はてなキーワード: 職業病とは
10年以上前、半ば無理やりに友人に池袋のキャバクラに連れて行かれたことがある。その時私の横についた女性は母子家庭の長女で弟が高校生という身の上だった。私が予備校講師だと聴いてその弟を大学に行かせたいけどどうしたらいいかというガチ相談になった。私もガチで弟さんの話を聴いてしまった。
結局私は自分の事はほぼ話さず、彼女の弟さんのこと、お母さんについての思い、将来自分は池袋等で終わらず銀座でトップをとりたいという将来の夢について語る彼女の話をじっくり聴き、それを肯定したり励ましたりすることに徹してしまった。これは職業病なのだろうか。
そのお店は時間ごとにぐるぐる女性がローテションするシステムで、次に来た子は大学になじめず体験入店で来ているということだった。また私はほとんど自分の事はしゃべらず地方から来たその子の東京になじめない話をじっくり聴くことに集中してしまった。自分も地方出身者だったからすぐ共感できた。
その二人の持ち時間が終わった時点で私の入店時間が終わり友人を置いて先に店を出た。二人の悩みや人生を真剣に聴いてしまって心理的に疲弊してしまったからだ。もうこれ以上はきつかった。面白かったのは二人ともローテションで移動する時「え?もう終わり?延長できない?」と言ってたこと。
延長はお客である私が求める事であって、接客者である彼女たちが要求する事は出来なかった。それでピンと来た。ああ、そうか。彼女たちはこの店で稼いで別の店で私ではないイケメン君達に話を聴いてもらってるんだ、と。だからつい「延長できない?」などという客の立場の言葉が出たのだ。
性的な欲求ももちろんだけど、むしろそれ以上に男女ともみんな「話を聴いて欲しい」「真剣に自分を見て欲しい」という切実な思いがあるのではないか。そういう風に思うようになった。そういう体験をして、キャバクラ等のお店がより一層苦手になった。行けばつい真剣に聴いてしまい疲弊してしまうから。
「私の話を聴いて分かって欲しい」という承認欲求と、単純な性的な欲求を、区別できる人と出来ない人が恐らくいる。それが出来ない人が男女ともおり、その発現の仕方で暴力的なストーカーや路上売春などの犯罪に走って推しに貢ぐ人になったりするのかもしれない。
https://twitter.com/HirMiura/status/1789307253000147002
この人、これを書いただけなのに「そんなのキャバ嬢の「若い女性の相談に乗ってあげてる気分になりたくてたまらないおじさん」に対する常套手段に決まってるじゃないか。何勘違いしてるんだよ。自分が相談に乗ってやって喜ばれてとるとでも思ってるのか」って叩かれていてかわいそう。本人悪意もないし、性的な欲求もないし、自省的だし、キャバ嬢が本当にそういう意図だったかどうかもわからないし、そもそもこの人はこれでキャバにのめり込むどころか嫌になってるのに、よってたかってここまで決めつけて蔑む必要があるのか。
こんなことで叩いてたらそれこそ世の中の男性はみな、キャバ嬢であろうがなかろうが、この女性は一見自分に相談してるように見えるけど何か意図があって自分の「相談に乗ってもらいたい欲」を刺激しようとして演技してるだけだからまともに取り合わないようにしよう、って思うだけになるのでは。
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大通りを歩く
高速道路沿い、高架につく明かりが深夜でも明るいオレンジ色をしている
小さく歌を歌いながら帰る日が多い。頭を空にするための歌なので、なんの歌でも良い。TikTokで聞いたサビしか知らない歌でも、学生時代の合唱コンクールの課題曲でも。車が多いから迷惑にはなっていないと思ってる。
