はてなキーワード: 路上ライブとは
路上ライブとは邪知暴虐を体現したアーティスト様が騒音をまき散らし、無辜の民を嬲り倒すことだ。
今日も近所の駅が惨劇の現場となった。アーティスト様が音という名の暴力を無差別に振るい、何の罪もない通行人を苦しめていた。
警察も、路上ライブという災厄に手をこまねいている。かくして平和なはずの駅前が、一瞬にして酸鼻極まる光景へと変転した。
私はこの光景にひどく心を痛めた。実は一度、アーティスト様の凶行をやめさせようと試みたことがある。
しかしアーティスト様に人の心がわずかでも残っているなら、路上ライブという愚行に及ばないのは火を見るよりも明らかだ。
幸いそのときは負傷したり殺されたりせずに済んだ。しかし一歩間違えば、大けがを負ったり命を落としたりしかねない状況であった。
命は確かに大事だ。しかし我が身が可愛いあまり、人々が路上ライブで苦しめられているところから目を背けた私の行為は糾されるべきではないのだろうか。
そういうことを考えて昏倒しかけた。
映画館もクラブもライブもパチンコも、どうも音が大きすぎて、10分くらいで頭が痛くなって、その場にいられなくなるから楽しめない。
それぞれの娯楽にはそこそこ興味はあるんだけど、どうにも体がついていかない感じ。
パチンコは入口開いた状態で前通るだけでウワッとなるので入ったこともないけど。
音が大きくて迫力がある!っていうのをポジティブに受け止められないので、何かと不便を感じる。
パチンコとかは温泉旅館のさびれたゲームコーナーにあるやつ見つけると喜んで2、300円分だけ遊ぶ。
仕事の付き合いで行った夏フェスで、会場の端の方でフランクフルト片手にビール飲みながら聞いてるのとかは割と楽しかった。
音楽に合わせて踊るみたいなのは夜中に一人で踊って発散している。
折角イベントごとに誘ってもらってもお断りすることが多いので、その度に不便な体だなあ……と落ち込むけれど、
かの @pamyurin さんが突如ツイッターへ投稿した効果(あとセカオワ効果)で、不可思議/wonderboyの路上ライブPVは
万単位で再生数が跳ね上がっている模様。。200万人フォロワーの力は恐ろしい…
その不可思議/wonderboyの代表曲とも言える『Pellicule』に、前から思っていた事があったので、この機会に少しまとめてみた。
神門、狐火、泉まくら、daokoなどの楽曲提供で知られるトラックメイカー・観音クリエイションさんによる儚げで美しいピアノのメロディが特徴の、
1stアルバム『ラブリー・ラビリンス』のリードトラックで、個人的にもポエトリー・リーディングで一、二を争うくらいの、フェイバリットだ。
この曲をあの屈託の無い声で語られるといつも何故か涙腺が。。。
リリックの内容は、正直言ってベタだわ青臭いわだで苦手な人は全く受け付けないのかもしれない。自分も一周回って好きになった口。
大雑把にあらすじを書いてしまうと、サッカーのプロ選手になれなかった高校の友人が、夢を諦めきれずにタイの二部リーグに留学し、
久しぶりに日本へ一時帰国。そして大人になった主人公がその友人を迎え入れる所から始まる。
主人公は久しぶりに会った友人の変貌に驚きながらも、再会を喜び、周りの皆も心配してたんだと伝える。
主人公は他の友人が居ない理由を「忙しくて来れない」と取り繕い、2人だけで呑もうぜと誘いに出る。
そこで2人は他愛も無い思い出を語り合いながら、「来はしない友人達」を待ち続けた---という話。
この曲のバース(っていうの?)「待ってた 俺たちはいつまでも待ってた 来はしないと分かっていながら いつまでも待ってた」というフレーズは、
これだけだと一見普通に聞こえるが、その文脈を辿ると、「校庭で流星群を待ち続けたあげく、結局星が見れなかった俺たち」と
「未だに漠然とした夢を信じてうだつの上がらない俺たち」、そして「来はしない旧友を待ち続ける現在の俺たち」の
