はてなキーワード: ヘミングウェイとは
コイツはちょっと病気気味で、なんでもそのまま喋ってしまうんですよ、と男は連れのペンギンを撫でた。
「ほんとうに?おまえ、ペンギンなのに喋れるの?」
膝を曲げてペンギンに目を合わせた。
わたしは辺りを見回したが、ヘミングウェイは見当たらなかった。つぎに彼の短編に似た話があったか思い出そうとしたが、わたしのなかで彼はカーヴァーと混ざっていたし、そのどれにもないように思えた。
「博識なんだね」
ペンギンの首と胴の継ぎ目あたりを撫でたが、どこが継ぎ目かはわからないかった。羽毛はざらざらしたと固く、ほのかに暖かかった。
わたしはざらざらを撫でた。海で生きるための身体だと感じた。ペンギンは悲しそうに見えたが、表情なんてある生き物でもなかった。
ぼくらは釣りが大好きだ。釣りがあるからこのストレス社会の中でも生きていける。でもぼくは思う。食べ放題にルールがあるのと同じように釣りにもルールがあるのではないかと。釣り師が守るべき規範について書いてみたい。
釣り師とは紳士でなければならない。当然誰かを傷つけるようなことをしてはならない。ときには批判することも大事だ。釣りには鋭さも必要だからだ。しかしそれは相手を傷つけることとは違う。ぼくらがしなくてはならないのは相手の不正を暴きだすことなのだ。
勢いに任せた汚い言葉を用いた文体で注目を集めるやりかたがある。たしかにこれは効果的だが、一流の釣り師ではない。一流の釣り師とは穏やかで風のように過ぎ去っていく存在なのだ。軽やかに、颯爽と。
低学歴の学歴コンプレックスを煽る手法として難解な文体を突きつけるというやりかたがある。しかしこれはあまり効果的とは言えない。そもそも釣れない可能性が高いし、釣れたところで相手を疲弊させてしまうだけだ。それでは釣りをやる意味がない。釣りとはみなが幸せになるためのものなのだ。高校偏差値を見てみてほしい。http://kintaro.boy.jp/AW04-010/sozai/html/zenkoku%20kouritu.html これだけの高校があってまだこの表には偏差値67までしか載ってない。はてなーなら偏差値70以上が普通だと思うが、ぼくらは偏差値70に向けて釣りをするべきではない。当然偏差値50に向けてやるべきなのだ。小学生を相手にするように。優しく幼児のおでこをなでるように。
皮肉を書いてもそれが皮肉と受け取られなければ意味がない。世の中には漫画や雑誌以外の本を1年間に10冊も読まない人たちがたくさんいる。そのことを考えてみるべきなのだ。文体はなるべく曖昧な語を使わず詩的な表現を避け簡潔に書く必要がある。フォークナー的ではなくヘミングウェイ的に書けということなのだ。
突っ込みどころをあらかじめ用意しておくというやり方がある。たしかにそれはとても効果的だ。しかしやりすぎると逆効果になる。突っ込みどころが多すぎてどこから突っ込んでいいかわからず、めんどくさくなってスルーしてしまう可能性が出てくるからだ。突っ込みどころはひとつかふたつに絞っておこう(当然ほかの部分はもっともらしく書く必要がある)。そうすれば読者は素早く突っ込みどころに反応し、素早く突っ込んでくれるだろう。相手に対するいたわりの気持ち。紳士なら持っておきたいものである。
これは最低限にして最大のマナーなのだ。後釣り宣言する人がたまにいるが、これは読者との信頼関係を裏切るもので最悪のものだ。読者はそれが釣り(=フィクション)だと知らなければ幸せになれたのかもしれない。それならば紳士が選ぶ選択肢はひとつしかない。釣り師は読者の幸せをつねに考えておくべきものだ。当然、釣り宣言などしてはいけないのである。
釣り師は嘘におりまぜてほんの少しの真実をほのめかしておく。それはほとんど嘘か真実かわからないくらい混濁した状況を指し示すものだが、硬直した現実を解き放つべく生まれた進化の裂け目でもあるのだ。釣り師は人々に「気づき」をうながす。釣りとは啓蒙活動なのである。
釣り師は体制派に属してはいけない。釣り師はいつもアナーキーで魔術的でなければならない。ぼくらは権力者を掣肘する道化であり賢者なのである。
釣りというフィクションを読んで、釣られた読者は心を動かされるかもしれない。そのときこの感情の動きにともなう経験はまさに現実の経験であり、そのときフィクションはノンフィクションに転移しているのである。すぐれた文学作品は登場人物の経験したことを読者にまさにそこにいたかのように追体験させるが、それはフィクションのなかにノンフィクションが含まれるからである。釣りのなかに現実が含まれる。そしてこの釣り的現実のなかで人々は大いに笑うのである。
以下の項目が当てはまる人は、今後はてなでの発言を控えたほうがいい。
・自分がいかに痛い人であるかを語るのが好き(例:http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/03/12/205635)
・どうでもいいことをあえて真剣に語るネタが好き(例:http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/03/12/205635)
・漱石の「こころ」、ヘミングウェイの「老人と海」を読んで大いに感動した
・文章術の記事をいくつもブクマしている
・バンプオブチキン、くるり、東京事変のCDを買ったことがある
・水曜どうでしょうが好き
・乙武君の尻馬に乗って他者を批判したことがある
○個以上当てはまったらアウト、などという生易しいものではない。
一個でも当てはまったら即アウトだ。
「西尾維新の一体何が受けてるのか?」皆目見当がつきません!/ジャンプの漫画を一度だけ読んだけど、超つまんなかった!(文章のプロなのに)コトバのセンスとか無し!
