ごめんなさい。さっぱり伝わってないですね。やり直し。
全く冴えない高齢独身に比べて、周りの既婚者で不幸そうな人が全然いないこともあり、やはり目指すならあっちだろうと、そういう話です。
と、あったので、どうも元増田さんにとっての「結婚」というのが「絵に描いた餅」に見えたのです。
だから、もうちょっと現実的に考えれば、「結婚」できるんじゃないかなあと思いました。
趣味仲間の彼は「気が利かない」んじゃなくて、「自分がやりたいことに集中してしまうと、他のことは何にも目に入らないタイプ」なんすよ。だから、一緒に趣味を楽しんでいる分には、内容のレベルは高いわ、すごい集中力でびっくりするようなアイデアを出してくれるわと、すっごくいいんです。ただ、他のことにも、その集中力を発揮してしまうので、メモをする必要があると思ったら「おい、メモ」とか言って、こっちがモタモタしていると「もういい」とか言われたりして(なにさまっ!)と思うことがたびたびあるというだけのことです。「他人は自分の要求通りには動かない」ということを、もうちょっと配慮してくれれば、きっと彼女もできるだろうにと思うんですが、まあ、そんなことはどうでもいいんです。
元増田さんに具体的に答えてもらいたかったので、例に引っ張ってきただけです。
と、明確な基準がお有りなのですから、判断基準や、彼女を探すポイントを、もう少し考えれば、結婚には手が届くんじゃないでしょうか。
たとえば、九州の福岡あたりなら、いまだ、男尊女卑の気質が残っており、男は気遣いなんぞしないものと女は思ってるところがあります。女が男に求めるものは、生活を守ろうとする責任感です。
また、社内恋愛が御法度でないのなら、普段の生活圏の中から彼女を見つけるのも手です。普段の姿を知っているのですから、元増田さんがどの程度の気遣いができるかなんてことは、最初から知ってるわけです。
また、出来るだけ年上の方を探すというのもあります。女の年下好きはたいてい世話好きです。やってあげなきゃと思うような母性をくすぐってくれるような男がいいので、気遣いなんて出来ないくらいでちょうどいいです。
私的な見解ですが、お腹が冷えるから痛めるのであってへそのゴマを取る事自体に問題ないと思うのです。
普通下着でお腹を温かい状態で保ってるけど、一度お腹を裸にする等しないとへそのゴマを取るのは難しいです。
言い換えれば、へそのゴマを取るにはお腹を裸ん坊にしなければなりません。
つまりお腹が痛くなる事はへそのゴマを取る事とイコールの関係にはならない事になる、というのが私の見解です。
「お腹を冷やす事」が、結果として「へそのゴマを取ること」と便宜上成り立っているのかなと思います。
今年は盛り沢山の一年だった。
6月に母が乳がんと判明。
7月に日帰り手術。
お見舞いへ行くために、頭を下げて定時に帰る。
母は時期が闘病中と重なっているを知り、うつ病に。
父はしらばっくれる。母に暴言を吐く。
私には「訴える」と言ってきた。法的根拠は調べたが、全くなかった。
6月頃(不倫発覚前)に10月から支払うことを約束させられていた。
また暴言を吐き始める。
「家を出て行け」
出て行くことは一向に構わない。
怒りを通り越して、失望。
数ヶ月間日雇いだけで生活していたことがある。あの空間は異常だった。
八時間勤務で八千円程度の仕事を二連続、下手したら三連続とか入れる癖に、
パチンコに千円札を突っ込み続けることを全く疑問と思っていない人たちが居た。
そしてタバコを日に一箱吸い、酒を飲み、一食(コンビニ)で千円使うことを何とも思わない。
将来に対してまともな計画を持っている人間は一人もいなかった。
高層マンションの内装を、一階から階段で上げる仕事など普通の内装屋がやるわけがない。
日に三件も回らなければいけない引っ越し屋が、社員だけですべてを回していくのは不可能だろう。
広大な倉庫で、無数の商品を、一つ一つ宛先に合わせて詰める作業は、未だ機械が代わってくれるものではない。
一晩で設営しなければならないイベント会場で、深夜働きづめでスケジュールを合わせるには人手が必要だ。
そしてそれらは、今現在は日雇い派遣労働者によって支えられている。
だがそんな劣悪な環境に慣れてしまった底辺労働者たちは、境遇の改善などを求めていない。