いつも曲がらない角を曲がって帰る日もある。知らない坂の先の景色をみたり、通れるかわからない細い路地を入ってみたり。
自転車で帰った日もある。電動式のシェアサイクルはわたしをぐいぐい引くように走った。
自分の足で走った日もある。通りを走るランナーはたまに見るしそれほど浮かないだろうと思った。自分で自分の体をコントロールして、心拍を上げる行動は何かに良い気がした。
酒を買って歩きながら飲んでみようとした日は、缶を路上に落としてしまい中身が噴出した。甘くないジンソーダで助かったと思いながら拾って帰った。
誰にも迷惑をかけない範囲で行う小さな奇行は、私が私に許す小さい遊びだ。1日の大半を仕事に明け渡してしまった今日をちょっとだけ取り返してから自分を寝かしつける、そういう儀式。最初はちょっと外食をして自分の機嫌を取ったりしていたのだが、夕食をしっかり摂るのも憚られる退勤時間になってからは「帰る」ことに遊びを見つけていた。人目につかない深夜に、小学生の帰り道みたいな、誰にも話さない1人遊びがたくさんあった。
何も出来ない日は大抵泣きながら帰る。あの時の自分のなかに何の感情があったのかわからない。悔しいなのか苦しいなのか、誰かに心配されて嬉しいなのか情けないなのか、
あのとき取りこぼしてしまった自分の気持ちはもう、私がわからないってことはこの先誰にもわからない。
泣いている時に頭の中に入っていたのは、周りの人が私に投げかけた言葉だけで、それを咀嚼して反芻しても、なんの味を感じたのかわからないまま、子どものように口角をひん曲げてボロボロ泣いた。マスクの中に水分が溜まって蒸れて、でも外した顔はひどいから付けたまま歩く。
公園の横を抜けて、ファミレスの駐車場を突っ切って、その先の横断歩道は押しボタン式の時間帯。渡った先のコンビニに寄る。朝昼は胃痛を避けるために軽いものしか摂らないので夜は多少好き勝手に食ってやろうと思いながら入店するが、運が悪いと夜中に腹を下すので結局中途半端な惣菜や軽食を買う。大体いつもボブヘアの男性店員がシフトに入っている。コンビニの横の坂道を上ったらあと少しで家に着く。
徒歩25分。家も職場も駅からあまり近くないせいで、電車に乗ってもせいぜい5分短縮できるか微妙な所だから歩いて通勤した。
机に縋り付いている記憶の方がたくさんあって良いはずなのだが、私は長い間、家に帰る道をずっと歩いているような、ずっと夜みたいな感覚を1番よく思い出す。
日中は、
「食事か睡眠、どちらかを満足に出来なくても片方が人並みならまだ保つ」
「このくらいの度数のロング缶を一度に飲み切ると眠れて二日酔いも残らない」
働き始めてから何年かで身につけたおまじないのような「これが出来ればまだ大丈夫」を幾つかポケットに入れて、指先で手触りを確認するような日々を過ごしていた。
「酒や乳酸菌飲料の力を借りて睡眠は取れているからまだ大丈夫」
「胃が荒れていて平日は差し障るだけで、食欲はあるからまだ大丈夫」
「朝は起きて支度できるからまだ」
部屋は荒れているが、不精なので繁忙期はそんなものだ。青クマもデスクワーカーの職業病。
「まだ大丈夫」を肯定的に捉えてサバイブしていたつもりだった。
いつのまに切り替わったかわからないが、これらの一つ一つが「まだ私が壊れてくれないから、大丈夫じゃなくなるのを待つしかない」のカウントになっていた。
勤務中、気を抜くと頭を上げていられなくなった。
ひとの目を見るのは元々苦手ではあるけど、顔を見せるすら苦しくなった。
対面で働くチームメンバーには両手で伏せて早口で指示を出す。通話会議は声を出せれば成立する、まだ大丈夫。
大丈夫な自分を演じているのか、大丈夫ではない自分を演出して逃げ出そうとしているのか、どっちにしろ何かのフリをできているうちは大丈夫なのか、大丈夫ってなんだ?
