>見ない権利
少なくとも「見て不快になる」だけが論点であるならば優先順位は極めて低いと考えます。なぜならば五感の中でも『嫌いなものを見ない』は目を背けるだけで実現できる比較的容易なことであると考えるからです。
聴覚や嗅覚はそうはいきません。なので、『見て不快になるコンテンツは見る側に目を背けるという努力をさせるのではなく、不快になる人が見なくて済むように見せる側を規制するべきだ』が受け入れられるならば、
『自閉症の人が突然上げる不快な奇声を聞かなくて済むように自閉症の人が公共の場所に出てくるのを規制しろ』『ホームレスの悪臭を嗅がなくて済むようにホームレスを公共の場所から追い出せ』はもっと通ってしまうのはないでしょうか?
もちろん、「極端な光量で直接的に目が痛くなる」「激しい点滅により少なくない人に光過敏性てんかんを起こす」ような具体的な被害があるならば別です。
まず『子どもへの悪影響』というのが考えられますが、これについてはおそらく『実際に悪影響があるのか』に関する実験結果は存在しないと考えます(あるなら真面目に教えて欲しいです)。
とはいえ、『(子どもも見る場所においては)男性器・女性器・肛門はアウト。おっぱいは場合による』程度が個人の経験の平均としての現状の社会的合意であると考えますし、その点については否定するものではありません。
(無論、『子どもの脳を正確に再現したAIが開発され、子どもに性的なコンテンツを見せることの影響が詳細に研究された』『人権無視国家がガチで子どもを実験台にして研究した』『並行世界観測装置が発明され、性的なコンテンツを見た世界線と見なかった世界線の違いが数万人分調査できた』などが起きた場合には基準が厳しくなったり緩くなったりすることも考えられます。)
私は先天的に容姿が悪かっため、女性から恋愛対象として好かれた事がない。
また、性格もコンプレックスから積極的になれず、20代まで一般的な恋愛体験をしていない。
30代の今、相変わらず恋愛からは遠ざかっているのだが、承認欲求と性欲だけは昔から減ることなくずっとある。むしろ人から選ばれない虚しさから年々増えているような気がしている。
満たされたいのに満たされない
この状態がずっと続くといつか堤防が決壊して大変なことをしでかしてしまうのではないかと不安になってしまう。
彼は私とは違い、顔もスタイルも平均以上、収入はかなりよく、条件はまったく異なるが、しかし何らかの理由で心に闇を抱えていて、性癖が歪み、さらには暴走してしまったのだと思う。
いつか自分も渡部ぐらいの年齢になったらついに抑えきれず暴走してしまうのかと考えてしまう。
お金の力でなんとかしていた部分もあると思う。
お金がない人間が心の闇を暴走させ歪んだ性癖と溢れる性欲を発散させたいとなったら、何をするだろうか。何ができるか。何をしたいだろうか。
「高校で文学の勉強をせずに、もっぱら実用文に重きを置いた教育をすることになった」という記事だ。
「本が読めない人」を育てる日本、2022年度から始まる衝撃の国語教育 | 教育現場は困ってる | ダイヤモンド・オンライン
あまりにも間違いが多いので、どこかでデマとして中和されるだろうと思っていたが、一向に中和されず、インフルエンサーまでツイートしはじめる始末なので、無駄かもしれないが、間違いを指摘しておきたい(一部については、心ある人の指摘によって途中で記事が修正されている。ありがとうありがとう。)
デマに対処するのは面倒だが、整理しつつ述べていきたい。なお、この文章は今回の改訂の方針に賛成・反対という立場を採らずに書く。
「2021年から「大学入学共通テスト」が実施され、それに合わせて高校の国語の改革も行われることになった。」と書いてある。これはその通り。そして、モデル問題として、「国語に関しては、生徒会の規約、自治体の広報、駐車場の契約書が問題文として出題された」と書いてある。これもその通り。
