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はてなキーワード: アドラーとは

2020-10-15

となりのトトロ時代なら、荷台に人を乗せて走るぐらいは大したことじゃなかったし、

風立ちぬ喫煙シーンが問題になったりしたが、まあ、その当時は上手くやっていたわけだ。

最近だと天気の子が半袖でカブに乗ってるが、これはメーカー公認からいいのか。

飲酒運転に厳しくなったのもいいことだと思うし、最近では皆がとても上品になった。

けれども、そのことによって国が豊かになったかというと、そういうわけでもないようだ。

ルールを守って良い子にしてれば良いことがあるんじゃなかったのか?

なんであんなやつの方が?どうして俺は?ずっと我慢してきたのに?

そうやって鬱積した負のエネルギーが、インターネットを通じて一点に集中する。

対象は、その時たまたま目についたものアドラー式だ。

凝り固まった常識を、まず疑ってみなければ。

土建の兄ちゃんトラックの運ちゃん自分より稼いでるかも知れないだろ?

2020-09-16

anond:20200916182604

では2020年現代においてニーチェのなにが刺さるのか教えてください ><

なんJネタ(深淵を〜)以外で2020年現代においてなにか刺さる要素ある?敬虔クリスチャンでも無いのに?

もちろん、子どもの頃ハマったものに深い思い入れがあるのはわかる

ワイもチョコカステラが好きだしきな粉棒が好きだし長編ドラえもんが好きだしムーミン好きだ

それっぽいものをあげるなら子どもの頃に読んだサルトルアドラーは好きと言えば好きだ

 

古いマンガ(たとえば奥瀬サキとか)だけでなく最近マンガ(ニーチェ先生 など。なお未読)やエンタメ個人創作でも

未だにニーチェ推す人々を見るのですが

いったい、なにがそんなに刺さるの?キャッチーから?あるいは厨二心をくすぐるし学校うから?(太宰治的な)

現代ニーチェが刺さる要素ある?マジレス希望

なんJネタ(深淵を〜)以外で2020年現代においてなにか刺さる要素ある?敬虔クリスチャンでも無いのに?

もちろん、子どもの頃ハマったものに深い思い入れがあるのはわかる

ワイもチョコカステラが好きだしきな粉棒が好きだし長編ドラえもんが好きだしムーミン好きだ

それっぽいものをあげるなら子どもの頃に読んだサルトルアドラーは好きと言えば好きだ

 

古いマンガ(たとえば奥瀬サキとか)だけでなく最近マンガ(ニーチェ先生 など。なお未読)やエンタメ個人創作でも

未だにニーチェ推す人々を見るのですが

いったい、なにがそんなに刺さるの?キャッチーから?あるいは厨二心をくすぐるし学校うから?(太宰治的な)

2020-09-11

(続き)精神的に不健康作品コンテンツについて考えてみた

前回はこち

https://anond.hatelabo.jp/20200904203318

増田の皆さんのコメントには考えさせられた。

ビジネス本を根拠として、娯楽を健全と不健全に分けるのは余計なお世話とか、「人間」と「作者という存在」を同一視するのは不健康とか、コンテンツ精神的に健康/不健康で断ずる行為はよくないなどの意見をいただいた。

特に、「私自身が敵意を持って何かを貶めたい意図を持っているので、記事のもの精神的に不健康である」という意見には唸らされた。

それでは、精神的に不健康作品コンテンツの続きをどうぞ。

今回は個別作品を取り上げる。





ゲーム

 一般販売されているゲームで、自分クリアしたことのあるものに該当はなかった。

 やはり倫理基準があるので、人権侵害をメインに扱ったゲーム審査を通りにくいし、そもそも売れないのだろう。

 それに、私がここに書かなくても、「グロ 残虐 ゲーム」などの単語でググってもらうと、有志がそういうコンテンツを紹介しているページに易々と辿り着くことができる。

 なので、今回はフリーゲームを取り上げたい。フリゲは主に個人制作するものなので、その人の心の健康がありありと現れる。考察にはうってつけだ。

 以下に紹介する。できるだけネタバレはしない。

タオルケットをもう一度(1~3)