わたしは席に座れる、手を動かせる、web会議で通話が出来る、謝罪を述べることができる。出来るけど、帰りたいと申し出てある日早退した。これはダメなことだってわかっているからまだきっと大丈夫。平日の明るいうちに外出するのが久々でなんだかスカスカした気持ちになりながら、せめて身体を労わるポーズをとらないと均衡が取れないから大戸屋で品目の多い定食を食べた。ポテトサラダが重くていつまでも口に残った。
わたしにも少ないが友人はいる ありがたいことに定期的に会う用事がある
他愛ない近況の報告をしようとしたら、言葉が出ない日があって、そのとき友人は精一杯わたしを傷つけないように、「頑張る私」を否定しないように選んだ言葉で、心配に思っている、あなたを害するものをあなたは拒否する権利があるとだけ 言葉を投げてくれた
書いて消して何度か回り道しただろう、書かれなかった文にたくさんの気持ちが詰まっていた それに対して言い訳のような自虐で返事をした 最悪だ
病院探しを始めた。
躊躇いは特になかった。「自分に限って」なんていうバイアスは思い上がりだ。弱さを認められる方がまともだと思う、そういうペラペラのプライドを持っていた。「まだ大丈夫」のうちに、近い将来ダメになった時の避難経路を決める、それは賢い判断だと思った。
まあまあ都心に住んでいたので選択肢はいくつかあると知っていたし、思ったよりいっぱいあった。逃げ場ってコンビニほどはないけど歯医者くらいはある。場所を見つけて、予約を取ったあと、メモを書くことにした。
うまく話せるように、話せなくてもとにかく伝わるように。カンペなのか手紙なのか問診票の別紙なのか、わからないけど言葉を起こす必要があった。
相手に自分を「大丈夫」に見せたいのか、「大丈夫ではない」と言わせたいのか、なんだか意図がブレブレのメモ書きになった
紙に書き写す以上はありのままなんてどこにもない、本当のことを書いたのかどうか主観で見てもあやふやな文面。とにかく話せなくなればそれを読むか手渡すかしようと思って、印刷したものを携えて心療内科に行った。初診の予約は平日の昼しか取れないルールで、14時過ぎに中抜けして向かった。
名のついた診断が出た。
有給休暇の残数を尋ねられたり、直近で休養の取れるタイミングなどの話を流れるようにし始めた医師に、そんなつもりではない。 まだ大丈夫だから、もう少しマシになるための方法をくれと訴えたら、それはまっすぐに否定をされた。でも自分に「休め」を許せなかった結果、中途半端な診断書を持ち帰った。
朝、眠りから浮上する感覚を覚えると同時に心臓が跳ねるようになっていた。生きている、意識があるということに気づくと心が怯えるのはまあ自然なことかもしれないとその時は思っていたし、動悸そのものは業務に差し障りないから「大丈夫」「ダメ」の判断基準にならなかった。寝覚めは悪いが寝起きは良いので、遅刻もしなかった。
なんの名前を付けたら良いのかもわからないけど、しっかりと質量のある「ダメ」の感触が胸の中に入っている日がある時やって来た。
もっと、動けないとかずっと泣くとか何かが出来なくなったことを以て「ダメ」に『なる』なのだと思っていたけど、そうではなかった。何がどうダメなのかなんてわからないのだけど、相対的な話ではない、とにかく「ダメ」が去来する朝が来た。突発の休暇をとった。休んだ罪悪感を原動力にその週は出勤する、というサイクルをいくらか続けた。
この頃に、「ダメ」になる階段を一歩降りたような気がしていたが、同時に睡眠も食欲も自分の思う「大丈夫」の基準のままだったのだから、二元論で考えることが間違っていたと思う。