https://twitter.com/sukebeningen/status/7744494413
松本人志をニセモノ呼ばわりするのもこの辺り。「中島みゆきも、さだまさしもアリ」なんて言うコイツは両者の間にある「マリアナ海溝より深い溝」にさえ気付いてない。
https://twitter.com/sukebeningen/status/6198055144
いままで一位に選ばれたのって、『聖☆おにいさん』とか『進撃の巨人』とか『テルマエロマエ』とか…、まあ面白いではなく"面白風味"ばかりだよね。面白そうな雰囲気だけ醸してる、実際にはつまんない作品。
http://sukebeningen.blog46.fc2.com/blog-entry-201.html
聖☆おにいさん程度で偉ぶってる「丸井ブランドでオシャレ気取りな感じ」とかが、おそらくイラッとくるんじゃないスか?半端センスで。2008/12/20
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/kaien/20081219/p1
原田知世の頃からまるで懲りないよね…上の世代のオタクの人らって… 2011/10/04
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/195849
どうせPerfumeに群がってるのは「森高千里はロックだ!」とか「原田知世はイイ!」なんて言ってた連中に決まってる。
http://sukebeningen.blog46.fc2.com/blog-entry-154.html
まずPerfumeの女の子達が「いきなりブス」なのがヒドイ。「少し隙がある」とか、そんなレベルじゃない。アレは「クラスで十三番目に可愛い女の子」あたりだ。
ギリギリ余裕のブッチギリでタップリとアウト。そしてあそこに意味を見いだすオマエらの自意識がキモイ!キモ過ぎる!!
http://sukebeningen.blog46.fc2.com/blog-entry-97.html
もう全然センスが無い、「水曜どうでしょう?」みたい。(大泉羊などを見て笑えるのは頭がイカレている北海道民だけ。人間が素朴過ぎる。あいつら牛がモーと鳴いただけできっと二時間は笑う)
http://sukebeningen.blog46.fc2.com/blog-entry-164.html
どうも。こないだまで就職王って名乗ってましたが、今は無職王です。
で、前回書いたコレhttp://anond.hatelabo.jp/20110429004257に
なんかすごい真面目なトラックバックが来てたので、なんか書かなきゃなーと思いました。
二代目ロストジェネレーションが失ったもの。望み。そして、僕らは何からはじめるべきか
http://d.hatena.ne.jp/thinking-terra/20110529/1306640590
で、これ読んで思ったんだけれども。
ぼくが思うに、現代日本の若者における問題ってのは最早「価値観」の問題ではないと思うのね。
いうなら、それは生存の問題だし、もっと明確に言えばいかにクサレ年寄りから椅子をムシリ獲るかってことなんだと思うんだ。
「既存の価値観に乗ることは出来ない」とテラケイさんは仰る。でも、ぼくはそれは違うと思う。
むしろ、現時点に於いても生存戦略としては「既存の価値観にドップリ漬かる」は限りなくベストに近い。
「世代」のことを考える前に、「自分」のことを考えて、グダグダ言わずに東大を出るべきなんだ。
もちろん、東京大学というのはかなり極端な例だけれども。
ミクロで考えるなら、まだ現代日本は個人の力で「なんとかなる」社会だとぼくは思う。
ぼくの「就職王」コラムは個人化戦略の極地のようなものだけど、実際あの程度でなんとかなってしまう。
でも、もちろんマクロで考えるとこれは明確に間違っている。
だって、椅子の数が限られているなら誰かは必ず負けるんだから。社会には一定水準の競争が必要である、という
命題を真であるとした上でも、社会を構成する一定層はそれなりの職を得て暮らしていけなきゃまずい。
それに、ぼくのような口先だけで逃げ切るやつが評価される企業の土壌というのも、あんまりよくない気がする。
やっぱり、社会は少しずつでも変えていかなきゃならない。ぼくらの世代が楽しく生きるために。
「社会を変える」って言いにくい世代だよね、ぼくらは。上の世代が派手にコケたから。
どうせ社会なんて変わらない、馬鹿どもの轍を踏んでたまるか。そういうところがある。
デモやる?って言われても「それ頭の悪い年寄りが大分前に失敗した」としか思えない。
カウンター・アクションは必要だけれど、それはやはり時代に即したものでなければいけない、と思う。
少なくとも「就職クソッタレ」って言って変わるものがあるなんて考えられない。そうじゃないか?