 かなしみホッチキス氏の代表作。

 見た目はほんわかしているが、中身はエログロ特にグロ)。見た目はMOTHER2のような暖かい印象を受ける。

 プレイを初めて1時間以内に、このゲームの異常性に気が付くことだろう。気持ちが悪いタイプの異常性ではなくて、続きが気になるタイプの異常性だ。 

 ネーミングセンスが独特であり、作中の随所に現れる。

 どこが精神的に不健康なのかといえば、ストーリーの救いのなさだ。特に2。1と3は、グロ展開を挟みつつも笑えて感動できる物語なのだが、2はとにかく救いようがない。

 特にラストステージ。人によっては恐怖で進めなくなる。ニコニコ動画の実況プレイ動画にも、「怖すぎて〇〇さんの動画に来ましたwww」といったコメントが並んでいる。

 私自身も当時は震えた。深夜1時頃にクリアしたのだが、翌日にあった英語の演習でミスを繰り返したのを覚えている。

 あの時の私は、恐怖を感じていたんだろうか?

 違うと思う。あのラストステージというのは、ぱりぱりうめというキャラクターの抱える苦痛嫉妬絶望や愛や夢が、画面を通じてプレイヤーを殴りつけるとしか言いようのない展開だったのだけど、その感情に心を揺さぶられたのだ。だから涙が止まらなかったのだと今では思う。

・いりす症候群!

 ゲームサークルであるカタテマによるパズルゲーム

 大学生4人(男2女2)が旅行に行く。そのうちの一人が入巣(いりす)京子旅行先で楽しんでいる途中、事件が起こって1人ずつ行方不明になっていく。

 パズルゲームでの得点によって物語分岐する。バッドエンドだと、いりすが友人を したのを示唆するEDになる。高得点を取ると、行方不明は友人たちによる仕込みであったことがわかる。サプライズ誕生日パーティーをしたかっただけなのだ

 プレイを続けていると、ゲームフォルダ内のデータが少しずつ置き換わっていることに気が付く。テキストファイル画像データが現れたり消えたりする。

 最後までプレイすると、いりすのキャラクター性や、旅行について考えていたことや、男側の主人公であるうーじの抱える闇が明らかになっていく。

 いったいどこが精神的に不健康なのかというと、〇〇と見せかけて、実は〇〇でした!みたいな展開の連続であり、特にその裏側に残虐性(しつこいようだがネタバレはしない)が潜んでいる。

 以前の作品である愛と勇気かしわもち」でもそうなのだが、プレイヤーを悪い意味ビビらせることに全力を注いでいる。

 プレイヤーの心臓に冷たい何かが突き刺さって、心臓が凍り付いて、血管が破裂するような恐怖を味わわせることに作者は快感を覚えているのでは?と邪推せざるを得ないほどに、このゲームプレイヤーを驚かせてくれる。

・ドキド文学部!

 数あるフリーゲームの中でも最大級の――精神的に不健康作品だ。

 ゲーム冒頭の説明にあるように、精神疾患の人や未成年絶対プレイしてはいけない。一般の人にもおすすめできない。やっていいのは恐怖を快感に変換できる人だけだ。

 体調がおかしいと思ったら、プレイしている最中でも中止すべきだ。例えば、2周目に入ったあたりで、「ここで止めたら負けだ」とか、「モニカ、てめーは絶対○す」などの感想を抱くかもしれないが、それでも途中でやめるという選択はありだ。

 作者、特に2周目の恐怖演出担当した人間の悪意が突き刺さってくる。どのような理由でも説明できないほどに悪趣味演出だった。

 プレイしている最中に感じたことがある。

「このゲームを作った人たちは、学生時代に苛めや虐待などのひどい目に遭って、社会に恨みを持つようになったんじゃないか? だから、こんな残酷ゲームを作って社会復讐しようとしたんじゃないか?」

 私はそう推測した。

 「違う。このゲームは高い評価じゃないか」という意見もあると思うが、典型的確証バイアスだ。別の言葉で言えば、コミットメント一貫性

 プレイヤーは、恐怖と戦いながら数時間~数日をかけてゲームクリアする。敵だと思っていた存在は、自分のことを(以下略)。ハッピーエンドではなかったけど、恐怖に打ち勝ってこのゲームクリアできた。俺はチキンじゃない!

