はてなキーワード: 標準語とは
たとえば英語が国際語になっている(誰が決めたかしらんが皆そう信じている、そしてその事実が国際語としての権限をさらに強化する)
こと一つとっても、明らかに世界は差別に満ち溢れているだろう。
たまたま英語圏に生まれた人が努力もなしに獲得した英語力で以て、
人命に関わる問題だ。
現状明らかに英語圏の人間の生存権は、非英語圏の人間のそれより厚く保障されている。
「人種、民族、文化、宗教、その他いかなる理由でも、差別も許されません。
国際理解を深めるために英語を学びましょう」とか明らかに矛盾しているだろ。
数ある言語の中から英語を学んで英語を使用する人間だけが特別待遇を受けるって時点で差別だろ。
世界中の人々がてんでばらばらな言葉を話し意思疎通ができないことのほうが、
不幸になる人が多いので、不幸になる人を少なくするために、差別を甘受しましょう」
と教えるべきだなのだ。
きっかけは些細なことで、本屋で大阪弁について書かれた本を立ち読みしてたら、大阪出身である著者は若い頃東京の大学に入ったとき東京の言葉が気持ち悪くて全く馴染めなかった、みたいなことが書かれていたこと。「東京の言葉が『標準』で関西弁はじめ地方の言葉は『訛り』」みたいな感覚が当たり前だったから新鮮だったし、興味を惹かれた。
それ以来東京弁という言葉についてなるべく先入観抜きで考えるようになったんだけど、いつの間にか「東京弁ってなんか田舎臭くないか!?」という疑念が膨らんできた。反対に関西弁にはなんだか都会的な雰囲気を感じるようになってきた。
なぜそう感じるのか、その理由について自分なりの仮説を書いてみたい。
関西弁は基本的に、その時代時代の都(平城京とか平安京とか)の言葉が周辺に伝播するかたちで形成されたものだと思われる。当時は大都市というのは首都ぐらいしかない。つまり都市の強い影響の下で形成されてきた唯一の日本語なのではないか。
言葉は常に変化するものだけど、都では代々都市で暮らしている人たちの生活感覚の中から生まれる、都市生活者の感覚にマッチした表現が定着していくし、そうでない表現はすたれていく。たとえば、人口密度の高い都会ではコミュニケーションにトゲがない方が都合がよい。だから言葉のサウンドが柔らかくなる。東日本でいうところの「じゃ」「だ」のような音は関西では子音や濁音が省略されて「や」になっているし、東で「〜っつって(と言って)」「買った」というところを西では「〜ゆうて」「こうた」というように、やはり子音や促音が避けられ、半母音や長母音になる傾向がある。この方が音の響きとして角が取れているし、反対に関東弁や東北弁はゴツゴツしていてがさつな印象を与える。
あと、直截的に表現せず、遠回しに伝えるやり方(「ぶぶ漬け」が実話かどうかはおいといて、ああいう話はその象徴だと思う)が発達するのも同じ理由かも。村上春樹(関西人)が雑誌のインタビューで「関西の人は十言いたいことがあったら五、六ぐらいだけ口にするけど、東京の人はそうじゃないからはじめはびっくりして、なんだここは、とおもった」と言っていた。
で、一旦「東京弁が標準」っていう思い込みがなくなって、「東京弁というのは単なる関東方言のひとつで、言葉それ自体に都市性が含まれてる日本語は関西弁くらいしかない」ぐらいの認識になると、「おめーふざけんじゃねーよ」「これまじすげーじゃん」とかいう東京風の言い回しがやたらダサく田舎臭く聞こえてきて困る。でも東京にしか暮らした事がないから東京弁喋るしかない。
では、世界最大の大都市であった江戸の言葉もなんらかの「都市生活的要素」を含んでるかというと、結果としてそうなったとは思えない。江戸の言葉がそうなったのは、逆説的だけど江戸が世界最大の大都市だったからだと思う。京都が中世の都市なら江戸はまあ近代都市というか、地方から人が流入して人口が爆発的に増えた。つまり、都市生活者が新しい表現を生み出し、その表現が定着して行くよりも遥かに速い勢いで、地方の農村から人が移住して来てめいめいが地元の言葉を持ち込んだので、結果として都市的な性質を獲得する事はなかった。そしてその流れは東京遷都と高度成長でさらに加速された。東北関東甲信越から農家の次男坊三男坊が大挙して上京してきたから。
