はてなキーワード: 選挙公報とは
「民主主義は多数決である。よって、少数民族を皆殺しにして財産を没収する法案は多数民族が多数を占める議会で、賛成多数で可決されました」
……のようなことはあってはならない。だが、残念ながらこのような政治が行われた例は多数ある。
(暴力装置をもった政権が実際にこのようなことをした時に現実的にどこまで阻止できるか、というのは難しい問題である。
だがそれとは別に、『少なくとも理念としては、あってはならないことだ』という点は強調しておく)
そのような事態を防ぐために憲法が制定され(厳密な成文憲法を持たない英国のような国もあるが)、
『犯罪に対する刑罰を含め、法律によって国民の権利を制限する際はこのような手続きを踏まなければならない。
また、このようなことをしてはならない』ということが定められているわけである。
1つは、『多数決民主主義』と呼ばれるもので、『手続きに沿って皆が意見を出し合った上で(ここ重要)、最も良い意見を選ぶためにある』というものだ。
民主主義は多数決ではないとは書いたが、実際には多数決を行わざるを得ない状況があることは否定できない。
ただし、『何でもかんでも多数決で決める、それ“だけ”が民主主義』ではない、というのが表題の意味だ。
もう1つは、『熟議民主主義(または討議民主主義)』と呼ばれるもので、
『世の中にA,B,C,Dの意見を持つ人がいるとき、その代表者たちが議会で熟議を重ね、皆が納得するEという結論を出すために議会はある』というものだ。
この2つの考えはどちらが正しいというものではない。議題によって多数決よりになることもあれば熟議よりになることもあるが、2つともが議会の役割である。
多少の誇張を含めて言うのであれば。杉田水脈は『ホモフォビアの人の代表』である。
現在の世の中には、ホモフォビアが存在する。それは自明の事実だ。
そのような『ホモフォビアの人の意見を、メディアでは取り上げません』というのはできるかもしれないし、
『ホモフォビア的な内容を掲示板やSNSに書き込むことを禁止し、削除させます』というのも、もしかしたら将来は何とか可能になるかもしれない。
だが、『選挙の立候補者が政見放送や選挙公報でホモフォビア的な主張をすることを禁止します』というのは政治的に困難だ。
それを可能にすると、次は反安倍政権的な内容が規制されるかもしれないし、逆に反移民の主張が禁止されるかもしれない。
ましてや、『あなたはレイシストだから選挙権も剥奪します。投票できません』などということは二重の意味で絶対にするべきではない
─1つには人の内面を、言動に現れていない部分まで正確に読み取る技術は存在していないし、2つ目にはアウシュビッツ博物館の”差別心を持たない人の扉”が示すように、差別心の無い人はおそらく存在しないからだ─。
だからこそ、ホモフォビアの人の代表として『俺たちの杉田水脈』が議席を持っている。
同時に、杉田水脈が議席を持って活動しているにも関わらず『俺たちの杉田水脈の主張するホモフォビア政策は議会で通らなかった』という事実こそが、
『我が国にもホモフォビアはいますが、そのような政策は実現されません』という何よりの証明になる。
『そうではない。市民の代表がホモフォビア的な主張をすること自体が、同性愛者に対する圧力になるからそのような主張をさせるべきではないし、そのような人を議会に送るべきではない』
という考えの人もいるかもしれない。だが、そのような“政治的に正しくない”意見を遠ざけていった結果がトランプ現象を生んだという事実を我々、特に“リベラル”な人たちはきちんと受け止めなければならないのではないか。
id:quick_past だから例えば殺人を犯す自由を、意見の自由、多様性として認めるのかって話でしょ。政治の場においては公共性社会性が上位に来るはずで、そこを無視した話なんてもう中学生で卒業しておくべきこと。
まさにこの意見なんかが典型。公共性社会性に欠ける有権者も大勢いるけど、そういう人を排除したら民主主義ではない。
『公共性社会性に欠けるような意見』を『政治的に正しくない』と緩やかに退場させていった結果、逆にそういう意見を持つ人たちにとって『トランプこそ俺たちの代弁者』になったという話ですよ。
遠い過去に新自由主義でめちゃくちゃにしたやつ(小泉自民党)、と近い過去に新自由主義でめちゃくちゃにしたやつ(民主党)じゃね?