 終わり良ければ総て良しという言葉がある。悪趣味演出にどれだけイライラしたとして、最後までクリアしてしまった後で、このゲームプレイした時間無駄だったと認めることはできない。

 そんなことをすると自分愚か者だったことになる。だからこそ、個性的ゲームだったね、just monicaだったねと高い評価を与えることで、自分の考え方と行動に一貫性をもたせようとする。それがこのゲームが高く評価される理由ひとつだ。

 今までにないタイプゲームだったのは間違いない。ホラーゲーム好きな人にとっては珠玉一品だったと思う。私も、このドキド文学部!に評価を投じた。★4つだったと記憶している。



小説

 読んでいて苦痛を感じた作品トップ3を紹介する。

悪徳の栄え

 名前だけは聞いたことがあると思う。エログロかと言われればそのとおりだ。

 この作品は、上下巻の約700ページ(しか行間ほとんどない)に渡って以下のような展開が続く。

ジュリエット(とその仲間たち)が乱痴気騒ぎを起こして一般人を強姦したり殺したりする

②騒ぎの最中かその前後パートで、ジュリエット(とその仲間たち)による哲学論議が行われる

ジュリエット(とその仲間たち)が不仲になって仲間を殺す。あるいは新しい仲間を作る

 特に①②の割合が高い。

 エログロ小説世間では見られているが、実は哲学小説だ。作者であるマルキ・ド・サド貴族出身でありながら、変態行為が露わになって逮捕→投獄というパターン小説を書き始めたタイプの人だ。

 この小説が有名になった理由ひとつは、サド自身社会に対して抱いていた恨み(今でいう反社会性障害?)から生じるエログロ描写の反面、その知性や教養から精緻に描かれる人間社会に対する哲学的な理解の鮮やかさが奇妙なほどマッチしていることによる。

 哲学的な描写の例として以下の例を挙げる。主人公であるジュリエットの序盤の師匠であるデルベーヌ夫人の科白だ。この小説キャラクターは喋りの量が半端ないドストエフスキー並みだ。

 ※一部のみを抜き出した。この場面の文字数引用箇所の軽く数倍はある。

「まあ!」とあたしはデルベーヌ夫人に申しました、「それではあなたは、御自分の評判などどうなったってかまわないほど、無頓着でいられるというのですか?」

「そのとおりよ、あなた。本当のことを言うとね、あたしは自分の評判がわるいという確信をもてば、ますます内心で愉快を覚えるの。そして評判がよいと知れば、まあそんなことはないでしょうけれど、きっとがっかりするでしょうね。いいこと、ジュリエット、このことをよく覚えといてちょうだい、評判なんてものは、何の役にも立たない財産なのよ。あたしたちが評判のために、どんな犠牲を払っても、けっして償われはしないのよ。名声を得ようと躍起になっている者も、評判のことなど気にかけない者も、苦労の多い点ではどちらも同じよ。前者はこの貴重な財産が失われはすまいかといつもびくびくしているし、後者自分の無関心をいつも気に病んでいるの。そんなわけで、もしも美徳の道に生えている茨が、悪徳の道に生えている茨と同じほどの量だとしたなら、いったいなぜこの二つの道の選択にあたしたちは頭を悩ますのでしょう、あたしたちは自然のままを、思いつくままを、そのまま素直に信用していればよかりそうなものじゃありませんか? P.16

