はてなキーワード: ねぎまとは
ブコメ見てると「焼き鳥食べたい」「焼き鳥屋行きたい」って声が多いので書きます。
家でも串はできます。
あれは魚を焼くモノじゃありません。串を焼くものです。
適当な肉を買ってきて適当な大きさに切って串に刺してフィッシュロースターに並べて10分くらい焼けばうまい串ができます。
イワタニ「炉ばた大将」みたいなのもあるがあれはけっこう面倒くさい。
「串打ち三年、焼き一生」というが、フィッシュロースター使えばその「一生」ぶんがかなりショートカットできます。
フィッシュロースターは密閉状態で上下から加熱するので、串打ちが適当でもいい感じで火が通ります。
モモやねぎまだけじゃなくて、スーパー行けば色んな部位の肉を売ってるので好きな肉を焼けばいい。
タレは「エバラ焼鳥のたれ」で十分です。焼きながら時々ハケで塗るといい。
もちろん、塩焼きもうまい。
自分でいろんなオリジナルな味付けも楽しめる。塩+オリーブオイルとか、生醤油とか、ポン酢とか。
お店だと「つくね」にしかついてこない卵黄も、家串なら例えば鶏レバとかでやれたりする。
最近は「ガーリック焼き」とか「バジル風味」とか「タンドリーチキン」とか味ついてる肉があったりするでしょ。
つくねは「米久の肉団子」で全然OK。ふつうに焼き鳥屋の味です。
ラム肉もいい。カルディの「羊名人」まぶして焼けばサイゼリヤのアレが家でできる。
肉のあいだに挟む野菜もネギだけじゃない。トマトやらキノコやら色々選べて楽しめる。
RRD 皮や骨についた身は物理的に刺身に出来ず、貝殻や匙で剥ぎ取ったものがすきみ。剥ぎ取ることを古語で「ねぎ取る」と言ったところからネギトロという。
ところが、その肝心の金太楼鮨では「ねぎ取る」説が採用されていない。
ネギトロ巻きの誕生は、1964年(昭和39年)、浅草に本店がある『金太楼鮨』とされる。三ノ輪店で残った寿司種を手巻き寿司にして賄いで食していたが、鉄火巻きに使用する中落ち・すき身にネギを加えると、マグロの脂っぽさが打ち消された。それを客に提供したところ好評で、常連客を通じて本店にも伝わり、本店のメニューに採用された。
偶然にできた寿司ネタ「ネギトロ」その由来の秘密(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社
ねぎとろ発祥の店と言われているのが、東京浅草に店を構える大正13年創業の金太楼鮨。昭和39年、当時の会長だった間根山貞雄氏が考案したという。その開発の経緯はこうだ。
同店ではまぐろを毎日大量に仕入れていたが、筋の部分は食感が悪く、刺身や寿司に使えず、余っていた。叩いてペースト状にして食べれば、脂がのってトロトロで美味いが、今度は歯応えが皆無。
そこで仕方なく、巻きに使おうとしたところ、昼食用に茹でていたそばかうどんに使うネギやワサビなどの薬味を筋の部分にぶちまけてしまう。やむを得ず、ご飯にのせて醤油をかけて食したところ、これが美味い。そこで、大当たり間違いなしと、店で出すことに決めたという。
思いがけず生まれた新しい寿司ネタ。その命名について、間根山氏はこう語っている。
「浅草には『麦とろ』という名前のとろろ飯を売る店が戦前からあり、専門店としては珍しいので土地では一応知られていた。よし、これだと、麦とろ→ねぎとろと語呂を合わせて決定した」
というわけで、この説明によれば「葱」+「(麦)とろ」である。
例の「チコちゃんに叱られる!」でもこの説が採用されたらしい。
牽強付会な印象も無いではないし、「銀ブラ=銀座でブラジルコーヒー」のように店が積極的にデマを流している可能性もある。
この場合は、昭和39年(1964年)以前に「ねぎとろ」という用例があれば、金太楼鮨の説明は疑わしいということになるはずだ。
が、そう都合よく見つかるはずもない。誰か探してくれ。
追記。
青ジソは香りのよさが好まれてよく使われ、イカのにぎりの場合など、一葉添えられることが多くなった。この青ジソの葉を細く切っていりゴマを加えた、シソ巻ずしを台東区東浅草の金太楼鮨でやっている。また、生ネギとトロとを巻いた「ネギトロ」も、ここの名物である。生ネギをすしに使うなどはなかなか思いつかないことなのだが、このネギとトロというのが相性がいい。
浅草の東、鮨·金太楼本店。(中略)「ねぎトロ」が日に、キロ以上とれて、さばけて行くのですからご立派。ちっと解説させて頂くなら、ねぎトロのトロとは、まぐろをさばいたあと、皮や骨についている肉をこそげ取った身を寄せ集めたものです。(中略)ねぎトロは、いまいったトロにきざんだねぎを混ぜ、ゴマを加えたもの。
信用金庫 29(1) - 国立国会図書館デジタルコレクション
