はてなキーワード: デレク・ハートフィールドとは
「鼠」は「風の歌を聴け」に始まる「鼠四部作」に登場する。主人公の友人であるが、ある日突然行方をくらまし、「羊をめぐる冒険」では自ら死を選ぶ。語り手と主人公の仲は深く、あたかも語り手の半身のようである。己の半身が半ば死の世界にいるというモチーフはこの後に何度も繰り返される。
この半身のように親しい友人は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のなかでは幻想パートの「影」に姿を変える。彼は語り手の半身であり、語り手の記憶を保持している。壁の中に閉じ込められた世界を脱出するためには二人がそろっていなければならないが、土壇場で語り手は壁の内側にとどまることを選び、影は死ぬことになる。
「ノルウェイの森」では彼は「キズキ」になる。物語の序盤で排気ガスによる死を選んだことが語られ、交際相手であった直子の死の遠因となる。
また、直接の半身ではないにせよ親しい友人で自ら死を選ぶ点で共通しているのは、「ダンス・ダンス・ダンス」の「五反田君」だ。彼は連続殺人犯であったことを明かして死ぬ。このあたりのくだりは恐らくチャンドラーの影響が深い。
このように、半身はしばらくのあいだ無力な存在だったが、「海辺のカフカ」以降では様子が変わる。「カラスと呼ばれる少年」は、「カフカ少年」のもう一つの人格のように見えるが、彼は「カフカ少年」を客観視し、適切なアドバイスを与える。一貫してサポートしてくれる存在だ。半身が異界の住人であるというモチーフであり、「鼠」の系譜に属しているが、そこに自ら死を選ぶような面は見られない。「海辺のカフカ」は主人公がとても若い点でも特異だ。
ただし、佐伯さんが現実感を失った生活をするきっかけとなった、東京の大学紛争で殺された友人は、佐伯さんがノルウェイの森の「直子」の系譜に属するとすれば、「キズキ」のもう一人の子孫だ。
キズキと直子が、そして佐伯さんとその恋人は幼い頃から自然に性交をしていたが、まるで思春期の完璧さを求める性向が現実によって打ち砕かれるかのように、その関係が死によって断たれる点でも、この二つのカップルは類似している。
村上春樹の小説には一貫して何らかの精神疾患を患った、少なくとも感情的に不安的な女性が出てくる。
デビュー作の「風の歌を聴け」の時点から、「小指のない女の子」として出てくる。彼女は話している途中に突然泣き出してしまう。また、周囲の人々がひどいことを言うとも語るが、これが事実なのか、精神疾患ゆえの妄想なのかどうかは判然としない。
この系譜が「1973年のピンボール」の中ですでに亡くなっているかつての恋人「直子」につながり、さらに「羊をめぐる冒険」の「誰とでも寝る女の子」につながっているかどうかはわからない。ただ、「ノルウェイの森」の「直子」には直接つながっているだろう。語り手の過ちによって感情を失った「国境の南、太陽の西」の「大原イズミ」も、彼女の裏面だ。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の「白根柚木」もその子孫だ。
また、恋人または妻の一つのアーキタイプとして、「ねじまき鳥クロニクル」の「クミコ」「加納クレタ」や「スプートニクの恋人」の「にんじん」の母にも発展しているようにも思える。
より明確な形としては、「海辺のカフカ」の「佐伯さん」が子孫のようだ。前述のように恋人の死をきっかけに精神を病む、少なくともある種の現実感を失ってしまう点が共通している。ただし、佐伯さんは後述の老女の系譜にもつながっている。ピアノができたことを考えると、「スプートニクの恋人」の「ミュウ」も「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の「白根柚木」も同じカテゴリに入れていい。
そもそもこのキャラクターの流れについての記述は、誰が後の作品の誰に直接発展したかを明確に追うことではない。おそらくはいくつも混ざり合っている。むしろ、これは村上春樹の作品を解釈するための補助線として見るのが適切だろう。
