はてなキーワード: おとぎ話とは
NORADが毎年行っているサンタクロース追跡プログラムは、偵察衛星やレーダーによってクリスマスのサンタクロースの動きを追って、その結果を世界に発表しています。偵察衛星やレーダーといった、科学技術によってサンタクロースの存在を確認するこういった行為は、伝承やおとぎ話として存在していたサンタクロースがあたかも科学的に実在するかのように装う欺瞞であると言うこともできます。
(PRを兼ねた)ジョークやネタの類なので、「実在するかのように装う欺瞞であると主張するのは馬鹿げています」
「良い子にしないとサンタさんがこないよ。」などという言葉は、クリスマス前の子供のいる家庭のあちこで発せられているのではないかと思いますが、これはサンタクロースという外部の権威を利用して親の子供に対する支配力を増強する行為です。
プレゼントを与えるというのは、飴と鞭でいえば飴にあたるのですが、プレゼントを与えないことや与えないと脅すことによって鞭としての効果も発揮します。飴を与えないことによる鞭は、直接的な鞭よりも効果を与える場合もありますが、効果の高さというのは与える痛みの強さでもあるわけです。
程度にもよりますが、親は子を支配するものです。鞭を使わず子をしつけられるかどうかはその家庭次第ですが、一般的には鞭は一定程度必要とされていると理解しています。一切の鞭を与えずに子供を育てられる有能な親だけが人の親となって良い、という選民国家にでもしようというのでしょうかね。馬鹿げた主張です。
科学を装う部分をできるだけなくし、親による支配も抑えたとしても、問題は残ります。それはサンタクロースが良い子にプレゼントを与えるという物語そのものによるものです。
親がいない、もしくはいても経済的に貧しい家庭の子供は、望むプレゼントを手に入れる可能性は低いのではないかと思います。プレゼントがもらえない、望んだ物とは違うプレゼントしか与えられない子供に対しては、君は良い子ではないというメッセージも伝えられることになります。これは、「良い子にはサンタクロースのプレゼントがもらえる」ということからそうなるのです。
その通り!誰からもプレゼントが貰えない子供は、良い子ではなかったのだ!
などということはないが、世の中は理不尽と不平等で埋め尽くされていて、「良い子」でありさえすれば(心の優しい大人から)プレゼントがもらえる、というのはまだ現実の理不尽を緩和する作用の方が大きいかもしれない。
全おとぎ話にしたら有名どころだけでも莫大な数で収拾がつかんなと思って
姫様以外なら、藤田和日郎がたびたびマッチ売りの少女を嫌いだと言ってたから、あの話は何か男心にひっかかるんだろうかと気になるな
有名どころをざっと並べると
フェミに嫌われていると言う事は男にとっては都合のいい女の筈
しかし男に惚れ相手に気がつかれないまま泡になって死んで行く人魚姫は、まどマギのさやかがモチーフにしたキャラだ、そしてさやかは男に圧倒的不人気
それに下半身が魚or言葉が話せないのではエロ妄想しにくかろう、一方的に惚れられ勝手に命をかけられ口もきけないのに近づかれ、思い人とくっつかない場合は男を殺さないと死んでしまうのは男には重すぎるのかもしれん、人魚姫は多分不人気属性だろう
眠り姫
考えてみたら主に眠っていてキャラがあまり立ってない、却下かな
狩人に森に連れて行かれたり、勝手に小人の食事を食ってベッドで眠った後に7人の小人と暮らしたり、死んでる姿に惚れた王子にキスされたり、いつでもエロシチュに持ち込めそうな隙だらけだ
苛められ耐える姿はそそるかも?
何したか知らんけど月の世界の罪人が罰として地上に落とされ、自分に惚れた男に無理難題を吹っ掛け命がけで貢がせ、結局一番身分の高い天皇とラブるが捨てて故郷に帰る。
小悪魔系行動と相反する日本美人な外見&清純派な性格はギャップ萌えあるか?
親指姫
不細工に気に入られたりエロシチュにも困らない、南君の恋人みたいなエロ妄想もできそうだし、普通に受けそうだ
関係ないけど知名度のわりにはディズニープリンセスに入ってないのが不思議。
と言う事で親指姫かなと結論が出たけど、実際のところどうなのだろう。
俺なんかは、子どもがいてくれるならなんでもやるし、我慢するしやりくりもするし、内職もするし、奨学金はとらすし、不自由はかけてもその分愛情はかけよう、と思える。
でもま、聞きたいことにあえて答えるなら、子どもひとりなら夫婦で400万くらいで充分問題ないと思う。
しかし、250万でも子どもがいてくれるなら幸せだと思えるし、苦労はしたけど親にはよくしてもらえた、って言ってもらえるように努力はする。
ケンカはそうとうするかもしれんがw
実際、未婚の母子家庭で、そのくらいで頑張って育てたお母さんているよね。
そうやって育てられた娘が、私なんて生まれてこれただけでもラッキーなんだから! って言ってたなあ。
そんなん親のエゴだろwww とかそんなの聞きたくないから勘弁な。
実際子どもつくる予定俺にはまだないし。
でもま、一応任期のない職についてるなら、400万なら作るかな、俺なら。
しかしさ、元増田が何を考えて、何のお金が足りないと言ってるかわからないけど、例えばこんなの?