 今時の心理学の本に載っていそうな感じではある。アドラーの『嫌われる勇気』に通じるものがある。

 悪徳の栄えで論じられている思想ニーチェハイデガーに通じるものがある。この世に存在し続けるものに重きを置いている。

 私にとっては面白い小説ではなかった。万人にお勧めできるものではない。というのも、哲学的な論考はあるものの、残虐な場面や、人間的に醜い描写が多く登場するからだ。

 今のコンテンツでいえば、『ダイナー』が一番近い。ダイナーを哲学的な内容にすると現代版の悪徳の栄えになる。

 私が読むのをやめようと思いかけた場面のひとつを挙げる。ジュリエットが、師匠の一人であるノアルスイユという金持ち気持ちを打ち明けるところだ。

 ※上を含めて、引用箇所を探して打ち込むのに2時間半もかかってしまった…いずれにしても引用が多すぎる。これで最後にする。

「おお、 ジュリエット、おまえはまだ全部を知ってはいいからそう言うが……」

「なら全部すっかり話してください!」

「おまえの父御さんや母御さんのことだがな……」

「どうしたと言うんです?」

「生かしておいてはおれのために都合が悪かった……息の根を止めてしま必要があったのだ。で、二人ともばたばたと死んでしまったのは、おれが彼らを自分の家に招いて、ある飲物を飲ませたからだ……」

 ぞっとあたしの総身に冷たいものが走りました。だがすぐに、自然があたしの心の奥底に刻みつけた、極悪人にふさわしいあの無感動な冷静さで、あたしはノアルスイユを正面からじっと見据えながら、「人非人! 何度でもこの名を繰り返してやりたい」と叫んでおりました、「あなたは見るも怖ろしい男です、でもあたしは、そういうあなたをやっぱり愛しております

「おまえたち一家殺戮者でも?」

「ああ、そんなことあたしに何の関係があるのでしょう? あたしはすべてを感動によって判断します。あなたの兇行の犠牲となったあたしの家族は、あたしに何の感動も生ぜしめてはくれませんでした。けれどあなたがあたしにしてくれたあの犯罪告白は、あたしを熱狂させ、何とお伝えしていいか分らないほどな興奮の中へ、あたしを投げこんでくれました」 P.57~P.58 

 ノアルスイユはジュリエットの父母を殺している。そのせいで、裕福だったジュリエット修道院に送られて貧しい生活を送り、やがては売春宿で働くことになった。

 その原因を作った張本人であるノアルスイユに対してこのような言葉を出してくるところに、この悪徳の栄え醜悪さを感じた。読者をダークサイドに送り込もうとしている。

 物語の中で悪事を働く人間の基本になっている考え方のひとつに、「悪事をする人間自然有益である」というものがある。考え方自体はとんでもないのだが、文学者翻訳を務めている関係でやたらと格調高い文章になっており、それが読者の心に響いてしまう。

 年末年始を使って上下巻を読んだのを覚えている。今では読むべきではなかったと後悔している。

隣の家の少女

 前回の記事ブクマコメントにこういう意見がある。

同意しない。そもそも残酷作品」の多くは「読んで心が痛い」という理由で人気がある。

 いわゆる鬱小説というやつだ。心が痛くなるコンテンツ。とにかく痛い。この本も読むんじゃなかった。アマゾンで高評価がついていたので出来心で買ってしまった。

 この小説のいったいどこが精神的に不健康かといえば、「いたいけな少女をいたぶること」を主眼に置いているからだ。

 アメリカ田舎町に暮らす主人公のデイヴィッド(12)。ある日、隣の家に住んでいるルースのところに、両親を亡くしたという快活な美少女メグ(13才以上)が妹のスーザンと一緒に引っ越してくる。デイヴィッドはメグに心を奪われる。ザリガニ釣りから始まって、次第に仲を深めて、お祭り観覧車に一緒に乗る。花火が綺麗、みたいな描写だったのを覚えている。

 「はい終わり、ここで終わり!めでたしめでたし

 という言葉脳裏をよぎった。まだ未成年だった頃、某動画サイトにアップされていた『true tears』というアニメを見ていた。眞一郎と乃絵が仲睦まじくしている様子を見て、ほかのみんなが一斉にこのコメントを打ち込んでいたのを思い出した。