この「ダメ」は、「不安」の名前に片付けるものらしい。抗不安薬の頓服の処方を受けた。「頓服」だから、常用してないからまだ大丈夫。大丈夫の数をまだ数えていた。
そんなわけないのにいつもの道が歪んで見える日
物音が大きく聞こえる日
そんなものをちょっとずつずれながら積み上げてきて、綺麗に縛れない新聞の束のような、歪みが溜まっていくような感じがあった
退職願を書いた。
できるだけ綺麗な文字でしかるべき封書に綴じた正しいフォーマットで、すぐに出せる完璧な一筆を仕上げようと思った。
遺書ではないけど、でも心持ちは少し近いかもしれない。白くて郵便番号欄のない封筒が望ましいとネットに書いてあったがコンビニにも百均にもなかった。緊急で必要になる人もいるだろうに。
下書きをして、それを見ながら丁寧に文字を書いた。書いている間は無心になれた。書いただけで、結局出せはしなかった。
退職願も、診断書も、私にとっての「勝訴」の紙にならなかった。結局私は、自分にバツを付けて逃げるのが怖いまましばらく日々を過ごした。
同僚が出勤してくる
涙が止まらない
10時半過ぎ、何も変わらない
ここにいたらもう駄目なんだ、そういう日がついに来たのだと言われた気がした
そのあとは、とにかく手続きを滞りなく進めなければと、社会人として角の立たないように休職の手配をするために自分の感情はどこか棚の上にでも置いたような感覚で、再診の予約をとり会社と連絡を取り、自分を社会と切り離すことに成功した
今、会社に向かう朝も遊びながら帰る夜も無くした私は、子供の頃からの地続きの自分をあの夜の帰路に置いてきてしまって、残りかすの体だけがここにあるような気持ちで布団に横たわっている。じゃああの夜に私は何を思っていたのか、書き出してみようと思いメモ帳に書きつけるが、結局そこにも何もなかったとわかってしまった。今の私の回想だからそうなのか、本当に何も思うことはなかったのか、もうわからない。
僧侶の友人がいるんですが、その人すごく人に対して悪く考えるんです。
例えば何か私にアクシデントがあると、たまたまではなく「普段の●●が悪いから」みたいに言われます。
そういうわけじゃないのに毎回言われたり、こういう風にするべき、みたいに言われたり(その人の考え方が全部正しいとも思えない)、それ以外の方法をとると「私は言いましたよ。」みたいに言われたり…
正直言ってストレスなんですが、ふと「これはお坊さんの職業病なのでは?」と思いました。
「こういう風にするべき」というのもお坊さんのお説教みたいなのが癖になってるのかな?と思います。
「私は言いましたよ。」はやっぱり「仏様の教えにそわないといけない」みたいな?
相続で成り行き上賃貸マンションの大家になり10年が経った、約100部屋を自主管理している大家増田は、気の置けない友人と馴染みの店で呑んでいた。
「俺はどこでミスっちまったんだろうなあ」
「やっぱり最後の「賃貸マンションに入れてはいけない客・タトゥー入ってる人編」が内容キツ過ぎたんじゃないですか?そもそも、なんでこんなシリーズを書き始めたんですか?」
「シリーズにするつもりはなかったんだよなあ。最初の「賃貸マンションに入れてはいけない客」は、いつものようにクソ客の入居審査を落としたばかりで、その勢いでヤケクソで書いたやつなんだよ。だから短いだろ?もう消しちゃったけどさ。」
「ふーん。今までに増田で日記を書いたことはなかったんですか?」
「ないない。良心に誓ってこれが初めてで処女作よ。だから、こんなん書いてもさ、バカが愚痴ってるよって扱いで誰も読まないと思ってた。事実、載せた後は気にも留めてなかった。その日の夜にはてなブックマーク開いたらめちゃくちゃビックリしたぜ。トップに載ってるんだもんよ。ひっくり返ったわ。」