東京は物質的には巨大都市だけど、言葉の文化でいうと「巨大な農村」なのかなと、そんなことを思うようになった。だから関西人がテレビで無理して東京弁喋ってるの見ると、なんだか妙な気分になる。わざわざそんな田舎臭い言葉、使わなくても。
現地人に間違われることも何回かあり、
北京語で筆談しようとして漢字を書いた紙を見せても英語で返される。
街中に溢れる英語はcentreとか-iseとかイギリス式だった。
ちょっと落胆した。
同じような顔をした東アジア人、同じ漢字の知識を持つ漢字圏の人たちと、
来日アジア人学生とは日本語で話していたから気付かなかったけれども、
日本に照準を当てていない外国人とは、いかに文化的人種的に近い東アジア人であろうとも、
最近東南アジアに行ったときも、やはり現地人との会話には英語を使うしかなかった。
現地の言葉を話そうにも、「サワディー」「カムオン」ぐらいしか分らないんだから。
英語は分るのに、同じような顔をした人達の基本的な挨拶も知らないなんて!
自分を恥じた。
日露戦争の時は日本人と清国人と朝鮮人とベトナム人とは、知識人であれば会話は出来なくても漢文で意思疎通が出来たらしい。
安は日本人看守に処刑前に「為国献身軍人本分」と自書した遺墨を渡した。
今や朝鮮人もベトナム人も平均的な戦後生まれは漢字を理解しない。
もっとも千数百年前は当時の漢文が今の英語の立場にあったのかもしれない。
英語で世界が均質化されるということは、逆に言えば今まで交流の浅かった遠い国との距離が縮まる分、
隣国との距離が相対的に広がるということでもある。
追記:
文脈によってその指す範囲は異なりますが、本稿では、文面から、
「漢字や箸や仏教や儒教を伝統文化として擁する東アジアの国々」から「モンゴロイドを主要構成員とする東アジアの国々」
までを漠然と指している、ということを、感じ取れないでしょうか?
形式的には「中華人民共和国」という国連の基準では一つの国家の中に含まれていても、
ウイグルやカザフやキルギスやウズベクやチベットを「東アジア」に含んでいないことを、感覚的に理解できないでしょうか?
だから、そのほかの文化が滅びていくことが無念だ、というのがこの日記の主題なんですよ。
安重根の辞世の句、これは漢文だから魂が込められているのです。
同じ文句を英語で安が発言したとして、意味は通じるでしょうが、それはもはや魂のない「記号」でしかありません。
(漢文も土着の言葉を蹂躙して君臨してきた事実を差し引いてもです。)
今の韓国人は安の遺墨「為国献身軍人本文」「国家安危労心焦思」を読めません。
安の遺墨に込められた魂は漢字排斥により子孫たちから断絶されました。
私たちは、英語を汎用できる利便性と引き換えに、それぞれ固有の文化が持つ魂を失いつつあります。
英語以外の言葉を学ぶにせよ、世界中の言語全てを「平等に」習得するのは無理ですから、
何にせよ取捨選択はしなければいけませんよね。
それがないのが今の問題なんだわな。
ガチ方言で自然に「~だべさ」とか「~じゃき」とか言ってる場合は全く問題ない。
それはふつーに聞けるし、各地の方言って素敵だと思う。
大学でいろんな地方の言葉とイントネーションに接して、すごく魅力的だと思った。
そういうのとは明らかに違う、
気色悪い自意識と下流臭が匂ってきて聴いた瞬間にゾーッと鳥肌が立つ。
明らかにあんまり程度や学歴がよろしくない人に「だべ」使用者が多い気もするので
http://anond.hatelabo.jp/20110722111751
xsinon
それを言うなら東京人が時たま使う変なイントネーションの関西弁の方が気色悪いんだけど
2011/07/22
「それをいうなら~の方が」じゃなくて
それとこれは全く同じ問題。