ウザイ自分語りで申し訳ないけれど。ぼくが就職したのは「箔をつけるため」だった。
今、起業をするために色々じたばたしてるんだけれど、やっぱりカネを出して貰うにはそれなりのものが必要になる。
少なくとも、「真っ当に勤めていれば生涯年収4億近かったですよ」くらいのことは言えないと、
与えられたカネの代わりに差し出すものとしては、とても足りない。実はこれでも全然足りないんだけれど、
それでも何某かのバックボーンにはなる。使えるモノは、使わなきゃ損だ。就職して数年踏ん張るだけで得られる
ステータスって、実は結構お買い得な気がする。ある意味、大学の名前以上に。
この日本社会は実にクソだと思うけれど、使えるものを使わずに戦うのはいかにも勿体無い。
「価値観を変える」なんてのは、ヒッピーになるのと同じだ。ヨガをやってもマリファナやってもロックフェスをやっても、
実はどーにもならない。それは、かつてアホな連中がもうやった。ぼくらがそれをやる必要はない。
ぼくは巷で見る就職活動批判にすごく違和感を感じていて、つまるところそれはどこまで言っても
「負け犬の遠吠え」としか認識されないんじゃないか、ってこと。
かつての頭の悪い年寄りには「世界同時革命」みたいな強烈なイデオロギーがあったから、「就活のバカヤロー」よりは
スケール感もまとまりもあったけれど、ぼくらの世代にはそれもない。あるべき社会のモデルすらない状態で、
「価値観を変えろ」って言われても、それは「解脱しろ」とか言われるのと一緒だ。シャクティーパッドとかポアとか
そういう語感にしかならない。そんなことにはほとんど何の意味もない。
つまりところ、それがミクロの問題であれマクロの問題であれ、既存社会からの断絶というのは不可能なんじゃないかと思う。
テラケイさんは価値基準を語るときに「外部」と「内部」という言葉を使っているけれど、ぼくには価値観に於いて明確な
「外部」ってのがあるとは思えない。テクストに外部はない、みたいな学問を専攻してたせいもあるんだけど
それを差し引いても、既存の価値観を排除して生きていけるなんてとても思えない。そんな強くないからね。
ロストジェネレーション世代にニーチェじみたものを押し付けても、それは「レッツ自殺!」って結果しかもたらなさないのではなかろーか。
我々が目指すべきものは、この社会から乖離したものではなく地続きにものでなければいけない、と思う。
じゃあ、どうすべきかってことなんだけど。
とりあえず、まずは団結すべきだと思うんだ。勝ってる奴も負けてる奴も。
世の中はクソで、なんとかしなきゃ楽しい人生は送れそうもない、って意識を共有することだと思う。
ぼくはかつて、ものすごく貧乏で大学の学費にもメシ代にも汲々としてた時期があったんだけど、
その時、やっぱり同じような奴らと相互扶助的に生きていて、それは例えば部屋を分け合ったりとか
僅かなカネを分け合ったりとか、電気釜を共有したりとかそういう話だったんだけど、そういうところからだと思う。
例えば、イタリアの話。イタリアは、失業率がアホほど高いけど、自殺率は低い。これは何故かっていうと、一説には
一族主義が強く根付いているからだ、と言われている。縁のある誰かが食えてなければ、誰かが食わす。そーいうところがあるらしい。
じゃあ、我々悲惨な現状にいる連中も、そーしとけばいいんでないかな、と思ってる。
とりあえず、屋根とトモダチがいれば死ぬことはない。ぼくはそー思う。
こうすることで何が得られるかといえば、リスクを取るのが非常に容易になる。
「1人が1のリスクをとる」ことと「10人がそれぞれ1のリスクを取り、リターンを分配する」ことは大分違う。
もちろん、10人全員が敗れ去るパターンもありえるけれど、かなりのヘッジが出来ることになる。
そして、何よりだけど精神的にとても楽だ。ぼくは「起業」の道を選んだけれど、他にもロースクールに行ったりとか
そういう道を選ぶことにもやはりリスクはつきまとう。金銭的なリスクもそうだけれど、孤独化してしまうことが何よりヤバイ。
官僚から政治家目指すぜ、みたいな道にしてもやはり同じだ。そういうとき、価値観を共有出来るつながりがあることは
何より強いとぼくは思う。いや、今んとこカネを得て起業に漕ぎ出したところだから、この先なんかわかんないけどね。
仲間にも全部見捨てられて、一人ひっそり首を括るって可能性も全然あるわけだし。
それで、社会批判の話に戻るんだけれど。ぼくが「就職王」でやりたかったことは
「就職活動批判」のちょっとスマートな形を提示するってことなんだ。
確かに、マクロ的に考えると我々は既存の価値観に乗っかることは出来ないかもしれない。
しかし新しいマクロな価値観とライフスタイルを創造することも、おそらく出来ないだろうってこと。
その行き詰まりの中でクリティカルなクリティークを社会にカマすとしたら、
既存の価値観に乗っかって踊り狂いながら、同時にそれ自体を批判として成立させるしかないんじゃないかと思う。。
ダンスパーティーを台無しにしたいなら、まず誰より上手く踊らなきゃいけない。そうでなければ、誰も話を聞いてくれない。
やはり、我々はこのクソみたいな社会で戦っていくしかないし、クソみたいな社会を否定したところで
クソじゃない社会の青写真を描けるわけじゃない。それは、大分昔に失敗した。
だから、このクソだめみたいな社会の集団的蛆虫として既存の価値観と地続きの世界をサバイブしていく以外に多分道はない。
そして、九人がダメでも、一人が生き残れればそいつが他を引き上げればいい。もちろん、現実的にこんなことが上手く行くか?
