はてなキーワード: ぞんざいとは
「君は本当の子供じゃないんだよ」がうちの親父の鉄板ネタだった。
耳に胼胝ができるくらい聞かされた気がする。
兄弟そろって宅配便で届けられた設定(ただし、業者は違う)だった気がするので、自分だけが親父の毒対応を受けていたわけではない。
母と祖母のような女たちはなんだかんだ言って兄優遇だったと思う。
弟の俺は果物の皮は自分でむくものだったし、魚もじぶんでむしるものだった。その辺、兄はすべておぜん立てされていて、用意がないと食べないみたいな感じだった。
家から追い出す系の体罰をやられたときに、「やっぱりな」って思った自分がいた。
母は「お母さん。許してー、ごめんなさいー、中に入れてー」みたいな展開を期待していたらしいけれど、
俺は素朴にどこで風雨をしのいで、どうやってご飯を食べようかとこの次どうするかを現実的に考えて、まずはその日の寝床にいいところを探しに行った。
母は自分がいなくなったことに気づいて、慌てて探しに行ったらしいが、「かわいくない」と思ったらしい。
ペアーズで知り合った人のことすぐ好きになってしまって、全然脈ないと分かっていながらもアポ入れてしまった。
一時期は夢にまで出てくるほどに好きになってたし月が綺麗だったからって理由で電話したくなったりした(実際はしてない)(ロマンチスト)。
その人が複数のアプリ並行してるのも知ったし、普通に考えたら将来はない人ってわかってたけどなぜか執着心が消えなくてなんで?って思いながら半ばヤケクソでTinder登録したらその人がいて、Tinderで初めてマッチしたのもその人だった。
聞けば遊びじゃないっぽかったけどこの人って誰が相手でも満足できないんだろうな〜と思いながら執着心が消えないから全くの別人として連絡してた。
でも今Tinderで知り合った人何人かと連絡してたらどーでも良くなっちゃった。
要件だけしか連絡してくれない人よりは毎日なんでもいいから返事くれる人の方がいい。
結局私って構ってくれる人なら誰でも良いのかなー。
もうアポ蹴っても良いやくらいに思ってる。
好きって気持ちが持続しないなあ。
https://news.yahoo.co.jp/byline/hashimotoaiki/20210927-00259918
ロジの担う役割って、いかに輸送品を送り主が想定しているそのままの状態で、できるだけ早く送り先に届けることだと思うんだけど、違うの?
箱に変形がある=輸送中に何か衝撃が加わっている=何かしら中の品物にも衝撃が加わっていて、中の品物の品質が変わってしまっているかもしれない
だから変形は論外
側面にこすれ汚れがある=こすれをつけてしまうような取り扱いをしている(床を滑らせて運んでいたり、輸送中にパレットに適切に固定しておらず箱同士がぶつかっている)=何かしら中の品物にも影響が略
そりゃ荷主は普通、中に傷ついてもいい梱包材入れて、ぞんざいに輸送されても中の商品に影響が出ないようにしてるよ
でもだからといって外箱に傷つけていいことにはならないでしょ
論じるべきなのは低賃金問題や求償・輸送条件であって、「荷物をその状態のまま届ける」というプロとして求められる仕事の質を満たす実力がないことを棚に上げてワーワー文句言っている限りは共感得るのは無理では?