三つのシーンにかかっており、非常に強く訴えかけてくる。
そして話は飛ぶが、「そもそも何かを待ち続けるという行為は何の意味があるのか?」という問いが浮かんでくる。
小沢健二が言うには、スペイン語で「待つ」という言葉は「エスペラール」と言い、その派生が「エスペランサ」、
「希望」という意味だという。元来、人にとって「待つ」と「希望」は一緒の意味だったのではないかという説。
つまり、「何かを待っている状態」は、「希望を信じている状態」に他ならなく、「待つ」という行為を急かしたり、
すぐ結果を求めたり、ムダなものとする行為は、そのまま希望(のようなもの)を捨てる事、らしい。
話を戻すと、自分はこの考え方は、不可思議/wonderboyのセンチメンタリズム、そしてこの『Pellicule』という曲のテーマにそっくり当てはまる気がしている。
大人の事情で来れない友人を待ち続けるという行為が、如何にバカバカしく子どもじみた行為かを分かった上で、
それでも信じて待ってみる事は一体人生においてどういう意味があるのか。あるいはやはり無いのか。
まぁあまり話はまとまらないが、オザケン大好きな自分が不可思議/wonderboyにハマったのはある意味必然だったのかな、という事で。。
歌を録音して、動画を作って、題名に「歌ってみた」の文字を添えてニコニコ動画にアップロードしている。そんなことをもう3年ぐらい続けている。
多くの「歌い手」がそうであるように、私もボカロ曲やアニメソングなどを主に歌っている。でも、最初からそうだった訳ではない。一番最初に「歌ってみた」のは戸川純の「諦念プシガンガ」だった。戸川純ファンと思しき人々から辛辣なコメントが次々に投稿されたので、怖くなってすぐに削除してしまった。今にして思うと、それほど激しく攻撃されたわけではないけれど、不特定多数からネガティブな感情を突き刺されることに慣れていなかった当時の私は、すぐにパニックに陥ってしまったんだと思う。
話が前後するけれど、私が「歌ってみた」を始めたそもそもの動機は、ざっくりした言い方をしてしまうと、チヤホヤされたかったからだ。いや、チヤホヤとまでは行かなくても良い。ただ、自分が起こしたアクションに対して、誰かから何かしらの肯定的なリアクションを返してほしかった。
当時の私は実生活があまりパッとしなかった。地方の大学を卒業して、それなりに名前が知れた電機メーカーに入社して、東京に配属されて、そこでずっと働いていた。それ程極端に忙しいわけでもなく、賃金にも満足していた。会社での人間関係も悪くない。
しかし、仕事を終えて、職場を一歩離れてみると、途端に宙ぶらりんになる。
たまに職場の飲み会に参加したり、数少ない友達とご飯を食べに行く以外には、特にやる事がない。やりたい事がない。資格の勉強をしてみたり、ジムに通ってみたり、ライブや映画を観に行ったり、ウクレレを練習してみたり、色々と手を出してはみるものの、それでも一人の時間を持て余す。新しい友達を作りたい。でも、友達をどうやって作れば良いのか分からない。恋人もずっといない。友達の作り方も分からないけれど、恋人の作り方となると見当もつかない。今となっては誰かを好きになるという気持ち自体がよく分からない。
決して不幸ではないし、普通に生きていけているけれど、その普通さに、波風の立たなさに、だんだん気持ちが押しつぶされていくような感覚を覚えながら、毎日を過ごしていた。
そんな時、キリンジの動画を観たくてYouTubeを検索していたら、どこかの少女が自宅で撮影したと思われる動画に行き当たった。顔が見えない角度でギターを弾きながら「エイリアンズ」を歌っている動画だった。冷やかし半分の気持ちで再生してみると、ものすごく上手くはないけれど、原曲の雰囲気を大事にしながら丁寧に歌っていることが伝わってきて好感を抱いた。
