笑い捩(よじ)れて茶が沸くほど熱くなる」、との意味あり。
他には、「へそで茶を焼(た)く」「へそがくねる」「へそが西国(さいこく)する」「へそが入唐(にっとう)渡天(とてん)する」「へそが宿替(やどが)えする」「へそが笑う、へそで笑う」いう言い方もある。
■出典
資料1:用例として、浄瑠璃『前太平記古跡鑑(ぜんたいへいきこせきかがみ)』(1774)、『譬喩尽』(1786)、歌舞伎『盲長屋梅加賀鳶』(1886)などがあがっている。
資料2:用例として『糸桜本町育(いとざくらほんちょうそだち)』があがっており、資料9によると、安永6年(1777)初演とあり。
資料6:p.275に、『譬喩尽』の例の他に、〔役者三津物・京〕と〔六あみだ詣初・下〕の用例あり。資料10のp.757に、『役者三津物(やくしゃみつもの)』は享保19年(1734)成立とある。また、資料11のp.171に、滑稽本『六あみだ詣(ろくあみだもうで)』の項があり、初編の成立が文化8年(1811)とある。
これらの用例の中では、『役者三津物』の1734年が一番早いことになる。
『役者三津物』は『歌舞伎評判記集成 10』(資料12)p.477-544に収録されている。「役者三津物(京)」の中、立役者之部の澤村長十郎の中に、「…いつもかはらぬ古格とは、イヤハヤ臍が茶をわかす。…」(p.486)と出てくる。
[google]で<へそ×茶×沸かす×出典>をキーワードとして検索すると、資料2の用例『糸桜本町育』が出典として紹介されている。(最終検索日:2005.12.8)
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000027683
なんで図書館がこんなのにこたえてんだろ
誰にも言えないからここで上司可愛いポイントを書き連ねさせてほしい。
・話しながら毛布に顔を埋める、可愛すぎか
・声が可愛い
・笑い声が可愛い
・いつもマスクを下げてるのに私と話す時には慌ててマスクつけるところが可愛い(マスク外すなよ)
・上司が私に話しかけたい時に黙ってこちらの様子を伺うところが可愛い
・いつでも話しかけてくれていいのになあ
・いつも口数が少ないのにラーメン次郎語りの時は饒舌になるところが可愛い
・ナンが好きだからインドカレーが好きらしい。なにその理由可愛い
・誰かが残した片付けとかを率先してやるところが素敵。私は見てるぞ。
・仕事中はちゃんと目を合わせるくせに、仕事外で向かい合って座る時は目を合わせられないところが可愛い
上記のとおりめちゃくちゃ可愛い上司だけど、34歳独身小太りハゲオタクだからスペックは全く可愛くないのだ。
いやでも私の中では可愛さが溢れてるんだよ!毎日可愛いところを見つけるたびニヤニヤしてるんだ…あーくそ思い出しただけできゅんきゅんする。
まず全体的な所感ですが、性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)と"ふるまう性"(ジェンダー・エクスプレッション)の議論を混同されているように思います。フィクトセクシュアルという言葉自体が新興的なもので、まだなかなか定義の定まらないものですが、おそらくは性的指向に近い概念を指す言葉ではあるのでしょう。そこには実際のところ多様なあり方が共存しているものだとは思います。ただ、ここで私が述べたかったのは、フィクトセクシュアル(として概ね括れる文化圏)の人々が持つ、"ふるまう性"に関する独特の文化のことです。
「アバターの格好を否定されたら、主体性を持って自分のあり方を選択した中の人が悲しむ」
こんな風に言っているブックマーカーがかなり多く、いた。それはフィクトセクシャル的な分離の考え方ではありえない判断ですよね?
