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2019-12-26

JR新宿駅南口攻略キモ

anond:20191226123912

原則として(JR西口を使うこと。


これには異論がある人多いだろう。

新宿駅ダンジョンたらしめている一番の要因が西口から他へ移動する際の分かりづらさだと言っても過言でないからだ。

そこで私は南口を強くお勧めしたい。

JR南口新宿三丁目駅結構近い。

迷宮でうろうろするぐらいなら少し遠回りでもメトロの乗り換えはこっちにしてしまおう。

新線新宿都営新宿線)も大江戸線改札もすぐ。

JR同士の乗り換えも地下に比べれば格段に分かりやすい。

ということは、西武新宿以外の全てなので、乗り換えに関して言えば深く考えずに南口に行くというのも手だ。

西口東口に比べれば比較的人が少ないので、人混みに流されて案内板を見逃す事も少なくなる。

外に出て移動するなら西口にも東口にも都庁方面にも行きやすい。

GPS不安定な地下より南口から外に出てナビ任せが一番現実的だ。

南口に出るのはホームから階段を降りずに登ればいいというのもいい。

日常的に使い、最短で移動しようというのではないならかなりお勧めである

小田急線

直結している。案内板を見れば間違えようがない。

京王線

南口改札を出たらすぐに右に進む。

小田急線の改札を過ぎたらすぐ、少し分かりづらいが右の方に階段ががある。

一応、京王線との案内があるが、薄暗い階段なので分かりづらいかもしれない。

その階段を2階分降りるといきなり京王線ルミネ口現れる。

京王新線都営新宿線

南口改札を出たら駅構内を右に進む。

小田急線の改札を過ぎそのまま直進する。

高層ビル方面の案内に従ってエスカレータを降りる。

続いて左折し同じようにエスカレータを降りると開けた場所に出る。

その左側が京王新線都営新宿線の改札だ。

京王線はここから乗ってもいいし開けた場所を右折し地下道を進むとたどり着く事もできる。

大江戸線

都営新宿線の改札までは同じルート

都営新宿線の改札を左に見てそのまま直進する。

正面に大江戸線の改札がある。

メトロ

丸ノ内線副都心線新宿三丁目駅に任せてしまう。

南口の改札を出たら左に進む。

そのままどんどん進むと外に出る。

すると下に降りる階段があるのでそのまま降りる。

おりてすぐ、右側の甲州街道ガード下に「新宿東口地下歩道」という入り口がある。

これはもう一応新宿三丁目駅のE10という出入口だ。

地下道をそのまま進み突き当たりを左折するとと副都心線の改札だ。

丸ノ内線さらにそのまま進み、エスカレータを上がる。

登り切ると開けた場所に出るので左折をすると丸ノ内線の改札が現れる。

西武新宿

西口から行くよりも南口からの方が距離としては近い。

上記新宿三丁目駅経由で行くなら分かりやすいが、やはり遠回り感は否めない。

大人しく高田馬場で乗り換えるが正解だと思う。

一応説明すると、新宿三丁目の丸ノ内線改札を過ぎてもそのまま直進する。

通路は改札の右側を通っておく方がいいだろう。

しばらく進むと右側に新宿サブナードへと続く下へ降りるエスカレータが出てくるのでそこを降りる。

あとは案内板に従って進めばよい。



南口は最強だが気をつけなければいけないのは、新南口と間違える事だ。

ホームから階段を登ると出てしまう改札は「南口」「南東口」「新南口」「ミライナタワー口」「甲州街道口」とある

「南東口方面に行ってしまっても取り返しがつくが、「新南口」「ミライナタワー口」「甲州街道口」方面だと、一回改札を出て外に出るか、ホームに戻って別の階段で登り直さないと南口にたどり着けない。

埼京線湘南新宿ラインからでないとなかなか間違えて新南口に出てしまうことはないとは思うが、ここが一番のネックなので、降りてすぐ、新南口でなく南口に行くということを心に止めておけばいいと思う。

2019-12-08

ゴールデン街とか好きな人たち

「チェーンの居酒屋なんて行く気がしない」

個人のお店にずっと通ったり、雰囲気良さそうなとこに飛び込んだりして、

お店を開拓するのが面白いんだよな」

食べログで点数見て飲み屋探すって何が面白いんだよ、それ」

ゴールデン街とか新橋ガード下飲み屋探すのがいいのよ」

とおっしゃる友人がいたので

「それなら綾瀬の方に面白い店あるよ」と教えてあげたら

足立区とかwww」って言われた。

どういうことよ、ただのファッションゴールデン街かよ。

2019-11-16

乳幼児スナイパー vs ロシア人家族観光客

ある土曜の午後、農林水産省外郭団体主催する競技大人出資者として参加するべく俺は都心とある場所にいた。全然関係ないけど今日は土曜なので小池都知事はお休みだろう。ゆっくりと、休息を取れるよう工夫をしていただきたいっ、かように思う次第でございます

競技開始まで時間があったので俺は目の前のゲーセンに立ち寄った。いつもなら酒のシメなのだ今日シラフな上、本当にただのヒマつぶしだった。

わりとあっさり15センチくらいのピンクの犬が取れた。手触りが低反発枕みたいにポワポワして気持ちがいい。ヒマつぶしになったので店を出ようとすると目の前に外国人観光客家族連れがいる。たぶん7~8歳に満たないであろう女の子がパパに叱られている。彼女の顔の前で人差し指を立てたパパの言葉ロシア語だ。俺は大人なので外国語も堪能だ。ロシア語とて例外ではない。絶対こう言われてる。俺にはわかる。

「いいかい?イリヤ、一回だけと言う約束だ。これ以上やりたいと言うならスシはなしだ。ユニクロヒートテックもだ」

そう言うとイリヤの両親は振り返りもせず店を出て行った。正解だタワリシチ。そのマシンはガキにはまだ早い。レバーが胸より上じゃないかしかし納得の行かないイリヤが後ろからパパのお尻をぴたんっと叩いた。親に暴力を振るうとは何て恐ろしいガキだ。絶対に許さん。本来なら年齢的に俺の標的の対象外かと思われるがここは人の道をはずれたこのガキに大人として俺は制裁を加える決心をした。

後を追うように俺は店を出ると、両親の後ろをトボトボ歩くイリヤに気配を消して後ろから追いつき、さりげなくイリヤの隣を歩いた。何気なく見上げて来るイリヤに、俺はすかさずさっき取ったばかりのピンクのポワポワの犬を手渡した。反射的に受け取るも、次の瞬間びっくりして目を見開くイリヤ。青と言うより深い緑の瞳が宝石のようで、もはや人類のそれではない。俺はそのまま無言で振り返りもせず道路を足早に渡ると反対側にあった激安の殿堂に姿を隠した。完璧だ。

あのやたら耳に残る4小節シャッフルメロディ流れる店内で、俺は独りほくそ笑んだ。今頃イリヤ父親に怒られてるに違いない。「ちがうの!筐体をこじ開けたりなんかしてない!本当に知らない日本人モアイに似たおじさんがこれくれたの!お願いパパ信じて!」などと泣きながら訴えても信じてはもらえまい。仮に信じたところで今度は爆発物が入ってることを疑われてそのピンクのポワポワの犬は捨てられてしまうかもしれない。東欧人間からな。いいのだ。家庭内暴力容認する父親のお前も同罪だ。心ゆくまで疑心暗鬼に陥るがいい。