ってところはあるけれど、独力で社会と隔絶された「価値観」を作り出すよりは、十人で価値観を「共有」するほうがまだ成功率は高い。
「悟りを得た」人はそんなに多くないけど、「宗教にハマって死んだ」人は腐るほどいる。
その程度の価値観共有なら多分できるんでないか、そういう風にして戦っていくしかないんじゃないか、と思ってる。
人間、上手いこと価値観を刷り込まれれば飛行機でビルに突っ込めるんだから、それくらいできるんじゃね?と。
まー、なんというか。
これはぼくの戦略っぽく見せかけた誇大妄想だから、なんのあてにもならないけれど。
とりあえず、若い人間はもーちょい戦略的に生きるべきだと思うし、また同時に団結すべきだと思う。
個人の内面のナイーヴな話に閉じてしまうのは、なんかどーなんだろーな、とぼくは思うんだよね。
これから具体的にどーするか、どのようにして生き残ってリスクを取っていくかを論じるべきじゃないだろうか。
まだまだやれることあると思うんだよね、実際。
ところで、死ぬほどどーでもいいけど、「ロストジェネレーション」って若い頃第一次世界大戦に遭遇して、何か価値観がクラッシュしちゃったよーな世代の作家達を指す言葉で、「二代目」っていうとちょっとおかしいことになるよね。ロスジェネの「二代目」世代ったら、ビートの時代でケルアックとかギンズバーグとかを指すと思う。
不況なんかにぶつかった「貧乏くじ世代」を指す意味で「ロストジェネレーション」って語を使うと、今の世代は何代目になるのか、すごくめんどくさい議論が要るね。個人的に、「ロストジェネレーション」を現代の「失われた世代」に当てはめるのは色々ムリがある気が。字面はいいけど、原義から考えるとスゲービミョーな感じ。ロスジェネ論争とか言われると、今更ヘミングウェイとか論じてんの?って思っちゃうのはぼくだけじゃないと思う。
簡単に言えば、メディア化なんですよ。
昔、小説を読むってのは金持ちの道楽だったけど、明治が過ぎる辺りに一気に一般化した。
それ以前に、「心中物」とか悲恋が好まれる土壌はあったわけですが、
近代文学の隆盛、そしてその後の三島・太宰時代に至るまでずーっと
それに拍車をかけたのは、カトリック的な「純愛」の勃興ですね。
そういうわけで、上流階級の紡ぐ「物語」の上で「恋愛」っていうフィクショナブルな真実ってのは
既に明治に醸成されていた。
その上、女性解放運動が来ましたよね。家制度に深く結びついた「見合い」みたいな文化は
当然攻撃に晒されることになった。これも文学者たちと目茶目茶深く結びついてる。
これが一気に転換を迎えたのはやっぱ戦後の昭和の頃じゃないですかね。大正くらいから
上流階級の中で萌芽は無論ありましたが。昭和ってのはそういう時代だったかと思います。
思想・文学の中で醸成されたものが、社会の変化とともに一般化した。そういうわけで恋愛結婚が増えたのかと。
こういう動きは純文学に始まったわけだけれど、当然ながらエンタメに飛び火することになる。
そういうわけで、エンターテイメント、あるいは読み物、あるいは創作物と「恋愛」ってのは
日本に於いても欠かせないものとなった。そして、メディアが増えるに連れ
それは「異国の文化」から「愛の理想」へと格上げされたわけです。
現代では考えにくいですが、一昔前の書籍の持つ力ってのはスゴかったから。
そして、そういった創作の土壌が広まっていた以上「純愛」ってものがドラマの主題になっていくことも
そりゃもちろん当然の流れで、もし「恋愛」を広めた罪科を問いたいのならば
だって、あらゆる創作物から「恋愛」を抜いたらどれほどのものが残るか、想像つくでしょ?
ドストエフスキーも川端も、ヘミングウェイもほとんどみんな消滅するわけですよ。
だから今更「ドラマ」なんかに罪を問うてもマジ仕方ない。
必然だったわけです。文学と恋愛、創作物と恋愛が切り離せない以上、しかもその文化をいち早く
輸入して広めたヤツら、そしてその後の創作の基になったヤツが誰かと考えれば
http://anond.hatelabo.jp/20100211073915
創作へのドロドロした情念が、果たして童貞とともに失われるかどうか
それは創作への情念がどういう場所にあったのかを知るしかないのだけれど。
実際、童貞力で突っ走った作家は多くいた。宮沢賢治も梶井基次郎も童貞だった。
スコット・フィッツジェラルドも悪妻で有名なゼルダとしか関係を持ったことがなかった。(これはヘミングウェイの「移動祝祭日」に詳しい。彼らはチンコを品評し合える程度の友人であったことがわかって微笑ましくなる)
そして、ゼルダと関係を持った後のスコットがどうなっていくかは歴史が証明するとおりだ。
宮沢、梶井、スコットと並べた場合。
宮沢はエロ本コレクターだった。とんでもない量の春画を抱え込んでいた。オタクの走りだ。
梶井は「今日もオナニーしちゃったよ・・・」的な文章を残してるし、酒をかっくらって「オレをソープにつれていけ!」と叫んでいたという逸話もある。あの時代のカトリック的な価値観に翻弄された童貞ゴリラと言えるかもしれない。
スコットはたった一人の女を愛していたので、童貞暦は長いものの単なる童貞とは言いにくい節がある。「グレード・ギャツビー」は「偉大なる童貞」の物語でもあるが、それにしては洗練されすぎている。
なんの話だったっけか。
つまり、童貞であるということが創作の一つの動機であり得るということは確かみたいだ。
しかし、童貞を過ぎた後にも人の世にコンプレックスは尽きず、童貞には決して描けぬ描写もある。
スコットに「エデンの園」は描けない、ということだ。
要するに、人生というのはそういうものなのだ。なるようにしかならない。
文筆家には童貞が多いと同時に性豪も多い。
むしろこっちの方が多いフシもあるので、それほど気に病むことはないのかもしれない。
★★読(大学) 4. 「果心居士の幻術」 司馬遼太郎 地味。でもヘタに新撰組血風録とか読むよりマシかも。
未読 5. 「突破者―戦後史の陰を駆け抜けた50年」 宮崎学
★★読(会社員) 7. 「ドグラマグラ」 夢野久作 中高生でわかんのか? ふいんきの問題?
