はてなキーワード: eスポーツとは
eスポーツを必死に叩く人間と大量に接してきたが、一定の傾向が見えてきた。
最も代表的なのは、オリンピックへのeスポーツ採用を毛嫌いするような、伝統的スポーツの信者だ。
こっちの話はひとまず置いといて、もう一つの人種を挙げると、自尊心がないゲームオタクだ。
https://elken.hatenablog.com/entry/2020/09/30/224330
日本からlolのトッププレイヤーが出るより、どうぶつの森みたいな日本のゆるい空気だからこそ作れるゲームで外貨稼いだ方がよほど国益だ。
彼らの文章には以下の特徴がある。
自分は身体的に弱者で、だからゲームを選んだのに、ゲームの世界にまでスポーツを持ち込むなというわけだ。
自虐的な臭いがプンプンしてる。自尊心を得るのに失敗した男の典型だ。
弱い男にとって、マッチョイズムと体育会系の文化で成り立つeスポーツが怖いわけ。
https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/201/syuisyo.htm
質問第一六号:香川県ゲーム規制条例案とeスポーツに生きがいを感じている重度障害者に関する質問主意書
https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/201/syuh/s201016.htm
質問第六三号:新型コロナウイルス等感染症対策として接客業等において労働者がマスクを着用することを使用者が禁止することに関する質問主意書
https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/201/syuh/s201063.htm
質問第七七号:新型コロナウイルス感染症の流行に伴いアルコール消毒液を大量に扱うこととなった事業者等に対する火災予防行政上の注意喚起等に関する質問主意書
https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/201/syuh/s201077.htm
20年前とかさ、オリンピックとかノーベル賞って、もっと価値があるものだったと思うんだ。
ほんとにスゴイ人が賞賛されて、ホントにスゴイ人たちが一堂に会して凄い事をする祭典だったはずなんだけど
まぁ勿論凄いんだけど、SNSとかインターネットが普及して、そういう場所が発表会みたいな場所になって
大会もレッドブルとかEスポーツとか、いろんなものが出てきて。
「一個人にとってすごい大会、凄い賞」の多様性が進んで、価値が落ちてる気がする。
勿論、東京オリンピックは楽しみだし、ノーベル賞とるのは凄い事だとは思うけど、以前のような一生をかけるような熱狂という感じはしない。
今更東京に来たのも、ノーベル賞日本が毎年取るのも、「そこまで価値が無いから来るようになった」気がしてならない。
そりゃ、やっぱり50年前、100年前と比べたら、数も2回とか、毎年になると感動が薄れるのもあるだろうけど
https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1207458.html
先日TGS2019にてパズドラチャンプオンズカップが開催され「ゆわ」選手が優勝しました。
で、上述の記事にもあるように当選手が賞金を貰えなかったことに対してネット上は非難轟々といったところ。
しかしながらそれらの批判に対してあまりにも感情論で語っている方々が多すぎるので素人が適当にググって分かったことを書いていこうと思う。自分自身は法律に詳しいわけでも今回の問題を昔から追っかけていたわけでもないので間違いがあればどんどん指摘してほしい。
これは簡単で優勝した「ゆわ」選手が保持しているジャパン・eスポーツ・ジュニアライセンス(以下Jrライセンス)の規約4.2.3に基づき、賞金を受領する権利を放棄しているため。
https://jesu.or.jp/wp-content/themes/jesu/contents/pdf/agreement-license.pdf
そうは言ってもなんでJrライセンス保持者は賞金受け取れない規約になってるの?って疑問は残る。
これに関しては、もしも受け取れた場合労働基準法56条の児童労働に抵触するから…だと思われる(JeSUからの説明はない)
そもそも、プロライセンス保持者はJeSUと契約した「労働者」という扱いだ。「高い技術を用いたゲームプレイの実技又は実演を多数の観客や視聴者に対して見せ、観客や視聴者を魅了した」仕事に対する成果がとして「賞金(報酬)」が渡されている。
そのため優勝時点で「満15歳に達した日以後の最初の3月31日までの間」である「児童」にあたる「ゆわ」選手に対し賞金(報奨)を渡すと児童労働になってしまう。なので予め規約でJrライセンス保持者は賞金を受領する権利を放棄させられている(んだと思う。くり返し言うがJeSUからの説明はない)