彼女がやたらとタフになったのが「1Q84」の「青豆」かもしれない。あるいは、生命力にあふれている点では後述の「ミドリ」だろうか。
直子とは対照的な心身が比較的健康なタイプの女性の系譜もある。
性に対する好奇心の強い「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の「太った娘」もそうだが、彼女は後述する「少女」の系譜につながる面もある。
同じく制に対して罪悪感を持たない「ノルウェイの森」の「ミドリ」、「国境の南、太陽の西」の「島本さん」、「スプートニクの恋人」の「すみれ」、「海辺のカフカ」の「さくら」(どうでもいいがこのキャラのせいでおねショタに目覚めた)、「1Q84」の安田恭子へとつながっている。
村上春樹の作品を時系列順に読み返すと、ある時点で突然新しい属性を持ったキャラクター群が登場する。それは、どことなく巫女的な力を持った若い女性である。
前兆としてあらわれるのが、「羊をめぐる冒険」では耳専門のモデルをしている21歳の女性だ。彼女は不思議な力で主人公を羊へと導くが、物語の終盤を前に姿を消してしまうので、いくばくか影が薄い。しかし、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる肥満の17歳の女の子は語り手を「やみくろ」の支配する東京の地下世界にいざなう。
より少女性が強まるというか、単純に年齢が幼くなるのが「ダンス・ダンス・ダンス」に登場する13歳のユキで、彼女は五反田君の殺人の痕跡を巫女のように感じ取ることができた。
「ねじまき鳥クロニクル」での「笠原メイ」は、映画「ロリータ」を思わせる登場の仕方をするし、終盤では主人公を救う力の源であるかのように描写されている。月光の下で裸身をさらす姿は、今までの村上春樹にはなかった描写である。確かに「ノルウェイの森」で「直子」がそうするシーンはあるが、彼女は成人した女性だ。
「海辺のカフカ」では夢の中に現れる十五歳の佐伯さんの姿を取る、ここでは少女との性交が初めて描かれる。
巫女的な少女の系譜がより明確になるのが「1Q84」に出てくる17歳のカルト教団育ちである「ふかえり」だ。彼女は何らかの学習障害を患っていて独特の話し方をするが、彼女との性交は異世界との経路となる。
村上春樹が歳を重ねて少女との性交を書くのをためらわなくなっていったのは面白い(【追記】「ふかえり」にいたっては巨乳の文学少女という属性!)。というのも、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では肥満の女の子から私と寝ないかと誘われて断っているからだ。
大学の先輩がこう述べていた。ある種の作家は自分が生まれる十年ほど前の出来事をテーマにすることがある。なぜなら、自分が参加できなかった「祭り」だからだ。これが事実かどうかはわからないが、村上春樹は古くから第二次世界大戦と中国がテーマに含まれている。「鼠」の父親も戦争とその後の混乱で金持ちになった人間だ。興味深いことに村上春樹の父は中国に従軍している。
(余談だけれどもこの先輩は村上春樹作品にしばしば出てくる井戸は「イド」つまり無意識を示唆しているのではないかと言っていた)
さて、老人がキャラクターとして物語の信仰に深くかかわるようになったのは、「羊をめぐる冒険」の「羊博士」からだろう。彼はいるかホテルにこもったきりで、外に出ようとしない。しかし、探し求めている羊がどこにいるかという重大な情報を指し示す。
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でも、現実パートには「老博士」が出てくるし、幻想パートには退役した「大佐」がいる。
軍人という属性が前面に出てくるのが「ねじまき鳥クロニクル」の間宮老人だ。彼はノモンハンにて過酷な体験をするし、そこである種の悪しき力に取りつかれる。