阪神大震災が起こったとき、私は高校を卒業する直前だった。これまで、たくさんの災害の話は聞いたことがあったけれど、初めて目の当たりにした大きな破壊をもたらした自然による災害だった。私は東京に住んでいて、そのまま東京の大学に進んだ。
学校に兵庫出身の女の子がいた。新入生だった私たちはみんな自己紹介をし、いろいろな人とちょっとずつ話し、すこしずつなじんでいくという作業をしていた。
ある時、その女の子は本当にいやそうにそういった。新しく知り合った人はみな一様に彼女に地震大丈夫だった?と聞く。
彼女の家は多少の影響は受けたけど大きな被害はなかった。関西方面の大学に進学する予定だったけど、震災の影響で東京の大学に切り替えた。彼女に大きな被害はなかったので、その意味では大丈夫。でも、知っている人たちを何人か亡くした。その中には、過去につきあっていた彼氏もいた。
彼女は大丈夫だったから、そこにいて、学校に通っている。でも、地震の影響で変わってしまったこと、なくしてしまったことがたくさんあった。
新しく知り合った人に大丈夫だった、と聞かれれば、家が少し壊れた話、進学先を変えた話をする。でも、それ以上の話はしない。
私は昔の彼女を知らないけれど、どこか覚めた人だった。関東人には標準語を話す人だった。優しい人だったけど、甘えない人だった。びっくりするような話をさらっとする人だった。そして私よりうんと大人だった。
これから、被災した人たちも新しい生活を始めるのだと思う。新しい街で生活を始めて、新しい知り合いとたくさん話しをすることがあるのだと思う。
そしてたくさん、たくさん「大丈夫だった?」という問いかけをされるのだと思う。聞く人たちは本当に心配して聞くのだ。
悪いことではない。聞くなとも言えない。
怒るっていうか違和感を感じる。
「ひ」「し」が混ざるとか「ざます」っていうのは誰もが認める代表的東京弁だと思うけど、おそらく今の東京の若い人がしゃべってる言葉はそうではないので「自分たちは東京弁ではない」って意識。
元増田の気取ってる東京弁の話者の代表的な例を誰もあげてないし定義が不明確すぎて。方言=伝統的、定義が確立されたものってイメージもあるし。
埼玉とか周辺の地域の人としゃべっても言葉の違いは感じないし、それを東京弁と言っていいのかなぁというか。
横から失礼
個人的に遭遇した「怒る人」まとめ
→「人が多いだけなのに粋がってんじゃねぇぞ」
など
3つにまとめたけど実質1つだった
標準語と共通語の意味は一緒だよ。「共通で使っているにすぎないものを『標準』と呼ぶのは傲慢である」という認識から、「標準語」という言葉は「政治的に正しくない」言葉となったので「共通語」と呼んでる。従って、「○○弁」が「○○一帯で使われている共通語」という意味であり、かつ「東京で使われている話し言葉」を「NHKで日本全国共通で使われている『(日本)共通語』」と区別して呼ぶとすれば、それは「東京弁」とするのが妥当と思う。
…というと、怒るんだよね。東京の人は。
よく分からん。
ちょっとガサツなべらんめい調なしゃべり方ね
「~じゃねー」とか「めんどくせー」とかそういうの東京弁だよ。
って思う。
そういいつつ俺はインチキ関西弁を使う訳だけどな。うつるし、喋りやすいし。
みたいのは感じる。
そういうことで、こっちにいると東京というところはどうにもよろしくないとこに見えて仕方がないのである。たこ焼きもお好み焼きもまずいしな。
それもこれも全てが関西の人間から見ると東京の人間が取り澄ましたように見えるからで、関西ではそういうのは恐らく大変嫌われることだから叩かれるんだろうなあ。まあ遊び半分だけど。
あ、因に俺は東京出身だけど、関西にいる方が肩肘張らなくて済むので快適です。とりわけ大阪が大好き。どちらかというと南の方がいい。
ついでにいうと関西で東京弁というと、それは標準語だけど、東京の一部の地域では東京弁と標準語は峻別されており、俺の地元じゃ転校生が標準語を喋ってたりすると、あいつ格好つけてるよっていったりなんていうことがあった。言うならば、ビートたけしとか、立川談志のような喋り方なのだけど。