 この小説は、読者に精神的な苦痛を与えることを目的として、メグに対してありとあらゆることをやってのける。

 メグは何でもされる。肉体的な苦痛から精神的な苦痛まで、何でも揃っている。

 巧妙なのは、このメグというのが優秀設定のキャラクターであることだ。

 運動神経は抜群で頭がよく、そのうえ美少女ときている。いわゆる利発キャラ。例えば、虐待が始まってすぐの段階で地元警察相談に行っている。普通の子どもはこういう行動を取ることはできないだろう。

 実際、一度はルースの家から脱出成功しかけるのだが、障害持ちのスーザンを気に掛けるあまり失敗してしまう。

 ルースやその子ども達から虐待さら苛烈になるが、デイヴィッドはただ観ているだけだ。傍から虐待されるのを眺めるばかりで何もできない。親に相談しようとするも、恐ろしくてできない…

 この小説を読んでいる間に心が相当削られた。品性下劣という感想を抱きながらも、最後まで読まないといけない気分になっていた。悔しいが作者の勝利だ。

 今回の記事を書くにあたり、隣の家の少女について調べたところ、ネットフリックス映画があるらしい。今度見てみることにする。

路地の子

 作者である上原善広の父を主人公に据えたノンフィクション小説。ということになっている。物語というよりは、作者が精神的に不健康な例だ。

 あらすじとしては、牛の解体場で働く上原龍造が、自らの腕だけを頼りに食肉業界経営者として成り上がっていくというもの

 昭和時代の話なので、解放同盟共産党右翼ヤクザが出てくる。彼らと渡り合いながら、少年だった龍造は成長を遂げてゆく。

 問題なのはノンフィクションと謳っておきながら創作であることだ。

 作中では、実際に存在した人物名前や経歴が書き換えられている(ex 作者の父の名前は龍造ではない)のみならず、解放同盟支部の結成年や支部名その他、多くの事実に誤りがある。

 作者と新潮社解放同盟から怒られた。出版である新潮社HP謝罪文を出している。作者である上原氏もnote反省文を書いているが、はっきりいって反省していない。

 路地の子の誤りを指摘することを目的としたネット記事もある。

https://kadookanobuhiko.tumblr.com/post/167512723599/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%96%84%E5%BA%83%E8%B7%AF%E5%9C%B0%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E2%91%A0

上原善広路地の子』を読む

 巻末のところで実父に関連して、自分の来歴や、元嫁や兄について語っているのだが、なんというかもう、ツッコミどころが満載なのだ。本編を読む前にこれを読んでいたら、一生読むことはなかったと思う。

 ※個人情報その他の関係で、ここに詳細を書くことはできない。上のネット記事には詳細がある。

 最後

 逆に精神的に健康作品コンテンツについて考えてみた

 https://anond.hatelabo.jp/20200911212405

2020-09-08

anond:20200908121320

アドラーは単なる哲学姿勢の話で、学術としては科学的根拠ほとんど無いのだけど

動物たちの振る舞いをみるにさほど外れているとは思えない

 

[よくあるやつ] 元増田人間生物であるという視点がないのが非常に気になる

anond:20200730084925

 

趣味(望んでやっている)わけではないと確信に至ったのであれば、

まずは医師相談し、戦争災害犯罪被害にあった人が抱えるPTSDと同様に治療にあたっては?と思う

2020-08-07

サピオセクシャル

BBCシャーロックアイリーンアドラーが、知的セクシー、とか言ってるのを見たときガツときた。

から知的な人が好きだったんだけど、そこにセクシャリティを結びつけたことはなかったから、そこから意識するようになってしまった。

でだ。

気がついたのがもう30も半ばで結婚もして子供もいたわけで。

パートナー最初の頃は知的に見えた。けど実際は本読まない勉強しない知的好奇心なし。会話が楽しくない。

自分性癖に気がつかなかったのと、相手ともきちんと向き合わずだらだらと結婚まで進んでしまった。本当に申し訳ない。

2020-07-27

anond:20200727143044

さよか。とりあえず、

 

 


2019-01-04

承認欲求の否定 anond:20190104155918

 

面倒なのでレスはこれで最後やぞ?飯食う

引用元

https://falchion9.com/entry/2017/08/21/174916/

テスト勉強頑張って、100点とってお母さんに褒められたい!!」

周りの人にどう扱われるかが、モチベーションとなっている場合も多いと思います

しかし、アドラーは「そんなものは不健全である」と承認欲求自体を突っぱねました!!