じゃあ賞金が受け取れないJrライセンスに意味なんてないじゃないかと指摘するのも最もだが、実際現時点でプロライセンス保持者は138人いるのに対してJrライセンス保持者は当該の「ゆわ」選手ひとりだ。プレイヤー側でもそう思っている人は多い証拠ではないだろうか。個人的には実力のある選手は年齢を問わず賞金が受け取れるのが良いとは思うのだが、現行の賞金は労働に対する対価であるという建前を通すなら、子役のように労基法56条の例外に定められている「演劇の事業」にゲームプレイが含まれるようになるか、もしくはプロ棋士のようにそれぞれが個人事業主として独立してもらう他ないように思う。
確かに優勝者が賞金を受け取れないという事実だけ見ると義憤を覚える気持ちも分からなくはないが、大抵の場合そこにはそれなりに妥当な理由が存在し、それらはちょっと調べればすぐに分かることだということを肝に銘じておきたい。特に今回の場合、優勝者である「ゆわ」選手自身は賞金について何も不満を漏らしていないにも関わらず外野だけが騒いでいたので特に気になった。
同様に賞金を満額貰えなかった「ももち」選手の問題と同列に語っている方が散見されるが、これは争点が別のため分けて考えたほうが良い。
「ゆわ」選手の場合はe-sportsの大会の賞金が「仕事の報奨」に当たるため発生した問題であり、
「ももち」選手の場合はプロライセンスの有無が原因で発生した問題。
ここを混同していると理解しづらくなるので注意しよう。前者は労基法、後者は景表法。ぶっちゃけJeSUを叩きたいのなら「ももち」選手の問題のほうがシンプルなのでそちらをおすすめする。
e-sportsというジャンルは「景表法」「風営法」「賭博罪」等々多くの縛りが存在し、特に賞金に関しては景表法をくぐり抜けて高額賞金を設定するために現在のような建前で運用されている。まだまだ法律もe-sports自体も発展途上なものであるため、どうしても今回のような一見理不尽な事例は起こってしまうのだろう。しかしそういった事例を通過することで法律というものは洗練されていくのであって、その過程で叩き潰していては意味がない。そのためにも的はずれな指摘や勝手な思い込みによる私怨などはプレイヤー側からも注意していける自浄作用を見せていかなければe-sportsに未来はないと思う。
以下上手いこと文中に入れられなかった指摘に対するアンサー
Q.賞金じゃなくて副賞とか上げちゃ駄目なの?
A.実際に「ゆわ」選手は副賞として優勝トロフィーやスポンサーからドラゴンブースト1年分、グリコアーモンドチョコレート1年分、ゲーミングヘッドセットATH-G1などを貰っています。
A.これは最もで例えば賞金の発生しないジュニアリーグなどを開催しても良かったのではと思います。しかし今大会がJeSUのライセンス保持者にのみ限って参加できるものであったため、ジュニアリーグ参加者「ゆわ」選手1名とかになってしまいます。
Q.親に渡せよ。
A.未成年者でも賃金は本人に支払われることが労働基準法の59条で定められています。
A.ここは日本です。
Q.JeSUが賞金を支払いたくないからわざと賞金を支払わなくていい中学生や未ライセンス保持者に優勝させたんだ
A.陰謀論乙
参考
https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=322AC0000000049
https://news.yahoo.co.jp/byline/takashikiso/20180212-00081525/
son_toku ってのが正しいね。
少し調べると本場中国では小学生から賭け麻雀をするらしい。だから成立するか否かであれば、(既に在るか否かとは別に)成立するだろう。
日本の雀荘はパチンコの三店方式のようなもので、度が過ぎない範囲で黙認されている庶民の賭場に過ぎない。
ゲームとして見れば実はガチャソシャゲより善い面もあるのだが、"それで稼げて食えてしまう"可能性のある物を、就業前の子供に教えるのは悪だと考える。
学業は生活の糧としての側面があり、修める前に糧を得られれば学ぶ意欲は削がれ、集団としての最も大切な資本である勤労意欲は失われる。
当然、技術も落ち知識の継承も行われない。大袈裟に言えば国力が落ちると言っていいだろう。
繰り返すが、これは悪だ。
どれだけ雀士が高潔で優れていようともそれらだけで国が成り立つことは絶対にない。
従って射幸心を煽る漫画が世間的に広く認められる事はなく、あってはならない。
eスポーツブームが姦しい昨今だが、そもそもギャンブルがなぜ規制されているかを忘れてはならない。
ゲームがどれほど素晴らしくとも、プレイヤーだけで社会は成り立たない。
賭博はゲームに付随する一要素であり、人として大切なのはそこから何を学ぶかだ。