好きなことだけ主張して、嫌いな物については黙ってろっていうんですね。
嫌いを主張するのはいけないことだ、人として恥ずかしい、と。
本当にそうでしょうか?
嫌いの主張を恥ずかしいと思うの人がいるように、好きの主張を鬱陶しく思う人がいるのかもしれません。
好きの喜びを共有して楽しみたい人がいるように、嫌いの苦しみを分かち合って救われたい人もいるはず。
それって間違っているんでしょうか。
それって例えば蕎麦アレルギーだと主張することと同じじゃありませんか?
「じゃあお昼は別々に食べよう」か、「それならハンバーグを食べに行こう」と返すでしょう。
「蕎麦嫌いとは友達になれない。さようなら」という人も勿論、いていいと思います。
「私もなんです!蕎麦は無理!パスタはむしろ好きだけど」と返す人もいるかもしれません。
私は蕎麦が好きなので共感できませんが、貴重な仲間に出会えたのなら良かったね、と思います。
「世の中の蕎麦屋が全部パスタ屋になってしまえばいいのに」と言いだしたとします。
それに対し「蕎麦の素晴らしさがわからないなんて可哀想w」とか
「蕎麦を好きな人も大勢いるのに!」とか「これだからパスタ厨はw」とか返すのって
なんだか恥ずかしくありませんか。
「普通のスイーツだと思って食べたら蕎麦粉が使われてて死にかけた!」という愚痴に
なんだか大人気なくありませんか。
誘ってもいないのに勝手に蕎麦屋までついてきて調理中の店主に「蕎麦は悪魔の食べ物だ」などと言いだしたら
「何を言ってるんだこいつは」と恥ずかしくなるでしょうし、
こちらが勧めた蕎麦を拒まず食べた挙句、倒れて愚痴られでもしたら
「無理なら断れよ!食べたのは自分だろ人のせいにするな!」と腹を立ててしまうかもしれません。
「蕎麦好きなのが正常」
「好き嫌いは甘え。我慢しなさい」
などとつっかかる大人には絶対になりたくないと思うのです。
誰かの「嫌い」は、本当にあなたの「好き」を否定しているのでしょうか。
私は蕎麦アレルギーの人をわざわざ蕎麦屋へ誘おうとは思いません。
そして自分も大好きな蕎麦を食べるのをやめなければ、とも思いません。
それと同じように、
あなたの好きと誰かの嫌いは、同じ世界の違う場所で共存できるはずです。
嫌いの主張はいけないことでしょうか。
※地雷についての説明のために、
オレ オマエ スキ
「私は○が嫌いだ」ならさして叩かれない。 「○は△だから嫌いだ」と言うと叩かれる。 「○はクソだ」はもっと叩かれる。
BLと蕎麦は違うとしか言いようがない 話の規模も背景も共通点なんてひとつもないのに何故BL嫌いを蕎麦アレルギーに喩えるのか そういうこと理解できないのか BLが摂取すると死ぬ...