意外に思われるかもしれない。
下らない。
だいたい二重派遣なんてどこでもやっている。
それに何か規制したところで誰かがやらなければいけない仕事だ。
確かにそういった人間は居る。
だが俺の居た事務所ではネットカフェではなく派遣事務所に泊まっている輩の方が多かった。
ネットカフェには、シャワーだけ浴びに行くのだと言っていた。
そして俺は数ヶ月間一緒に働いて、こいつらを救う金など必要ないと思った。
教育に回すべきだと、思った。
こういう、大人なのに馬鹿な人間たちが生まれないために、教育に金を回すべきだと、強く思った。
本来、肉体労働は派遣がやらなければならない仕事ではないはずだ。
大工や棟梁、鳶といった人間は肉体労働をしているという点で派遣たちと同じだが、
コレは断言しても良い。彼らはモラルも低く、犯罪者すれすれの存在だ。
だが、そんな彼らも、「正社員」という肩書きと、ピンハネされないだけの給与を得られればきっと何の不満もない。
そして緩く雇用され、一定の自由な時間があれば、彼ら屑は屑なりに自分のために時間を使うのだ。
もとより週五日八時間勤務に耐えられないような人間たちだから、そこは仕方がない。
彼らが屑たる所以だ。「ダルい」だけで翌日の仕事をキャンセルするような人間だ。
思うに、正社員をもっと緩く雇用できる制度があればよいのかもしれない。
正社員、というカテゴリに当たらない枠が必要なのかもしれない。そこはわからない。
だが、日雇い派遣労働者は必要だし、そこに企業は決して安くないコストを支払っている。
ならば、いっそもっと公的な機関が今の派遣会社の役割を担ってしまうのでも良いのではないか。
ハローワークが日雇い派遣の斡旋も扱えば、ある意味健全だと思うのだが。
「お前が甘えてるのが悪い」≒「俺は悪くないお前が何とかしろ」
↓
「無自覚に」「深層心理では」「心の中では」
B「そんなことない」
A「ほら、自覚がないからそんなことを言う」
C「昨日はどんな夢を見ました?」
D「ペーパーテストを行う夢でした」
D「はい」
「水に音楽を聞かせることで、おいしくなる」と思っているような人達はそうなのかもしれないが、一般的な科学者や一定のリテラシを持っている人たちは違う。
観察と実験と考察により導き出された結論を「こちらの方がより真実に近いだろう」と判断する。
決して盲信などではない。
人間関係が悪化する可能性がある
可能性があるだけで、必ずしも悪化するとは限らない。
場合によっては、「なんであの時止めてくれなかったのよ!」と責任転嫁されることさえある。
どうすればコミュニケーションを円滑にできるのだろうか?
・ゼロイチで判断、議論、説得しないこと。
「水に音楽を聞かせることで、おいしくなる」と思っている人に対して、
「そんなことはないでしょ」という全否定の言葉を浴びせればそりゃあ、仲は悪化するだろう。
・相手にも分かるような反例を上げる。
「音楽家の家の水はおいしいってことになるよ?」
日本共産党、論理的で正しい事を言ってると思う。でもそれが実現できてない。実際には、主権を持ってる人たちは論理を通すよりも考えざるをえない仁義とか、主観的な感情があるんだろうと思う。主権を得るまでお世話になったスポンサーに税金課す事は簡単じゃないだろう。
経団連だって日本を悪くしたいわけじゃない。彼らには守る社員がいるし家族がある。古くからの考えを変えるのは誰だって簡単なことじゃない。
でも確かに、今のままじゃ経団連もろとも日本は落ちていくとも思える。そういう現状打破のためには、やはりこの人の言うような話し合いしかないのかなと思う。
いちいち訂正したくなる衝動にかられる理由として二つ考えられる。
もう一つは、お節介癖。
いずれにしても、相手が何を求めて言っているかによって、否定・無応答・肯定を使い分ければいい。
但し、自分の専門分野なのに否定すべきところを肯定してしまうと、あの専門家は肯定したのだから、という二の句を使われるようになる。それにより信頼性が失われて困る場合は、きちんと否定を言うべき。
甘えてるようなクズに「それは甘えだ」って言うと
「甘え」があったとしてそれを単に甘えてると指摘することに何の意味があるの?
