はてなキーワード: 出家とは
http://anond.hatelabo.jp/20140707133859
野々村議員のやったこと自体は冷静に調査され、必要なら裁かれるべき。それが健全な法治国家だ。
一方で、あの会見を見て笑わない人はそうそういないと思う。反応の濃淡こそあれ、おしなべて普通の感覚。
わが身を振り返ってみれば、人間取り乱すことも過ちを犯すこともある事実くらい、みんな悟っているはず。
誰だって一度くらいは記憶の底から抹消したくなるくらい恥ずかしい経験をしているものだ。
だったら一回笑ったら、そのあとは見てみぬふりをするのが武士の情けってもの。
こういう人をいつまでもいつまでも笑いものにする人ってのは、教育の浅い村人と昔話では相場が決まっている。
野々村議員が切腹するのか出奔するのか出家するのかは本人しだい。
それでも平気なのか? http://anond.hatelabo.jp/20140429010911
私は1億円の方が欲しいけどね。1億円積んでも、モテない、そう思ってる。
最近「坊コン」とか言うのが流行ってるらしい。坊主=お坊さん との合コンらしい。
ニタニタと卑しい顔した坊主どもが、自分たちのお寺にメス共を集めて、ノンアルの酒を飲んでいた。
一人の坊主は巨乳の参加者に声をかけて、ワチャワチャしていた。
出家とは、世俗を離れ、家庭生活を捨てて仏門に入ることのはず。
本来ならば。
海外で孤独だった時に、ふと立ち寄ったお寺で救われた経験があるからだ。
俺は愛欲のない生活をしている。
人生で一度も合コンをしたこともなければ、素人とはセックスをしたこともない。
巨乳を目の端に捉えながら鼻の下長くしてノンアルコールビールを注ぐ坊主より、俺のほうが絶対に清らかな生活をしている。
http://anond.hatelabo.jp/20130510234802
http://anond.hatelabo.jp/20130510234625
この「武家の考えや習慣」って、どのくらい商工農に浸透していたものなんだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20130510233839
あと↑の総括の人に聞きたい
http://anond.hatelabo.jp/20130510234219と
http://anond.hatelabo.jp/20130510234545もあなただよな?
憶測で話してるわりに、相手には「ソース出せ」って言うのは正当だと思ってる?
その通りです。
浮気をたくさんしていても隠れて楽しんだモノが勝ちだし、
匿名で他人を誹謗中傷してもバレなければどうということはない。
この人「ファン」じゃないですよ。
大衆に見られる場に文章を置く場合は、もっと作品と向き合って下さい。
作家は命削って書いてるのです。それに対する答えを大衆に向かって発する場合、せめてももっと作家と作品に真摯に向き合うべきだと思います。
以下この方の意見に対する個人的な疑問と意見です。長文ですので気が向いたら読んでみて下さい。
村上春樹、段々、一般的な感覚の人々には理解されないようなことを延々と書いてる作家になってるよねーというのは、私も思うなあ。だから、まあ評価が低くなるのもわかるなー。
結構、「純粋」な方向に、ふってきちゃってるよね。そういう(純粋すぎる)のは、狂気というにはわかりにくいんだけど、なんかなあ、真実というところからはずれてきている気がする。うーん。難しいのだけど、一般にピュアであればあるほど、正常といえる水準を超えちゃう確率は高いから。うーん。多分、あまりにも、抽象的なものってちゃんとすればすごい威力あるけど、間違えちゃう可能性は高いよね、という例と似てると思う。
>文章を読んですぐに理解できるのが良作、分からないから駄作なのでしょうか?
しかも、小説ってもともと、正しさ(これも微妙な表現だが)がわかりにくいからさ。その上で、村上春樹は、小説の中でも、あえて正しいかどうか(さらに難しい)がよくわからない方向で、突き詰めようとしているんだと思う。そしてそれが、微妙に少しずつ、本当のところからずれてきてしまっている気がする。なんとなく。
>小説に正しさはあるのでしょうか。あるとしたら、作家が伝えたいことが読者に伝わっていることくらいではないでしょうか。
Aを書いたから正解、Bを書いたから間違い、という問題ではないと思います。
新作について触れると、このタイトル、「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」というタイトルを見た時、私は、これが、作者自身の慰めのために書かれたことがわかったよ。いや、だって、村上春樹、巡礼、絶対すきだもん。その他もろもろ、このタイトル、考えられないくらいわかりやすいよね。疲れた作者本人の心情と合致していそうだなという意味で。なんかびっくりしました。
曲のタイトルの一部としてですか?それとも純粋に単語としてですか?