いずれにせよ初めての日本旅行が親からの信頼を喪失する場となってしまい落胆したイリヤはそのトラウマを抱えて笑顔を失った女として大人になるだろう。ざまあみろ親に暴力など振るうからだ。人生は大抵やり直しは効くが取り返しのつかないこともあるのだ。

しばらくして俺は激安の殿堂を出ると、競技の中継を行う施設へ向かうべくガード下を通った。すると目の前に外国人観光客家族が座っている。イリヤ達であった。両親は「TOKYO」と書かれたガイドブックに没頭して何か話しているが、イリヤはその隣に座っていた。手にはピンクの犬。あのポワポワの感覚を楽しむようにイリヤはそれをほっぺたに当てていた。

どうせ気づくまいと俺は多少距離を取りながら彼らの前を通過した。するとイリヤが俺に気づき隣の父親を揺さぶる。いかん!これは反撃されるかも知れない。そう思った瞬間両親の視線が俺を捉えた。ガイドブック読んでろよロボットレストラン探してろよ何だよその反応の速さスペツナズかよ。

今にも「スパシーボ!モアイに似た人!」とでも言いたげなその笑顔の表情に対し俺は通りすがり大人の無表情で一瞥をくれると腹の中で「モアイじゃねえよ」と言い返しながら急いでその場を立ち去った。慌ててたのでガードレールをまたぐとき踵がぶつかって転びそうになった。

なるほど、ほっぺたか

11/18 →https://anond.hatelabo.jp/20191118124905

2019-10-15

anond:20191015230512

現代Twitter統一ルールにおいてはガード下げる方が全面的に悪いのでお前は正しいことをしている胸を張れ

2019-07-20

人生何があるかわからない

10年くらい前に何度か恋愛系のポストをしてました。

アラサーのくせに、大学生みたいなちょっと甘酸っぱ系のやつ。

僕は相手ベタ惚れだったんだけど、結局恋人未満止まりでした。

が、人生からないもので。アラフォーにいたった今になって進展しました。

びっくり。

友人関係はずっと続いてたんですよ。

僕が少し遠くへ転勤した関係で、せいぜい半年に1回ご飯食べに行くくらいですけど。

2か月ほど前に彼女がこっちに遊びにきたとき、お互い飲みすぎてべろんべろんに泥酔しまして。

新幹線夜行バスも最終を逃して彼女地元に帰れなくなりました。

しゃーないので、その辺の奇麗めビジホにお泊り。

僕はスーパージェントルなので普段ならシングル二部屋かせめてツインを取るところなんですが

なにぶん自分もべろんべろんなもので。気が付いたらダブルに泊まってました。

僕もガード下がってたのかもしんないね、やっぱり。

とはいえジェントルつべろべろなので、特にDo itすることもなくぎゅって抱きしめながら普通に寝ました。

そんで先月ですね、今度は僕が向こうにお呼ばれして遊びにいきまして。

お買い物したり、温泉行ってまったりしたり。もちろんお風呂は別浴よ?

今度はべろべろにならない程度に地酒など嗜んだりして。

そうこうするうちに僕の電車時間が近づいて、帰路につくわけですけど。

またいちゃっとする流れになって。

なんかすっごい遠回しに好きって感じのことを言われるんですよ。

どんだけにぶいの。他の女のとこに行かれるのは嫌。みたいなことも。

え、今更?こっちは何年も前に、苦心の末に諦めをつけたというのに?

でもそれはパートナーになることを断念しただけで、好きでなくなったわけじゃない。

そりゃもうイグニッションですわ。

その日は僕の側も思いのたけを一部ぶちまけて、時間切れ終了。

そして今日、また色々お話をしにいくところです。



あれだよ、本気の僕は、重いよ?

全開の好き好きオーラ量は旅団クラスよ?

おりこうだけど飼い主大好き遠慮なしの大型犬よ?

ちょっとどうなるか全然わかんないけど。

うまくいかない要素も山盛りだけど。

ともあれ人生って色々あるんだね。

2018-12-09

anond:20181208220445

東條英機でいいでない?

そして、ヒトラー新橋ガード下で飲みながら今の政治批判とか言い合あう。

2018-08-25

なか卯のざるうどん

なか卯のざるうどんが好きだ。

会社の最寄り駅のガード下にあるなか卯に十年来通っている。

夏になる前からメニューに載り始めるけれど、僕にとってなか卯のざるうどんは、夏の訪れを感じさせる、ワクワクさせるものだ。

外国人アルバイターカウンター内で一生懸命に働いている。

満腹に至るには程遠い控えめな盛りの、安っぽいプラスチックのザルの上に乗った、コシの強い麺をささっと吸い込んでしま刹那に、さあ前に、次に行こうって心の中でそっと呟いて店を出る。体に纏わり付く熱気が心地良くなっている。さてもうひと頑張りするか。

これまでなんとか情熱を絶やさないで走り続けて来れた。5%くらいはなか卯のざるうどんのおかげかもしれない。感謝

2018-06-22

HUBが怖い

https://www.pub-hub.com/

30代前半

角打ち、有楽町ガード下立石の立ちのみ、ホッピー通り。どこも普通に行って、それなりに溶け込めるのだが、HUBはどうしても無理

最寄りの店舗問題かもしれないが、ウェイ度が凄くてぼっちが入っていったら駄目な雰囲気に感じる。

こう書くと「むしろ、お前が行ける場所のほうが行きにくいわ!」とか言われそうだが、ウェイって程盛り上がってない。平均年齢高めだから当たり前だ。変なのも要るけど騒がしくはない

もちろん一度は行ったことあるのだが、あの独特の暗い店内にグループで来ている若者のノリのおかげで、クラブのような「盛り上がらない奴はダサい」って空気を感じてビールも不味く感じた

別にシングル考慮しろとは言わないが、シングルでも飲みやすい店内レイアウトだと嬉しいな。イメージなのかもしれないが、どうもどこの店舗も外から様子が見えなくて、大衆店のくせに場末スナック並みのプレッシャーを出している気がする

2018-06-12

anond:20180612001305

まあ、俺が弱ってるときに割とかまってくれるから、先輩酔わせて、ガード下げて、泣き顔で甘えつつ懇願すれば、ワンちゃんあるかもね

2018-06-07

anond:20180607103537

質的にどうしても飲めないけど君に楽しんでほしいから好きなもの飲んでほしいってストレートに言ったら(流石にバーとか酒メインの店は入れないだろうけど)

後酒好きにはお互いに酔っ払ってガード下げるという行為が好きなんであって酒という嗜好品は好きじゃない人も多いので、相手ホントに飲みたくない可能性もある

2018-05-08

酒を飲める人がうらやましい

連休明けから呑んでるサラリーマンとかすげぇと思う。

上野ガード下居酒屋とかマジうまそうだなぁって思う。

酒も飲めるし、飲み会ハイテンションボーイだったんだけどなぁ。

鬱になってからエネルギー不足になって飲むのが面倒になった。

飲んでも楽しくないし(喋るのも楽しくない)、すげえ二日酔いになるし。

軽く飲むだけで3000円くらいかかるからもったいないって嫁に言われそうで、それでブレーキがかかるのもある。

酔っ払い臭い息を嗅ぎながら、なんか寂しい気分になる。

2018-02-23

人生もっと幸せだった瞬間

親友結婚式が終わって、高校の本当に親しい友人数人だけで渋谷ガード下で激しく酔いながらYUICHERRYを大合唱したこと

かつてない多幸感がすごかった

2018-01-02

長期休みなので、ガード下 酔いどれ人生ごっこやった

5日風呂入らず、髪の毛脂ギッシュにして、無精ヒゲ生やしてヨタ化したのを見計らって、

がぶがぶ君をコップに注いで、空箱を投げ捨てた後、

拝みながら

「しょちゅ・・かいたいの・・・

ケーキ手づかみで一口食って

「まずっ、ぜんぜ、まず、これ」

5回ループしてるが飽きてきた。

2017-12-07

子供(8ヶ月)によくガード下酔いどれ人生追悼編を見せてる

わりと泣きやむ、子供なりに「ヨタのようにはなりたくない/ヨタのように自由に酒だけ飲んで生きたい」などと思うのだろうか

2017-09-01

新宿寸借詐欺に遭いかけた

昨日の午後、某百貨店下りエレベーターにて、車椅子に乗った男性からの困ったような視線を感じた。

振り向くと、彼は”電話お願い手帳”なる濃青色カバーのよれよれな手帳を鞄から取り出して開き、「私は言葉や耳が不自由です、手を貸してください」との旨が書かれたページを震える指(麻痺ゆえ?)で差してみせてきた。