他の要因を考えることを放棄して全ての問題を精神論に押し付けて
解決を放棄してるだけだよね
「お前が甘えてるのが悪い」≒「俺は悪くないお前が何とかしろ」
http://anond.hatelabo.jp/20121028002840 のほうが病んでるように見える
いろいろ迷ったんだけど、まあインターネットで知り合った人たちだし、インターネットの見える場所でお祝いの言葉を書くのも悪くないかなーと思って、なんか書いてみることにするよ。わかった人はてきとーに拡散でもなんでもして、ご当人たちの目の届く場所にでもこのURLを届けてください。ま「そういう人」なので、こっそりとどこかで見ていたりはしたわけですけど。
ボトルメールよりはもうちょっと確実性のある手紙でも、ひとつ。
つーか結局は自分語りな。この場合は自分語りしないと伝わらないこともあると思うんよ。
とりあえずそうだなー、びっくりした。びっくりはしたんだけどさ、なんていうか、あんがい意外でもないんですよね。ああ、なんか辿りつくべき場所に辿りついたっていうか。
そうね、まあ「彼」とでも呼んでおきましょうか。
彼との出会いは、俺が以前やっていたサイトの掲示板にまで遡る。俺がしょうもない日記書いて、共同で管理してた友人としょうもない対談みたいな記事作ったりして、まあ全体的にしょうもないサイトだったんだけど、掲示板だけは違ってたのね。エロゲやったりする人の多くがそうであるように、俺にも「青春」とか呼べる時期なんかなかったんだけど、もしあったとしたら、あの掲示板にそれはあったんじゃないかな、と思う。二十代後半だったけど。いいだろ別にいつ青春やったって。周囲に女とかぜんぜんいなかったけど。別にだからそういうのはいいんだって。
インターネット始めるまでは、自分の趣味のこととか話せる相手がいなくて、それで、俺は異常だと思ってたんだよね。こんなにフィクションに異常な思い入れする人間とかほかにいない。いたとしてもそれは同居人くらいで、ほかにはどこにもいないんじゃないか。まあ日本には人間が1億人くらいいるので、確率としてここに二人いる以上、もうちょっとはいてもいいんじゃないかなーと思ってたんだけど、サイト始めてみたら、思ったよりも多かった。そうやって集った同好の士のなかに、彼はいた。
あの掲示板って、ちょうどいまでいうツイッターみたいな空間だったと思うんだよね。界隈の人たちのたまり場みたいな感じ。あずまんが大王の塗装のバスとか出現したっていうんでわざわざ見に行って実況してみたりとか、やってることが本質的に一緒。そんな掲示板のなかで、彼の存在はひときわ異彩を放っていたと思う。寡黙でありながら重量感があり、切れ味も抜群、常に陰のようなものがあるのに、どこかすっとぼけた確信犯の諧謔がある。
同居人ともども彼の書き込みのファンになったね。彼が書き込んでくれるのが楽しみでしょうがなかった。
なんていうのかな、戦友、みたいな意識があった。骨の髄までフィクションに冒されて、二次元のキャラと添い遂げるくらいの勢いで大好きで、ほかに希望なんかなくて、掲示版みたいな場所に吹き溜まっててさ、でもそこしかなかった。ほかの人がどうかは知らないけど(たぶん似たような感情は持ってくれてると思うんだけど)、このクソみたいな世界のなかで、なんとか喘ぐように呼吸して、それこそ酸素に飢えた金魚みたいに口をパクパクさせながらなんとかエロゲとかマンガのなかに救いを求めて、そんでもって掲示版でなんか吐き出してる。ここでは本音で話せる。道端の路地の向こうに、あるキャラクターがいるかもしれない、永遠に会うことができないそのキャラの面影だけ追いかけてふらふらと散歩を続けるような、そんなポエムじみたことや、そういうバカで真剣でどうしようもない自分を笑い飛ばすようなことや、そんなことを日々繰り返して、それでもまあなんとか生きてるよね、別に積極的に生きる理由もないんだけど、とりあえずフィクションあれば俺ら呼吸はなんとかできるよね、みたいなそんな日々。