 

1. 承認欲求をなぜ否定したのか?

先ほど、導入で述べた例を再び使いましょう!

 

さっきのお子さん、

一見100点という目標に向かって頑張っていて何も問題ないように思えます

 

かに勉強を頑張っていって、

その結果、「100点なんてすごいね!」と褒められれば、自分の自信になるでしょう!

 

でも、60点だったときに、

「60点しか取れないなんて、あなたダメね!」

と貶されれば、たちまち自信を失ってしまます

 

の子の何が問題かが分かって頂けたのではないでしょうか?

点数が問題じゃないんです!

 

問題自分が自信を持てるかどうかを親の発言依存していることです。

 

こういう生き方をとることで、

 

自分がどうしたいのか?」という視点

物事を見ることができなくなります

 

言い換えれば、他人人生を歩むという状態になってしまます

自分人生アドラーはこのように承認欲求には上に述べたような危険性が潜んでいることを見抜いていて、

そうならないように、

承認欲求ではない新たな考え方を提唱したのです。

 

2、 課題の分離

では、承認欲求に代わる新たな考え方はいったい何でしょうか?

その第一歩が「課題の分離」です。

 

先のお子さんの例を再び使いましょう!

復習ですが、このお子さんの問題点は、

 

自分価値他人に委ねていたことでした。

ですので、アドラーは、

親の課題子供課題を分離することで、

このお子さんは自分人生を歩めるようになると結論付けました。

 

具体的に、この場合の子供の課題とは

勉強自分なりに一生懸命頑張ること」のみです!

その結果、テストが何点であろうとも、

点数に対して親に何と言われようとも、

それは自分課題ではないと気づくことです。

anond:20200727141937

以前はマインドヴィーガンとか言ってなかったか

自分自身自己肯定するのは無理、絶対他者がいると

その流れでサルトルアドラーがどうこう増田でやった記憶があるぞ

2020-07-09

anond:20200709220042

地獄とは他人のことだ”

サルトルアドラーだけは好きよ

人間はだれしも自分のおかれた状況に条件づけられ、拘束されているが、同時にあくまでも自由存在である。したがって、どんな局面においても人はその状況の限界内で自由に行動を選択しなければならないし、自由選択した以上は自分の行動に責任を負わねばならない。」

2020-05-13

プライベートコミュニケーションにおいて(知的)自信を与える

公的私信

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tl;dr

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前提

  • その場で個々人が「自信を与えられた」「自信を傷つけられた」と感じること自体相手によって尊重されなければならない。「あなたがそう感じるのが誤っているのだ」という考え方は、そこにどのくらいの誤解や無理解があるかに関わらず、表題文脈において無意味である

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「ある男がパートナーの女の(誤った)発言に対して毎回優しく肯定的に応じたのち、間違いを説明する」というカップルの在り方について、「優しく肯定が入る方が女性側の立場として自信が得られる」という考えについて。