その動画は、元々はニコニコ動画にアップロードされたものを本人がYouTubeに転載したものだった。ニコニコ動画の、同じ動画にアクセスしてみると、コメント数は50程度で「雰囲気が良いね」、「頑張っている」といった、私が抱いたのと同じような感想がぽつぽつと付けられていた。
それ以前にもニコニコ動画の「歌ってみた」の存在は知っていたけれど、若い子達が派手なアレンジの曲を大げさに歌った動画に対して、賛否ともに過剰なテンションのコメントが弾幕のようにつけられているような、私とは世代も文化も違う人達が集まる場所だと思っていたので、この「エイリアンズ」の、まるで地方都市の駅前の暖かな路上ライブのような雰囲気は意外だったし、好ましくも感じた。
それから何週間か、毎晩ニコニコ動画で自分が好きなミュージシャンの名前の後ろにスペースと「歌ってみた」という文字を付けて検索して、色々な「歌い手」の動画を観て回る日々が続いた。多くの動画は、3桁に届かない程度のコメントしかついておらず、お世辞にも盛り上がっているとは言えなかった。
だけど、どの動画にも、最初に観た「エイリアンズ」と同じように、「歌い手」達に対して押し付けがましくない程度に好意を伝えるコメントが並んでいて、それらのコメントを眺めていると心が落ち着いた。同じ音楽を愛する人たちが集まって、それこそ「ニコニコ」しているような、楽しさがそこにあった。
でも、多くの「歌い手」は決して歌や演奏が上手なわけでは無い。色々と動画を観ているうちに、「この程度なら私でもできる」と思う事がだんだん増えていった。そして、ある動画を観ていて「何で普通に歌っているだけで、みんなから褒められるんだ。ズルい」と思った瞬間に、私は我慢できなくなった。すぐさま、Googleで「諦念プシガンガ コード」を検索した。自分で歌ってみるならこの曲だと、実はもうずっと前から決めていた。この曲なら、私が弾ける唯一の楽器であるウクレレでも似合うはずだと思っていた。
しばらくの間、家にいる間はずっとウクレレで「諦念プシガンガ」を練習した。夜中にウクレレの弦が切れたので、慌てて池袋で一番遅くまで開いている楽器屋に駆け込み、ウクレレの弦を3セット、そして、思い切って19800円の新しいウクレレも買った。今まで使っていたのは雑貨屋で買った1980円のものだった。
毎日毎晩、練習した。そして二週間。私は、今まで殆ど使ったことがなかったパソコンの動画撮影機能を起動させて、最初に観た「エイリアンズ」の彼女のように、自分の顔が映らないようにディスプレイの角度や、座る位置を調節して、目一杯緊張しながら「諦念プシガンガ」を、歌ってみた。三回目の撮影で、声がひっくり返らず、音程も飛ばず、ウクレレも殆ど間違えなかったので、それをアップロードした。
それでも懲りずに、「歌ってみた」動画をアップロードし続けた。一週間から二週間かけて、歌を決めて、練習して、撮影して、公開する。そんな生活サイクルが自分の中で定着してきた。ネットで検索してコードが分かる曲の中で、自分にも歌えそうな好きな曲を選んで、少しずつ歌ってみた。再生数もコメント数も少なかったけれど、動画にアクセスする度にちょっとでも再生数が伸びていたり、一つでも新しいコメントがつくと、無性に嬉しかった。「新曲待ってました」というコメントが目に入ってきた時は涙が出そうになった。この人は、私の歌を待っていてくれた。私のことを待ってくれていた。それは、初めて感じる種類の喜びだった。
そのうち、オーディオインターフェイスやマイクを使うようになった。パソコン標準の動画撮影機能の音質では物足りなくなったのだ。初めてそれらの機材を使って録音したときは自分の声がはっきり録れすぎていて、その生々しさに怖気づきそうになった。「どうにでもなれ!」という気持ちで公開すると、「ものすごく聴きやすくなった」という暖かいコメントが返ってきた。再生数が伸びる速さが、少し上がった。