・予備校、私立学校の授業料、そういう教育に何不自由なく育ててあげたい、奨学金とらすとか確率の低い話は期待しない
・あらゆるよいものに触れる機会なく育つのは不幸、習い事とか充分させてあげたい
・家族旅行は毎年絶対したい、子どもがいるなら嫁には家にいてもらいたい、車はこれクラス以上… 等のなんかこだわりがある
・自分の不慮の死後は…… 的な貯金の心配なら、生保に入ればおっけーだけど、生保高いよね
まあ、そういう価値観は人それぞれだから、正誤はないよね、もちろん。
いろんな人生がある。
お金はなくても公立小中高校から予備校も行かず東大行って、授業料減免と奨学金で卒業するやつもいるよね。
毎日ショーウィンドーのトランペット見てたら、裕福なおっちゃんが買ってくれて世界的な奏者に、っておとぎ話もあるよね。
そういう人たちを、しなくてよい苦労をした、って見ることもできる。
環境は整ってるに越したことはない。
スタートラインに立つことを重視するか、勝つ見込みの薄い勝負はさせない、か。
人それぞれ。
まずは本当に妊娠三カ月なのか、本当にお前の子なのか裏を取れ。
そして最終月経日だとか医者の診断だとかで確定、かつ「自分にも責任はある」「自分の子だ、という気持ちは変わらない」と思うなら、
「罰の子ども」になるよりは、生存を望んだ片親家庭に育つ方がいくらましか知れない。
両親揃ってはいたとしても「お前がいるせいで」「お前のために」と生きてるだけで子どもがギスギスを背負わされるとしたら、誰が罰ゲーム食ってんのかわかりゃしない。
彼女と子どもと三人でってのはまず無理だ。お前にとって、もう一度彼女を信じるというのが不可能だからだ。
まだ「父子家庭で頑張っていたら全部承知で嫁ぎに来てくれるという人が現れた」というおとぎ話級のハッピーエンド期待する方が希望が持てるレベル。
『けいおん!』ぐらいしかアニメを見ないわけだけど、そういう立場からでも分かったことを、少々述べておきたい。批判は覚悟の上。
よくいますやん、「実際に唯みたいな天然いたら、うざいに違いない」とか、「澪の臆病さ、わざとらしすぎ」なんて言っちゃう人。まったくもって、野暮でいらっしゃる。
髪の色なんかもそうだけど、顔の造作で大差がつかない以上、そこ以外でキャラクターづくりする他ないでしょうが。その結果が、ああいうはっきりした性格の描写なわけであって。おとぎ話にリアルを持ち込んだって、仕方ないでしょ。
いいじゃないですか、みんなかわいいんだから。現実に危害加えられるなんてこともないんだし。甘受しようじゃないの、ムギの眉毛を。たくあんを。むぎゅうううううううううううううううう
放射性セシウムに汚染された稲わらを与えた牛が全国に流通していることが明らかになった
一連の報道を見ながら何かずうっと心に釈然としない部分があったのだけど、少しずつ見えてきたのでここにまとめる
釈然としなかったのは「農家はなぜ露天に晒された稲わらを牛に餌として与えたのか」ってことだ
もちろん「ずうっと露天にあった稲わらをなぜ畜産農家に売ったのか」でも構わない
「政府(農水省)が自治体通達を出したけどそれが農家まで伝わらなかった」から
ちょっと待って欲しい
震災発生から4ヶ月、事故数日のあの日(3.15)の様相もテレビや報道でだいぶ明らかになっている
その間、首都圏でも下水処理場の汚泥やゴミ処分場の灰やらに放射性物質が検出され大騒ぎになったり、遠く静岡のお茶でも検出されたりしている。
スーパーなどの店頭で見る限り、首都圏では今でも飲用に水道水を控えて水を買って飲んだり料理に使っている家庭は少なくないのではないか?
“現地”福島だって、親御さんが子供の学校給食を残させたり、校庭に出て遊ばせなかったりしている。
で、牛を大事にしている畜産農家の人はなぜ野外にあった稲わらを与えたのか?
もう少し踏み込むと
一般的な畜産農家ってのは基本的に“自営業”であってリスク管理というのは勤め人よりもしっかりしているのではないかと思っている
ましてや天候に直接左右されることの多いのだから蓋然性に関するリスクは工業サービス業その他産業の比ではない。
つまり“事故”からこの方、皆がリスクを意識している中、農家だけそうしたリスクを農協やら自治体やら国に転化している現象がどうしても理解できないというのが「釈然としないもの」の正体だ。
もしかしたら……
農家の人たちってのは今までずうっとそうしてきたのかな?