「それで図に乗っちゃったんでしょ。高校デビューのヤンキーとやってること変わんないじゃないですか。」
「いや、それが実は最初はかなり戸惑った。だって内容は大家の汚ねえグチで、全然褒められたもんじゃねえだろ?俺的にはむしろ、ネバーマインドが売れすぎて逆に当惑するカート・コバーンの気分だった。今の俺ならカート・コバーンのイタコができると思った。」
「あんたやっぱり調子に乗ってるでしょ。そんなこと言ってるとまた怒られますよ。」
「大丈夫だろ誰も聞いてねえし。あ、すいません、ビールおかわりね。
ただ、コメントを見ると、意外に俺たちの仕事は誤解されてるのが気になった。そして、注目された今なら読んでくれた人との双方向性を担保できると思って、その誤解を解きたい欲が出ちまったんだよ。
それですぐに書いたのが「賃貸マンションに入れてはいけない客・Q and A編」だった。今思い返せばこの時は調子に乗ってたのかもな。」
「でも、そのあとも3、4本目と書いてるじゃないですか。客観的にはずっと調子に乗ってるウザイ奴に見えますよ。」
「いや、「Q and A」を書いた後は、明らかに中身を読んでなくて、火に油を注ぐだけのようなコメントも出始めてヤベエなと思い始めてた。まあ内容が内容なので自業自得だな。文体も挑発的だし。なので俺的にはその後に書いた「外国人と老人編」と「タトゥー入ってる人編」は完全に敗戦処理。」
「なんでアンタが被害者ぶってるんですか。敗戦処理っていう割にはクッソ長いし。どうせノリノリで書いてたんでしょ?」
「いや、これはマジでそんなことなくて、俺なりのケツの拭き方だった。実際に外国人と老人は賃貸マンション借りるのに苦労してる実態があるからさ。騒がしくしちまっただけに、現場から見た処方箋を示したいと思った。まあ、結論は全然ダメだったんだけどね。」
「そうなんですか?結構多くの人に読んでもらえてたじゃないですか。内心キャッキャしてたんでしょ?」
「そんなことはなくてさ。俺が全ての記事タイトルにいちいち「賃貸マンションに入れてはいけない客」という文言を入れていたのは、連続性があるので最初から読まないと議論の内容が追えませんよっていう配慮だったんだけど、多分これは最初から読んでくれてた人にしか伝わってなかった。
外国人と老人編のときは、なまじタイトルに外国人と老人なんて入ってるもんだから完全に逆効果で、タイトルだけ見て、悪い意味で真逆の誤解をする人が明らかに出始めた。
この頃の俺はうまく伝わらんなと思って正直焦ってた。読む人に過度な期待をしてたな。ビギナーゆえの未熟さが出たとも言える。で、一旦全部消した。」
「じゃあそこでやめときゃいいじゃないですか。そのまま消えときゃいいのにまた出てきて未練がましい。」
「そのつもりだったんだよ。それが、なんか最初に書いたやつでタトゥーを入れてる人について書いたのがバズってたのをそのタイミングで知ってさ。
最初に書いた記事は勢いだけで書いたから「タトゥーを入れてる客はハズレだ」としか書いてない。これじゃ言い逃げじゃん。なぜ賃貸マンションの大家である俺がそう思うのか、反論できる形で、きちんと理由を示さないと誠実な態度ではないと思ったんだわ。
それで、我ながらダセえなと思ったんだが、また出てきた。
だから「タトゥーを入れている人編」は論理展開を丁寧に書いた。そうすると、違う主張をする人にとっては俺に対する反論がしやすくなるんだ。ただデメリットもあって、必然的にくどくて長くなっちまうんだな。これが完全に裏目に出た。やり過ぎ感が出ちまった。」
「そんな意図わかる人いないでしょ。あんたが一番バカじゃないですか?」
「うるせえ!俺はこういう人間だ!
