2014-04-23

不可思議/wonderboyと小沢健二

かの @pamyurin さんが突如ツイッター投稿した効果(あとセカオワ効果)で、不可思議/wonderboyの路上ライブPV

単位再生数が跳ね上がっている模様。。200万人フォロワーの力は恐ろしい…

その不可思議/wonderboyの代表曲とも言える『Pellicule』に、前から思っていた事があったので、この機会に少しまとめてみた。

神門狐火、泉まくら、daokoなどの楽曲提供で知られるトラックメイカー・観音クリエイションさんによる儚げで美しいピアノメロディが特徴の、

1stアルバムラブリーラビリンス』のリードトラックで、個人的にもポエトリー・リーディングで一、二を争うくらいの、フェイバリットだ。

この曲をあの屈託の無い声で語られるといつも何故か涙腺が。。。

リリックの内容は、正直言ってベタだわ青臭いわだで苦手な人は全く受け付けないのかもしれない。自分も一周回って好きになった口。

大雑把にあらすじを書いてしまうと、サッカープロ選手になれなかった高校の友人が、夢を諦めきれずにタイの二部リーグ留学し、

久しぶりに日本へ一時帰国。そして大人になった主人公がその友人を迎え入れる所から始まる。

主人公は久しぶりに会った友人の変貌に驚きながらも、再会を喜び、周りの皆も心配してたんだと伝える。

だが、そこには昔つるんでいたいつもの面子は居なかった。

主人公は他の友人が居ない理由を「忙しくて来れない」と取り繕い、2人だけで呑もうぜと誘いに出る。

そこで2人は他愛も無い思い出を語り合いながら、「来はしない友人達」を待ち続けた---という話。

この曲のバース(っていうの?)「待ってた 俺たちはいつまでも待ってた 来はしないと分かっていながら いつまでも待ってた」というフレーズは、

これだけだと一見普通に聞こえるが、その文脈を辿ると、「校庭で流星群を待ち続けたあげく、結局星が見れなかった俺たち」と

「未だに漠然とした夢を信じてうだつの上がらない俺たち」、そして「来はしない旧友を待ち続ける現在の俺たち」の

つのシーンにかかっており、非常に強く訴えかけてくる。

そして話は飛ぶが、「そもそも何かを待ち続けるという行為は何の意味があるのか?」という問いが浮かんでくる。

小沢健二が言うには、スペイン語で「待つ」という言葉は「エスペラール」と言い、その派生が「エスペランサ」、

希望」という意味だという。元来、人にとって「待つ」と「希望」は一緒の意味だったのではないかという説。

(※ちなみにカイジに出てくる船エスポワールはフランス語

まり、「何かを待っている状態」は、「希望を信じている状態」に他ならなく、「待つ」という行為を急かしたり、

すぐ結果を求めたり、ムダなものとする行為は、そのまま希望(のようなもの)を捨てる事、らしい。

ここから話が様々な思想へと繋がっていくが、それは割愛

話を戻すと、自分はこの考え方は、不可思議/wonderboyのセンチメンタリズム、そしてこの『Pellicule』という曲のテーマにそっくり当てはまる気がしている。

大人の事情で来れない友人を待ち続けるという行為が、如何にバカバカしく子どもじみた行為かを分かった上で、

それでも信じて待ってみる事は一体人生においてどういう意味があるのか。あるいはやはり無いのか。

まぁあまり話はまとまらないが、オザケン大好きな自分不可思議/wonderboyにハマったのはある意味必然だったのかな、という事で。。

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