そんなのがまあ、俺にとっての青春だった。
そんな日々をともに過ごしてきた人たちに対しては、友人というより、仲間というより、やっぱり「戦友」っていう言葉がしっくり来る。
そういう場所を瓦解させてしまった理由ってのは、いくつかあると思うんだけど、まあいちばんは俺が結婚したからだな。
俺、アホだからさあ、どっちかしか取れないんだよね。真剣だったからこそ、ってのはあるかもしれないんだけど、少なくとも結婚するっていう事実の前では、俺はフィクションを捨てるしかなかった。だって、そこに魂の半分を置いてるんだもの。好きになるのも嫌いになるのも、すべてはフィクションのなかにしかそういう対象っていないんだもの。現実の人間なんて書割じゃん。こちらに実害を及ぼす人間だけが脅威で、あとは男だろうが女だろうが、じーさんだろうが幼女だろうがひとしく恐ろしいものだったわけで、それが、たった一人といえども「人間」を選んでしまったわけ。それは「世界を選ぶ」ということとほとんど等価だった。全否定してきて「フィクションを摂取する俺の肉体を生存させるための意味しかなかった」世界のなかで、俺は伴侶を得て歩いていかなきゃいけないわけよ。いいったって悪いったって、俺ひとりじゃない。とにかく俺は世界を切り開いて歩いていかなきゃいけない。
そうやって俺はフィクションを捨てて、書くことすら捨てようとした。
でもねー、書くのだけはやめられなかった。
言ってみればさ、フィクションを捨てること、書くことを捨てること、すべては裏切りじゃん。もちろん周囲の人はだれ一人として裏切りだなんて思ってなかったと思う。複雑な気分を抱えていたことは想像に難くないんだけど、俺が「この世界」に幸福を求めようとすることを咎める人なんてだれもいなかった。
だけどさ、逃げるようにサイトやめて、俺そういう不義理っていっぱいやってて、いつ見捨てられても不思議じゃない人間なんだけど、彼はそんな俺をずっと見捨てないでいてくれた。彼だけじゃない、俺の周囲にはそういうありがたい人たちがたくさんいて、俺は今日まで生きてくることができた。
いまはもうそうじゃなくなったけど、書くことだけが俺にとって救いだった時期ってまちがいなくあった。書いて、読んでくれる人がいる。そのことだけで「ひょっとして俺は生きていることを許されるのではないか」と思えるようなそんな日々があった。
ここに至るまでの十年以上、そのほとんどの歳月を、彼はだれよりも俺の読者でいてくれた。極端にいえば、命の恩人だ。ほかの数人の人たちと同様、彼は俺を生かしてくれた。読んで、なにごとかの感想を書いてくれることで「少なくとも書くことだけでは、生きている理由がある」と伝えてくれた。
でもね、そこにあるのは感謝じゃないんだよなー。いや感謝もしてるんだけどさ、あるとすれば「あのとき俺ら一緒にいたよな」っていう深い感慨だろうか。ああ、俺らはあのころ、あんなに生きるのが面倒でやってらんなくてつらくて、そんでもまあ十数年後のいまも生きてるよな、なんかかなりおもしろめでかつ珍しめの人生とやらをやったけど、まあ死んでねえよな、明日以降もなんとかやってくんだよなー、みたいな。
そんな彼が結婚する。