でもコメントで1人だけ論理に飛躍がありますよと指摘してくれた人がいたぜ。あ、この人はそういう読み方をしてくれていて、俺がやりたい事の意図が伝わってるなと思って嬉しかったなあ。
内心ではタトゥーを入れてる人や、そういう入居者を受け入れている大家の実証的かつ論理的な反論を期待していたんだが、これは残念ながら皆無だったな。まあ、俺のアプローチ方法が悪かったと言えばそれまでだ。
で、また変な方向に議論が傾いてきて、だんだんコメントを入れてくれた人同士で罵り合うみたいになっちまった。ダメだこりゃと思ってまた消した。」
「で、こんなとこでくだを巻いてるわけですね。」
「ま、そういうことだな。
今回のは、俺的には山でわかんねえように野グソをしたつもりだったのに、その野グソが見つかって大騒ぎになっちまったみたいなもんなんだな。」
「あんた例えが下品すぎますよ。全国の賃貸マンションの大家さんに謝った方がいいですって。」
「まあ聞けよ。責任を感じた俺は、自分で出したクソを片付けながら、「なぜクソをしたのか」「なぜこんな色なのか」を一生懸命釈明していてまわっていたつもりだった。だが、そもそも野グソすんなって話だ。だから見る人が見れば、俺はどんどん蟻地獄に落ちていってたわけだな。」
「まあ、言われてみればその通りですね。」
「lady_jokerさんという人がな、どっかのコメントで俺のやってることを指して無邪気だと批判してくれてた。これは冷静かつ的確な指摘だと思った。前述のように俺の自意識は全く異なっていて、それは俺が内心あたふたしてたからだ。でも、洞察力のある人には俺の姿はそう映っていたということだ。要するに、もう潮時だってことよ。」
「いやいや、みんなもう飽きてたと思いますよ。でもコメントとか見ながら楽しんでたってことじゃないですか」
「それはそうだな。多分コメントは全部読んだな。
他のブコメではどんなこと言ってるのかもだいぶ見たな。見たっていうより入居審査と同じ目でチェックしたな。そうするとさ。こっちではAと言ってるけど、あっちではBと言ってるとか、そういうアラが見えちまう奴もいて、面白かったな。」
「あんたそれ職業病でしょ。入居審査でSNSチェックやりすぎてるから。気味悪いですよ。」
「そうだなあ。体に染み付いちまってるなあ。
コメント見る限り俺の印象だと、知的にハイレベルな層がトップ2割、標準レベルが5割、もうちょっと国語を頑張りましょうが下位3割ってとこかな。パレートの法則ってのはガチだ。」
「いいじゃねえか誰も聞いてねえし。ん?あの店員、おかしくねえか!?今俺と目があったら、目をそらしたぞ!」
「そう言えば、さっきビール持ってきたときもニヤニヤしてたような気が…」
「絶対盗み聞きしてたに違いねえ!おい!お前が盗聴してるのはわかってるんだからな!!」
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店長…。増田さん、一人でお店に来てるのにブツブツ誰かとしゃべってるみたいで怖いんですけど…。
症状が出てるな。いいか、絶対に増田さんに何か言われても否定も肯定もするなよ。すぐ保健所に連絡だ!
※そうかこういうのは二次創作に見えてしまうのか…。なかなか難しいもんですね…。
●ちょろっと時事ネタ書きました
アニメとかweb小説とか見てるんだけど、時々これって現実的に無理だよねって考えるときがある。
もちろん批判したいとかじゃないから作品は普通に楽しんでみてはいる。
例えば有名どころで言うと、
高周波ブレードとか目に見えない速度で振動しているような構造なんだけどアニメ通りの構造は無理だと思ってる。
高周波メスとかはあるんだけど、こう言った物って長さは長くても30cmにも満たないんだよね。
物理で片持ち梁の話ってあったと思うけどブレードってこのイメージになるんよね。
さらに構造がクリアできても、ゆっくり動かすならともかく刀みたいに動かすのはダメ。
高周波系の物は細かく削っていくイメージだから接触時間が少ないとその回数が減るからね。
だから高周波ブレードで抜刀!とか言うのを見ると、ん?ってなる。
まぁこう言うのは考えずに見れば良いだけの話しだよね。
自分に不利になりうる情報は公開したくない、相手に何やってるか知られると自由がなくなるから嫌だ、嘘をつく必要があるときになんでも共有していると整合性がとれなくなるのでできるだけ秘密にしていたい
これはもはや不利になりうる情報じゃね?