「海辺のカフカ」には「中田老人」が出てくる。彼もまたある種の不可解な力(後述の闇の力?)の犠牲になり、記憶や知性の多くを奪われてしまう。一方で、彼は「カフカ少年」に代わって父殺しを遂行する半身でもある。
「1Q84」では少し特殊で、これは近過去SFであり、戦争の経験者やその前後に生まれた人々が相対的に若い。それゆえ今までのパターンを単純に当てはめるのが適切かはわからない。
天吾の父がこの系譜に属するだろうか。「1Q84」では善悪が入れ替わることが多い。幼い天吾を無理やりNHKの集金に連れまわす点でネガティブに描かれていたにもかかわらず(村上春樹はこうした巨大組織を一般に「システム」と呼んであまり肯定的に扱わない)、後半では声だけの存在になった彼が助けに来るのだ。
なお、戦場に行っていたという点を考慮すると、これらの老人たちは村上春樹の父親の世代に当たるだろう。
米軍基地にいたという点でジェイもここに属しているかもしれない。
一世代上の女性が出てきたのは「ノルウェイの森」の「レイコさん」だ。彼女は心を病んではいるものの、主人公たちを導いてくれる。「直子」のルームメイトとして、彼女の心身の安定に寄与している。
それがおそらく「ねじまき鳥クロニクル」の「赤坂ナツメグ」になるし、「海辺のカフカ」の「佐伯さん」を経て「1Q84」の「緒方静恵」になる。
彼女たちの多くは戦争をはじめとした暴力の中で深く傷つき、その中でもある種のコミュニティ・安全地帯を運営し続けている。「レイコさん」は精神病院の患者たちのまとめ役だし、「赤坂ナツメグ」は女性向け風俗(?)で女性の性的空想を現実にし、「佐伯さん」は図書館という静謐な環境を守護し、「緒形静恵」は性暴力を受けた女性の避難所を運営して、しばしば法を破ってでも報復を行う。年齢的にはかけ離れるが、「スプートニクの恋人」の「ミュウ」もこの老女の系譜に属するか。
彼女の息子たち(血縁があるかどうかはともかく)の系譜は、「赤坂ナツメグ」の息子「シナモン」、「佐伯さん」の図書館で司書を務める「大島さん」、それから「緒方静恵」の柳屋敷でセキュリティを担当するタマルだ。セクマイであることが多い。
「1973年のピンボール」の双子の女の子を除いて、概して二人組の登場人物は不吉な前兆だ。体格は対照的なことが多い。
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では「大男」・「ちび」の二人組が語り手に刺客を差し向け、第三勢力になって儲けようとだましに来る。「ダンス・ダンス・ダンス」ではまるで「長いお別れ」みたいな嫌がらせをしてくる「文学」「漁師」と語り手があだ名をつけた警官が出てくる。「海辺のカフカ」に出てくる二人組は、軽率な発言から「大島さん」を傷つけてしまう自称フェミニスト二人組だ。「1Q84」には「さきがけ」のリーダーの警備をする坊主頭とポニーテールの二人組がいる。
ただし、何度か繰り返すが善悪のシンボルを意図的に逆転させることが多いのが村上春樹の作品で、おなじ「海辺のカフカ」でも「カフカ少年」を森の奥に導くのは同じように体格が対照的な二人組の日本兵だ。
また、よくよく考えてみれば、「風の歌を聴け」の時点でも、「小指のない女の子」には双子の妹がいたのである。直接姿を見せず言及されるだけだが、このモチーフの萌芽とみていいだろう。
村上春樹はある時点で純粋な悪の起源はなんであるかについて語ろうとしている。
それは悪しき登場人物の姿だけでなく、クトゥルフ神話的な怪物としても姿を見せる。
現に「風の歌を聴け」に出てくるデレク・ハートフィールドの伝記は、ラブクラフトやバロウズをはじめとしたパルプフィクションの作家たちを混ぜ合わせたものだ。
「鼠四部作」のなかでは「羊」がそれに該当する。不可解な暴力や権力の中心に存在し、人間に憑りつくことで現実的な力をふるう。あるいは、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の現実パートの「やみくろ」たち、幻想パートの「門番」。「ねじまき鳥クロニクル」の「ねじまき鳥」や、綿谷昇の属する政治の世界。そして「海辺のカフカ」に登場する「ジョニー・ウォーカー」や、「中田老人」の口の中から出てくる不可解な物体。