基本的にこの構図がお互いの認識になること自体が mansplaining さがあって嫌なのだけど、それは表題文脈の下では脇に置いておいて、そこでの選択肢として、{肯定的/否定的}に応じ間違いの説明を{しない/する} という4通りにおいて、{肯定的, する} というのは確かに望ましい。まず、批判非難の違いが一般理解されにくいのは、批判否定的な口上は例えばその場が学問であるといった「場」があることで信頼が支えられていて初めて機能するので、それ以外の場で批判(正/偽)と非難(善/悪)が混同されることがあるのは、必ずしも混同する側が悪いわけではない(cf.SPEED今井絵理子議員の「批判なき政治発言)。その意味で、プライベートコミュニケーションにおいて、{肯定的/否定的}というのはニュートラルではなく、肯定的の方が心理的効果として望ましいといえる。また、毎回間違いの説明をすることは、毎回間違っているということに気づかされることになり自信を喪失しうるが、指摘しないままにパターナリスティックに傷つきやすにの配慮して放置することは相手反論したり、追加情報提示したりといったことを通して「相手の方が正しかった」という可能性に賭けないということであり、他者としての尊重に欠けるばかりか、相手の成長の機会をも奪うことになる。ただ、陰謀論的だったりオカルト的だったりといった特定バイアスを含む情報ばかり拾ってくることは、一朝一夕改善するものではない。そうならないためには相応の努力知識必要なのであって、場合によっては、ずっと同じ構図を繰り返しその構図がお互いの認識になるということが生じてしまうかもしれない。そのどうしようもないギャップを、他の側面で補うことで相互尊敬を維持できるならば、これは問題として前景化しないかも。でも、その切り分けをせずに、繰り返し続けている誤りについて、口上のオブラートごまかしたとしても、少なくともそれは知的自信の向上までにはつながらない。自信を支える相応の能力実践、もしくは基礎的な肯定感が必要である

ここで、「もしくは」になるのは、「自信」の性質に拠る。(上のような話をしておいてリテラシー低めの引用をするのは気が引けるが、読みやすさを重視して、参考: https://diamond.jp/articles/-/78423?page=4 )自信を得るのに能力や実績が有効ではあるが、能力や実績がなくても自信が得られないわけではない。生来自己肯定感などによってそれは変わる。逆に言えば、そこが低いと、小手先で何をしたところで、自信は低いままにもなる。病的であれば、薬によって脳内神経伝達物質バランス改善を図るということも視野に入れるべきであるしかし、そこまででないならば、「他の側面で補うことで相互尊敬を維持」という意味で「愛されている」という実感による基本的肯定感の向上などが有効でありうる。逆に言うと、自分を愛さな人間と一緒にいることは、自己肯定感の側面からかなり危ない行為であることに留意したほうがいい。ここで、愛も、条件付きの愛とそうでないものがあるが、条件を、性的ものや、ある1つの能力的なもののように一側面の条件に頼っていると、それは脆弱になる(というかそれは愛ではないと思うが)。条件付きであっても、それは、条件と等価以上に為されるものであることで(cf. 信頼と信用の関係、『信頼の構造』を想定しているけど、アドラーでもなんでも同じようなこと言ってる) 肯定感を支える愛になりうる。

少し話をもどして、プライベートコミュニケーションにおいてそもそも正しいことが必要かどうかというのも一考の余地はある。例えば、「今日は空が赤いねぇ、不吉な感じすらするねぇ」という言葉に対して、「空は予言能力はない」なんて返したら、その返しすらギャグである場合を除いて、「科学的に正しいこと」に重きを置きすぎていると言われてもしょうがないだろう。いつもいつも科学的な正しさを持ち込むべきではない。一方で、「〇〇という薬が効くそうだよ!」という言葉に対して、「それは××という危険性が指摘されていて安易に飲むべきではない」と応じることは、プライベートの場面であるとはいえ、いやむしろ、服薬するという最も実践的な場であるからこそ、科学的正しさが適切に活かされなければならない場面である政治的な発言については、例えば「#検察庁法改正案に抗議します」とだけ呟いた芸能人に対して「なんも分かってないだろ」といったクソリプが相次いだけれども(それ自体は具体的ではない発言に具体的ではない形で具体的発言のなさをなじっていて全くクソリプしかないと思う)、そこで立法の背景の正当性についてどう思うかと問うこと自体は(数の暴力を伴わなければ)議論を深めるために民主主義的には望ましいコミュニケーションである。それがTwitterのようなパブリックな場ではなく、プライベートコミュニケーションにおいても同じく妥当する。ただ、政治的な話をすることというのは、それ自体が嫌がられるし、議論となるともっとそうだ。特段の配慮必要でもある。学問的な話なら、それが宇宙人存在についてであってすら、正しさはむしろ娯楽のために重要である。それが(学問ではなく通俗的意味での)文学的な話ではないと相互了解があった上ではあるが。つまり、「タコ型の宇宙人って歩きにくくない?」から始まる会話は科学的正しさによって楽しもうという意思は見られないので、それはまるで漫才相方のように応じればよいのである。{正/偽}をコードとしない意外と多くの場面でも正しさというのは実用的にも楽しさの面でも重要なのであり、それが、「知的レベルが合っていないと楽しくない」というのがよく言われる原因でもある。もちろん、賢いなら相手に合わせることもできるのだが、それは冒頭の話に戻る。そのパターナリスティック対応は、相手尊重しているのですか、と。