リスクは「あの人たち」がなんとかしてくれるって。「私たちはだまって作物を育て牛や豚を育てているだけで難しいことは「あの人たち」に聞いてくれ」って。
そんなことはないと信じたいけど、もしそうだとしたらあの事故の評価としてほぼ固まっている“人災”の様相も一変する。
ここで話は変わるけどテレビや新聞などのメディアってのはわかりやすい構図ってのを重視する
ストーリーを作りやすい「キャラづけ」と言っても良い。たとえば
こうした「キャラづけ」がより多くの人に何かを伝える理解してもらうのが都合が良いってことだ
テレビや新聞の中の人に悪意があるとかそういうことではなく楽チンかそうでないかの問題。
今、僕らはこうしたわかりやすいストーリーに乗っかり過ぎているのではないかと思う
「未曾有の災害」とか「想定外の事態」いうものに不安になって却って安定した物語構造を求めちゃうのも人の性(さが)かもしれないけど。
それで本来見えるものが見えなくなっているのではないか?とこういう次第
話を戻すと、この一連の食肉汚染騒ぎの中で「なぜもっと早く気づけなかったのか」というところで畜産農家の人たちも考えて欲しいし
テレビや新聞の人は彼らを過剰に被害者として扱い過ぎないでほしいということ。これを結論にしておく。
いちおう言っておくと、別に畜産農家を糾弾しているわけではないよ。
ただ、もちろんこんなストーリーをつくることもできる
偽善より善が良いのはわかりきっている。
しない善など善では無いわけで、する善がする偽善より良いのはわかりきっているわけだ。
けれど、この複雑な社会で一意的に善であることはほぼ不可能だから、
善であろうとすれば、それはほとんど信仰などに近い信念的行為でしかあり得ない)
少しでも善いことをしたいと思う人は、
たとえ偽善だとつっこまれたとしても、善をしようと思ったし、それをアナウンスした。
一昔前は自分が善であると信じることができた、というのがすでにおとぎ話のようだけれど、
いずれにせよ、そんないじましい素敵な言葉として偽善は広まった。
じゃあ、それでいいじゃん、と書きながらぼくも思ったけれど、また立ち止まる。
そこには二つ欺瞞が含まれている。
まともな人は大抵一人で寄付とかしている。アナウンスもしない。
なぜか?
善はさっきも言ったけれど、価値観が多様化した現在では、正しさを含まない信念的行為に近い。
あとで十分な時間を過ぎてあれは善だったかもな、くらいのものだ。
(けれど、それこそが人生にとってとても大事でとても必要なことなんじゃないの)
で、偽善が成立するためには、それ偽だよ、って指摘してもらわないといけない。
それって必要なわけっすか?まじで?誰かを助けるために?自分を助けるために?
さみしさを包み隠さずに共有するってのが、本当にまともな大人のすることだと思うなら、それは悲しくないか?
こんな反論が当然予想される。他人に偽善を進めるためにこの言葉が必要なんだと。
見る前に跳べ、ってわけだ。世の中の真理の一つかもしれない。
けれど、やっぱり見てから跳んだほうが、何かとうまくいくんでないの?
あるいは、見る前に跳んだ結果、少女がむざむざと殺されてしまう世界なら、
そんな世界は無くなってしまえば良いというあのハードな思いに、君は反論できるのだろうか?
二つ目、偽善でいいじゃん、って言葉には思考停止が含まれているよね?
それでも少しでも善であろうという努力の価値を放棄しているよね?
世界的にお金持ちのぼくらはその収入の3%くらいを寄付するよりも、
一生懸命考えて、どうしたら、本当に正しいかと考え続けるほうがしんどいってわかってるんじゃないの?
あるいは、寄付もしない悪人、と言われる負担を背負うのはたまったもんじゃない、てのを認められないんじゃないの?
結局、妥協としての偽善でいいじゃん、ってことなんじゃないの?