で、安倍は一応はリフレ政策やったのと、後は中韓ぎゃーすかと日本会議ぐらいで、新自由主義による景気低迷は小泉自民党や民主党に比べればまだましだからという消去法でしょ。
新自由主義以外で景気が良くなるというのを主軸に押して言わんと政権交代はないね。だけど、民主党系はまだ財政均衡派が強い。
地元の県議会議員選挙でもそれ言ってる立民の候補がいたけど、そいつ落ちたな。どちらかといえば自民には入れたくないが、一行目で財政均衡に注意して云々、、、、、で入れるのやめた。
ああ、でも立民が韓国周りのくだらないことにつられないのは一歩進歩だとは思うわ。後は、新自由主義以外で経済を立て直すのを問うとして主軸に押せるか。だけど、あの県議会議員の選挙公報見たら無理臭いなぁ、、、、。
最初は雰囲気で入れる。君の言うとおりどうせ一票でたいした違いなんて出ない。
投票すれば結果が気になる。選挙結果をみてから顔ぶれを知る事になるかも。
その次入れるときはどんな人にいれるかなって、選挙公報の新聞を見たりしてざっくりそれぞれの特色とかを見てみる
完全同意できるような人がいればいいけど、そんなんなかないので、これまた雰囲気で方向性が好きな人を選ぶ。好きじゃない人にいれない。でもいいかもしれない。
そんな人たちの一票の積み重ねなのかなと思っている。
あと、衆議院とか参議院の選挙より、自分の市町村とか区議の選挙の方が生活に密着しているし、一票の影響もでかいので関わってる感あっておすすめかも。
東郷健(別名:伝説のおかま)と向坂逸郎(社会主義思想家)との対談で、向坂氏が東郷氏に対して「ソヴェト共産主義になったら、お前の病気は治ってしまう」と言ったため喧嘩、対談は打ち切られる。
かつては参議院議員選挙、衆議院議員選挙、東京都知事選挙へ選挙機会ごとに立候補し、いずれも落選。政見放送・選挙公報を通じ、タブー視されていた「ゲイ」「ホモ」「同性愛」「おかま」「射精」「チンチン」などの語を敢えて多用したため、昭和末期 - 平成初期のお茶の間に一種のカルチャーショックを呼び起こした。参議院選に全国区から立候補した1971年、宣伝カーからの演説に振り向く者もなかった際に「オカマ、オカマの、東郷健。参議院議員立候補、オカマ、オカマの東郷健がまいりました」と叫んでみたところ、中年男性が手に持っていた荷物を落とし、東郷の乗る赤い宣伝カーを初めて見た。以降、"オカマの東郷健"を売り文句にする。
( ゚ Д゚)
7/2(日)は都議会議員選挙で、俺の家にも選挙の案内・整理券が届いた。
最近はてなを見るようになってから政治にも感心を持ち始め、もっと考えて投票したいと考えるようになった。
今までの選挙では恥ずかしながら全然自分ごと感がなく適当に書いて投票していた。具体的にはなじみがあって自分に考えが近い感じの党に所属している人を選んできた。
しかし近頃は投票先を党で決め打ちするのが正しいとも思えず、ちゃんと人を知って選ぶことにした。
そこで家に届いた選挙公報(新聞みたいなやつ)に書いてあるそれぞれの候補の公約に○△×の3段階に印をつけて、一番○が多く×が少ない人に投票しようと考えた。
ただこれだと選挙公報に書いてある内容・書かれ方ですべて判断することになるんだよな。それはそれで十分なんだろうか。そもそも書かれている公約が本当に実現される見込みはどれくらいあるんだろう。どれが本気でどれが建前で、何を基準にその人が公約を実現する可能性を見極めればいいんだろう。
あーわからん。みんなどうしてるんだ?
どんなふうに投票先を選ぶのがいいのだ だれか教えて
会場の係員が足りないってんで、5年ぶりくらい? で投票所の手伝いをしてきた。
場内で主に投票用紙の交付係をやってたんだけど、担当が最高裁裁判官の国民審査。
これ、渡すときの口上が長いのな。
国民審査「国民審査です。辞めさせたい裁判官がいれば×を、いなければ何も書かずにそのまま投票してください」
都合2,000人くらいに同じ事言ってたら混乱してきて「辞めさせたい弁護士」言いかけて訂正したりノド痛くなったり。
で、説明したところで大半の反応は「知らない」「わからない」「興味ない」「こんなの無駄」なのな。
地域によっちゃ「わからなかったらそのまま何も書かずに入れて」とか言ってる所もあるらしいし「わからんからこのまま入れるわ」て人もいた。
これ言う人はみんな「怒る」か「笑う」かで「恥ずかしい」って感じじゃない。
審査対象の裁判官について知らないことは「別に恥でもなんでもない」んだよな。
「知らない」「わからない」うん。今その手でイジってるスマホで調べればすぐ出てくるよ。
「興味ない」「こんなの無駄」うん。受け取り拒否して棄権する手もあるよ(実際に複数人いた)。
国民審査の方式そのものの欠陥(「バツ」印以外は無効とか、部分棄権ができないとか)もある。
判決や裁判官についての、プッシュ型の情報不足(報道も滅多にないしな。せめて投票所での閲覧用に国民審査の選挙公報くらいは置いても良いと思う)もある。
でも、選挙区の投票に来る人でさえ「知らない、わからない、興味ない」ことが「許される」空気は、完全に出来上がってて変えられそうにないなーと思った。