非人間的な力ではないが、「ノルウェイの森」の「レイコさん」の精神を悪化させる原因となった少女も、この系譜に属していると見なしていいかもしれない。
だが、「1Q84」のリトルピープルの存在は解釈が難しい。今までとは異なり、単純な悪ではないようだ。初読時には「これは人が複雑な現実を物語化する能力の具現化で、善にも悪にもなりうる、ある種の単純化する力ではないか」と思ったが、再読したら違う印象を受けるやも知れない。また、「牛河」も悪しき力の手先のように見えるが、離婚した妻子がおり、生きた人間であって化け物ではない。
善悪が曖昧と言えば、「海辺のカフカ」では「圧倒的な偏見でもって強固に抹殺するんだ」が主人公サイドと敵役サイドのいずれでも使われる。
こんな風に、村上春樹はある時期から善悪を意図的にぼかし、単純化を避けるようになった。
【追記】アフターダークの暴力を振るった深夜残業してたサラリーマンもここにいれていいかも。
村上春樹後半期のテーマの一つをまとめるとしたら「どれほど不適切な養育環境で育ったとしても、その現実を受け入れてスタートするしかないし、ときとしてそこで学んだことに結果的に心が支えられてしまうケースがある」だろう。言い換えると「歴史・過去を消し去ることはできない」だ。
あと、「国境の南、太陽の西」の「にんじん」はうまくしゃべれないけど、「海辺のカフカ」の「カフカ少年」の造形に影響を与えたかもしれない。
別に結論はない。ただ、こういう順で発展していったのだなと考えながら読むと楽しいだけである。
もう一つ興味深いのは、親が亡くなるかそれくらいの年齢に近づくと、ちゃんと親と向き合ったような小説を、みんな書き始めることだなあ。
影のように冷やりとしたそれは、彼女が僕にプレゼントしてくれたものだ。
「進級祝いに」と彼女は言った。
僕はほんとうは留年をしたのだけれど、そのことには触れなかった。
そうして、僕は彼女と寝た。
この無口な新しい同居人に慣れるためにも、これからは、鳩時計のように定期的に日記を書き続けていきたい。
そんなわけで、僕は時の淀みの中ですぐに眠りこもうとする意識をビールと煙草で蹴とばしながら、この文章を書き続けている。
ここで文章が終わってしまうのは、いかにもハンバーグの下に敷かれたスパゲッティのようで、味気ない。
自己紹介も兼ねて筆を進めて行きたいと思う。
僕の性別は男性、歳は二十代前半、大学生をしている(授業にろくに出ずに籍だけを置いている人間を大学生と呼んで良いのであれば)。
僕の不徳の致すところにより、これから先数年は学生身分を続けなければいけないことになっている。
僕は、文章を読んだり書いたりする事が、春の熊くらい好きだ。
もっとも、僕の作文能力や長文に対する集中力は、近年流行った短文型SNSにすっかり毒されてしまっているみたいだけれど。
図や数式といったものを、そのまま扱って思考することが出来ないし、スポーツをするときも、身体の動きを文章で理解しないと再現できない。
言葉を介さない思考をするくらいなら、ボールベアリングの歴史とか、ウクライナの鉱物資源の分布状況とか、そんな話をしていた方が、まだましだ。
疲れている時は、幼稚園児が春の昼下がりに書いたような文章に浸り続けるに限る。
Twitter最高、Instagramなんて「クソ喰らえ」である。
大学になる前の憧れは、モノ書きになることだった。
もう少し今よりも若者らしい服を着ていた頃の僕にとって、大学生とは、ヒマな時間を腐るほど持て余し、自らの趣味に没頭するものだった。
だから、大学生になった自分は、上質な文章に触れ続け、いつかは自分自身で上質な文章を生み出すようになると信じて疑わなかった。
しかし、実際の大学生は、勉学、部活動やその他の雑務(そう、そこにはもちろん、女の子と寝ることだって含まれている)に忙殺されてしまうものであり、とても自らの趣味を極める余裕などないのである。
少なくとも僕には、デレク・ハートフィールドの墓を見つけるよりも難しい。