先日、仕事の関係があって、浅草のあるおすし屋さんを訪ねた。そこで、ネギトロというものをたべた。たいへんおいしかったので、ほかであまりきかないけど、おたくだけのものかときいてみた。若いご主人は次のように話してくれた。そうです。実はわたしたちも、すしにネギは禁物だと教わってきたのです。ところが、ネギのとても好きなお客さんがいらして、ネギを巻いてみてくれというご注文なのです、ついでにトロも一緒に入れてくれというので、試しに巻いたのです。ところが、これがなかなかいけるのですね。それで、その後いろいろ工夫してみました。トロをよくたたいてアブラをうかし、スジをとって、それからネギと一緒に巻くのです。これをわたしのところのレパートリーに加えました。ですから、これはお客さんに教えていただいたものといえますね。
というより「生ネギをすしに使うなどはなかなか思いつかない」「すしにネギは禁物だと教わってきた」といった記述からすると、ネギを使うことこそがネギトロのオリジナリティのようである。
週刊文春の記述からは、いわゆる腹部の「トロ」ではなく、現在のように中落ちや皮ぎしの肉を使っていたことがわかる。
「浅草のおすし屋さん」というのはおそらく金太楼鮨のことだろうが、現在説明されているネギトロの誕生経緯とはだいぶ異なっている。
追記終わり。
別の方向から考えてみよう。
RRD氏は「剥ぎ取ることを古語で『ねぎ取る』と言った」と書いている。
ね・ぐ 【労ぐ】
ねぎらう。いたわる。
ね・ぐ 【祈ぐ】
祈る。祈願する。
「ねぐ」は、神社の「禰宜(ねぎ)」や、「労う(ねぎらう)」「願う(ねがう)」といった言葉の語源である。
ちなみにヤマトタケルの伝説で、景行天皇が、息子の大碓命が会食に出てこないことを懸念し、その弟の小碓命(=ヤマトタケル)に「ねぎ教へ覚せ」と命じた、という話がある。
この「ねぎ教へ覚せ」の「ねぎ」は、まさに「ねぎらう・いたわる」で、「(会食に出るよう)優しく教え諭せ」といった意味になる。
ところがヤマトタケルはこの命令を取り違え、兄の手足を引きちぎって殺してしまった。
「手足をねぎ取った」ということだろうか?
このときヤマトタケルがどう取り違えたかというのは「根切る」や「ねじ切る」といった説があるようだが、さすがに「剥ぎ取る」と結びつけることはないようである。
というわけで「剥ぎ取ることを古語で『ねぎ取る』と言った」という説はかなり怪しい。
しかし古語ではなくとも「ねぎ取る」という言葉があった可能性はある。
別の記事では「ねぎ取るは建築用語だ」とする説が紹介されている。
知ってた? “ネギトロ”は葱とマグロのトロの意味じゃない! “ねぎま”も焼き鳥じゃない | ガジェット通信 GetNews
元の語源は建築用語で、地下構造物を作る時、地面より下の土を掘ることを「根切り」と呼んでおり、それが寿司業界にも広まり「ネギトロ」が誕生。
そもそも「根切り葉切り」という言葉もあるように、「根切り」には「根こそぎ」という意味があり、骨から肉をこそぎ落とすようなイメージは分からないでもない。
そもそも「ねぎ取る」で検索しても「ネギトロ」以外の文脈ではほとんど引っかからない。
中間形態としてありそうな「根切り取る」などもやはり引っかからないのである。
こちらは「俺は寿司屋をやって数十年の者だが『ねぎ取る』という言葉は確かにあるぜ」という人が出てきてくれれば確かめられるはずだ。
というわけで、1964年以前の「ねぎとろ」用例や、古くから寿司屋で「ねぎ取る」を使っていたという人が出てこないかぎり、暫定的に「葱」+「トロ」説を採用したい。
ねぎま・・・超保守派。他人の言うことは「それもあるよね」と言いつつ、自分が絶対正義。
つくね・・・革新派。軟骨から卵黄まで大体OK。結果が良ければ過程は何でもいいだろうと言う考え方。
正肉・・・原理主義。肉さえあればネギなど要らぬ。正しくは胸肉だけど、もも肉も首肉も全部同類と思ってる。
砂肝・・・ちょい変わり者。少し周りと比べると浮いてる。でも頭抜けた個性ってほどではない。
せせり・・・恋愛体質。惚れっぽい。惚れればタレでも塩でもすぐ合わせてしまう。
ボンチリ・・・エネルギッシュ。悪く言うとオイリー。でもカラッとしてるのであまり嫌われない。
ヤゲン・・・個性派。変人。骨があると言うより骨。肉が付いて才能開花することもある。
いかだ(手羽)・・・金持ち。大体が経営者でガツガツしてる。存在感アピールが邪魔くさい。
ソレリス・・・高嶺の花。普通に生活していると滅多に見ない。美人で色っぽいらしい。
ささみ・・・冷静沈着。何が来ても動じない。あんまり内面まで熱くなることはない。
レバー・・・オタク。基本的にあまり好かれないけど、すごい奴は尊敬される。質が悪いと臭い。
ハツ・・・体育会。血気盛ん。熱血で暑苦しい。意外とレバーと話が合うつもり。
チョウチン・・・サディスト。有精卵の卵が好物なんて、サディストしかいねえよ。
かわ・・・パシリ。下っ端根性抜けない。しっかり焼いて気合いいれよう。
豚バラ・・・空気読めない。鳥から選ぶということさえできない空気の読めなさ。