もうめんどうくせえや、偽善でいいじゃん。君も偽善だしさ、おれたち仲間じゃん、ってさ。
日本には日本国憲法が平和憲法と呼ばれる所以となった憲法9条がある。「平和は素晴らしい」「戦争はいけないことだ」と人々は言うけれど世界で日本以外に平和憲法を持っている国はほとんど無い。
ドラえもんに『A国にB国が攻めてきました。A国の王様が「戦争はやめよう!」と叫んでいるところに雲が流れてきて、王様と国民は雲の上に移り住んで雲の王国を作りました。』というお話があるがドラえもんの世界だからそんな甘っちょろいことを言っても雲の世界に行けるが、現実だったら皆殺しにされていると思う。そんな空想のお話レベルの憲法が現実の国、日本にあるというのはなかなかすごいことではないか。
憲法は国の形を規定する。おとぎの国の憲法を持つ国はおとぎの国に。おとぎの国の民はおとぎ話の世界に近づいていくのではないだろうか。
たとえば日本が誇るアニメ。アニメに登場する女の子を嫁にするのが一般的なのは日本くらいではないだろうか。実在しない女の子が歌を歌い、それがランキングに登場するのも。
今の日本は歴史的に見ても特殊な状態ではないだろうか。戦争を放棄し軍隊を持たず、国民は神に頼らずとも豊かに幸せに暮らしている。この状態がいつまで保つか、あるいは終わりなんて来ないのか分からないが、おとぎの国の住人として行く末を見届けたいと思う。
私が末席を汚す自動車・自動二輪の業界に、巨大な地殻変動が訪れようとしている。
電気自動車だ。
もしこの技術が熟成期を迎えコモディティ化してしまったら、日本の強みは殆んど発揮されず、日本が世界に誇った内燃機関自動車文明は唐突に終焉を迎えるだろう。
戦後65年で今の日本をここまで発展させた中心は、内燃機関自動車とそれに纏わる周辺産業を基幹に据えた重工業だった。
内燃機関自動車というのは、部品点数が多く、現代の技術を持ってしても量産管理が難しい。
そんなジャンルであったからこそ、たまたま良質な責任感とこだわりを持ち合わせていた日本人の得意ジャンルとなった。
そしてその成功に牽引されて、機械や電機などの関連産業も発展した。
珍しい事に、すぐ天狗(或いはキリギリス)になってしまい努力を怠る日本人にしては、内燃機関自動車は長いこと世界のトップ水準を防衛する事が出来た。
これは別物だ。
部品点数が圧倒的に少なく、スケールメリットを発揮すればまだまだどこまでも廉価になる。
そして超えなければならない技術の壁が未だ何枚もある。
かつての日本であれば、優秀な研究者と熱心な研究機関と潤沢な研究資金があったが、今の日本にはその全てが無い。
かつての日本には、高校どころか中学校・小学校しか出ていなくても、創意工夫で様々なモノを作り出した発明家が沢山居たが、今の中卒・高卒はコンプレックスの塊で向上心が無く、社会の奴隷かお荷物でしかない。
かつての日本の産業界指導者は引き際の重要さと業界繁栄のための後継者育成の必要性をよく理解していたが、団塊からこっちは全くその自覚がない。
そして戦後日本の経済発展という成功体験は、日本国民に驕り癖を植えつけ、今もなお経済戦争で敗退を繰り返す中であっても、現実と向き合わない人間の逃げ込み先として持てはやされる、有害極まりないおとぎ話と成り果てた。
ト○タもホ○ダも、内燃機関自動車での成功体験や業界の存続要望に足をひっぱられ、電気自動車には非積極的だ。
そんな日本という国が、果たして今後生き馬の目を抜く戦国時代になるであろう電気自動車業界で世界のトップを走行出来るだろうか?
このままでは、10年後には都内をサムスンやヒュンダイやLGの電気自動車が走り回る悪夢の世界へようこそ!となるかもしれない。
アニメや漫画にある「女の子の物語」の主人公は、大雑把にいって2種類である。
特徴
・皆から愛される人気者。社交的。
・食べる事が好き。空腹になると不愉快になる。
・好き嫌いがはっきりしている。
・判断の基準が「好き・嫌い」 清濁合わせ飲むタイプ。
・感情の起伏は激しいが、後に残らない。
・アイドル顔。
・原色やパステル系の色を好む。
など。
特徴
・控え目。自分の意見より、人の意見を優先する。ゆえに病気やストレスなど、生理的な影響を受けやすい。
・生活感がない。
・自分の嫌いなものははっきりしているが、好きなものは曖昧。たとえば、「何を食べたい?」と聞かれても答えは返ってこないが、「これは食べたくない」は、すぐ答える。
・ ほっそりとしている。
・ファッションセンスがよい。
・清潔か不潔か、自分なりの価値ラインをもち、不潔については、過剰に反応する。
・「あんなことをさせてしまった私が悪い」「こんなことを気にする私が悪い」と、言いがち。
・人の感情の波を和らげる力がある。
など。
こういった女の子が、主人公や、主要登場人物になりやすい。もっとも、中学生向けあたりから、そう単純にはいかなくなるのだが。
社交型と神秘型は、陰と陽である。
話はそれるが、例えば綾波レイ、長門有希など、なぜか神秘型は、「男の子の物語」に、登場することが多い。