未読 10. 「ローダン・シリーズ<1>大宇宙を継ぐ者」 K・H・シェール,クラーク・ダールトン
★★★読(高校) 11. 「十角館の殺人」 綾辻行人 これは中高生でも楽しめた気がした。
未読 13. 「魔が堕ちる夜―デーモニックプリンセス 二次元ドリームノベルズ」 謡堂笹弘
未読 18. 「江戸川乱歩全集 第4巻 孤島の鬼」 江戸川乱歩
未読 19. 「赤い影法師」 柴田錬三郎
★★読(会社員) 22. 「ディアスポラ」 グレッグ・イーガン 会社員になってから読んだが難解すぎて楽しめなかった。宇宙消失とかの方が楽しくない?
★★★読(会社員) 23. 「EGコンバット」 秋山瑞人 「ガンパレードマーチ」っぽいなあと思った。「猫の地球儀」の方が好み。
未読 25. 「ドゥイノの悲歌」 R・M・リルケ
★読(高校) 26. 「夏への扉」 ロバート・A・ハインライン 昔のエスエフってこんなのかー。という感慨。期待しすぎるとがっかりする。
★★読(高校) 31. 「人間失格」 太宰治 背伸びして読んだが、よくわからなかった。
未読 34. 「道程」 高村光太郎
未読 35. 「鼻行類―新しく発見された哺乳類の構造と生活」 ハラルト・シュテュンプケ
未読 36. 「プログラミング言語C ANSI規格準拠」 B・W・カーニハン,D・M・リッチー
未読 37. 「ムーンチャイルド」 アレイスター・クロウリー
未読 38. 「外科室・海城発電 他5篇」 泉鏡花
★★★★★読(大学) 39. 「ラヴクラフト全集(1)」 H・P・ラヴクラフト 予想外に楽しかった! マジお勧め。
未読 40. 「饗宴」 プラトン
未読 41. 「書を捨てよ、町へ出よう」 寺山修司
未読 42. 「妖聖記」 竹河聖
未読 45. 「スローターハウス5」 カート・ヴォネガット・ジュニア
★★読(会社員) 48. 「黄昏の百合の骨」 恩田陸 同作者「麦の海に沈む果実」の続き。一冊だけなら「夜のピクニック」。
未読 50. 「黄金の羅針盤 ライラの冒険」 フィリップ プルマン
未読 51. 「フリッカー式 <鏡公彦にうってつけの殺人」 佐藤友哉
未読 52. 「未来のイヴ」 ヴィリエ・ド・リラダン
★読(大学) 53. 「桜の森の満開の下」 坂口安吾 これもアレコレで引用されてたんで読んでみた系。
未読 55. 「マッチ棒遊びの本―ひまつぶし決定版」 大島正二
★★読(大学) 56. 「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」 村上春樹 大学時代に村上春樹よく読んだけど、特に残らなかったなあ。
未読 57. 「マルコヴァルドさんの四季」 イタロ・カルヴィーノ
★★★★★読(大学) 58. 「さようなら、ギャングたち」 高橋源一郎 大学時代に高橋源一郎もよく読んだけど、理解できなかったなあ。でも、これは面白かった。
未読 59. 「すべてがFになる」 森博嗣
未読 60. 「発作的座談会」 椎名誠、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二
未読 61. 「知性について 他四篇 」 ショーペンハウエル
未読 63. 「バガージマヌパナス―わが島のはなし」 池上永一
未読 66. 「黒猫」 エドガー・アラン・ポー
未読 67. 「わが闘争―完訳」 アドルフ・ヒトラー
★★★★読(会社員) 70. 「猫の地球儀」 秋山瑞人 かなり好きなSF。小・中学で「星虫」とか読んだ後に読むといいよ。
未読 71. 「グミ・チョコレート・パイン」 大槻ケンヂ
未読 75. 「函の中の失楽」 竹本健治
★★読(会社員) 78. 「戦闘妖精・雪風(改)」 神林長平 神林長平のSFって読みづらくて苦手。
未読 80. 「今夜、すべてのバーで 」 中島らも
★★読(高校) 82. 「妖精作戦」 笹本祐一 新盤「星のダンス」とか「裏山の宇宙船」じゃないんだ。
★★★★★読(中学) 85. 「百億の昼と千億の夜」 光瀬龍 漫画もよかった。中二病も突き詰めるとこうなるという感じ。
未読 88. 「失われた時を求めて<第一篇>スワン家の方へ」 マルセル・プルースト
★★★読(中学) 89. 「星を継ぐ者」 ジェイムズ・P・ホーガン ホーガンは甘すぎてもう読めないなあ。中学生ぐらいの時は楽しめたけど。
★★★★読(中学) 91. 「MOTHER2」 久美沙織 隠れた名作。
未読 92. 「若きウェルテルの悩み」 ゲーテ
未読 93. 「信長―あるいは戴冠せるアンドロギュヌス」 宇月原晴明
未読 95. 「星の墓標」 谷甲州
未読 96. 「鴉」 麻耶雄嵩
未読 99. 「フィーヴァー・ドリーム」 ジョージ・R・R・マーティン