でもさー。。。。こっからは、愚痴だけど。この人は、今まで、すっごい孤独なタイプの小説家にもかかわらず、いつも、大衆に向けて、つまりノーベル賞を狙って、書いてきた人なのにね。それで、うまく大衆受けするものがかけないなーってずっと悩んできた人(推定)なのにねえ。。。。
もう少し、わかりやすく説明するために、まず、村上春樹の小説家としての才能について書く。幸いなことに、小説を書くというのは、技能を向上させるための課題の発見が、その他の技能と比べても最も難しい技能だと思う。要するに、どうやって練習すれば、小説が上達するのかわからないという、あの課題ね。でも、実は、この人の才能の出発点はここにある。つまり、ある意味で、ものすごくわかりやすいところに、いつも課題があったこの人は、小説家としての技術を「磨く」才能には、ものすごく恵まれていたともいえるのだ。つまり、一般的にヒットしそうな小説が全く書けないという課題。本当に村上春樹ってなんで、こうなんだろうねえ。
>「賞について関心を持たない」
大衆受けするものがかけない、とどこで悩んでいたのでしょうか。
そのような悩みを打ち明けたインタビューに興味があるので、出典を教えていただけませんか。
しかもさー。その上で、この人、ひたすら(下手でも)、小説を書くことに対して、わけわかんないくらいの努力家なんだよね。(これは本人の日記やエッセイによる。なんでも毎日マラソン練習のようにストイックに小説を書きまくっているそうだ。)
>ランニングは日課として行われているそうですが、
小説を書かない時期があることは「遠い太鼓」などではっきり明記されています。
むしろ小説を書かない時期を蓄積させ、小説を書くことに飢えた状態に持って行くことを大切にしているようです。
はっきりいって、その他の、突如現れる霊的なものに対する本筋から見て不必要で余計な感受性だとか、また作者の孤独に対する鈍感さからくる主人公の孤独の無意味さとかは、小説家の適性からみると、もうどうしようもなくだめだと思うのだけど。とにかく、その課題(大衆受けしない)は誰の目にも明らかなのに、本人は全然それが達成できなくて、その上でなぜかこの人は、小説を書くことに対して非常に努力ができた。または、してきた。これが、村上春樹の成功のポイントじゃないかなあ。他の人には色々な意見もあると思うけど、私は、この主張は非常に的を得ていると思うね。
スピリチュアルブーム、パワースポットブームがありましたし、どの雑誌にも占いのページがありますよね?
また需要の無いものに対して努力をしたことが、どうして成功につながるのでしょうか。
さて、その上で、今回の小説に話を戻すと。この作品が珍しく作者自身の慰めのために書かれたことと、村上春樹の小説家としての持ち味をちょっと考えてみると、即座にこの作品が駄作であることがわかる。だって、この人は今まで努力してきたことを捨てたわけだから。なんとか、人に受け入れられるようなものを書きたいという課題を捨ててしまった訳だから。
>どの点で「努力をしてきたことを捨てた」のかが分かりません。
多分、去年ノーベル賞とれなくて悲しかったのと、もっというと、ノーベル賞を目前にして色々な欲がでて、自分の持ち味とバランスを崩しているのだろうね。なんでも本屋の誇大広告によると、この小説は、ほとんど筆をとめずに書かれたそうだ。そんな、当人が趣味でだらだら書いた作品が、これだけバカ売れするんだから、商業小説家としては大成功だね。
>こだい‐こうこく【誇大広告】 商品やサービスの内容・価格などが、実際のものより優良または有利であると消費者に誤認させるように表示した広告。
ですが、どうしてタイトルと作家名と発売日のみ明記した出版社からの広告が、誇大広告に当たるのでしょうか。それとも書店員の手描きポップを指しているですか?
また、「筆をとめずに書かれた」=「趣味ででだらだら書いた」とはならないのではないでしょうか。
画家のスケッチも、ミュージシャンの即興演奏も、俳優のエチュードも、即興的な表現はすべて否定されるのですか?その瞬間にしかない力や勢いに、魅力はないのですか?