私は、きっと彼が降りる階になったら知らせてほしいのだろうと思い、「1階ですか?」と尋ねた。それが運の尽きだった…

彼は、「いや、地下1階で降りる」と言い、続けて「車椅子サポートをお願いできますか?」と頼んできた。本当は1階で降り別の百貨店に行こうと思っていたのに、急ぎの用もないしサポートといってもせいぜい改札口までだろうと楽観視し快諾した自分の愚かさよ…

地下1階でエレベーターを降りると、彼は都庁都庁前駅?(どちらだったか忘れた)に行きたいので大江戸線新宿西口駅から電車に乗りたいと言った。そこから西口駅へはかなりの距離があるように思えたが、彼の指差しや案内板に従って車椅子を只管押していった。

道中で彼は、

・喉が枯れているので手帳掲載五十音表でコミュニケーションをとっていること(と述べつつも聴き取れる程度の発話は可能であるこちらの発声理解している模様)

ネットカフェに通い慣れている様子で、その料金体系について、また今日も手持ちが少ないが行こうとしていること(この発言や彼のにおい、荷物の多さからしても浮浪者だったのではないか帰宅してから思った…彼の車椅子はひどく重くて僅かな傾斜も本当に辛かった)

・喉が乾いたとき飲み物を買いたいが、お金が足りない時は(サポートを?)頼んだ人にいつも借りていること(ここで私は漸くたかられるのではないかとの不安を覚え始めた)

今日肌寒いですね、といった世間話(同じ内容を何度も繰り返し話していたため、知的障害もつのではないかと推測した)

・家へは大江戸線練馬駅経由か西武新宿線で帰ること、またそれらの終電時間について(これはあまり覚えていない)

などを五十音表、声を入り交ぜて伝えてきた。

ところが随分近づいたところで彼は西口駅への案内板を無視し、地上の小田急百貨店の前あたりに出るエレベーターに乗るよう促してきた。ここで私の中の不信感が増幅した。

態々地上に出たからには西口周辺に用があるのかと思いきやなんとガード下の奥、歌舞伎町方面を指差したのだ。なら何故今まで遠回りさせたのか。おい。都庁はどうした。もうこんな奇妙な役目今すぐ放棄してしまいたいと思ったが、移動も儘ならない(はずの)人をこんな人混みの中で一人にするのも気が引ける…横断歩道を渡ってガード下へと進んでいる時、彼はコーヒーを飲みたいと言った。ネカフェ勝手に好きなだけ飲んでくれと思ったが、ぺぺ前のマック付近で彼は止まった。ここでコーヒーを注文するという。(そういえばこの辺りでは手帳五十音表は全く使っていなかった)

先程の発言を踏まえ、お金はあるんですか?と訊くと、あなたお金ないんですか?と訊き返された。ここで私は本日一番のハッキリした声で「ありません!」と答えた。本当はいつもより持っていたのだが。

するとどうだろう、序盤で彼が持ちますよと言い、車椅子に引っ掛けて握り締められていた私の傘をスッと外して、じゃあもういいですと手渡しすんなり私を解放するではないか守銭奴に生まれて、良かった!!!!!!!!!

ここで彼は金目当てにすぎなかったことが窺えるが、馬鹿真骨頂の私は最後まで「お気をつけて!」と別れの挨拶をし、彼のその後の動向を警戒しつつ三丁目方面へ歩きだした。

恐怖心のせいか記憶が定かでない部分も多々あるが、これが全容だ。

中高生活をミッションスクールで送り育まれ隣人愛の心が見事に仇となった出来事であった。貴重な若い時期の多大なる時間無駄と重大な腰痛を被った。無論私の無知が最大の原因であるのだが。寸借詐欺の名さえ、帰宅して自分と似た事例をネットツイッターで片っ端から検索するまで知らなかったのだ。

7月中旬ツイッター話題になったらしいある方の寸借詐欺被害に関するTogetterを読むと、状況や男性様相まで酷似していて衝撃を受けた。これを昨日出かける前までに知りたかったものだ……

から考えれば彼の発言不審な点だらけであるし、見返りを求めるわけではないが私が車椅子を延々押したことに対してお礼の言葉の一つもなかったこと(私の記憶が正しければ、だが)、そもそも最初会った時は一人でいたがそこまでどのようにして来たのか?などと突っ込みどころは枚挙に暇がないが、多くのハンディキャップを抱えている(ように見えた)彼を見捨てるのは良心が痛む上、一度相手のペースに乗せられてしまった際の恐怖感は言葉説明し難いものがある。ハンディキャップを負っているとはい相手男性であるから万が一手を挙げられたらどうなるかわからなかったのも逆らえなかった一因に挙げられる。とにかく冷静な判断能力を完全に欠いていた。恐ろしいことだ。

恐怖は不信感へ、そして帰宅後には自分間抜けさへの落胆、やがて詐欺行為への怒りに変わり、こんな時間になっても一向に腹の虫がおさまらないので、もしまた同じような人物に遭遇したら警察に突き出すことを堅く決心したが、果たして警察官はどのあたりから相手にしてくれるのだろうか?金銭被害なしに、金の無心を仄めかされたと言っても取り合ってはくれないのだろうか…

なお、彼の持っていた、NTTによる”電話お願い手帳”は私が調べたところ公共施設に置いてあり誰もが自由に持ち帰れるかのようにも捉えられる記述があった。彼が本当に障害者であったのか否かはもう分からないが、私は初めに彼の手帳の表紙にある”NTTグループ”の文字を見て、信頼できる機関の発行する手帳を持っている、と少し警戒心を緩めてしまったところがある。もっと他に配布の仕方はないのだろうか????????完全なる悪用、と断言はしないが、思えばこれを持っていれば、かなり乱暴な言い方になってしまうが誰もが耳や言葉不自由な人を装えそうなものである。そのためスマホアプリ版という誰もが扱い得る形で存在していることにも一抹の不安を感じてしまう。悪質な事案を防ぐため、ヘルプマークマタニティマークのようにせめて対人で受け渡してほしいもである

私のように騙されやす自覚のある人は十分に気をつけてほしいが、それよりもこのように人の良心に漬け込む至極卑劣極悪非道犯罪可及的速やかに滅びることを祈る。

2017-08-04

結婚=性行為の方が良かったんじゃない?

