はてなキーワード: スノビズムとは
現役の書店員だけど先日バズった六本木TSUTAYAに暴言吐いてる人やその取り巻きがあまりにもアレなので暴言を吐きます。
あのさ、本って一年で何冊出版されるか知ってる?「読書好き」を自称するんなら当然知ってるよなあ。
七万冊だよ。七万冊。
それを365日で割ると1日200冊弱の本が出版されるんだよ。なあ、これ、タイトル出版社著者内容その全てを把握できると思うか?それに加え既刊本もあるんだぜ?社割でいくら本を買おうが一人の人間に把握できる量じゃないんだよ。口頭でタイトルだけ伝えられても、表記もなにもわかんないの。今までお前が口頭でタイトルを伝えただけで書店員が対応してくれてたんだとしたらそれは単に運が良かっただけだ。広い広い出版業界の観察範囲がその担当した書店員と偶然合致しただけ。
頼むから口頭でブワーッとタイトルだけ伝えてこっちが即座に対応できなかったらキレる前に、もう少しタイトルやISBNを紙に書くとか考えてくれないかなあ。
あと残念だけど六本木TSUTAYAのように純粋な書店としての機能以外を持つ書店って今後増えてくと思うぜ。
Amazonの登場で書店は半ば息の根を止められたような物なんだわ。「単に新刊買うだけだったらわざわざ書店に足を運ぶ必要ないなー」って書店員やってる俺も思うもん。「ほしい商品をすぐさま見つけて購入する」という利便性はどう足掻こうがリアル書店はAmazonに勝てそうにない。
利便性では勝てそうにないならどうするか。その他の価値を自ら創出して生き残るしかないじゃないか。
お前やお前の取り巻きが散々「オサレ()」と馬鹿にしまくってるTSUTAYAの店作りも、その生き残り戦略の一つなんだよ。
ひとつ聞くけど、TSUTAYAに足を運んだ客がお洒落な空間を味わいその雰囲気と気分の高揚の中で本を選んでお前らに何か迷惑かけたか?なぜ「意識高い系()」と自分とは異なる消費スタイルの客をそこまで嘲笑しまくる?なぜ自分とは解釈の異なる棚作りをしただけでそこまで発狂する?
お前らが嘲笑している六本木TSUTAYAに足を運んでいるその人達は、競合他社である俺達もほしくてほしくて堪らない、出版業界にお金を落としてくれるご新規様なんだよ。なにをきっかけにしても良い。とにかく「書店に足を運んでくれる人」をどんどん増やしていかないと書店全体の未来はないの。
そんな貴重な新規客を嘲笑するオメーらみたいなスノビズム拗らせた排他的な人間が市場の縮小に拍車かけてんだよ。「書店とはかくあるべし」「読書とはかくあるべし」と勝手に定義して業界を私物化してんじゃねーよ。書店はお前らのための空間でもあるけどお前らのためだけの空間ではないんだわ。「全てのジャンルはマニアが潰す」だとかなんだとか言ってた人いるよな。お前らまさに「業界を潰すマニア」そのものだぞ。
不毛な「暴言」なんて吐いてる暇があるんだったら他の書店に行ってどうかその店を買い支えてやってくれ。お前やその取り巻きはTSUTAYAのターゲット層ではないんだ。なにか本を買うんだったらダーウィンの「進化論」とかお勧めだよ。
残念だがそれほど人気がない。
俺は英国在住のおっさん。年始にロンドンで見たが、そもそも上映している映画館が少ない。毎日上映している映画館はロンドンで2-3か所。860万人住んでいるのに。
月に数回上映がそのほかに数か所。以上。ザッツオール。公開後1月以上経過しているから減ったのだろう。
客の入りは5割くらいで、そのうち6割がイギリス人、4割は東洋人。中国人韓国人日本人。
イギリスのメディアが君の名はを絶賛した、という記事は俺も見た。口コミサイトの評価も見てみたが、非常に良い。
更には上映後のイギリス人の反応を観察してみたが、満足そうに見えた。
ゆえに入口でのハードルなのだろう。ただし内容について「感動」「ラブストーリー」というよりは「展開が早く引き込むストーリー性」「映像の綺麗さ」が評価されているように思う。
若者のラブストーリーである「君の名は」がイギリスでアジア圏のようなヒットにならない理由は以下のように推察している。
今でも完全にそうです。宮崎アニメのように家族で見に行くならともかく、ラブストーリーをアニメで見ようという発想は世間の若者に全くないように思うし、他人に知られたら恥ずかしいことと思われる。
なお本作では奥寺先輩が煙草を吸ったり、瀧が酒を飲んだりするので12歳規制がかかっている。