「ボカロを歌ってみてほしい」というコメントがついたので、ウクレレで試しに「メルト」を歌ってみたら、再生数がさらに跳ね上がった。初めて、再生数ランキングの下の方に自分の動画が表示された。否定的なコメントも「諦念プシガンガ」の時とは比べ物にならない程の数が寄せられたけれど、それ以上に好意的なコメントもどんどん書き込まれた。生まれて初めて「萌えた」と言われた。
多分あの時、私は、気持ちの上で一線を超えたんだと思う。
すぐに私は、ボーカロイド関係のウケが良さそうな曲を選んで歌ってみるようになった。私のウクレレの腕では弾けない曲ばかりだったので、出来合いのオケを使うようになった。歌の練習だけで済むようになったので、ずっと楽になった。再生数もさらに増えた。コメントも増えた。それまで自覚していなかったのだが、私の声は一定の人々の「萌え」をくすぐる要素があるらしい。そういう人達のコメントを眺めることが、たまらなく快感だった。最初からこうしていれば良かったと思った。「ウクレレじゃないと魅力が半減」というコメントも投稿されたけれど、しばらくは見て見ぬ振りでやり過ごし、やがて「ウクレレ」をNG設定して自分の目に触れないようにした。
それまで日常的に使っていたTwitterアカウントとは別に、「歌い手」としてのアカウントを作った。最初は「新しい動画を公開した」といったアナウンスに使っていたのだけれど、少しずつ他愛のない呟きや、自撮り写真を載せるようになった。
フォロワーの人たちは私のちょっとしたツイートにFavをつけたり、リプライをくれたりした。私が精一杯角度や光を工夫してボロが出ないように撮影した顔の一部や、素肌を撮影したボンヤリした写真に「100万回保存した!」と反応してくれた。
Twitterは、ウクレレで弾き語るよりも、オケにあわせて歌うよりも、ずっとずっと楽だった。準備もいらない。練習もいらない。ただちょっと踏み込んだ事を言ったり、気を引くような写真を見せるだけで、肯定的なリアクションが返ってくる。最初はウサギのイラストをアイコンにしていたけれど、途中からTwitterで知り合った絵師の女の子が私をイメージして描いてくれたという、素顔の私とは似ても似つかないウサ耳美少女の画像に変えた。フォロワー数が激増した。
先週、ある男の子に会った。
その日、私はお台場で開催された岡村靖幸のライブ会場にいた。満員の客席で、開演を待ちながらスマートフォンで「今から岡村ちゃんのライブ♪」などとツイートしていると、後ろから肩を叩かれた。まだ二十歳にもなっていない程度の、知らない男の子だった。そして、彼自身のスマートフォンに表示された、私が投稿したばかりのツイートを指差しながら、不安げな顔で、口の動きだけで「◯◯さん?」と、私の「歌い手」としての名前を呼んだ。血の気が引いた。
彼が誰だったのか、何でそこにいたのかは分からない。たまたま、私のことをフォローしていて、客席で私のスマートフォンの画面を見て気付いたのか、あるいは以前から岡村靖幸ファンを公言していた私に会うためにライブ会場にまで来たのか、今となっては分からない。彼は、名前を呼ばれて凍りつく私の顔をしばらく見た後、そのまま振り返って、他の観客の間を押しのけて、客席のずっと後ろ、私から見えない位置にまで移動してしまった。
全身が震えた。姿を見られた。
岡村ちゃんと同い年の、歳相応の容貌の私の姿を、私の子供でもおかしくないぐらいの男の子に見られた。
もし、彼一人がネット上で私のことをバラしたとしても、恐らく多くの人は真に受けないだろう。写真を撮られたわけでもなければ、私が自分で「はい、歌い手の◯◯です」と認めたわけでもない。
頭では分かってる。絶対大丈夫。今までと何も変わらない。
でも、あれから一週間。私はニコニコ動画にもTwitterにもアクセスできずにいる。
この世界にたった一人だけでも私の生身の姿を知っている人がいると思うと、私はもう、私とは似ても似つかない萌え声ウサ耳美少女歌い手の◯◯になれない。