そしたらCTOに弄ばれる被害者も生まれなかった

実際、CTOに限らず金持ちに弄ばれて性行為だけ搾取されたって話珍しくないだろ

というかそもそも恋愛なんて性行為への口実で

なんの感情もないけど恋愛とか付き合うとか持ち出したらガード下がるって理由告白してる男腐るほどいるだろ

2017-04-26

http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/katarenakaltutatoukyoudaikuusyuunosinjitu.html

戦後は飢餓状態になり、区を通じて米軍支給品のコンビーフなどを配給した。“犬と同じ餌付けだ”と感じたが、食べなければ死んでしまうからみんな列をつくって並んだ。アメリカ日本人など虫けらぐらいにしか思っていないのに、日本の偉い連中はアメリカのために死ねという法案を通す。私たちには今も怨念がある。どんどん暴いてくれ。銀座のど真ん中でやってほしい」と訴えていた。

 C 原爆投下後の広島、長崎に匹敵するような悲惨さだった。米軍は春風の強く吹く3月という時期、民家を効率よく焼き払うための油脂焼夷弾の開発、空襲の手順も含めて用意周到に準備し、一般市民の民家が密集する下町地域をとり囲むように爆弾を投下している。火の壁で逃げ場をふさいで集中砲火を浴びせ、火の海を逃げ惑う人人に機銃掃射までやっている。

 「機銃掃射で狙い撃ちしてくるパイロットが笑っていた顔が忘れられない」と何人もの人が語っていた。黒焦げの死体だけでなく、窒息死してピンク色をした遺体が蝋人形のように散乱し、それらが公園や学校などで山積みにされて焼かれたという。墨田区錦糸町では、錦糸公園で約1万4000体が焼かれて仮埋葬されたというが、それを伝える看板一つない。あまりの多さで処理できない遺体は何日もかけて川や海に捨てられていたという。

 隅田川にかかる橋の欄干や、総武線ガード下などには今でも積み重なって焼き殺された人間の油がそのままの形で染みついて、何度ペンキを塗っても浮き出てくるのだと語られていた。5月の品川での空襲でも「真夜中にガソリンを撒いて焼夷弾をばらまいた」といわれていたが、「あれが戦争犯罪でなくてなんなのか!」と、7、80代の年配者が語っていた。とても昔話という雰囲気ではない。本当に語る場所がなかったからこその鬱積した思いがある。公園などに仮埋葬された11万体といわれる遺骨は、関東大震災の慰霊堂(墨田区横網)に一緒に入れられている。

  東京空襲を弔う単独の慰霊施設はいまだにない。なぜそんなことになっているのかだ。

 「戦争を忘れさせよ」 慰霊碑許可せぬGHQ

 D 大空襲で壊滅した江東区森下5丁目町会では今年3月、町内の空襲犠牲者789人の名前を刻んだ墓誌を建立した。町会役員によれば、当時の町会長が戦後すぐに空襲による町内の犠牲者を調べ、焼失を免れた戦時国債購入者名簿を頼りに『戦災死没者過去帳』という約10㍍にもなる巻物をつくって保管していたから建立できたという。遺族の「この地域に住んでいた人人の証となる供養の場所がほしい」という願いが70年をへてやっと実現した。

 E 墓誌をつくるための調査で、1家12人が全滅した家もあったことなど、地元の人も初めて知る事実が明らかになっているが、都にも当時の犠牲者名簿などの資料があるにも関わらず遺族が申請しても公開されないのだといわれていた。

 地蔵や碑の建立についても「宗教的なものは受け付けない」とかの理由で許可は下りず、「黙認する」程度だという。行政から助成も受けられないため、発起人を中心に町内外に呼びかけたら、続続と寄付が寄せられてつくることができたといっていた。

 終戦直後にも数千人が空襲で亡くなった墨田区の菊川橋のたもとに慰霊碑を建てようとしたが、区役所から拒否されている。河畔を改装するたびに白骨がたくさん出てきたので「これ以上放っておくわけにはいかない」と住民が独自に地蔵を建立して毎年法要している。

 D ある遺族から、1947(昭和22)年に東京都長官官房渉外部長から通達された行政文書コピーを見せてもらった。当時、遺族によって計画された隅田公園への戦災慰霊塔建設計画に対して、官房各課長、支所長や局長、区長など都の行政担当者に宛てた通達だ。

 「一、日本国民に戦争を忘れさせたいのである。二、戦災慰霊塔を見て再び戦争を思い出させることがあってはならない。だから慰霊塔の建立は許可しない」と米占領軍の指導方針が明記され、これに協力するため「この方針を徹底的に守るようにしなさい」と記されている。

 70年たっていながらこの占領下のプレスコードがいまだに続いていることに驚いた。

 A 25万人もの都民を殺戮しながら意図的攻撃対象から外したものもある。ここからアメリカの東京空襲の狙いが見てとれる。

 C 代表格は皇居だ。東京のど真ん中に広大な面積を持つ皇居について、米軍ははじめから「攻撃対象にしない」という指令を徹底していたし、天皇側もそれを知っていた。皇居北側の近衛師団司令部、東部軍司令部などの軍中枢部や、市ヶ谷陸軍省参謀本部(現・防衛省)など、本来狙われるべき軍中枢が無傷だった。赤坂離宮(現・迎賓館)、青山御所、新宿御苑浜離宮上野公園などの皇室所有地や、官僚機構の一端を担っていた皇族住居はことごとく攻撃の対象外だ。

 東京駅は焼失したが、皇居に挟まれた丸の内の金融ビル街も残った。三菱本社、三菱銀行三菱商事日本興業銀行横浜正金銀行東京銀行第一銀行、勧業銀行、関東配電(東京電力)などの財閥のビルが林立している。朝日、毎日などの新聞各社、放送会館(NHK)も残った。八重洲では日銀、三井本館。永田町霞ヶ関でも、内閣府国会議事堂警視庁、内務省、大蔵省などが残された。ちなみに上野公園に隣接する三菱財閥統帥の岩崎久弥邸も攻撃を受けていない。広島、長崎、下関空襲でも三菱の主要工場は無傷であり、政財界アメリカの盟友関係を裏付けている。

 軍施設がほとんど残されているのが特徴で、陸軍の心臓部といえる赤羽の陸軍造兵廠、陸軍火薬庫、工兵大隊、陸軍被服本廠、兵器支廠、東京第一、第二兵器補給廠も周囲が焦土になるなかでわざわざ残されている。代々木の近衛輜重大隊、陸軍輜重連隊官舎、広大な駒場練兵場や野砲隊の官舎群もみな無傷だ。

 E 工業施設でも、東芝本社のある芝浦工業団地から品川駅付近の港湾施設も攻撃されなかった。全滅した深川区に隣接する石川島造船所、佃島、月島など東京湾に面した工業施設、南部工業地帯の蒲田でも中心市街地が徹底的に焼き尽くされたが、羽田飛行場などの軍需施設はほとんど攻撃されていない。「米軍作戦任務報告書」に記された工業的目標はわずか22カ所に過ぎないが、そのうち破壊したのは18%だと記されている。実は無差別爆撃ではない。絨毯爆撃ではあるが、アメリカの対日支配に役立つものは残し、その邪魔になる庶民は殺すと極めて明確に選別している。

 B 「暗闇のなかであれほど緻密な爆撃がどうしてできたのか?」という疑問も多く語られていた。「目標から外す目印のために誰かが下から光を当てていた」と証言する人もいた。原爆投下と同じく「戦争を終わらせるためにやむをえぬ」というものではなく、日本を単独占領するために国民の抵抗力を摘むための大量殺戮だった。