まあー。村上春樹にとって、例え自分がとんでもなく寂しいことに気づいたからって、それで純粋な方向に振り切っちゃうのは、はっきりいってよくない戦略じゃないかなあ。というか、それ、青豆と天吾のストーリー、ひきづってるだけだよねー。いや、1Q84は恋愛がテーマじゃないから、奇跡的に、ああいうのが物語になったけど。もし恋愛をテーマにするんだったら、青豆と天吾のような主人公では小説がかけないでしょー。。。。というかですね。
はっきりいって、もういい加減、孤独をつきつめた作品ではなくて、大恋愛について書くべきなんですよ、村上春樹は。だって、この人が孤独でも、全く悲しくないんだよね。もともとが孤独に鈍感な人なんで。なんとか、もうちょっと、大衆とコミュニュケーションとるために努力して下さい。それができないなら、今後は、本当に人に認められたいなんて思うのはやめて、出家してくださいなー。
(終)
>村上春樹の作品は「アンダーグラウンド」以降どんどん社会性を帯びていると思います。
インタビュー集や読者との交流を何冊もの書籍にまとめていることからそれは明らかです。
私見を述べるならば、今回の「色彩を持たない〜」は、「孤独をつきつめた作品」ではないと思います。
今回の作品の主人公は具体的な地名と風景の描写を付け加えられた最後のシーンの描写からも、内面はどうであれ、外面としてはしっかりと社会性を持った人物ではないかと考えられます。
その意味で「ノルウェイの森」の主人公が最後に感じた、「僕はどこにいるんだ」という感覚と、対比される作品と考えられます。
そのため、「色彩を持たない〜」は、「孤独をつきつめた作品」には少なくとも作家の作品群から位置づけする分に該当しないと考えられます。
とありますが、
「村上さんに聞いてみよう」シリーズで読者からの何百もの雑多な質問に答えたり、
「少年カフカ」で特定の作品に向けられた読者からのフィードバックや質問に真摯に向き合ったり、
「アンダーグラウンド」「約束された場所で」の中で地下鉄サリン事件の被害者加害者の内面をインタビューした作品を出したり、
その他に京都での講演を企画したり、海外では朗読会を行ったり、
十分に大衆とコミュニケーションを図ろうとする姿勢があると思うのです。
ここまで大衆とコミュニケーションを図ろうとしている長編小説家が私には挙げられません。
その成果も、以前は若い独身男性の視点で一人称で描かれていた作品が、三人称になったり、また1Q84の牛河のように、全く違う立場の人物の内面を描いたりと、
どんどん小説の中で反映されていると思うのです。
すっごいだらだらしてた時に、なんとなーく村上春樹の新作についてAmazonのレビューをみながら愚痴ったメモが、翌日みたら意味不明だったので晒す。まとまりない上にばかっぽいです笑。
↓
村上春樹、段々、一般的な感覚の人々には理解されないようなことを延々と書いてる作家になってるよねーというのは、私も思うなあ。だから、まあ評価が低くなるのもわかるなー。
結構、「純粋」な方向に、ふってきちゃってるよね。そういう(純粋すぎる)のは、狂気というにはわかりにくいんだけど、なんかなあ、真実というところからはずれてきている気がする。うーん。難しいのだけど、一般にピュアであればあるほど、正常といえる水準を超えちゃう確率は高いから。うーん。多分、あまりにも、抽象的なものってちゃんとすればすごい威力あるけど、間違えちゃう可能性は高いよね、という例と似てると思う。
しかも、小説ってもともと、正しさ(これも微妙な表現だが)がわかりにくいからさ。その上で、村上春樹は、小説の中でも、あえて正しいかどうか(さらに難しい)がよくわからない方向で、突き詰めようとしているんだと思う。そしてそれが、微妙に少しずつ、本当のところからずれてきてしまっている気がする。なんとなく。
新作について触れると、このタイトル、「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」というタイトルを見た時、私は、これが、作者自身の慰めのために書かれたことがわかったよ。いや、だって、村上春樹、巡礼、絶対すきだもん。その他もろもろ、このタイトル、考えられないくらいわかりやすいよね。疲れた作者本人の心情と合致していそうだなという意味で。なんかびっくりしました。