作品にのめり込めるか、一番重要なのはこの点だと思う。瀧が三葉が男性として女性として魅力的に描かれているか。
多くの日本人には、瀧はイケメン、三葉は高校時代は可愛く大人時代は美人、という設定に異論はないと思う。
欧米人から見ると、経験に基づく推測だが、瀧も三葉も体が薄っぺらすぎる。
瀧は本人のときでもかなり「中性的」に寄っている。欧米人からジャニーズは中性的な子供に見えるということと同じである。
(3人組のうち)高木くらい男くさいほうがいい。イギリス人は瀧に対してこう言いたくなるだろう。「もっと肉を食え、ラグビーで体を鍛えて、女性を守れる男になれ、髪形もベリーショートかリーゼントにしろ」(適当
三葉は単純に子供に見えていると思われる。もっとグラマラスな魅力が出てこないとラブストーリーの主人公という雰囲気が出てこない。シャイな性格もマイナスだ。瀧の三葉くらい気が強いほうがウケる(作品内でもそうだったが)。
イギリス人のラブストーリーは顔を0.3フィートくらいの距離まで近づけてロマンティックな言葉を囁きあう感じなので、瀧と三葉の恋愛動作は非常に幼く見える。こちらの高校生は結構オトナである。
山頂で出会うシーンもイギリス人なら、強くハグして、濃厚なキスをして、0.3フィートである(超適当)。名前を書きあっている場合ではない。出会って3秒でハグキス0.3フィートである。高校生にそういう描写が許されているのかは知らない。
ラストシーンでいったん声をかけずにすれ違ってしまうシーンには、階段の一番下から大きく手を振って「Hey!!!, I think I met you sometime and somewhere!!!」と大声を出さないのか不思議であろう。奥ゆかしさは理解されてもそこから生じる感動は理解されないと思う。実際に泣いている人は少ししかいなかった。クライマックスの「すきだ」も字幕だからね。手によくわからん文字が書いてあって字幕でI love you。ちょっとねえ。
日本人のおっさんである俺にとってどうだったかというと「超面白かった」。イギリス、日本、機内の計3回も見てしまった。最初に見たのは機内だったが、中年のおっさんがうるうるしているのを見てCAさんはドン引きしていたことであろう。少し気になるのは日本での作品への「評論」である。確かに整合性がおかしいところは多い。私は3年のずれに気づかないことよりも、この広い宇宙で隕石が1200年周期で同じ場所を直撃することのほうが超天文学的確率というか、分母が10の何乗になるのか、そのほうがずっとありえないと思いながら見ていた。変電所の爆破は中部電力に連絡が行ってしまったので町を救ったからお咎めなしになるものではあるまい。ああいう会社は融通をきかせるのが難しい。テッシ―の「髭剃れ」の話は収監されていたから?などとも思った。しかしながら、内容の整合性に難があってもそれ以上の魅力で引っ張ってくれれば私はそれでいいと思う。官僚や銀行員のような減点主義で映画を見てもつまらんでしょう、と個人的には思う。
キネマ旬報のベスト10がどういう選考基準なのかHPを見てもよくわからなかったが、アジアで数千万人を引き付けた映画よりも、日本映画だけでも10個も上位があったら、それって大ニュースなのではないかと思う。売れる映画と良い映画は違うというのは一部分かるが、それよりはもっと簡単に説明できる言葉があるのではないか。スノビズム。大衆は見る目がない、ということだもの。
同業の監督や評論家の「売れる要素だけ詰め込んだ」とか「モチーフがありきたり」の批判に対しては、おっさんは長く生きているので、30年前の「ノルウェイの森」騒動を思い出す。「100%の純愛小説」と付けてクリスマスカラーで売り出した同書は「君の名は」と同様に爆発的に売れ、今ほど有名でなかった村上春樹をスターダムに押し上げると同時に、評論家から「誰でもかける薄っぺらい通俗小説」「ありきたりの三角関係」などの多くの批判が浴びせられ、その騒動で村上春樹は心を痛めて日本を離れた。彼の作風にも影響が出てしまった(軽妙さが失われた)と思っている。
個人的にはキネマ旬報で取り上げられなかったのは別に過去の作品を見ればおかしくはないと思ってるし。
良く言えば売上をきにしない、悪く言えばスノビズム的な逆張りランキングなのは結構知られてるし。
ただ、キネマ旬報を取り上げたcinematodayなどが「君の名は。は圏外」とわざわざ表題につけたりしてちょっと、対立を煽ってる。
また、それを利用してアフィブログが対立を煽ってる感じがある。※これは片隅を挙げて君の名は。を落とすブログと逆のブログ両方がある
特に国内の批評家の間で「君の名は。」が嫌われてるのも閉鎖的で互助的な見方をされてちょっと反感持ってる人が増え始めてる。
そしてこの世界の片隅にが国内、「君の名は。」が海外で評価されるというあまりにもできすぎな状況が揃ってたりしててこのまま行くとゲハ的なこじれた状況が映画界に生まれる可能性すら考えてる。
東アジアの不可解さを感覚的に理解したいのならば、柿(Kaki)と杮(Kokera)の違いについて知るのが最も近道だ。
日本人は秋になると甘味の強い「柿(Kaki)」と呼ばれる濃いオレンジ色のフルーツを楽しむ。
このフルーツを天日で干してドライフルーツにして楽しむことあり、これを「アンポンタン(日本の方言で知的障害者を指す)」と呼ぶ地域もある。
(日本の伝統的菓子は、このドライ柿以上の甘さにしてはいけないという不文律がある)
一方、迷信深い日本人は、新築の建物を建てると「杮(Kokera)」と呼ばれるモンスターを駆除すると称して、何らかのイベントを催す。
すなわち、人が入る前の建物には必ずコケラという怪物が住み着くので、これを多数の来客者による迫力で追い払おうとするのである。
私たち西洋人には、この Kaki と呼ばれる漢字と、Kokera と呼ばれる漢字は全く同一に見える。
しかし、高度な形象文字の文化圏の住人である日本人には、これらの文字は全く別の文字であることが明らかだという。
京都市に住む Keiko Wanatabe (78) が嘆息して言うには、
「近頃、日本が好きといって外国人さんがたくさん京都にお見えになりますけど、
Kaki と Kokera の違いもわからずに日本をわかったつもりになってもらっては困ります」
このように、日本人には極めて微小な差異に対する感受性が受け継がれている。
私たち西洋人には「ワビ・サビ(Wabi and Sabi)」や「萌え(Moé)」は深遠で理解に及ばぬもの、というイメージがあるが、
それは無理からぬことで、こうした概念は日本人の持つ独特な「差異の感性(sense of disctinction)」に依るものなのである。
フランスの偉大な哲学者アレクサンドル・コジェーヴは、日本の持つ独特な感性体系を「日本的スノビズム」として称揚したが、
この点において私たち西洋人がこの多神教的精神性を感覚的に理解するのは、不可能か、
あるいは少なくとも数多くの障害が立ちはだかっていると言えよう。
私たち西洋人は日本人の持つ奇異な性文化 --- 例えば Gokkun や Bukkake --- を受け入れつつあるし、
Baby Metal のような「萌え(Moé)」に対する強い渇望も存在する。
それ故、私たちはゆっくりと、しかし確実に日本的「差異の感性」を身に着けつつあると言えるし、
彼らが西洋発祥の文化を上手く取り込んで世界の TOYOTA を作ったように、
昔のはてなといえばブックマークでアクセス数を伸ばしまくることで、岩崎夏海みたいな禿を社会に送り出すカタパルトみたいな機能を有していた。
もしくはちょっとアンテナ高いやつがあまりブクマされてない記事にシニカルなコメントを書き込む厨二的スノビズムこそがはてなのいいところだったのにさいきんのはてなは何?
主婦層やギャル層で話題になってる話題なんてひとつも把握できてない。
アルファクリッパー(笑)の周りで鼻を利かせて炎上して叩けそうなネタに集まって俺の中のルールではこれAUTO!と叫んで悦に入るだけ。
挙句の果てにはてな界隈で話題になってないから、と古参ブロガーが一生懸命記事をまとめて紹介する始末。
さらにはこのていたらくをデザインリニューアルのせいにするのだから堕ちたものだ
それ、どっちに言ってる?
俺は新しい論点を増やしたりなど一度もしてないし、ずらしたこともない。
最初から真っ向「古典教育の必要性を天下りに主張するな」とだけしか言ってない。
ちゃんと具体的に主張できるのであればそれを認めて終わる話だったわけだよ。
俺は、必要性というほどの強い主張をせずとも、古典も音楽や美術と同様、普通に芸術教育の一分野としてゆるくやればいいと思うんだがね。
海外で物を言うのにハッタリとして必要だとかブサイクな箔付けで、いかにもスノビズム丸出しな方向に展開していくからツッコんだだけだ。
(まあ途中から、数値計算云々彼が言い出したせいで脱線はしたが)。