 米軍の皆殺し作戦 殺すに任せた支配機構

 A 東京空襲にも不可解な点がいくつもある。例えば、空襲直前に警戒警報を解除している。広島、長崎での原爆投下も直前になって警戒警報を解除し、みんなが安心して表に出てきたときに投下されている。あれは軍中枢が協力しなければできないことだ。300機をこえるB29の接近に気づかないわけがないが、物量で太刀打ちできないとはいえ、まともな反撃すらせずに米軍のやりたい放題を開けて通している。

 F 広島、長崎への原爆投下でも、軍はB29に対してレーダー照射をして来襲を事前につかんでいた。大本営は原爆投下機の接近を信号を受信して知っていた。長崎では、B29を迎撃する部隊が大村航空隊で待機して出撃命令を待っていたが、結局、命令は下りなかった。NHKも当時のパイロットが怒って証言する場面を放映していた。

 A 終戦末期になると特高警察マークしたのは青年将校だった。敗戦が濃厚になるなかでこれらが反乱を起こすことを恐れた。左翼は早くに壊滅しているが、青年将校らは戦斗経験もあり、速やかにアメリカの占領下に誘導しようとしていた軍上層部にとっては脅威だった。敗戦が決定的になっても国民には「一億総玉砕」を叫んで、若者には特攻作戦をやらせ、本土を死守させる体制をとりながら、上層部が終戦工作にいそしむことに彼らの反発はすごかった。

 天皇の「終戦の詔勅」の放送を前に、陸軍の青年将校近衛師団長を殺害し、録音盤を奪おうとした事件もそうだが、マッカーサーが厚木に降り立つときにも迎え撃つという騒動があり、青年将校に影響力をもつ高松宮が必死になって抑えて回ったというのは有名な話だ。

 B 敗戦直後、内地では軍を通じて直ちに武装解除させた。あれは天皇の命令だけでは動かない。軍司令部指揮系統が動かなければできない。それを米軍上陸前にやらせるためには軍中枢を残しておかなければいけない。もともと海軍をはじめ軍中枢部分には親米派が多かった。陸軍も中国大陸で行き詰まって南進作戦に切り替え、南方の島島に兵隊を放り込んで食料も弾薬も送らない。ニューギニア戦線の体験者も「毎日イモばっかりつくっていた」という。南方はほとんどが餓死と病死だ。

 D 敗戦を迎えるにあたって、あのドサクサのなかで米軍上陸、単独占領に誰が荷担したのか。東京大空襲で無傷だった施設を見ただけでも歴然としている。戦後は「財閥解体」といったが、財閥はしっかりと温存された。戦争に国民を投げ込んだ天皇はじめ、官僚機構も丸ごと温存された。開戦時の商工大臣をしていた岸信介が、その後CIAのエージェントとして力を与えられたのが象徴的だが、政界、官僚世界などが叩きつぶされることもなく、対日占領の協力者としてせっせとアメリカに媚びて戦後も機能していった。メディアでも大本営の中枢にいた読売新聞正力松太郎朝日新聞緒方竹虎などがCIAのエージェントとして活躍する始末だ。

 イラクでもアフガンでも、他国を占領しようと思えば必ず抵抗があるし、何年かかってでも肉弾戦で侵略者を叩き出そうとするものだ。日本の場合、なぜ無抵抗に近い形で単独占領することができたのか。それは支配機構が丸ごと占領の協力者になり、国を売り飛ばしたからだ。支配機構が軍事支配を受けながらアメリカの道具になって戦後は機能していった。それが今日まで続いている。

 E 空襲で生き残った下町の人たちは、戦後は食べ物がなくて生活できないのでみんな市外に出て行ったという。国民を抵抗できないようにバラバラにさせている。抵抗力を削ぐために徹底的に空襲を加えたし、首都圏の人人はとにかくその日を生きるのが精一杯の状況になった。首都圏制圧のためにあれほどの空襲をやって、まさにショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)で占領していった。

 C 食料を意図的に統制したので、戦後の方が食料難がひどかった。当時の調達係の人が証言していたが、米軍が国内の食料倉庫を統制して食料危機に追い込んだ。米軍は関門海峡などの機雷封鎖も「スターべーション(飢餓作戦)」と名付けていた。国内から戦地へ食料を送らせない、大陸から送られてくる食料を遮断するための飢餓作戦だった。

 都市部はとにかく食べるものがない。配給でもらった大豆をポケットに入れて、それを食べて水を飲んで膨らませて空腹をしのいでいたという。飢え死にが出るような飢餓状態に追い込んでおいて、ララ物資などのアメリカからの、それこそ家畜の餌になる食料が入れられた。そんな屈辱に国会で感謝決議したこともあった。

 E 戦後の上野や浅草には、空襲で親を失った戦災孤児浮浪者があふれかえり、餓死寸前の子どもたちは生きるために窃盗や売春をせざるを得なかった。GHQは「治安対策」を名目にして浮浪児を見つけ次第捕らえる「狩り込み」をやり、米軍の要請によって、脱走ができない水上の台場につくられた収容施設強制的に送致し、檻(おり)に入れて監視・収容することまでやった。

 B すでに武装解除しているのに進駐軍は必ず銃を携行して、電車も絶対に米兵専用車両に乗るし、接収した建物も日本人立ち入り禁止にした。「彼らは日本人の反撃を恐れていた」と語られていた。

 A 例えば、日本軍が満州を占領統治するのに100万人の軍隊がいったといわれる。日本を占領するには本来100万では足りない。それを日本の支配階級が従って代理政治をすることで米軍の負担を軽くできた。イラクやシリアを見ても、むき出しの占領支配になれば人民の抵抗を抑えることは難しい。それを天皇以下支配階級全面的に協力し、それによって地位を守るという関係があったから占領できたということだ。

 F 同じ敗戦国でも、ドイツではナチス関係者は戦後はみんな追放された。新聞社などもみな解散させられた。連合国による全面講和を結び一国に縛られなかったから、独立の自由性がある。アメリカが単独占領した日本との違いだ。

 90年代の米ソ二極構造が終わったときもドイツは独立の方に行き、日本は対米隷属の方に行くので、ドイツ首相から「慌てるな」となだめられたほどだ。その従属路線が現在までエスカレートして、安保法制まできている。

 A 現在でも官僚機構も含めて各省庁ごとにアメリカ直結だ。財務省経産省防衛省もだ。政策についてもアメリカ大使館の指示の方が強い。

 米財務長官サマーズが何度も日本の財務省に直接怒鳴り込んできたし、原発事故のときもアメリカ政府関係者首相官邸に乗り込んでいって菅直人を怒鳴りつけて指示を出す。アメリカの圧力なしに、民主党の鳩山、菅から野田までの変遷ぶりというのは理解ができない。現在の安倍の突っ走りにいたるまで対米従属の系譜だ。

 財閥やメディアも米軍占領下で地位守る

 C 原爆展キャラバンのなかで、戦時中赤坂見附に住んでいて親族がアメリカ大使館に出入りしていたという婦人が、「アメリカ大使館の外側は私服警察の警備で物物しかったが、中にいる在日米国人戦時中にもかかわらず中庭でゴルフをしていたり、まるで勝ち戦の後のような余裕ある生活をしていた」と疑問を語っていた。

 F 当時の駐日大使ジョセフ・グルーがアメリカ本国に帰国するのは真珠湾攻撃の半年後だった。グルーは日本では天皇を中心とする「宮廷外交」を基本にし、軍部の反米派と対立傾向にあった天皇側近の木戸幸一重光葵吉田茂近衛文麿などを「自由主義者穏健派」と見なして親交を深めていた。開戦後の半年間で終戦までのプログラムをつくる工作をやっていた。

