2015-03-08

嫌いの主張はいけないことか

最近なぜかよく、嫌いを主張する人への批判を見かけます

好きなことだけ主張して、嫌いな物については黙ってろっていうんですね。

嫌いを主張するのはいけないことだ、人として恥ずかしい、と。

本当にそうでしょうか?

嫌いの主張を恥ずかしいと思うの人がいるように、好きの主張を鬱陶しく思う人がいるのかもしれません。

好きの喜びを共有して楽しみたい人がいるように、嫌いの苦しみを分かち合って救われたい人もいるはず。

それって間違っているんでしょうか。

仮に、BLが苦手だと公言する人がいたとします。

それって例えば蕎麦アレルギーだと主張することと同じじゃありませんか?

私がもし誰かに「蕎麦アレルギーなんです」と言われたら

「じゃあお昼は別々に食べよう」か、「それならハンバーグを食べに行こう」と返すでしょう。

蕎麦嫌いとは友達になれない。さようなら」という人も勿論、いていいと思います

「私もなんです!蕎麦は無理!パスタはむしろ好きだけど」と返す人もいるかもしれません。

私は蕎麦が好きなので共感できませんが、貴重な仲間に出会えたのなら良かったね、と思います

興奮した蕎麦アレルギーの人たちが

「世の中の蕎麦屋が全部パスタ屋になってしまえばいいのに」と言いだしたとします。

それに対し「蕎麦の素晴らしさがわからないなんて可哀想w」とか

蕎麦好きな人大勢いるのに!」とか「これだからパスタ厨はw」とか返すのって

なんだか恥ずかしくありませんか。

普通スイーツだと思って食べたら蕎麦粉が使われてて死にかけた!」という愚痴

自己責任だろ黙れ」って攻撃するのって

なんだか大人気なくありませんか。

誘ってもいないのに勝手蕎麦屋までついてきて調理中の店主に「蕎麦悪魔食べ物だ」などと言いだしたら

「何を言ってるんだこいつは」と恥ずかしくなるでしょうし、

こちらが勧めた蕎麦を拒まず食べた挙句、倒れて愚痴られでもしたら

「無理なら断れよ!食べたのは自分だろ人のせいにするな!」と腹を立ててしまうかもしれません。

しかし、「蕎麦アレルギーです」と自己紹介した人に対し

蕎麦アレルギー公言するなんておかしい!」

蕎麦好きなのが正常」

好き嫌いは甘え。我慢しなさい」

「美味しい蕎麦を食べたことなからだ」

「みんな蕎麦好きだろ空気を読め」

などとつっかかる大人には絶対になりたくないと思うのです。


誰かの「嫌い」は、本当にあなたの「好き」を否定しているのでしょうか。

私は蕎麦アレルギーの人をわざわざ蕎麦屋へ誘おうとは思いません。

そして自分も大好きな蕎麦を食べるのをやめなければ、とも思いません。

それと同じように、

あなたの好きと誰かの嫌いは、同じ世界の違う場所共存できるはずです。


嫌いの主張はいけないことでしょうか。

地雷についての説明のために、

「うっかり摂取してしまうと大きなダメージになる」ということで

蕎麦アレルギーというたとえを用いましたが

アレルギー好き嫌いとは別のものです。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん