偽善より善が良いのはわかりきっている。
しない善など善では無いわけで、する善がする偽善より良いのはわかりきっているわけだ。
けれど、この複雑な社会で一意的に善であることはほぼ不可能だから、
善であろうとすれば、それはほとんど信仰などに近い信念的行為でしかあり得ない)
少しでも善いことをしたいと思う人は、
たとえ偽善だとつっこまれたとしても、善をしようと思ったし、それをアナウンスした。
一昔前は自分が善であると信じることができた、というのがすでにおとぎ話のようだけれど、
いずれにせよ、そんないじましい素敵な言葉として偽善は広まった。
じゃあ、それでいいじゃん、と書きながらぼくも思ったけれど、また立ち止まる。
そこには二つ欺瞞が含まれている。
まともな人は大抵一人で寄付とかしている。アナウンスもしない。
なぜか?
善はさっきも言ったけれど、価値観が多様化した現在では、正しさを含まない信念的行為に近い。
あとで十分な時間を過ぎてあれは善だったかもな、くらいのものだ。
(けれど、それこそが人生にとってとても大事でとても必要なことなんじゃないの)
で、偽善が成立するためには、それ偽だよ、って指摘してもらわないといけない。
それって必要なわけっすか?まじで?誰かを助けるために?自分を助けるために?
さみしさを包み隠さずに共有するってのが、本当にまともな大人のすることだと思うなら、それは悲しくないか?
こんな反論が当然予想される。他人に偽善を進めるためにこの言葉が必要なんだと。
見る前に跳べ、ってわけだ。世の中の真理の一つかもしれない。
けれど、やっぱり見てから跳んだほうが、何かとうまくいくんでないの?
あるいは、見る前に跳んだ結果、少女がむざむざと殺されてしまう世界なら、
そんな世界は無くなってしまえば良いというあのハードな思いに、君は反論できるのだろうか?
二つ目、偽善でいいじゃん、って言葉には思考停止が含まれているよね?
それでも少しでも善であろうという努力の価値を放棄しているよね?
世界的にお金持ちのぼくらはその収入の3%くらいを寄付するよりも、
一生懸命考えて、どうしたら、本当に正しいかと考え続けるほうがしんどいってわかってるんじゃないの?
あるいは、寄付もしない悪人、と言われる負担を背負うのはたまったもんじゃない、てのを認められないんじゃないの?
結局、妥協としての偽善でいいじゃん、ってことなんじゃないの?
もうめんどうくせえや、偽善でいいじゃん。君も偽善だしさ、おれたち仲間じゃん、ってさ。
くだらねえポエム読む前に募金しろ。 ただの庶民が「一生懸命考えて、どうしたら、本当に正しいかと考え続ける」よりも無造作に募金箱に突っ込む現ナマのほうが有効。
金や手間をかけず、人から見ても自己顕示やら承認願望を満たす理由での行動でない方法を探してるようにしか見えんよな。 最後まで体を張るか、盛大に身銭を切るのが最も分かりやす...
その「偽善」を行った人が、「一生懸命考えて、どうしたら、本当に正しいかと考え続ける」をしていないとでも? 動きつづけ、考え続けることも出来るんだぜ。 なんかキミの言葉こそ...