しかし、既存の「小説(詩)」や「評論」が出題されなくなるわけではない。このことを書いていないことが悪質だ。モデル問題は、記述式がなくなったため、参考になりにくくなっているが、ちゃんとモデル問題そのものを見てほしい。思ったものと違うはずだ。
「実用文」は確かに出題されるようになる。だが、それだけを出題するわけではない。古文も漢文も出る。
ここからが少しややこしい。高校の国語には「必修科目」と「選択科目」がある。
必修科目は主に1年生で学ぶことになる科目だ。これには、「現代の国語(評論文や実用文)」「言語文化(小説や古典)」の2つがある。これはどちらも学ぶわけだ。科目を2つに割ることはどうなのか、という議論はあるが、「小説」が消えるわけじゃない。
記事の中で書かれているのは、2年生以降で学ぶことになる選択科目だ。これには4科目ある。
「論理国語」:実用文や評論文 論理的に書いたり話したり聞いたりすることも学ぶ
「文学国語」:小説や詩 小説や詩を読んだり書いたりすることを学ぶ 創作楽しみだ
「国語表現」:主にコミュニケーション中心の科目。レポートを書いたり、スピーチをしたり、ディスカッションしたりを学ぶ
「古典探究」:古典 古典を読んだり、古典について探究的な学習を行ったりする。古典と現代の言葉を比較して変遷を調べたりもする
中身は大ざっぱに書いている。くわしくは学習指導要領を読んでくれ。
で、この4科目から、おそらく「2科目」(多いところは「3科目」)選ばれるだろう、というのが今の目算だ。
いわゆる進学校だと、入試を考えると外しにくいのが「論理国語」。これは記事にも書いてある通り。もうひとつは「古典探究」が確かに有力だろう。だが、「文学国語」が選ばれる可能性もそれなりにはある。
そもそも元になっている記事は「古典」にまったく触れていない。「古典」にはかなりの部分文学が含まれるのだから、「文学の勉強をしない」は嘘っぱちだ(古典文学よりも近代や現代文学が大事だ、という主張ならばできる)。
さて、肝心の「論理国語」だが、記事ではあたかも「実用文」の科目であり、「駐車場の契約書、レポート、統計グラフ、取扱説明書」を学ぶかのように読めるが、これだけではない。
対象になっているのは、「論理的な文章(論説文や解説文,社会生活に関する意見文や批評文等)」と「実用的な文章(法令文・記録文・報告文,宣伝文等)」だ。記事では前者についてほとんど言及していない。そして、このどちらも単純に理解できるようにするんじゃなくて、散々言われてきたように「批判的に」読めるようにすることをねらっているものだ。
記事に書いてある「実用文しか読まない非教養人」を育てることになる、という指摘はミスリードだ。そして、こういう記事にミスリードされない人間を育てようとしているのが、今回の改訂だと言ってもいい。とはいえ、専門外の文章を批判的に読むことが難しいことは、今回のことでもよくわかっただろう。
今回の改訂には問題も色々ある。だが、不確かな情報で議論したところで得るものは少ない。
とりあえず、ダイヤモンドオンラインの書くことを真に受けて、「これでは日本が崩壊する!」とか叫ぶのはやめてほしい。「本当かな?」と思って調べる一歩を大切にしよう。
ブックマーク数15は超えて安心したが、デマに対するワクチンにはなりそうになくて残念だ。
とにかく、教育に関する議論は「自分が受けた教育」をベースに話す人が多いが、それには注意しよう。今のコンピューターのことを話すときに、WindowsXPの経験をもとに話されても困るだろう(これは比喩)。教育も同じことで、少なくとも10年単位で教育はかなり変わる。教科書も変わる。確かに、高校は変化がにぶい。だが、小学校や中学校は大きく変わっている。もちろん、「変わる」ことがいいことだとは限らない。