そして、全てのきっかけになった「エイリアンズ」の歌詞を思い出す。
この星の僻地で、私が自分自身にかけた魔法は、あの日、あの一瞬で解けてしまったのだ。
なるほどなるほど。そういう反応か。みんな音楽好きなんだなw
アンプ使ってなければまだマシだけどね。
アスペルガーの定義が医学用語とネット用語で若干乖離してる気がするので、そこはノータッチ。
まぁ感じ方は人それぞれなので、好きな人もいれば嫌いな人もいるよってことで。
路上ライブってやつにどうしても馴染めない。
聞きたくもない音が無理やり耳に入ってくる。路上喫煙と大差ない。
元々音楽が嫌いだし、義理でライブハウスに行くこともあるけど、ライブハウスって文化も苦手だ。誰に招待されただの名前書けだのってアホかと思う。
NoMusicNoLifeなんて言ってるやつを見かけると、今音楽聴いてないから死なないとおかしいよねって言いたくなる。
でも電車内の音漏れとか全く気にならない。そんなちっちゃい音が気になるくらいなら、電車のガタゴトいう音で死んじゃうんじゃないか。
自分みたいなやつは少数派だと思うから、積極的に文句を言うつもりはないけど、なんか反応があるのかどうか確かめたくて増田してみた。
横だけど
サイゾーの記事読んでみれば、単にサクラを雇ってましたというだけの話であることが分かる。
大手チェーンの新店舗オープン、アイドルの路上ライブ、世の中にいくらでもあるでしょ。
それと、運営側が「ファンの数は800人でした」と公式発表すれば、記者はそう書かざるを得ない。公式発表なんだから。
日本人歌手のライブでも「観客は1万人でした」と公式発表があれば、とりあえず記事にはその数字を書く。
どれだけその数字が過大に見えてもね。
それと一緒だよ。
で、サイゾーというサイト自体もお世辞にも上品なメディアとはいえない、
偶然見かけたブログの記事の感想。タイトルは「女ミュージシャンの宿命と思いたくない」。
http://ameblo.jp/negamega/entry-10760038108.html
概要は「女性ミュージシャンのところに来るカメラ小僧と中年男性はお客さんとはいえない」というもの。ちょっと傲慢なところすら感じるミュージシャン側からの意見だ。
女性ミュージシャンのライブに来るうざいお客さんの代表例としてカメラ小僧と中年男性を挙げているけど, 前者はともかく後者を否定するとほとんどの女性ミュージシャンはお客さんがいなくなってしまうのが現実。ライブハウスに来てくれるのはほとんど中年男性。資金力もそれ相応にあるから自主制作のCDも買ってくれる。ビジネスとしてみれば実によいお客さんだ。それでも表現を伝えたい相手が違う, 同年代の女性に聴いてほしいというのならばそのミュージシャンがライブハウスで演奏するのはちょっと違うと思う。女子高や女子大の最寄り駅の前で路上ライブをしたほうがその機会は増えそうなものだ。それでもわざわざライブハウスで演奏するのは自分の音楽をちゃんと聴いてくれる人が欲しいからじゃないかと。ライブハウスのノルマを毎回クリアできる人はどれだけいるというのか。音楽は聴き手がいて初めて成り立つもの, ということを無視している点に同意できない。
あなたがここで日頃どう否定されてるのかわからないけど人違いだと思う。
そして本題だけど、
例えばアマチュアバンドの練習スタジオにわざわざ入って行って「やめろ!」みたいなのは間違ってると思う。
客観的に技能が低かろうが上達しなかろうが、それは本人達のホビーだし。
身内がその人達の発表会に言って一緒に暖かく拍手送るのもいいことだ。
つまり、アマチュアバンド否定増田の言ってることは俺もよくわからない。あなたと一緒。
で、元増田なんだけど、具体的に何のこと言ってるのか曖昧だけど
この人は多分前述の駄サイクルアウトプットを、望まないのに見せられてる立場の人なんじゃねーの?