2020-03-07

買い占めが起こるのはマスコミが垂れ流したデマのせい、悪いのはマスコミ・・・という人がいるが、

アドラー風にいえば、不確かな出来事に対して不安を感じた人達が代償行為として買い占めに走っただけだ。

経済的な損失は政治的失策のせい、悪いのは政治家・・・という人がいるが、

カーネマン風にいえば、いくつものバイアスに引っ掛かって冷静さを欠くのはいつも一般市民の方だ。

飢えに苦しんだ人類現代では食べ過ぎてしまうように、疫病に苦しんだ人類現代で過剰に不安がるのは正しい反応だろうか?

最後まで生き残れるかどうかには運もあるが・・・それでも、賭けに勝ったやつが少しだけ有利になる。

だとしたら、どんなに技術が発達しても、結局は大衆を導く上級国民必要なのだろう。

2020-03-05

anond:20200305004532

それな。サルトルアドラーだけは好きよ

人間はだれしも自分のおかれた状況に条件づけられ、拘束されているが、同時にあくまでも自由存在である。したがって、どんな局面においても人はその状況の限界内で自由に行動を選択しなければならないし、自由選択した以上は自分の行動に責任を負わねばならない。」

2020-01-16

anond:20200116173802

アドラー「やめたくてもやめられないんだろ? つまり増田仕事が大好きすぎて仕事中毒なんだよ」

2020-01-12

anond:20200112094925

から東西南北わずだぞ

“実際のところ、人々は自由に 飽きたのだ。 ――ベニート・ムッソリーニ

哲学は興味ないけどサルトルだけはゆるそう

人間はだれしも自分のおかれた状況に条件づけられ、拘束されているが、同時にあくまでも自由存在である。したがって、どんな局面においても人はその状況の限界内で自由に行動を選択しなければならないし、自由選択した以上は自分の行動に責任を負わねばならない。」

あとアドラーも許す

2019-11-27

anond:20191127123503

アドラー増田が6年間働いていたのはそんな社長のことを心の底では認めていたからなんだぞ」

anond:20191127100131

アドラー「君が仕事を辞めていないのは君が仕事を続けたいと思っているからだゾ」

2019-11-21

アドラー「 罰を与えず、不自然論理的結末を体験させて気付かせるのだ!」

アドラー

「罰を与えるのではない。

 結末を体験させるのだ。

 子供食事時間になっても帰ってこなければ、

 一切叱らずに食事を出さなければよい。」

近所の人「子ども虐待しているわ……!!」

2019-11-20

SELFISHっていう本がよさすぎるので、流行ってほしい

最近買ったトマス・J・レナードの「SELFISH」がめっちゃ良かった。

個人的にはカーネギーの「人を動かす」とアドラーの「嫌われる勇気」に匹敵すると思う。

でもAmazonレビューは一件もないし本屋でも全然プッシュされてなくて、

ほとんど知られてないのですごい残念だと思う。

最近流行った薄っぺらい「君たちはどう生きるか」の百倍は価値のある内容だと思う。

なので気になった人はぜひ買ってほしい。

https://www.amazon.co.jp/dp/4396617097/

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