新自由主義を批判していることで知られる、英国の著名な人文地理学者David Harveyは、彼の著書の中で「『個人の自由』を至上の価値に戴く個人や集団は、容易に新自由主義に乗っ取られる」と云う箴言を記しています。
福澤諭吉は、おそらく最も本邦のネットウヨクに人気がある思想家です。福澤諭吉は神仏の類いを一切信じず「人間の在り様は全て『個人の努力』のみによって決定される」と考えるような「近代日本における『自己責任論者』のパイオニア」でした。ですから、巷間よく言われる「ネットウヨクは『保守』ではない」と云う言葉は、正しいと言えると思います。(四書五経や日本の儒学者の著作、仏典、古事記・日本書紀・万葉集・古今和歌集などの国文学等に親しんでいるネットウヨクなどは、ゼロではないでしょうが多数派でもないでしょう。)
その福澤諭吉は、彼の自宅を訪れる人間が貧しかったり地位が低ければ「そいつがそんな状態に在るのは、努力を怠っているそいつ自身の自己責任なのだから、そいつをぞんざいに扱っても構わない」という態度で、わざわざ安物の茶を出すなど対応の仕方を変えていたと伝えられています。
我が国におけるアジア諸国に対する蔑視感情も、福澤諭吉の系譜に連なる「日本は努力して脱亜入欧を果たした。しかし、彼奴等の国は努力をしなかった。だから、オレたちが彼奴等を見下しても彼奴等の自己責任だ」という考えに帰着します。
さて、現在のはてな界隈では「不寛容な(例えば、人権意識が低い)人間に対しては、こちらも不寛容な態度に出ても構わない」とする考え方が主流のようです。
そこで、私個人の考えていることは、
(1) 寛容性は、教育・学習により身につく知的な財産である。
(2)_a 格差社会が深刻化すれば教育・学習格差も拡大して、貧しい教育しか受けられない人間が発生する。
(2)_b 仮に経済的に貧しい家庭ではなくとも、保護者に問題があって、教育ネグレクトや洗脳の状態に置かれれば、学習機会を得られない人間が発生する。
(3) そうして教育・学習の機会が貧しくなり、寛容性を身につけられなかった人間が発生する虞がある。
ということです。なお、(2)_bの教育ネグレクトや洗脳の被害者に対するセーフティネットも、格差社会が深刻化すれば、貧弱なものになると予測されます。
それを踏まえて、ここで私が問いたいのは、我々が不寛容な人間に遭遇した時に「それは、そいつが『不寛容な人間』にならないように努力することを怠った結果なのだから、我々もそいつに不寛容な態度をとっても構わないのだ」とすることが許されるのか?と云う点についてです。
ある人は言うでしょう。「教育・学習の機会が貧しくても、そういう人間の全てが『不寛容』になるわけではない。だから、そいつが不寛容なのは、やはり、そいつ自身の責任なのだ。したがって、こちらも不寛容な態度をとっても構わない」と。
あるいは「こちらが不寛容な態度をとることによって、奴らに目を覚まさせるのだ」と。
かつて生活保護バッシングが起きた時(と言うか今でも現在進行形で起きているのですが)に、決り文句のように言われた/言われるのが「貧しい人間の全てが、生活保護に頼っているわけではない。条件に拘らずに働き口を探せば、生活保護を受けるような貧困状態に陥るはずがない。生活保護を受けるような人間は、そいつが怠惰だからなのだ」とか「生活保護に頼らざるを得ないような、不健康な状態にまで身体を壊したのは、そいつが努力を怠って不節制な生活を送っていたからだ」といった言葉です。
はてな界隈では、リベラルや左派の方が多いので、経済的な貧しさ、疾患・障害などの肉体的な貧しさ等に関しては『自己責任』論者が批判される傾向にある一方で、知的な貧しさに関しては『自己責任』論者となる人が屢々見られるので、私は不思議に感じてます。
以前は「攻撃や争いよりも対話や教育を」という姿勢の方も多数見かけたような気もしますが、最近では「彼奴等は、あんな奴らだから、関わったり対話を試みるのは徒労だ」として、対話の努力を放棄したかのような人も増えたように見えます。
はてな界隈は、個人の自由を重んじる人が多いので、D. Harveyの言うように新自由主義に乗っ取られてしまい、結果として「自己責任論者」が主流となったのでしょうか?