現状に問題がないわけでは全然ないが、自分が「いつの問題」のことを話しているかを意識して話さないと、互いの話は食い違い続ける。
こういうご指摘をはてなブックマークでいただいた。ありがとう。
myogab
反論の組み方が藁人形論法ぽくて、元記事の筆者もそんな極論だけを吹聴する気はないだろうよ…って感想。誤解が広まってるなら訂正は要るだろうが、論点逸らしをしてるなら逆効果だろな。
藁人形論法のつもりはなかったのだけど、冗長になると思ってあまり引用しなかったせいかもしれない。できれば元の記事を読んでみてほしい。論点は色々あるが、この記事では論点を示すことが目的ではなかったので触れなかった。触れた方が盛り上がるのかもしれないけど。
で、誤解なのだが、わりと広がりつつあって頭が痛い。Twitterでは、「#国語教科書の小説廃止に抗議します」というハッシュタグがある。だから廃止しないんだって。
今日は町山智浩さんが「国は国語教育から文学より実用文を重視する方針ということですが、それでいったい誰が国語教師になるというのでしょう?」と元の記事を引用してツイートしてた。読書猿の人も(おそらく好意的に)次のツイートをリツイートしてる。
hhasegawa
文学中心ではない国語教育を、というのは実はわからぬでもないものの、そこで持ち出される「実用文」が「生徒会の規約、自治体の広報、駐車場の契約書」なのがいかがわしい。文学以外の文章といえばそれしかないの?
小説や文芸評論ではないテクストがすなわち規約や広報や契約書ではないわけで、例えば論説記事でも歴史叙述でも新書のような学術的概説でもそれに該当し、どれも相応に「実用的」なのである。要するに、「論理国語」で真に排除されかかっているのは文学ではなく、「テーゼのある文章」一般ではないか。
「論理的な文章」に「論説文」が入ってるんだから、「テーゼのある文章」が排除されるわけがない。これも、元の記事があたかも「実用文」だけを学ぶ科目であるかのように書いたことが原因だろう。このツイートをした人は、数日後に次のようにツイートしてる。
一応、「論理国語」教材に「新書や新聞の社説などで取り上げられる様々な分野の学術的な学習の基礎的な課題に対して、論点が明確になるようなもの」も挙げられてはいた。が、ここまで「実用」志向だと、この「論理的な文章」の内実もどうなることやら。
その心配はたぶんないよ、と言いたい。これまでの傾向から完全に変える冒険を教科書会社はできない。これは良くも悪くも歴史が証明している(いや、悪いのだが)。冒険をする教科書は売れない。
このあたりの人は、いわゆる「一般の人」よりはリテラシーがあると思う。が、それでも不確かな記事をもとに不確かなことを言ってしまう。これはまあそういうもんだよな、と思うんだけど、燃え広がりつつあると真顔で「それはちがうよ」と言うしかない。
地元の非チェーン居酒屋のランチタイムに見かけた欧州系っぽい小柄なインテリ風のおじさん。こなれた感じで、水や注文の品持ってきた店員に、都度「ありがとう」を言ってたな。
洋画のレストランシーンでそんな感じの客からの "Thank you." を観た覚えあるから、あちらは文化的にそうなんだろうと納得しつつも、日本的には、ちょっと礼を重ね過ぎという気はしたよ。
(あと、そのわりに語尾が丁寧語でないっていう元増田夫的な違和感も。でもまあ、"Thank you." の置き換えだし、外人さんに敬語は難しいよね、と、そこは思い直しw)
そうやってみんなの仕事を増やしてくれてるんだよ
なんでも、あれ あれ じゃわからない。
ただ、世の中にはそれを指摘するとキレだす年寄りの多いこと…
脳味噌を覗き込むようなことをしないともはや無理なレベルの「アレ」の連発。
後々自分もやらないようにしなければ…
風俗嬢が、金を稼げず、食えなくなるな
Thank you!が良いと思うよ