神秘型の女の子に引かれやすい男の子のタイプがある。仮に職人型とする。
特徴
・集中している感覚が好き。
・独断と偏見が強い。自分の中にある善悪概念で白黒つけるため、敵味方がはっきりしている。
・完全主義者。過剰なこだわり。
・こだわりが非常に強いが、自分に興味のないものは、まったく興味が持てない。オール・オア・ナッシング。
・面倒見はよい。頼られると嫌いな人でもほっておけない。仕切り屋。
・執着心や持続力が強い。
・睡眠は短くて深い。
・狭い場所を好む。
神秘型というのは、自分の感情を廻りの人物、特に主人公に流されやすい。自分で自分の感情を、よくわかっていない、ともいえる。
「彼女の事を、もっと知りたい」と職人型が思っても、女の子本人も、自分の事を、よくわかっていない。それゆえ職人型の男の子は、神秘型の女の子にハマる。
話を元に戻す。
アニメ「桜蘭高校ホスト部」の話をする。原作漫画の方ではない。アニメの主人公は女子高生の藤岡ハルヒ。他に6人の男の子が登場する。この作品、主人公のハルヒが、何を思い、何を考えているのは、ほとんど描かれない。彼女について考えたりするのは、廻りの6人である。主人公の女子高生、藤岡ハルヒは神秘型である。彼女の内面が描かれたと思われる「不思議の国のアリス」を連想させる回があった。あそこまでしないと、自分の願望がわからない、と捉えると、少し可哀想な気もする。
アニメでは、須王環と鳳鏡夜とハルヒ、常陸院光と常陸院馨とハルヒ、の三角関係を描く事が多かった。それ以外の組み合わせだと、恋愛というよりコメディー色などが強くなっている。
須王環と鳳鏡夜は友人である。
埴之塚光邦と銛之塚崇は君主と臣下である。
最後の2人は、傍観的な立ち位置にいたので省くが、三角関係を描く時、「どちらを選んでいいか、わからない」「どちらを選んでも、おかしくない」という人選にしないと、うまくいかない。このアニメの場合、「友人」と「兄弟」の二つを使って、三角関係を描いた。
三人の関係ではあるが、須王環と鳳鏡夜、常陸院光と常陸院馨、対照的に描かれていた。太陽と月、昼と夜、どちらが正しいとか、間違っている、などではない。藤岡ハルヒと他二人は、恋愛一歩手前の関係ではある。が、友人対女の子、兄弟対女の子、といった関係でもある。おまけにハルヒは、自分の感情を、よくわかっていない。だが、自分はわかっていないが、他人のそれは、わかるのである。
どのような最終回を迎えるのか、見ていて非常に興味があったが、ダイナミックな一回転で終わった。上から見ると、一回りしただけにも見えるが、横から見ると、一段昇ったのである。らせんやうずまきのように。
もっとも、このアニメを、男装した女の子が、男子高校生に囲まれて、学校生活が楽しくなってよかったね、という話で捉えても、何の問題も無い。これはアニメだ、おとぎ話だ。
とはいえ、である。
私はフェミニズムやジェンダーの人ではない。けれど、あまりに男にとって都合のよい女として描かれている。男装をしているため、女の友達がいない。ドラえもんの、しずかちゃん状態である。男装をしていると、特権階級の一員として扱われるが、普段、女の子の格好をしている時は、貧乏人である。こうして文章にしてみると、楽しいものではない。
父親はニューハーフであり、バイセクシャルである。典型的なオカマ口調であり、女性を連想させる。弁護士だった母親とは死別ている。が、回想シーンなどで登場する時の姿は、まるで父親のようである。その母親の後を追うように、娘のハルヒは弁護士を目指している。これが、父親と母親を逆転しただけなのか、別なものなのかは、今は触れない。
想像というより妄想ではあるが、ハルヒの性格を考えると、恋愛よりも、進学、卒業して働くこと、喰いっぱぐれない事を優先しそうな気がする。「お金持ちだから」という理由はあるものの、男の子達の意識に、そういうものがあるのだろうか。私には見えない。彼らに稼ぐ能力が無い、といっているわけではない。「お金はあって当たり前」と思っているように見える、といっているのだ。けれど、「結局女の子は、最後は王子様と結婚するものさ」とのん気に思っている男の子の側と、「それよりも、まずはひとりで食べていけるようにならなきゃ」と思っている女の子の側の、深くて暗い溝が、ぼんやりと見えるのは考えすぎだろうか。
この作品は、「女の子の物語」ではあるが、「女の物語」ではない。女の子は、いつかここを卒業していく。いかねばならぬ。
神秘型を物語に登場させた場合、本人よりも廻りの人物が、彼や彼女について、多く語る。自分が語らない事で、キャラクターとしての内面が描かれる、という使われ方が多いように思う。さらに、神秘型の人物を語ることで、その人物は神秘型の彼/彼女を、どう思っているか、がわかる、という仕組みになっている。神秘型にモノローグは似合わない。させるとするなら、ポエムとして、だろうか。神秘型は、謎にしなければならない。
アメリカ見ろや、移民推進でちゃんと高齢化回避して経済成長を続けていて、人口予測からすると今世紀中くらいは安泰だぞ?