その場合「いい加減にしろや」っていう言い分は俺はわかる。
あまりに下手なのに路上ライブ。それも週に3日通勤通学の途上に居る。
とか。
弾き語り女の子歌手の路上ライブに群がってるおっさんファンが醜悪な件。女の子とコミュニケーション取りたいけど水商売の人は飲まされるしお金かかるしちょっと怖いけど、ファン獲得に熱心な女の子なら大概のことでは怒られることもないし基本タダだし親切だしチョットぐらいは媚びた感じも出してくれるし至れり尽くせりだっていう非モテの穴場。弾き語りの彼女らから見てあのおっさんたちってどういう風に見えてるんだろう。
ビジュアル系に群がるコスプレ女子の忠誠度をファンの頂点とすれば、路上ライブに集まるおっさんは少なくともファンではないよなぁ・・・と思ったり。あいつら異常に見返り求めてるからなぁ。電車賃程度で偉そうにすんなと言いたい。ファン活動の基本は無償の愛なんだよ!!
ABC事件からどれだけ経ちましたっけ?ああまだ半年でしたか。
もう1年くらい経ってしまったような気がします。
あれから台東館に18禁を扱うイベントに対して分離政策、年齢認証、規制などを要請しているようで。
ソレに対して参加者の間ではずいぶんさわがれておりますね。
さて、今回のショタケにおいては、更に規制が追加されましたようで。
それは「身長差」に関する問題。児ポ法などがありますからねえ、今まで考えもしなかったようなことが急転直下デリケートになるものでございます。
これに関しては憤られているお方がずいぶんいらっしゃるようで。まあ確かに、イベントの趣旨を鑑みれば無理もなかろうというものです。
かくいう私も、「そりゃあやりすぎだろお前さん」などと感じなくもないわけですが、その前にちょっと考えていただきたい。
我々は、趣味の個人間の取引ということで主催側がゆるーく管理してきて、参加するものは参加するもので、「主催がそれでいいと言ってるんだからそれでいいじゃあないか」と甘えて来たツケを今ようやく払っているところなんじゃあないかと。
もともとは渋い電気街だったのが、いまやコスプレ、路上ライブ…まあそこまではいいとして、それを盗撮するもの、分かってて盗撮されるもの、あまつさえ露出に走るもの…と無法化の一途を辿り、今や警察の巡回でようやく当初のギリギリの秩序を保っている次第じゃあないですか。
しかし、数日放置しただけですぐに元通りになり、結局はさらに厳しく取り締まられる始末…人間ってのは単純なものです。
ああ、ああ、だめだねえ。年を取るとなんだか余計なことまで話してしまうねえ。
話を戻しましょうか。
まあ何がいいたいかってぇと。
伸びれば伸びるほど、反動もでかいってこったね。
しかもゆっくり戻すことを許されないほど伸びきっちまった。
パンツのゴムを限界まで伸ばしてパッチーン!なんてやると痛いじゃあないか。
しかし、ここで戻らないと多分切れてたとおもうんだよねえ。あっしは。
切れたら戻ることすらできなくなってしまってたんですよお客さん。
しばらくはこの痛みは取れないと思うんだけども、ゆるゆるーと戻していけばぁいいんじゃないでしょうかねえ。
児ポ法が推進されないよう様子をみながらね。
オタなんて力の弱いもんだからね。しかし、その分知恵が回るってコトを古来から自負してきたじゃあないですか。
今、あっしらに何が出来るか、腐らずに考えてみるのも手じゃないかい?
心も根性も腐らせず、考えてみてはどうでしょうかねえ。
腐がついてるのは、呼称だけで十分さね。
いや、今住んでいればいいんだけど住んだこともなさそうな人が何人か立候補しているじゃない?
都度の手続きで上京するだけで資金尽きるんじゃないかって気がしているよ。
宿泊とかどうするのだろうか?マンスリーとか借りてるのかな?
http://anond.hatelabo.jp/20070324194346
自分は都下市部にすんでるのだけど、祖父の代までは今は住宅がないような都心住まいだった。
震災やら戦争なんかで焼け出されてこっちに流れてきてる人も多い。
だから03以外は東京じゃないよねーーと馬鹿にされるのがちょっと悔しい。
お江戸は昔から800万都市だもの、そんな田舎者ばかりじゃないぜ。