 グルーは秩父宮に「安心しろ」といって帰国したが、アメリカ本国では「皇居は攻撃してはならない」、天皇は「軍国主義崇拝に役立ったと同様に象徴として役立つ」と説いて回り、吉田茂とも直接手紙をやりとりしていた。

 のちの駐日大使ライシャワーは当時諜報部員だったが、この方向で「天皇を傀儡にして間接統治する」という占領プログラムをつくった。そこでは、戦争中も「短波放送の聴取が許される500人ぐらいの日本のエリートに常に知的な情報を粘り強く伝達せよ」と米陸軍に提案している。実際、1945年5月から「ザカリアス放送」という日本の上層のごく限られた者しか聞くことができない短波の日本向け放送をやり、いつどこを空襲するとか、広島、長崎への原爆投下をいつやるかも全て伝達していた。

 これら米軍からの情報を集中しながら六月段階で、米軍の攻撃を全部開けて通して、「アメリカに敗北することで自分たちの地位は保証されることが約束されている」と側近の木戸幸一が天皇に提言している。

 A 2月には、アメリカから情報を得ていた吉田茂近衛文麿に天皇上奏文を書かせた。「米英は国体(天皇制)の変更までは要求していない。最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴っておこる共産革命だ」というものだ。彼らの関心は戦争の勝敗などではなく、いかに国民を押さえつけてアメリカの占領下で地位を守ってもらうかだった。そのためなら原爆を落とされることも甘受するし、東京を焼き払って人民大衆をへとへとに疲れさせることはむしろ好都合という関係だった。

 F 財界も最初から通じていた。三菱財閥統帥の岩崎小弥太は、開戦にあたっては「アメリカとは友人だから心配するな」と訓示し、敗戦時は「これから愉快に仕事ができる」と発言している。また、戦争末期には、日本商工会議所会頭の藤山愛一郎、日産コンツェルン鮎川義介浅野財閥の浅野良三などの財界代表が内閣の顧問会議を形成していた。藤山によれば、終戦6日前の閣議でアメリカとの経済関係をただちに回復させる計画を発表し、「自分たちの時代がやってきた」と喜び、軽井沢の別荘でシャンパンコルクを抜き、新時代到来を祝して乾杯したという。はじめからアメリカ自分たちを大事に扱うことを確信していた。グルー自身が三菱とつながりの深いモルガン財閥の代理人で、戦前から投資していた権益、金融資産を含めてどう守るかというのが主任務だった。日本の財界人との関係ではアメリカ留学組が多く、鮎川とフォード、浅野とルーズベルトなど、人脈もできあがっていた。

 A 天皇をはじめとする支配中枢も財界も、中国への侵略戦争で行き詰まり、負けることはわかりきっているが、中国に負けることになれば日本における支配的地位が失われる。だから日米開戦に突っ込んでいき、アメリカに降伏することで地位を守ってもらう。そのためには国民を犠牲にしなければいけないという意図が貫かれている。

 C 東京はすべての政治勢力の本部があるところだが、東京空襲の慰霊碑問題をみても、都民の切実な要求をすくい上げるところがなかった。そこには、第一に米軍による抑圧、宣伝がある。いかにもアメリカが平和と民主主義の味方であり、日本を解放するための戦争をやり、原爆も空襲も戦争を終結させるためにはやむをえなかったかのように徹底的に宣伝したし、戦前以上の言論統制と弾圧をやり、反米につながる原爆や東京空襲についての言論を封殺した。

 もう一つは、人民の側に立つべき共産党の指導部が「アメリカは解放軍」と規定して、旧軍部を批判するが、原爆にしても東京空襲にしてもアメリカの犯罪を問わずに来たことが大きい。都民はアメリカ共産党指導部の両方から抑圧され、ものがいえなくなる関係だ。

 B 大衆のなかでは東京空襲への鬱積した怒りがあるが、東京で生まれた戦後世代でもほとんどその全貌を知らずにきた。そこでは革新勢力進歩的な装いで「日本軍が重慶を先に空襲したから、それを反省すべきだ」「日本がひき起こした戦争だから仕方がない」という論調をふりまいてきたことが大きい。原爆投下を「日本の軍部から解放するために必要だった」というのと共通している。

 F 共産党は戦前、天皇制の弾圧もあるが、大衆と結びつけず自然消滅をたどった。そのことの反省もなく「獄中18年」を威張り、アメリカを解放してくれた友と見なす一方で、庶民を戦争に協力したと蔑視してきた。特攻隊経験者や戦地に駆り出された者も、「予科練崩れ」「戦争加害者」などといって攻撃し、敵と友を転倒させてしまった。

 徳田球一ら指導部中枢は、米軍に釈放されてすぐの人民大会でGHQまでデモ行進し、「解放軍万歳」を3唱した。「民主主義革命の端緒を開いた」といってマッカーサーに感謝し、GHQに入り浸り反米の情報を提供していた。東京空襲も原爆についてもそのような感謝が根底にあるから、正面から批判させない。知識人のなかでも対米従属問題についてなかなか触れることができないということも独特の抑圧構図を象徴している。

 A アメリカプレスコードをかけて行政機構が協力したし、東京空襲についても語らせなかった。そして共産党はあれほどひどい目にあった都民のことを無視して、アメリカを平和と民主主義の友と見なした。敵と友を転倒させて、むしろ大衆を敵扱いしていった。だからいまもって東京空襲について無関心できている。都民の苦労というものにまったく思いがなかったということだ。

 C アメリカ民主主義がよかったというが、70年たってみてどうか。日本の富はみな吸い上げられて散散な状況になっている。遠慮知らずのアメリカが、終いには米軍の身代わりで自衛隊を戦地に引っ張り出すところまできた。それで安倍晋三がせっせと協力している。売国政治の根っこは何もかわっていない。左翼の戦後出発について先ほども触れていたが、都民の苦難に足場を置かずに抽象的な全国政治か何かを主張しても話にならない。大衆的というのは地方的で具体的だ。そこに足場を置かなければ全国の普遍性は見えない。東京にはあれだけ政党の本部があって、学者も日本一いながら東京大空襲の惨劇について怒りをもってアメリカを糾弾する勢力がいない。

 A 東京大空襲の経験は語れないできた。意図的に抹殺されて、慰霊碑も何もない。これは原爆を投下された広島と比べたら明確な違いがある。広島には平和公園も資料館も供養塔もある。八月六日になるとみなが早朝からお参りに足を運んでいる。十数万人の命日だからだ。そして町のいたるところに町内会、学校、職場などいろんな単位の慰霊碑がある。何が違うのかだ。広島はたたかってきたからだ。戦後は広島でもプレスコードがかかっていて原爆のことを語らせない力が働いていた。「終戦のためにやむを得ぬ手段だった」というので原爆投下への怒りをかき消し、徹底的にとり締まっていた。

 しかし当時、風呂屋に行くとみながケロイドを見せながら延延と語っていたという。それを当時の広島では「アメリカの人類に対する犯罪だ!」と真っ向から暴露して斗争がはじまった。占領下の50年8月6日の斗争が端緒を切り開いた。そして5年後には世界大会まで発展した。

 この運動を指導したのが福田正義主幹(本紙)をはじめとした共産党中国地方委員会だったが、当時も東京の共産党中枢が「アメリカ解放軍」規定で中国地方におけるたたかいを弾圧していた。これと同じ構造が東京では現在でも生きている。日本人民の苦難の側から敵を暴露するのでなく、友と見なす。戦後出発に大きな違いがあった。