女性たちが男に比べて人間的に劣って見えるという意見は、色んな場所で聞く。
いい機会なので私が回答しよう。
男は感情を表に出さずに、いつでも理性を発揮するべき、って「男らしさ」の理想像があるんだ。そういう枠に自分を当てはめてるうちに、男は、自分自身の本当の気持ちを見失ってしまう。周りの人間に合わせて自分の気持ちを押し殺してしまう。だから実態は「女は感情、男は感情の欠落」なのさ。
そんな男にとって、自由に気持ちを表現できる女性は、自分勝手に見える。
「パスタが食べたい」って言えない男は、「うどんが食べたい」って言える女性を、ワガママと見てしまう。でも本当は、男が自分の意見を素直に提案できたなら、当然、女性だって妥協できる。提案がないならば、女性の見えてない側面を見る機会もない。
女性は世間からいろんな役割を押し付けられる。回復役・職場の華・指示される弱い立場…
タクシーの運転手が女性相手だと横柄な態度に変わる、って話は有名だ。
「女だから」と、ぞんざいに無理に枠にはめて人間らしさを奪おうとする圧力。
それに対抗するには、どんなときでも「まず自分」を優先できる強かさが必要になる。
強さは自分を守ってきた証だ。心折れて社会に屈伏せずに、大切なものを護りきれる人間性は「こんな人の隣にいられたら」と思える美徳だよ。
ときに言葉さえ飛び越えた、全面的なコミュニケーションによる、お互いへの深い理解があり得るんだ。
そういう精神的結びつきは、掛け替えのない充足と、愛し愛される喜びを与えてくれる。本当に幸運でないとそれが出来るパートナーに巡り会うことは出来ないけれど、もし恵まれたのなら、得られるものは——私見だが——単なるセックスとは比較にならないほど意義深いものに感じられる。
ただ短い時間、となりにいるだけなら、“干渉しない” で事足りる。
察すること、察してほしいというシグナルを送ること。現在の関係性に甘えずに、アグレッシブにコミュニケーションを重ねて、より高いレベルでの信頼関係に至った2人の生活は、信じがたいほどに滑らかに回っていく。本当の幸福はそこにある。
これはよくわからない考えだ。例えば昨今、転売ヤーは嫌われている傾向にあるが、それは PS5 とか自分が買えるはずだったものを買えなくしているから、奪ってくるから迷惑に思うんだろう。
それに対してセックスワークは何も他人から奪っていないように思う。
性をぞんざいに扱うことで、その価値をおとしめてる、って意見はあるかもしれないが、そういう人は逆に性を丁寧に扱ったら喜ぶのか?
娘がカラダのラインが隠れるような服、和服とか… を好んでると知ったら、母は喜ぶのか。
まあそういう人も居るかもしれんが、少なくともフェミニストには見えないな…。
セックスワーカーを可哀想と思っている、と考えたほうがはるかにスッキリすると思う。より多くが心から望んでいなくて、さらに望んでいるのだと自分に言い聞かせながら就業している。隷属的な職業だと…
仕事がつらい
正直に言えば今すぐ泣き叫んで助けを乞いたいぐらいにはつらい
でもそのつらさは顔には出さないようにしてる
「つらいよ~もう仕事したくないよ~死にたいよ~」って言葉は一人の時にしか使わない
どんなに仕事がつらくても客の前ではもちろんそんな顔しないし、同僚の前でも明るく元気に笑っていたいと思ってる
弊社はブラックというほどではないが、まあいつでも人材不足なのでみんなつらい
いつもため息ついてるし、不機嫌そうに仕事してるし、客対応も非難するほどではないがややぞんざいだ
そんな人たちから見ると俺は楽をしているように見えるらしい
俺からすれば彼らと仕事の総量は変わらないし、成果物の質で言えば俺の方がかなり良いと思っている
まあ上司がどう考えてるかは知らないし
その同僚のやっかみで俺が損してるわけではないんだけど
たしかに傍から見れば俺は別に仕事がつらい人ではないだろうなとは思う
でもそれなりの苦難を乗り越えて自分をコントロールする術を身に着けた結果としての今なんだけどね
おわり