出生率対策はまだ成功例がないが(フランス、スウェーデンあたりの結果が出るには半世紀以上かかるからな)、移民推進については、独仏みたいなぬるい移民政策じゃなくて、アメリカみたいに大々的に継続すれば、高齢化による経済の悪化を防ぐ効果は期待出来る。
まあ、それって「移民に国が乗っ取られる」ことを覚悟しないとできない政策だし、それで「今の日本人が豊かになる」なんて考えるなら、そりゃおとぎ話だけどな。
「今の日本人の子孫の収入はかなり落ちていくが、社会保障負担は移民無しの場合よりましなので、総合的な生活水準はそこそこの低下ですむ」というのが、移民推進をやった場合の将来像だろ。移民抜きでの「日本人の収入低下は移民推進時よりましな落ち方だが、社会保障負担は凄まじいことになり、総合的な生活水準は大幅な低下となる」とどっちがマシかは社会不安とか考えると、うんこカレーだが。
この程度の認識が「夢見てる」というなら、解決策は「未来永劫ない」なんてのは教条的悲観主義だろ。一応現実的なシナリオの一つってことになってる「出生高位死亡高位」なら、半世紀くらい先が高齢化ピークだから、来世紀には現在並はともかく、超高齢化社会からは脱出できるぞ?・・・まあそれには元増田みたいな過激な出生率対策をやらなきゃあかんだろうから、非現実的な空理空論っぽい話かもしらんが、教条的悲観主義よりはましだな。
さて、スクリプト言語は軒並みトロいということが分かったうえで、次のグラフをご覧頂きたい。これは各プログラミング言語でのテンプレートエンジンのベンチマーク結果である。
…(中略)…
これを見ると、Java や C で実装されたテンプレートエンジンが必ずしも最速ではないことが分かる。
…(中略)…
このように、プログラミング言語の速度とアプリケーションの速度は、必ずしも一致しない。一致しないどころか、まるで関係ないと言っても差し支えないぐらいである。もちろんテンプレートエンジンの速度でアプリケーションの速度を測れるわけではないが、「必ずしも一致しない」という結論は変わらない。
…(中略)…
.@tagomoris あんなテンプレートの記事に感心してちゃだめですよ。テンプレートの処理の全体に対する時間の割合が出てないと意味ないのに、ああいう結論を出している時点でその釣りレベルがわかるというものです
んー、「言語の速度 != アプリの速度」という主張を示すにはあれで十分だと思いますけど。データベースやネットワークまで含めて計測したら、それこそ言語の速度に関係ない部分が増えるわけですから、先の主張がもっと強調されるだけです。そういった、明らかに言語に関係のない部分を含めなくても「言語の速度 != アプリの速度」というのがよくわかるという点で、あのベンチマークは十分意味があると思いますが、いかがでしょうか。
パフォーマンスの結果は、その測定対象に対しては事実ですが、別のモノに対しては確かな根拠とは成り得ません。あるひとつの測定結果のみで、ほかも大体そうだろうというような人は、根拠がないので、それを説得した上で認めないならしかとしてもいいんじゃないかな。しょせんそのレベルの人だから
wwwwwwww
「言語の速度 == アプリの速度」という思想に対し、id:kwatchが反証を出している。
id:kwatchの反証は、つまり、アプリケーション中でテンプレートエンジンについてのみ取り出してみた場合に、テンプレートエンジンの速度とアプリケーションの速度が関係ないということを示している。
このような事実にも関わらず「言語の速度 == アプリの速度」という思想を維持するには、テンプレートエンジンの速度差にも関わらず、アプリケーションの他の部分の速度差によって必ず「言語の速度 != アプリの速度」が達成されなければならない。そしてそれは有り得ない。テンプレートエンジンの速度差は主にアーキテクチャや実装によって生じており、アプリケーションの他の部分もそれぞれ異なるアーキテクチャや実装を採用している以上、同様に速度差が発生するからだ。
もちろん他の部分の実装等で差を取り戻し、あるいは逆転するアプリもあるだろうが、差を広げられるアプリもあろう。しかし、それはアプリごとにバラバラなので結局「言語の速度 == アプリの速度」というおとぎ話に立ち戻ることは出来ない。
結局のところ、「言語の速度 != アプリの速度」を証明する場合には、アプリ中で同じ役割を担う一部分どうしを比較して「言語の速度 != アプリの速度」となることを示せば十分だ。
ところがid:higayasuoはテンプレートエンジンの速度差があろうと、アプリの速度が言語の速度で決まることを否定出来ないという。
端的にいって勘違いだ。