別に「結婚」っていう単語に無条件で反応しておめでとうなんて言う気はさらさらないんだけど、とにかく、彼は「見つけた」んだというひとつの明確な証拠ではある。結婚という形式に付随してくっついてくるいろんな義務とか権利とか、ようわからんけど、いろいろあるものをすべてひっくるめて引き受けて、たった一人の人を死ぬまでの伴侶として選んで、生命が終わるときまでは生きていくんだという決意の表明だ。そういうものとして「結婚」っていう形式はなんとも明瞭だ。
彼はそれを選んだ。
だからさ、変な話なんだけど、俺の感情としては「安心」っていうのがいちばん強いのかな。彼の生み出したさまざまなものの魅力の大きな源泉は「孤独」だったけど、それゆえに彼にはいつも荒野を歩いているような感じがつきまとっていて、もちろんこんなもん言葉になんてしないんだけど、その孤独のデッドエンドを彼が見てしまったらどうしよう、みたいな漠然とした不安はいつもあった。
そう、彼はもうひとりじゃない。
これかな。そうだ。あなたはもう、ひとりじゃない。ひとりでなければ、ふたりであれば、それはきっと世界を手に入れたも同然なんだ。この広大な世界を歩くのに、ひとりっていうのはなんともつらい。あまりに大きい。世界がその美しさの片鱗を見せたときも、厳しさのかけらを降り注がせたときも、たったひとりでは言葉すら虚空に消えていく。
あなたは、あなたの見た世界の美しさを伝える相手を得た。いや、最初からそれをふたりで見ることになるんだ。
それがどれだけ素晴らしいことかなんて、もう言葉にはできない。
たったひとりのための、あなたであるように。そのことがそのままであなたを幸福にするように。あなたと、あなたが選んだ人の幸福が、そのままで世界の美しさにつながる回路を形成しますように。
ちなみに、お相手の方もネットを通じて決して存じ上げぬ方ではございませぬ。存じ上げているっつーよりはもうちょっとよく知ってる。
なんで、この場を借りてお願いなど。
まあ、俺がいまさらこの場で言うことではないかもしれませんが、幸せにしてあげてください。言われるまでもねーよカスwwwと思われるかもしれませんが、それを承知でなお俺はそう言いたいのです。彼の孤独や、彼の傷つきやすさや、それでいてあんがい飄々としているところとか、飄々としているようでいて、もっと深いところで傷ついてたりするところや、そういうものをほかの人間よりは多少はよく知っている人間として。
なんかねー、ひとの旦那つかまえて俺のほうがよく知ってるヅラすんじゃねえよって叱られそうだけど。
そんでもまあ、そういうこと思っちゃうくらいには、彼は俺にとってかけがえのない人だったりするんですのよ。
あと還暦になったらクソどうしようもねえ鼎談とかやる予定なので、そこは多目に見てください。あなたもご存知の友人の環境が非常に劣悪です(もう一人の畏友とじょじぱんつのゴムを両端で引っ張ったり縮めたりしながらにやにや笑っている)。
まあ、なんですか、直接に会ったら俺のことだからビシッと決めて「おめでとう」とか言えそうもないんで、いまここで言っときます。ほら、しゃべるよりも文章のほうがうまいこと自分の考えてること言える人だから。
おめでとう。
つーかまあ、びっくりした。
新婦の方には俺も会ったことないんで、まあそのうち会いますかね。
第一報を知ってからすぐにうちの奥さまに知らせようとしたんだけど、あの人、ここんとこあるゲームにはまってて、仕事してる時間以外、寝るかゲームするかしかしてなくて、いま爆睡中。起きたら知らせるつもりですけど、たぶん反応はこんなもんすよ。