はてなキーワード: 数学者とは
数学の書籍には、幾つかの類型が存在すると思考の深淵に耽る。まず、教育を志向したものがあり、確実にステップを踏みながら数学の底力を身につけることができると謳われている。次に、辞書的な性格を帯び、数学者自身が自らの難問の鍵を求めるために、特定の定理や概念を参照するのに重宝される。最後に、最先端のトピックを瞬時に理解するためのもので、その要点を端的に把握することが狙いとなる。従って、私はどのような目的で数学の書に触れるのか、自己を問い詰めずにはおれない。
おそらく、私は最新の知識を迅速に吸収したいと願っているのだろう。しかしながら、そのために必要とされる前提知識は、敷居が高くなることがしばしばある。このようなとき、インターネットの広がる海を航海すべきか、精緻な教材と向き合うべきか、迷いに迷うのである。
一般人でありながら、高度な数学の概念を理解するための近道、それはいったい何か。私は、フレンケル教授のような説明術が、多岐にわたるトピックに適用されることを夢見ているのかもしれない。プリンストン数学大全という書物が私の手元にあるが、これは数学の骨子を簡潔に把握するには素晴らしい資源であると感じている。しかし、定理は単なる暗記ではなく、数学を生きた魂とするためには、他の科学的領域との接点が必要不可欠だと考える。審美的な要素だけではなく、科学的な実験と理論を結びつけるのである。
確率論の領域において、私はゲームを編み出し、コンピュータを用いてそのシミュレーションを行う方法を通じて、実験を行うことが可能だと思っている。テキサスホールデムポーカーの最適戦略が解明されたように、理論的な興味に基づいてゲームを選択し、コンピュータによるシミュレーションを行うのである。経済における金融商品市場は、まさにそのようなゲームの一つだが、私は残念ながら、実際にお金を投資することには興味を持たない。もし実際にそのような分野で実験を行うのであれば、利益と損失のリスクを冒すことなく、安全なサンドボックス環境を用意するだろう。私の心の深奥に築きたいのは、理論的モデルを探求し、それをシミュレーションする世界なのだ。
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今日はエネルギー、角運動量...等々のオブザーバブルの例とシュレーディンガー方程式の関係を学びました。
ところで、Twitterである操作を行うことにより、数学に関連するおすすめが多く表示されるようになりました。
そうして、とある数学者の動画が表示されたので、じっくりと視聴しました。
数学が情報として表示されると、こう言われているような気分になります「政治のことは忘れなさい。数学の問題を解いていれば趣味にもなるし、平和だ」
世の中には様々な政治的問題があります。日本国内のインフレスパイラル、地球温暖化とカーボンプライシング、ウクライナ情勢、石油価格の問題などです。
数学の問題とは違い、これらは価値判断の問題です。排出権取引に賛成する人は将来世代にも考慮して温暖化を解決しようと言いますが、反対する人は短期的に「自分が生きている間」の利益だけを考えます。
あるいはインフレの問題は、インフレを抑えようという実質値を考慮する人は賃上げに反対しますが、名目値だけを見る人は賃上げを要求するのです。
価値判断の問題は、声の大きさで勝負が決まってしまう部分があります。フォロワーだけは沢山いる自称データサイエンティストが「コイツは意識他界系だ」などと言うと、そのレッテル貼りに同調する人が出てくるわけです。
そのような政治の話には、もしかしたら関わらないほうが良いのかもしれません。政治の話を中心的に行う人をミュートし、数学に引きこもりたい気分です。
しかし、寛容さが必要だと思うこともあります。数学の話をする人の中にも、肩書や知識の量でマウントを取るどうしようもない人がいます。こういう人を「見ないようにする」よりは、自分が寛容になるほうが手っ取り早いと思うのです。
つい最近、ある政治活動家が、「各々のミツバチは、ニューロンとして見るのが良い」と言っていました。