 分かれ道は敵は誰か、友は誰かが鮮明でないといけない。あれほど殺されているのにアメリカ民主主義インチキに幻想をもったら大変なことだ。アメリカが日本を侵略した敵だ。日本人民は戦中も戦後も大変な目にあってきた。人民の敵に対する憎しみと人民への愛情が統一されていないといけない。その人民を代表して敵を暴露する立場でないといけない。東京でもそれが問われている。

 A 東京をはじめ首都圏は、沖縄に次いで米軍基地が多い。東京都だけでも総面積は約1603㌶(東京ドーム約340個分の広さ)に及ぶ。空襲で攻撃対象から外された軍事施設は、ほぼ例外なく米軍基地自衛隊施設へ変わった。横田基地在日米軍司令部であり、すべての在日米軍自衛隊を統括する指揮所だ。神奈川県には、原子力空母を擁する米海軍第七艦隊の拠点である横須賀基地が盤踞し、在日米陸軍司令部、第一軍団前方司令部など米陸軍司令塔であるキャンプ座間をはじめ、爆発事故をおこした相模総合補給廠、通信施設、燃料貯蔵施設、住宅地、演習場などがひしめいている。

 とくに横田基地は3350㍍の巨大滑走路を持ち、米軍人数は約3400人、国防総省文官200人、米軍家族含め約1万4000人もおり、米軍のアジア戦略における最重要拠点だ。その影響力から「横田幕府」とさえいわれる。米本土やハワイグアムなどから運んできた兵器や軍事物資を相模総合補給廠に備蓄し、戦時になると横浜ノースドックから搬出し、横田基地から空輸する体制で、西太平洋東アジアを管轄する兵站補給基地だ。

 東京都港区六本木ヒルズがある都心にも赤坂プレスセンターといわれる米軍基地がある。その中身は、陸軍研究事務所、海軍アジア室、米軍の機関紙「星条旗新聞社」、保全連絡分遣隊、座間基地第78航空隊、独身将校宿舎、麻布米軍ヘリ基地だ。横田基地を経由して日本に侵入する基点として提供され、入国審査や税関などの規制は一切なく、ここから入国する人物については情報公開義務がない。地図上でも「白地」にするほどの機密扱いだ。

 そのほかにも府中、由木、大和田硫黄島の通信施設、日米合同委員会をおこなうニューサンノー米軍センター(港区)、米軍家族専用の娯楽施設である多摩サービス補助施設がある。敗戦直後208カ所あった米軍施設は住民の頑強なたたかいで「返還」されたが、実質どの施設もいつでも使える体制にある。朝鮮戦争の出撃基地となった立川飛行場は基地拡張が砂川斗争で頓挫し「返還」されたが航空自衛隊基地は米軍との共同使用であり、広大な国営公園、広域防災基地、道路、運動場として当時の施設はそっくりそのまま残されている。

 地元でも「道路はいつでも滑走路に転用できるように周辺には高い建物や民家の建築規制がある。ひとたび戦争になれば街全体が一気に軍事基地に様変わりする」といわれていた。

 B さらに首都圏の上空には、「横田ラプコン」と呼ばれる1都8県(東京都、栃木県、群馬県埼玉県神奈川県新潟県山梨県長野県静岡県)にまたがる、広大な米軍専用空域がある。この空域の高度約7000㍍以下には米軍の許可なしには日本の民間機はいっさい進入できない。

 羽田空港成田空港を離着陸する航空機は、通常の離陸はできないため急激に高く上昇してラプコンを飛び越えるか、大回りしなければならない。それが離着陸時の事故、ニアミス事故の頻発につながっている。首都上空を飛行するのに米軍の許可が必要な国など他にはない。

 A 沖縄が前線基地なのに対して、司令部が集中しているのが首都圏だ。日本の支配中枢を軍事で抑えつけることで日本全国を占領下に置く。その目的のために、大空襲であれほど殺し、戦後も軍事力を配置しているのだ。沖縄の問題はよそ事ではない。真珠湾でもフィリピンでも、ベトナム戦争でも、いったん攻撃をさせて「報復」を掲げて参戦するのがアメリカのやり方であり、司令部が集中する東京こそミサイルの標的にされる可能性は高い。

 B 本所の東京空襲体験者の男性が、「アメリカが問題なのははっきりしているが、どの政治家や政党がこれとたたかえるのか! 結局、自分の地位を守るために裏切る政治屋ばっかりだ」と吐き捨てるようにいっていた。空襲後に軍隊に志願入隊して整備士として厚木飛行場に配置されたが、地下壕を掘らされるばかりでその地下施設を今は米軍が使っている。「戦後は焼け跡から町工場を営んできたが、TPPに参入すればこの仕事が奪われていく。全部アメリカのためだ。そういうことをもっと暴いてくれ」と切実に語っていた。昔から自民党支持基盤であってもみんな上を信じていないし、内に秘めた思いは少少ではない。

 F 東京大空襲は広島、長崎、沖縄に匹敵する大量殺戮だった。その真実をおおいに語り継がなければいけないし、それは日本を再びアメリカの戦争に引きずり込むことを許さない全国的な世論を発展させていく大きな力になる。そのためには、私心なく大衆のなかから意見を集中し、それを代表して導いていく政治勢力が必要だ。そこでは、自己主張ではなく、大衆的であると同時に敵を鮮明にして人民に奉仕する思想でやり抜くかどうかが問われる。

 司会 今回の安保法制まできて、対米従属構造こそ日本の平和を脅かす根幹であり、これとの対決なしには再び日本は戦場にされる

2017-03-13

オリンピック再開発で思い出の店が消えていく

から21年前の1996年の春。

田舎から上京し、恋愛に非常に疎いモッサい女子学生が、人生で初めて同級生から告白されて付き合うというシチュエーションに舞い上がり、

二つ返事で付き合い始めたものの、完全に知識経験も不足していてどうしていいかからず、日々言動がどんどん怪しくなり、

このままではイケない…と危機感を感じるも、解決策が見つからぬままその怪しさはダイレクト相手にも伝わってしまもので。

「なんか思っているのと違った」

と駅のホーム唐突に言われ、フラれた。わずか一ヶ月足らずの出来事だった。

キャンパス五反田駅に近い場所にあり、要するに五反田駅でフラれたのである

瞬時にぐわあっと逆上した私は

「なら簡単に好きとかいうなぁぁぁぁぁ バーカバーカ!!」

捨て台詞を吐き捨て(実話)五反田駅を脱兎のごとく走り去った。

完全にダサかった。

五反田駅ガード下立ち食い寿司・都々井に失意のまま駆け込んだのは、とにかく根っこから魂が腐っていたので、何かパーっとしたことがしたかったのだ。

イケてる女子大生ならクラブに行くとか、友達誘って失恋カラオケに行ってドリカムサンキュを泣きながら熱唱とか、次行ってみよう合コンをセッティングしてもらったりするだろう。