これが仮に「言語の速度 == アプリの速度」という妄想を証明するために「言語の速度 == テンプレートエンジンの速度」である例を持ち出したのであれば、パフォーマンスの結果は、その測定対象に対しては事実ですが、別のモノに対しては確かな根拠とは成り得ません
などという不抜けた妄言も成り立つところである。
しかし今回は != だ。
!= と == の区別がついてないとすれば馬鹿だし、!= への反証が == への反証と同じだと考えているのならやはり馬鹿だ。!= を証明するには、ただ1つでも反例を挙げれば良い。 == への反例が一つでも挙がれば != の証明になるのだ。
まさかid:higayasuoは、id:kwatchが「テンプレートエンジンの速度 == アプリの速度」と書いていると読んだのだろうか。
そんなことは本文のどこにも書いていないばかりか、上記の引用の中で明確に否定されている。
最近になって気づいたことがある。僕はフィクションに興味が沸かない性分であるようだ。
映画や小説、漫画、アニメは話題であり、かつ個人的に気になったものを除いて、ほとんど見ない。
読む本のほとんどは新書や実用書だし、好きな番組のほとんどがドキュメンタリー番組で、バラエティ番組も、漫才やコントが中心のものよりも、トーク番組や面白おかしい企画をする番組のほうが好きだ。
小さいころもそうで、おとぎ話に全く興味が無かった。むしろ、図鑑のほうが好きだった。「こんなものがあるのか!」と子供ながら感激したことは今でも覚えている。
そのことを昨日学校で話していたら、「心を動かされるフィクション作品にまだ出会っていないから、お前はフィクションに興味がわかない」との意見があった。
確かにそうだ。単に感受性が乏しいだけなのかもしれないが、僕は今までフィクションの映画や本、ドラマを見て感動したことがないし、いくら名作と呼ばれているフィクション作品でも、心を動かされたことは1度も無い。
これ面白い!と言ったときも、大抵の場合は口先だけで、実際はほとんどが無味乾燥だったし、感想さえも持っていなかった。
もし仮に心を動かされる作品に出会っても、そこから先は何も発展していかないと思う。出会ったところで、それだけが好きな作品になってしまうだけだ。そこから発展していこうと思うことはないだろう。
まぁ、なんか うじうじと自分のことしか言わない時点で
他人との共存や他の人の幸せとか考えて無さそうが丸見えだけど……
それを抜きにしても、
に対してある面では元増田は正しい。
良くできたおとぎ話の中だけの事。
ただし、他人の幸せも感じとれて、他人との共存を望むなら
自分の幸せと他人に迷惑を掛けない生き方はそれなりに両立する。
(※必ずという訳ではないにしてもだ)
あとは、自分の持ってるリソースを何処まで他人の幸せや共存に分けられて
次いで言えば、
「罪」
みたいなのを相手に感じさせるよね。
ってのが、どうよ?
今はまだ具現化できてないにしても、
夢を持ってそれに向かって生きちゃだめなのでしょうか?
本当に、夢を持ってそれに向かって生きるなら
相手に疎まれたり、蔑まされたりは覚悟の上の話だろ。
それができないなら、リソースを全部夢やなんやにつぎ込まないで、
他は人に合わせたり、人との共存に割り裂かなきゃならんのは当たり前だろ?
(自分が、そんなことしなくても生きていけるだけの財産・能力でもあれば別としても)
ましてや、形にすらなっていないただの憧れなんて・・・・。
お前がトラックバックした相手だよ。いくら匿名でもそれくらい気づけ。
いいぜ、お前がトラバしてるオレの書き込みの後半で述べてる「棄権が如何にダメか〓『良心的棄権』論批判」を読んで感想聞かせてくれや。
まず「すべき政治家がいない、政党がない」というなら、立候補すべきだ。自分が一票を委ねるべき政治家が本当にいないと思うなら。それが議会制(代表制)民主主義における原則だ。だから基本的に立候補は広く開かれている。
自分の判断力に自信ないから投票しないといってる奴に立候補すすめるのは論理的におかしいだろ。候補者選ぶのすら自信もってできない奴が直接政策立案に自身もってやれるわけないだろ。あと供託金って知ってるか?
分離独立の住民投票は御伽噺でもなんでもなく現実に存在するし、棄権が多くて独立派がかったとして何の問題がある?その例はどちらかというと棄権が望ましい場合にすら見える。
別に全然勘違いしてないが?
それとも業界団体労働組合宗教団体の支持者はろくに考えてない人ばかりだけど、無党派はマスコミの報道やブームに流されずに考えて投票してる人ばかりだといいたいのか?
業界団体・労働組合・宗教団体の支持者はろくに考えてない馬鹿ばっかりだな。
「無党派」層とやらはどちらかといえばマスコミの報道やブームに『流される馬鹿』ばっかりじゃねーか?
違うのか?
少なくとも地元で選挙戦たたかってる議員の話を生で聞くくらいのことしないで「考えてる」って言えんのか?