未読 100. 「しあわせの書―迷探偵ヨギガンジーの心霊術」 泡坂妻夫
昔はモノを思わなかったことであるなあ。
※ネトウヨの妄言なので、ネトウヨが嫌いなら読まない方が良いと思います。
(追記:当初、私自身が認識していたより、酷いことをいっているようです。ですので、読むと不快になる可能性が高いです。
基本的に、読まないことをお勧めします。削除しても、逃げたということで非難されそうなので、残しておきたいと思いますが)
連中の場合は、"情"が絡んでくるから厄介なんだと思う。
特に韓国人なんかは、"情"によって団結して、日本人を超えるみたいな考えもあるみたいだけど、事実は全く逆だと思う。
韓国人には"恨(ハン)"という概念があるんだけど、単に、"恨み"とかそういう次元を超えているらしい。彼ら曰く。
何が言いたいかというと、彼らは呪縛されている。つまり、呪われている。
具体的には、例えば、朝鮮半島は"半島"という地形が大元ではないかと思う。
三方を海に囲まれ、残りの一方が大陸につながっている。朝鮮半島の場合、日本に海上封鎖され、大陸から攻められたら終了。
同じような例として、スペイン内戦がある。スペインは、自国のあるイベリア半島につながっているフランスから攻撃を受け、イギリスに海上封鎖されるという逃げ道のない状態だった。その結果、血で血を洗う内戦。かなりのトラウマもの。ピカソがゲルニカを描いたり、ヘミングウェイが参戦したりしている訳だが。今だにそのトラウマは残っていて、最近だと、映画のパンズラビリンスはスペイン内戦を扱っていたのではないかな。
だから、"半島"というのは、基本的に呪われた地であり、韓国人は文字通り、DNAレベルで呪われている。<丶`∀´>←2ちゃんねるなんかで使われているこの顔が、その証拠で、大陸人(モンゴル系)に支配された証拠をDNAレベルで刻みつけられた。そう考えると、少し、背筋がゾッとするのではないだろうか。
(追記。上の記述は、一応、撤回しておきます。デリケートな問題ですし。ご不快になられた方、すみません)
ヨーロッパ大陸も、ユーラシア大陸から突き出た"半島"という見方も出来る。シベリアの遊牧民がたびたび攻めてきて、その結果、白人達はおかしくなってしまったという話もある。
映画の300(スリーハンドレッド)なども、白人対ペルシャで、ペルシャを禍々しく、妖怪かなんかみたいに描いている。アレは、白人のトラウマそのものだと思う(アラブ人はそれに反発したみたいだけど)。
それが、大航海時代の悲劇につながった。
300(スリーハンドレッド)に限らず、指輪物語(ロードオブザリング)も、スタ-シップトゥル-パ-ズも、バックトゥザフューチャーも、ロッキーも、白人は、"我々"と"彼ら"に分けたがる。
"我々"とは、キリスト教徒の白人、"彼ら"とは、宇宙人、未来人、ちょうの・・・いや、でも遠からずで、"自分たちとは違うもの"、滅ぼすべき敵、我々を支配するもの、我々が支配するものだったりする。
その役を、例えば、宇宙人や妖怪やロボットや、日本人なんかがやる。だから、白人が描く"彼ら"は醜く、異質で、おかしな存在だ。
(もっとも、"敵"を自分たちの写し鏡だとして考えると、白人はそのことを無意識的にも感じていると思う)
だから、日本人は、本当の意味での異世界、"ファンタジー"が描けないし、日本のファンタジー作品の住人は、容姿はどうあれ、中身は日本人ということになる。
白人の場合は、クトゥルー神話がその代表例だと思うけれど、本当に異質に描こうとする。
あと、白人でも、キリストを信じない共産主義者は、"彼ら"な訳で、80年代のハリウッドには腐るほど例がある。
(あっさり書きすぎたので、追記。多分、魂の存在を信じない唯物論者ということだからだろうか?日本人でも、唯物論者を理解出来ない人が多いかも)
それで、最初の話に戻ると、中国人は、儒教に呪縛されている。共産党全盛期に、共産党員が父親に笑ってしまうほど頭が上がらなかったという目撃談もある。
中韓人がなぜ、"情"に頼り出すかというと、彼らは彼らの世界しか持って無くて(中華思想。韓国も小中華思想)、主観(自分たち)しか存在しないから、他人の目を意識するということがあまりないので、構造と一体化してしまい、呪いに人格そのものが乗っ取られてしまうからだと思う。その結果、彼らは物事がよく見えなくなり、直情的になる。
でも、そんなに悲観的になる必要もなくて、最近は、中韓人も欧米の目を気にするようになってきたから、少しずつ状況は改善しているんでは無かろうか。
(中国のソース開示要請なんかを見ると、恨みはまだかなり残っているようだけど)
追記:
REV えさの付け方が甘め
反応早いッスね(笑)どの辺がそうだったか、ご指摘いただけると助かるんですが。
(もっとも、REVさんはいけずな方なので、教えていただけないとは思いますがw)
(再追記:ご返答、ありがとうございます。確かに、"支配された証拠"というのは誤解を生みそうですね。
結果的には、元々、朝鮮半島に住んでいた民族とは違う証拠にはなると思いますが)
yukitanuki ネトウヨの人なら賛同するのだろうか
どうでしょうね。私の個人的な発言なので、賛同する人もいるし、賛同しない人もいるでしょう。
私をレイシスト呼ばわりするひともいるだろうな、と思って書きましたし。
でも、呪いの構造を自覚しないと、不幸からは脱出できないと思うんですよ。これも個人的な経験ですが。
呪いと一体化して、人格を乗っ取られ、周囲に不幸をまき散らす例を何度も見てきましたし。
もっとも、日本語で書いた訳だから、彼らに私の考えを強制している訳でもないですし、する気もないです。
物知らずの面汚しでサーセンwwwww
私の妄言は、mobanamaさんの正論で粉砕していただけると嬉しいです。
なんとなく、語感がかっこよかったので使ってしまった面はあります。
ご指摘、ありがとうございます。
(以下、再追記)
サーセンwwwwww
これからも、みっともなく生きていきますよ!
comzoo 「日本人の性格」も「天皇」「武士道」「菊と刀」「敗戦」「戦後民主主義教育」とやらの呪いにまみれておるではないか。
その通りだと思います。
でも、日本人が、日本人のことばかり研究している現状に問題があるとは思いませんか?
外の文化と比較することによって、ある程度、相対的で、客観的な視点が得られると思います。
我々のどこが特殊でどこが外の人種と一緒なのか、それを考える必要があると思います。
(さらに再追記)
念のため書きますが、「呪いにかかっていること」と「不幸であること」は別です。
私の使っている「呪いにかかっている」というのは、「構造的に呪縛されている」ということであり、「不幸である」とは、自身の主観的な問題です。
ですので、「呪いにかかっている」からと言って、「不幸である」とは限りません。
相対的/客観的に、自分が/他者が「構造的にどう呪縛されているか」を認識することによることで、対処方法やその呪縛から逃れる方法も考えることが出来ると思います。
久しぶりに帰ってきた、実家。なんにもなかった最寄り駅は、何もないままだが、建物は新しくなっている。郊外だもの。何もないままだけど、何かが新しくなりそうな予感だけはある、そんな道路や工事現場。でも実家だけは何も変わっていない。むしろ酷くなっていた。庭には知らない猫があふれているし、家の中はゴミだらけ。僕の母の病状は悪化している。ヘミングウェイが小説のどれかで書いていたと思うけれど、男の一人暮らしは研ぎすまされるようにモノが減る一方だが、女のものは全く逆だ。母は一人になってから、ただひたすら生活性を鈍らせ続けている。
僕はそんな中、専業主夫のように家を片付けて続けている。洗濯機を新調した。そこいら中にカビキラーをまき散らし、壁紙にこびりついた黒ずみを落とす。落ち着くような気がする。手で何かをしている、という実感はある。と、同時に、僕は途方もない不安感に苛まれる。将来が不安になる気がする。あぁ思い出した。学校を出た当時、この不安感を取り除こうとオナニーばかりしていた。そんな、感覚。今の僕は、もう少し強くて、何をすればいいのかはわかる。けど、やっぱりすごく不安でつらい。そしてなぜこんな風に感じるのか考えてみるけど、やはりよくわからない。
今さっきトーマス・マンの「魔の山」を読もうと思って2ページくらい読んだんですが、ふと思い立って皆の知恵(というか経験?)を借りてみようと思った次第です。
とりあえず、今まで読んで面白かったのは
ヘミングウェイ「誰がために鐘はなる」
スタンダール「赤と黒」
チェーホフ「退屈な話」
等々
自分の分析では、「登場人物(一人称小説なら主人公の)の心理描写が丁寧で、ストレート」なものが好き。
で、「登場人物の考えがいまいちわからない」ものが苦手。たとえば、カフカ、カミュ、など(あくまで個人の趣味の問題で別にけなしてるわけではないです)
あと、どうも「あまりにも細かいことについて掘り下げる日本の小説」も苦手。「暗夜航路」がだめでした。(あくまで(以下略))
あ、ドストエフスキー、シェイクスピア、ホメロス、以外でお願いします。既読が多いので。新しい人とか作品が知りたいのです。
です。こんな私にお勧めありませんか?奇特な方、ご教授ください。作品名だけじゃなくて一言何かあるとさらにありがたいです。注文が多くてごめんなさい。
http://anond.hatelabo.jp/20081020231740
>シェイクスピア、ヘッセ、トルストイ、ヘミングウェイ、ホメロス ドストエフスキー