男だったら、ここは欲望の街五反田なので激安のピンサロスッキリするという選択肢もある。

だが、とにかくイケてないことこの上ないボンクラ学生がフラれた腹いせに思いつくことは、

前々から気になっていたけど入る勇気がなかった立ち食い寿司に、一人で入る選択肢ぐらいだ。

そこで初めて握りの特上とビールを頼んで胃袋に収めた。特上だけど2000円ぐらいの値段だったと記憶している。

めっちゃめちゃ美味かった。

以来、20年間一人で通っている。

学生時代はさすがにそうしょっちゅうは無理だったが、社会人になって都々井に通うペースは加速度的に増加した。

ほぼ週一。多いときは週三。飲み会解散後、一人で〆る選択肢ラーメンか都々井。

立ち食い寿司はいい。自分の好きな食べ方が気兼ねなくできる。

カン連続で生ゲソを頼んだ後あら汁で〆るとか、鯖サンマコハダいわし青物三昧で注文して悦に入っても、ちっとも恥ずかしくなんかない。

飲み会の後、終電間際に駆け込み、リーマン集団疲れたおっさん訳あり姉さんの一人客に混じって無言で食べる寿司は、本当に美味しかった。

そこまで通えば板前さんと親しくなるだろうと思うだろうが、ここは繁盛店だし、

五反田という街がら、板前さんは客に決して深入りなどしてこない。

顔を見て常連でも「毎度!!」と言われるぐらい。それがいい。

都々井がある生活が当たり前で、どんなに仕事が辛くても、人間関係で疲れても、都々井で寿司を食えば

「あー、まあ、また明日も都々井で寿司食うために頑張るか」

ってなった。

ありがとう。都々井。

三年前に品川区から引っ越ししまい、都々井に行く機会はほぼなくなってしまったのだが、それでも月一はなんとか通っていた。

夫も二度、連れて行ったことがあり、都々井が3/18で閉店というニュースを見つけてすぐ教えてくれたのも夫だ。

増田の思い出の店がなくなっちゃうから、なんなら土曜日行く?」

と、おととい一緒に行ってくれた。

閉店を惜しむ人々が、普段並ぶような店ではない都々井に大行列をなし、たまに見かけたおじさん達も何人かいた。

ビール乾杯し、冷酒4合あけ、思い残すことなく好きなネタを注文できた。

ありがとう夫。

もしこれを読んで、都々井に今更ながら初めて行きたいという人がいるなら(いるのかよ)、

おすすめは…芽ねぎとコハダとシメサバ自家製コハダとシメサバのしめ具合は非常にいい。

これ目当てに来るお客さんが多いので、夕方にはなくなってしまうことも多い。

ちょっと珍しいところではごぼうおかかを巻いたごくう巻き。

黒板下に紙で貼られている単品おつまみは非常にお値打ちなのであれば確実に注文すべし。

都々井のシャリは、回転寿司と違って品良く小さめに握られているので、女性でも一口で、サクサク食べやすい。

ので多めに注文を入れても結構イケてしまうぞ。

オリンピック再開発という時代の波にのまれしまう、五反田駅ガード下の名店の思い出話を、わずかながら知ってほしいと思って、PCに叩き込んだ次第。

2016-08-07

没落国の夕暮れ

ガード下立ち飲み屋

画面にヒビのはいったiPhoneをいじりながら焼き鳥をつまむ。

テレビでは夕方ニュース隣国に出来たディズニーランドについて放送している。

開園と同時に嬉しそうになだれ込む人々。ミッキーとじゃれる太った女の服装は野暮ったくて、それはかの国が大して所得のない中間層でもこのようなレジャー享受できるだけの経済力を手に入れたことを示していた。

場面が変わる。園内の水飲み場で汚れた足を洗う人々。昼食時に地べたに座り込んで弁当を食べる人々。「マナーの悪さが問題に…」というテロップ

だけれども最も醜悪なのは、わざわざ中国テーマパークまで行って、中国人の“マナー”とやらに口出しする日本人の方だ。

他人の家に上がり込んで、「箸の持ち方がなってないですね」「味噌汁を飲むときの音がうるさいですね」と口をはさみ、「これだから◯◯家は…」という輩がいれば誰だってキチガイだと思うだろう。

ここは2016年6月16日東京日本

日本はそういうキチガイじみた行動をとらなければ自尊心が保てないところまで落ちぶれてしまった。

ビール焼き鳥を流し込もうとジョッキに口をつけると、隣の親父が「これだから中国人はなぁ!」とテレビに向かって悪態をついた。

2016-03-10

http://anond.hatelabo.jp/20160310222128

小説ってのはな、絵がなくても文字だけで笑わせたり泣かせたり、血湧き肉躍る体験をさせたり言いようのない恐怖を与えたり、

読者自身が忘れていた記憶原風景フラッシュバックさせたり、時に人生を変えたり男性器を勃起させたりすることもできるんだよ、文字だけで。

俺の読んでるのとお前さんの読んでるのは違うなってだけの話なわけだ。

そしてどちらも生きてく上で必要不可欠なものではない。

そういう意味では米のほうがそうとうに上等で俺の読んでるものもお前さんの読んでるものも米以下なわけだ。

ぎりぎり食べられるなら文字を読みたい。そんな欲求が世の中にはあるかもしれねえし、おそらくあるんだよ。

って、ガード下で寝泊まりしている労働者風のおっさんが、路上に寝ながら本を読んでた風景を見て、俺はそう思った。

小説で読んだような甘い死にたい気持ちはその時捨てた。

すまんね。つまらえこと言って。

2015-05-26

http://anond.hatelabo.jp/20150526122839

おいおい、どこでも構わずやってるわけじゃねーぜ。

ガード下のやっすい大衆居酒屋なんて喫煙おっさんばっかりでそんなとこわざわざてめーから来ておいてって話だから

煙やら匂いやらを撒き散らされてる場所勝手に来てるのは向こうなんだわ。逆にそんなとこ来ておいて煙いってどういう了見なんだろう?

馬鹿ばかり

http://news.livedoor.com/article/detail/10148637/

ちょっと前にガード下大衆居酒屋で飲んでタバコ吸ってたら隣の大学生グループの女が露骨に嫌な顔してた。

腹立ったか別席で飲んでた常連喫煙者)呼んでやった。

ここをどこだと思ってんだよ。

2015-05-13

嵐が去った。

まだ風はそよいでいる。

いささか酔いすぎていて、いささか煙草も吸いすぎている。

目を降ろすと、白黒の斑猫が濡れた道ばたに鼻をすって嵐の土産を探しながら、足取り軽くガード下巡回している。

深夜だ。

風に怯えて徐行していた車両の連なり、その窓で、

ひとりひとりが座ってうなだれスマートフォンを弄んでいた東海道線京浜東北線も、今は走らない。


どこかで空き缶の音がする。まだ、風にそれくらいの勢いは残っている。


明日、私には予定がない。明日から、が正しい表現か。

斑猫を愛おしく思えたことは、あと数日酒の肴にできる。

それをしあわせと言うつもりはない。趣ともいいたくない。

ただ、酒に酔うことの悦びの記憶

2014-12-04

有楽町駅から少し離れたガード下に気になるホームレスがいる

http://anond.hatelabo.jp/20141204050016

有楽町駅から少し離れたガード下に気になるホームレス中年男性がいる。

初めて見かけた時は、チラシの裏鉛筆でビッシリと何かを書き込んでいるところだった。

何か文章を綴っているようにも見えたし、黒々とした字面から何か難読漢字の書き取り練習をしているようにも見えた。

ある日は熱心に読書をしていた。それも新聞雑誌などではなく何かの専門書のような装丁の分厚いものである

先日はかたわらに参考書のような3色刷りのページを広げ、鉛筆片手に何かを熱心にまとめているようだった。

その集中力はまるで試験前の学生のようにも資格勉強をしている人のようにも見えた。

あの人は路上でどんなことを勉強しているのだろう?

「何の勉強をしているのですか」と声をかけてみたいと思いつつ、

今日も素通りしてしま自分が不甲斐ない。

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