それによく考えた上で棄権する人だっているはずだ。
でた。
オレはこれがイチバンだめだと思ってる考え方だ。「良心的棄権」論な。
こういうこと言う奴は、口を揃えて言うよな。「投票すべき政治家がいない/政党がない」「マスコミの情報はあてにならない」「不完全な情報で一票を投じることは踊らされて誰かの利益になるんじゃないか」「だから投票しないことがオレの良心に基づく唯一の選択だ」とな。
アホか。
まず「すべき政治家がいない、政党がない」というなら、立候補すべきだ。自分が一票を委ねるべき政治家が本当にいないと思うなら。それが議会制(代表制)民主主義における原則だ。だから基本的に立候補は広く開かれている。けど、まあそんなのはダダこねてるだけだろう?要は。そんなこと言う奴で、本当にいかなる候補者とも異なる画期的で素晴らしい政策を持ってる奴というのは、外山恒一以外では見たことがないな。まあ彼は立候補するわけで、その辺筋を通しているのは偉いと思う。まあ彼の場合は「選挙」という制度を利用して街宣活動の合法化をはかってるという部分もあるわけだが、その程度の小悪は選挙制度を尊重する彼の善の前ではかすむ。
次に「情報が不完全」云々の言い訳だが、「投票しない」なら無罪だと本気で思ってるから批判してるんだ。「投票しない」じゃなくて「棄権する」だ。それは一つの意志行動だ。それも「選挙を否定する」という意志行動だ。棄権することで「選挙を否定する」という選択と主張をしていることを自覚しろ、と、オレはただそう言ってるだけだ。そこに強く反発するのは、本当のところ自分でも分かっているからなんじゃないのか。自分らのやってることが反社会的な行動だということを。
投票しないこと、『組織票を有利にすることを否定』するのは、別に創価憎しという話じゃない。宗教団体に限らず労組系でもそうだし、そもそも自民についてもそれは問題な点だ。結局の所人員をかけて、選挙カーでやたら名前だけ連呼したり忙しい時間に電話かけまくるといった迷惑なだけの行為を『選挙活動』とかみなしてる馬鹿馬鹿しい風景全てが、とにかくオレは嫌で嫌で仕方ないんだ。考えずに投票する奴は勿論論外にダメだ。だが、考えずに投票しちゃう奴に「投票するな」というのは無理だ(そりゃ選挙妨害だし他人の権利を否定することになるからな)。だからせめて投票出来る奴は考えて投票しろ、と言ってる。一票の価値を相対的に下げるためにも、だ。
「迷惑だから投票しない」じゃない。「投票しないことこそが迷惑」なんだ。
いいか、無人島で考えてみるぞ。
漂着した10人がみんなで「選挙でリーダー決めてまとまって動こうぜ」と決めました。誰も特別すごい人がいない中で、でも誰か代表を決めないと何も決まらないと思ったからです。怪しい二人組が「自分たちは別にやらせて貰いたい」と言いましたが、『固まっていないとみんな助からない、だからまとまっていなくちゃ』という意見が多数を占めて、選挙することになったのです。
ところが一人が言いました「オレ今日熱っぽいし、考えるのメンドくせー、つーか別に誰がリーダーでもいいすわ」。周囲は、まあこういう奴だし仕方ないなと思いつつ9人の投票でリーダーを決めました。
ところが、彼は一人部屋にこもってグチグチ言っていたのです。「○○は暗いし××は顔が悪い、□□はリーダーって器じゃねーよなー」…それを聞いた仲間が言いました。「んじゃお前がリーダーやれって」彼は言います「それは無理」。
そのうち、彼は周りに言い始めます。「オレもオレなりに考えて投票とかしないわけよ。」それに賛同する人が一人、二人、と出始め、あるときの選挙は投票したのが4人になりました。Aに1票Bに1票、そしてたった二人で周囲と交わらなかった二人組の片方が二票を集めてリーダーになりました。彼は「俺たち二人は別でやる」案を主張し始めました。他の人は「なんだそれ」「つーか、こんな選挙意味ねーだろ!」とブチキレました。「だって投票したの4人だけだぜ!こいつら二人が組めばどーしよーもねーだろ。つーか投票しねえお前ら、何考えてんのよ?!」最初に投票をやめた彼を含めて、誰も何も言いません。『誰かなんとかしてくれるだろう』と思っていたから。
…結果、集団はバラバラになり、あっという間に全員遭難してしまいました。
(おしまい)
なあ、この話を読んで、それでも「良心的投票拒否」なんていうおとぎ話が存在しうると思うかい?
というわけで、関係大ありだ。
つまるところ
…というぐらいしか価値はないな。
ただ、こないだのYahoo!知恵袋の「初体験=上司との不倫を夫に軽く言ってみたら超ヒかれた、どころか心病んだみたいだけどどうしましょう?」妻みたいのを見てると、幻想だろうがなんだろうが馬鹿には「絶対処女守れ」って言っといた方がまだマシじゃね?ってことも思ったりする。そういう幻想のお陰で馬鹿は馬鹿なりに可憐で、かつ不幸な人生送るリスクを少しは減らせるわけで、そういう嘘もおとぎ話も込みでこそ人生じゃないかな。「結婚する前に色々男を見て勉強した方が云々…」て言うけどどうせ馬鹿はロクな男つかまえないわけで、正直見合い向けに特化させた方が五百倍くらいマシな気もすんだよ。実際どーよ?