でもさー。。。。こっからは、愚痴だけど。この人は、今まで、すっごい孤独なタイプの小説家にもかかわらず、いつも、大衆に向けて、つまりノーベル賞を狙って、書いてきた人なのにね。それで、うまく大衆受けするものがかけないなーってずっと悩んできた人(推定)なのにねえ。。。。
もう少し、わかりやすく説明するために、まず、村上春樹の小説家としての才能について書く。幸いなことに、小説を書くというのは、技能を向上させるための課題の発見が、その他の技能と比べても最も難しい技能だと思う。要するに、どうやって練習すれば、小説が上達するのかわからないという、あの課題ね。でも、実は、この人の才能の出発点はここにある。つまり、ある意味で、ものすごくわかりやすいところに、いつも課題があったこの人は、小説家としての技術を「磨く」才能には、ものすごく恵まれていたともいえるのだ。つまり、一般的にヒットしそうな小説が全く書けないという課題。本当に村上春樹ってなんで、こうなんだろうねえ。
しかもさー。その上で、この人、ひたすら(下手でも)、小説を書くことに対して、わけわかんないくらいの努力家なんだよね。(これは本人の日記やエッセイによる。なんでも毎日マラソン練習のようにストイックに小説を書きまくっているそうだ。)
はっきりいって、その他の、突如現れる霊的なものに対する本筋から見て不必要で余計な感受性だとか、また作者の孤独に対する鈍感さからくる主人公の孤独の無意味さとかは、小説家の適性からみると、もうどうしようもなくだめだと思うのだけど。とにかく、その課題(大衆受けしない)は誰の目にも明らかなのに、本人は全然それが達成できなくて、その上でなぜかこの人は、小説を書くことに対して非常に努力ができた。または、してきた。これが、村上春樹の成功のポイントじゃないかなあ。他の人には色々な意見もあると思うけど、私は、この主張は非常に的を得ていると思うね。
さて、その上で、今回の小説に話を戻すと。この作品が珍しく作者自身の慰めのために書かれたことと、村上春樹の小説家としての持ち味をちょっと考えてみると、即座にこの作品が駄作であることがわかる。だって、この人は今まで努力してきたことを捨てたわけだから。なんとか、人に受け入れられるようなものを書きたいという課題を捨ててしまった訳だから。
多分、去年ノーベル賞とれなくて悲しかったのと、もっというと、ノーベル賞を目前にして色々な欲がでて、自分の持ち味とバランスを崩しているのだろうね。なんでも本屋の誇大広告によると、この小説は、ほとんど筆をとめずに書かれたそうだ。そんな、当人が趣味でだらだら書いた作品が、これだけバカ売れするんだから、商業小説家としては大成功だね。
まあー。村上春樹にとって、例え自分がとんでもなく寂しいことに気づいたからって、それで純粋な方向に振り切っちゃうのは、はっきりいってよくない戦略じゃないかなあ。というか、それ、青豆と天吾のストーリー、ひきづってるだけだよねー。いや、1Q84は恋愛がテーマじゃないから、奇跡的に、ああいうのが物語になったけど。もし恋愛をテーマにするんだったら、青豆と天吾のような主人公では小説がかけないでしょー。。。。というかですね。
はっきりいって、もういい加減、孤独をつきつめた作品ではなくて、大恋愛について書くべきなんですよ、村上春樹は。だって、この人が孤独でも、全く悲しくないんだよね。もともとが孤独に鈍感な人なんで。なんとか、もうちょっと、大衆とコミュニュケーションとるために努力して下さい。それができないなら、今後は、本当に人に認められたいなんて思うのはやめて、出家してくださいなー。
(終)
http://anond.hatelabo.jp/20130315113616
「クズ男」になりたくないんだよ。
男ってどんな生き物?
浮気して、酒飲んで、ギャンブルやって、スッて借金重ねて、DVして、
テキトーに嘘ついてひっかかった女をヤり捨てて、
そういう「クズ男」像って、TVとかあっちこっちのメディアで、
そんな男は女に嫌われる、そんな男が女を不幸にする、みたいな
ダブルバインドでくるわけじゃん?