この中だとヘッセ以外ならだいたい読んだよ。
神様につく枕詞がいちいちかっこいい。物語自体の意味なんてわからなかったけど、ホメロス読んでると現代文学がおもしろくなる。ジョイスだったり。
たしかに自分のまわりにもほとんどいないな。文系だけど。
でも、もし語れたとしても語る内容が重くなるから気軽にはなせないんだよね。
それだけじゃなくて、少々わかりにくいし意味だってどうとでも取れるから、適当なことを言ったらバカにされそうだし、背伸びしてこむずかしいこと言ったら相手が「うーん」とか言って黙り込むし。たまに原典厨がいて(帰国子女や外国語が得意な人に多い)、日本語訳しか読んでないくせに偉そうに語るなと陰で言われることもある。ある意味間違いではないけど、そういうこと言い始めたらなにも始まらない。
本当はドストエフスキーは笑えるほどおもしろいらしいね、大学の先生が言ってた。それなのに、私小説あがりの陰気な日本文学史の態度で読むのが(インテリの)マナーみたいになってるからみんな難しい顔して読まないといけないようになってしまってると僕は思う。たとえばアメリカのビートあたりはもっと楽しく読めるけど、そういう明るいのは正当に評価されないし。実験的作品でも笑えない言葉遊びだけが文学的に評価されて笑える言葉遊びは評価されてないと思う。
それから、読んだことの見栄や既得権意識が邪魔してる。今でも憶えてるけど、僕が高校生の頃ライ麦畑でつかまえてを学校図書館で借りたら「おっ、ライ麦か、ふーん」と読書家の友達からちょっと上から目線でコメントされたことがある。
似たような感じだとドストエフスキーだったら3作読むだけでも大仕事なのに、「地下室読んでないの?あれは基本だろ!」とか「死の家の記録は彼の転換点なんだから、読んでないなら彼を語るな」とか「ニーチェも読んだ?バフチンは?読まないとダメだよ」なんていくらでも言われる。読んでることが既得利益になってる、情報ならなんでもそうだけど。そうやって見栄を張るための道具になってて、さらにはプロの批評家同士が勉強不足をなじることで議論に打ち勝って原稿料をせしめるというシステムすらあるから、なかなか声に出しずらいんじゃないかと思っている。別にアホな感想でもいいから気軽に楽しく読んで話せたらいいのにと思うけれど、そういうつっこみが怖くて誰も語らないからどこに行っても話題にならない。
結局読書は自己完結なんだから良いのかもしれないけど、読書は上からありがたく拝見させていただくだけ、という図式になってるのが問題なのかなと思う。この形式は読書感想文なんて最たるものかもしれない。一人で静かに書いて先生にみてもらう。そして先生が採点する。そういうのより、みんなで3冊ほど読んで、昼ご飯食べながら2時間くらいしゃべったりしたほうが、活字離れはなくなるはず。逆にマンガみたいなのは下からの支持があって成立するからみんながわんさか話し合って業界全体が盛り上がれる。ただし、みんなにみてもらわないと成立しないというのは弊害もあって、萌えなんかの要素に頼ったり、似通った感動パターンの作品を量産してしまう欠点はある。そういうのがあって深みがないだとか他の分野から言われることもあると思う。ライトノベルと携帯小説の強みは楽に読めて楽に人に勧められる点にあるのかもしれない。
殴り書きしてみたけど、こんな感じかな。
もしかしたら、こういう風にきまじめな分析をしてみたがること自体が気楽に話せなくなる理由の一つかもしれないけれど。
とりあえず、ここで気楽に話してみたらどうよ?
若い人読んでるの?シェイクスピア、ヘッセ、トルストイ、ヘミングウェイ、ホメロス、etc…
いや、俺も大学生なんだけどさ、なんかドストエフスキーとかは2chとかの「この本は読んでおけ」みたいな話題で名前がでるじゃない?それだけ見てると実際読んでる人結構いそうだと思うんだけど、俺の周りには全然いない。
俺自身が理系の学科にいるからっていうのもあると思うけど、バイト先にもいないし、サークルにもいない。やっぱそういうのを読んでる奴って文学部とかなの?確かに俺の知り合いには文学部はいない。
俺はさ、上に挙げた人達の作品って好きなんだ。でも、周りとまったく共有できない。別に趣味だから自己完結しても良いんだ。それでも楽しめるからこそ趣味なわけだし。
でも、たとえば漫画とか音楽だったら、リアルな友達とも話せるし、ネットでも共有できる。でも、古典は駄目。mixiのその手のコミュとかも見るけど、小難しいことを言ってるか、大学で出された課題とか卒論の相談ばっかり。他のグループみたいに自分の嗜好をフルオープンにする人もいない。
ねぇ、どこかに、その手の本が好きな人達が気楽に話せるところはない?それともやっぱり若い人は読んでない?俺そのジャンルで唯一話が合うのは父親だけなんだ。