人間社会もそういうものかもしれません。誰かがイシューを発見したり、意見したりすれば、それはニューロンのように伝達され、物事が部分的にわかってきます。
そしてその情報は保存されます。一歩々々、何か知識の塊が進化を遂げているのかもしれません。
それとも、それは退化でしょうか。ある話題で社会が二極化した場合、どちらかが間違っているのではなく、異なる前提を持つ人が価値判断で争っているのかもしれません。
今日はとある数学者にインタビューしたポッドキャストを3時間視聴しました。
個人的に印象に残っているのは、数学は客観的と思われているけれど、数学をする際にはある種の心理学・哲学・主観などが関係するということです。
例えば有限系と無限系のどちらへ取り組むことを好むかというのは完全に個人的な主観です。
彼は「力と愛の間の関係」についても述べました。誰かを「力」で説得しようとする場合、愛が失われます。そしておそらく数学とはそうであってはならないということです。いくら「無限」が好きであるといっても、有限系へ取り組む人を説得しようなどと考えるのは、力のやり方です。
しかし彼は無限を好むことを表明していました。その方が多くの有用な事柄が出てくるからです。そして彼は数学を「アイデアの市場」と呼びます。
この考え方は、私にとってはRPGのダンジョンを思い起こさせます。ダンジョンの奥深くにはお宝が眠っていますが、深く行けば行くほど危険で信じられないようなことが起こります。
昨夜の話です。
少年と少女がひとりずついて、それぞれ反対の方角からお互いのほうに向かって自転車をこいでいました。
互いの距離がちょうど20マイルになったときに、ふたりは相手のほうに向かって全力でこぎ始めました。
それと同時に、少女の自転車のハンドルにとまっていた一匹のハエもまた、少年のほうに向かって飛び始めました。ハエは、少年の自転車のハンドルに到着すると、またすぐに少女のほうに向かって飛んで帰ります。
ハエは、このようにして、最終的にふたりの自転車がぶつかるまで、ハンドルからハンドルへ行ったり来たりしました。
それぞれの自転車は、時速10マイルの速さで一定して移動します。ハエはちょっと速くて、時速15マイルの速さで一定して飛びます。
「医師免許」というのは一種類しかなくて、外科医でも内科医でも医者は医者。持っている資格は同じ。(歯科医とか麻酔科医だけ違うのかな?知らんけど。)「外科医」とか「内科医」っていう肩書きは、形式的には「本人が勝手に名乗ってるだけ」という言い方もできる。(まあ、実際には学会に所属して界隈でそれなりに名前が知られていないと「もぐり」扱いされるけど。)
「〇〇学者」というのもそれと同じ。例えば「博士(理学)」のような資格は一応あるけど、「数学者」とか「物理学者」という肩書きは「本人が勝手に名乗ってるだけ」なんだよな。
学際的な分野の人は敢えて自分を「〇〇学者」とは名乗らないこともあるし。
それは何故かと言うと、そこまで専門性が高くなると、もはや「資格」を与えることのできる権威が存在しなくなってしまうからなんだよな。医者や学者は自らが権威となることを求められる職業であって、誰かに認められて立場を与えられてやる仕事じゃない。
人間同士での頭の良さというのは一意的に順序づけられるものなのでしょうか? たとえば数学でミレニアム問題を解けたという人についてこの人はどんな物理学者よりも頭がいいということを主張したい場合、たとえば物理学者の中に行き詰まりかけている超弦理論のその停滞を解決した人がいたとすれば、じゃあ上記の数学者も物理の世界で同じ方向で頑張ってたら同じ成果を出せたということができれば、その数学者はその物理学者より頭がいいということになりそうですが、なんかそういうことって少なそうですよね?
誰かが誰かより頭がいいことを示すには、その人に出来ることのうち頭の良さの根拠になっているものが、別の人には全て出来るといううえで、さらに別に頭の良さの根拠となることが一つ以上できる必要がある思うのですが、実際はそんなことって知的障害と東大受かった人間の間ぐらいでしか成り立たないことなんじゃないかみたいにも思えます。