正直、やなんだよね、そういうの。
で、自分はそうじゃない、って思うわけよ。
浮気なんかしないし、酒も煙草もやらないし、ギャンブルもしないし、
借金……は、僕は奨学金借りてるから胸を張ってないとは言えないけど、
DVなんかもってのほかなわけよ。女の子なんか殴れるわけない。
嘘なんかつけないし、嘘吐いて女引っかけてなんて考えられないし、
その人には一時だって嘘を吐いていたくなんてないし、
自分のいいところも悪いところも分かってもらって、
相手のいいところも悪いところも分かって、
それで付き合いたい。
でも、そんなの叶うわけないんだよな。
女が求めるのは、本当は「クズ男」なんだって、僕は最近、やっとのことで気づいたんだ。
いままで、糞まじめに「非クズ男」でいつづけてきたのがバカだった。
でももう駄目だよ。
いまさらそんな気力ない。
たった一人の人を。
もう誰も愛せない。
テキトーにセックスして後世に遺伝子遺せるのが「クズ男」なんだったら、
ある人が亡くなった。奥様と幼稚園児が遺された。
いろいろと心配もさせた。気にかけていただいた。尊敬していた。
生きている間には何の恩も返せなかった私は、遺族のためにできる限りのことをしたいと思った。
ずっと専業主婦だった奥様が、夫の仕事をついで、大変な苦労をしているのは知っている。もともと故人のずばぬけた眼力とセンスと人脈によって成り立っていた商売だ。
ずぶの素人の奥様にとっては、相当つらい状況だろう。。
故人の治療は保険適用外のものが多く含まれていたため、かなりあったはずの貯金は闘病生活を送るうち、雪のように溶けた。
素人だろうとなんだろうと、奥様は独力で商売を続けなくてはならない。
私は以前、故人の商売をしばらく手伝っていたことがある。奥様の仕事を手伝うこともできるだろうとは思った。
もちろん圧倒的に優れていた故人の手腕には到底及ばないが、それでも商売のことをまるで知らない奥様よりは、マシに支えることが出来る。
なので、わずかながら手を貸した。
本当は他にも色々なことをしたかったけれど、私にも自分の生活があり、援助には限界がある。
どうすればもっと手助けできるだろう、と思っていた。
一度、故人の夢を見た。故人は部屋の隅に立ち、暗い顔でじっと私の顔を見ていた。
翌日、なんであんな夢を見たのかな、などと考えていた時、震災が起きた。
ただの偶然なのかもしれないが、それでも私は自分が見た夢のことを思い出し、ぞっとしながら奥様にメールを送った。
何度目かで、ついに無事を確かめることができた。
一時的に避難していた奥様が、娘さんと一緒に自宅に戻ってしばらくした頃、私は家屋の片付けなどのため、奥様のもとに向かった。
その前日にも、夢に故人が顔を出した。困ったようなそわそわした表情を浮かべていた。
そして奥様のもとを訪れたその日、私は人生で一番てくらい、がっつりした宗教勧誘を受けた。
正しい教えを知るものが減ったから地震が起きた、と奥様は語った。
あなたにも救われて欲しい。あなたのような人こそ、救われて欲しいと。
一日中そんな話を聞きつづけ、夜になる頃、私の体調が悪くなってしまい、そこでやっと解放された。
奥様が正しい教えに縋る気持ちはわかるのだ。
正直、彼女と立場を交換したいとは思わない。あまりにも状況がシビアすぎる。
そういう人間にとって、どっしりと頼れる正しい教えは、確かに必要なものなんだろう。
だけど私は違うのだ、ということをどうしても納得してもらえなかった。
私が彼女の誘いに乗るつもりがないとわかったとき、奥様の顔にははっきりと失望の色が浮かんだ。
「それでもいずれあなたにもわかる日がくるから。それを待つから」
と最後に言った時の目つきも声音も忘れられない。
「残念だけど、その人とは縁を切るしかないだろうな。その宗教に入るなら話は別だけど」
と人には言われた。
私もそう思う。
だけど、やっぱり、いまだにちりちりと胸は痛む。
恩人だ、恩を返したいなどと言っていたくせに、こんなことであっさり離れるのか自分は。
苦労をしている奥様と、まだ小さい娘さんを遺してどれほど故人が無念であったか、心配していたか、私は知っているのに。
夢で見た故人の暗い顔が忘れられない。
そういえば、あれから故人の夢を見ていない。
私にできることって、本当にもう何もないのだろうか。