この話を聞くと、趣味の時間も十分に取れないほど勉学や部活動に熱中することが出来て幸せではないか、と考える人もいるだろう。
そのように考える人間は、思春期のハムスターみたいに、回し車を回し続ければ良い。
きっと、焼きたてのパンを日だまりで食べている人のように幸せになれるだろう。
忙しさというものは、時間を圧迫するだけではなく、ヒトが自由な時間に創造的な行動をする気力を奪う悪魔なのだ。
このはてな匿名ダイアリーという戦場で、忙しさという悪魔に打ち勝って、自らの創造性を再獲得するのだ(僕がかつて創造性を持っていたかはともかくとしても)。
これくらい文章を書くと、生まれて初めてパソコンに触っても、丑三つ時のコウモリのように自在にタイプすることができるようになることが分かった。
今日は、この辺りで筆を置きたいと思う。
(そろそろパスタが茹で上がった頃だ。)
これからは、気が向いたら何かしらのテーマを持った文章を書きたい。
彼女について語ろうとするとき、僕は自分がひどく不器用になったように感じることがある。
デレク・ハートフィールドの「暗黒期」の作品にも少し似ているかもしれない。
オーケー、とにかく話を進めよう。
僕がはじめて彼女とまともに話したのは、ひどく暑い夏の日の午後だった。
彼女は、ローリング・ストーンズの「ブラウン・シュガー」を口ずさみながら、庭で穴を掘っていた。
「なんで穴なんかを掘ってるんだい?」
そう尋ねる僕に、彼女は答えた。
「私は、フライパンを、埋めなければ、ならない」
力強く語る彼女の口振りは、厳しい選挙を勝ち抜いた大統領の勝利宣言を僕に思い起こさせた。
彼女の足元には、哀れにもこれから埋められようとしているフライパン。
そのフライパンにこびりついた黒焦げは、ゴミを漁るカラスの羽のようにも、宇宙の最果てーもちろん僕はそれを実際に見たことはないけれどーのようにも見えた。
こうして、僕は彼女と寝た。
翌朝、僕が目覚めると、彼女はまた庭にいた。
彼女は、昨日の穴から少し離れたところに別の穴を掘って、卵を埋めていた。
「卵を埋めるなんてもったいなくないか?」
僕は尋ねるべきではなかったのかもしれないが、尋ねずにはいられなかった。
彼女は、愛犬を亡くした飼い主のように悲しそうな顔をしてこう言った。
「あなたは、フライパンと卵があるとき、卵の側に立つ人なのね」
それが別れの言葉であることは、いくら鈍感な僕にだって明白だった。
僕は、何も言わずに庭を去り、二度と彼女と会うことはなかった。
僕と彼女の話はこれで終わりだ。
そこに湧き上がるような歓喜はないし、静かに沈み込むような絶望もない。
今となっては、僕は、彼女の顔を思い出すことすら難しい。
別に彼らの作る音楽が特別素晴らしいメロディーがあるとか、歌詞がとてもよいとか、斬新だとか革新的だとか、そういうわけじゃないんだ。
(何しろ全然有名じゃないし、ぐぐってもロクに情報はないし)
切実なだけなんだ。
真空メロウの歌詞は結局殆どが才能について書かれている、と思う
(だけど歌詞が書いてあるサイトって2ちゃんねるくらいしかない)
「君の残りはどれくらい?」
言葉を残すことはしないんだ。突然消える人もいれば、事務連絡だけのサイトが残る人もいるんだけど。
それは興味深い。
真空メロウのメンバーは三人。いまだに音楽をやっているのはヴォーカルの忌井三弦だけ。
それでその日記がすごくいい。
それで、忌井三弦はちょっとデレク・ハートフィールドみたいだとか思ってたんだけど。
(デレク・ハートフィールドはそこに出てくる架空の作家)
固有名詞ばっかりだし説明する気ないし。それでも注釈入れてもうざったいし。
注釈の注釈の注釈の注釈みたいに書いてみるのも面白いと思うけど、もう眠たい。
そうそう小説がぱったりと書けなくなった。
これはよくあること。
ていうか書こうと思わないんだ。まだそういう時期じゃないんだ。
きっとそう。
でも頭の中じゃ新しい調味料とか材料とかが入ってくるからそのうち何とかなるんじゃねーかなって思ってる。
これは去年なかった感覚。