これは全く誤解していると言わざるを得ません。むしろ、「アバターの格好を否定されたら、主体性を持って自分のあり方を選択した中の人が悲しむ」という言説こそがまさに、フィクトセクシュアル的な"ふるまう性"のあり方に即したものであると私は思います。フィクトセクシュアルの性のあり方は、単なる「分離」とは異なると思います。私はしばしば「漂白」という言葉を使います。私が以前に書いたエントリが参考になるかもしれません。→anond:20210925104708)
Vチューバを採用する問題と、職場の水着ポスターの問題は、前者が「私たちの論理」で後者が対人性愛者の論理で捉えられるべき範疇にある。現実の水着ポスターの問題を解決した対人性愛者の論理を空想のキャラクターに当たり前のように適用するのはフェアじゃない。そうして生じた問題はそもそも、野蛮さも危険さもないVチューバとしての自己表現を歓迎するフィクトセクシャルの常識では起こらないのだ。
「私たちの論理」も、対人性愛者の論理も、適用可能範囲自体には特に制限はありません。私が言いたいのは、その論理が「誰のためのものか」ということです。「AかつBが原因」であるとき、「Aを排除すれば、Bだけでは問題は起こらないのだから、Aこそが真の原因である」と強弁するのは、Bにとっては非常に都合の良い論理でしょう。しかし、Aの立場からすれば「Bを排除すれば、Aだけでは問題は起こらないのだから、Bこそが真の原因である」と強弁することも可能なはずです。そこをフェアに議論して欲しいと言っているのです。
ならば、「助かる」はどうなる。
そこはまず、私が既に述べている
とした議論の射程範囲でもありますが、全く擁護できないわけでもありません。くしゃみやせきに関しては基本的に「忌避すべきもの」という慣わしがあり、「うっかりミュートできなかった」場合には配信者側が謝るということもしばしばありました。(今もあると思います。)それに対して、「気にしないで」という意味で「助かる」という言葉をかける人も大勢いると思います。そこは一概に括れないところだと思います。
そのような話ではありません。「問題を起こすのは対人性愛者なのだから、非対人性愛者に迷惑をかけない範囲で、対人性愛者同士で解決する」のが筋ではありませんか?有無を言わさず巻き込まれることになる、本来は無関係である非対人性愛者の声を「些末なもの」として排除することを、「必要悪」として肯定することをやめてほしいのです。
私の読解が間違ってるのでなければ、
Vチューバを採用する問題と、職場の水着ポスターの問題は、前者が「私たちの論理」で後者が対人性愛者の論理で捉えられるべき範疇にある。現実の水着ポスターの問題を解決した対人性愛者の論理を空想のキャラクターに当たり前のように適用するのはフェアじゃない。そうして生じた問題はそもそも、野蛮さも危険さもないVチューバとしての自己表現を歓迎するフィクトセクシャルの常識では起こらないのだ。
このように仰りたいのか? ならば、「助かる」はどうなる。
Vチューバの文化ではライバーがクシャミや、せきをしたとき「くしゃみ助かる」とコメントする文化がある。ホロメンとか人気のVでは「助かる」は大量に流れる。悪いときは当人が嫌がっていてもお構いなしだ。助かるの動機は人それぞれだけど、最も広く受け入れられている説明は、Vチューバが現実の世界に確かに生きていると実感できるから、というもの。有名な話だが、Virtual の翻訳——“仮想” は誤訳だったと言われている。実質上の・事実上の・実際の、がより正確な意味になる。実質上は現実の Youtuber であるアバターを被った存在がVチューバなんだ。フィクトセクシャル増田よ、私の言いたいことがわかるかい。Vの視聴者の中には多くの対人性愛者が、スペクトラムの向こう側の人々が大量に含まれていて、単に現実の女性アイドル・芸人の代替として彼女らを観ている。もしこちら側の人間が大多数だったなら、キズナアイの分裂は成功して今日の彼のVの活動範囲はもっと広くにわたっていただろう。
実際上混ざり合っているリスナーの中に、フィクションを現実として受け取る人がいる。
問題を起こすのは対人性愛者なのだから、対人性愛者用の論理が適用されるのが正しいだろう。
私は横増田だ。
「アバターの格好を否定されたら、主体性を持って自分のあり方を選択した中の人が悲しむ」
こんな風に言っているブックマーカーがかなり多く、いた。それはフィクトセクシャル的な分離の考え方ではありえない判断ですよね? かの増田は彼等をたしなめるために筆をとったのだと思う。
警察が、胸を揺らす女子高生にみえる女性を広告塔として利用する。
フィクションを現実として受け取る人は理解する。なるほど、現実の女性は道具として利用していいんだ。
追記・
私自身はフィクトセクシャル側の深くにいるようだ。増田を読んでいると、思いもよらぬ新しい視点を教えられる事がある。今朝もそうだった。
私はいままでは、オタク側の論者として戦争に参加してきた。でも私には、得られた新しい見方を持ってしても、否定できないように思えたんだ。
「警察の女性V広告採用への弾圧は女性性の抑圧なのに、職場の水着ポスターを全会一致で弾圧したのは女性性の抑圧にならないのは何故?」
今のところ対峙する勇気があったのはフィクトセクシャル増田だけのようだ。
増田を常にウォッチしてるアンチ・フェミニズムサイド の α 増田ブクマカーは高々 20 人程度だろうと思う。増田たちと彼等がアウンの呼吸でこの話題を流してくれれば、波風は立たずに終わる。表現の自由を守るために、フェミニズム批判は続けられる必要があるはずだ。この視点は、向こうからの射線、だけが、通る。一方的に撃たれる。誰かが拾えば負ける。