2年前、4年くらい付き合ってた相手と結婚した。配偶者は営業職。結婚する前から思ってたことだけど、いざ結婚してみるとやっぱりギャップがすごかったので驚いている。
自分はWebエンジニアでOSSとか心理的安全性とか有用な情報はどんどんオープンにしていくという文化に馴染んでいる。なので便利そうと思った記事はどんどん家庭用Slackにシェアするし、日記書くチャンネルも作って思ったことやメモ、今やっていることをTwitterのように文字で書いておくようにしている。
これに対して相手はリアクションしてくれたり、興味のあることに関してはたまにコメントしてくれたりするけど、全然自分の考えていること、今何をやっているか、何に興味があるのかについて書いてくれない。Slackだからというわけではなく、口頭でもあまり共有してくれない。なんで?と聞いてみたら、自分に不利になりうる情報は公開したくない、相手に何やってるか知られると自由がなくなるから嫌だ、嘘をつく必要があるときになんでも共有していると整合性がとれなくなるのでできるだけ秘密にしていたい、という。ショックを受けたのでっ詳しく聞いてみたところ、これは別に自分に対しての信用がないわけではなく職業病だということだった。
営業職全員がこういうタイプというわけではないんだろうけど、自分の今まで経験した職場やコミュニティ、友人たちとあまりにも考えが違って驚いた。
「君の言っていることはすべて正しいけど、面白くない。」
何年か前に読んだ雑誌のコピーで、当時かなりの衝撃を受けたことを覚えている。
今でもたまにこのコピーを思い出してドキッとすることがある。
エンジニアという職業では特に、論理的に考えることが必須なスキルとなる。
エンジニアの仕事は、正しい方向へ向かうための判断を繰り返すことに他ならない。
ビジネスのためにどのようなシステムを作るべきか?アーキテクチャの選定はビジネス課題の解決になっているか?アプリケーションの実装はビジネスが意図した動作をするか?
職業病かどうかわからないが、日常生活でも無意識に論理的に考えることが増えたように思う。
エンジニアの仕事では論理的思考は役に立つが、日常生活ではむしろ邪魔になることがある。
日常生活で正しさが求められるシーンは限られている。
正しいことが他の何よりも優先されるのかといえば、当然そんなことはない。
正しさがある程度証明されたからといって、それが何になるんだろうか?
共感を求めている人に正論を叩きつけたり、別のコンテキストに立つ人間同士が正論を言い合ったりすることは、ほとんど無価値だし、むしろ憎悪の原因にしかならない。
エンジニアの仕事でさえも、論理的思考が邪魔になる場面があると思う。
論理的に考えることは、ある程度の時間がかかる。正しさの判断をするために時間をかける必要がない場面は、無限にある気がする。
正しい判断が求められず、速攻で理由もなく決めてしまえばいいようなトピックに関しては、論理的思考がコストにしかなっていない。
つまり、合理的でないが論理的に判断をしてしまうケースはよくある。
それでいても論理的に考えたくなってしまうのは、論理的思考がすべてを解決してくれるように見えるからだ。
もしかしたら人は根源的に、自分が正しいことの保証を求めるのかもしれない。
夢の中でさえ論理的に思考していることがある。もはや論理的思考に操られているのかもしれないと思う。
論理的思考に操られないためには、「正しさの判断が必要か」を考えることだ。
論理的思考はすべてを解決するわけじゃなく、正しさの判断にしかならない。
「感覚で考えること」と「正しくないこと」の両方を肯定する必要がある。
まず、感覚で考えることは、論理的に考えることの真逆というわけでもない。
それに、もし考えが論理的に正しくなかったとしても「別にそれでいいじゃん」と思える寛容さや「間違ってるけど面白いね」と思える柔軟さを大切にしたい。
「君の言っていることはすべて正しいけど、面白くない。」
何年か前に読んだ雑誌のコピーで、当時かなりの衝撃を受けたことを覚えている。
今でもたまにこのコピーを思い出してドキッとすることがある。
エンジニアという職業では特に、論理的に考えることが必須なスキルとなる。
エンジニアの仕事は、正しい方向へ向かうための判断を繰り返すことに他ならない。
ビジネスのためにどのようなシステムを作るべきか?アーキテクチャの選定はビジネス課題の解決になっているか?アプリケーションの実装はビジネスが意図した動作をするか?
職業病かどうかわからないが、日常生活でも無意識に論理的に考えることが増えたように思う。
エンジニアの仕事では論理的思考は役に立つが、日常生活ではむしろ邪魔になることがある。
日常生活で正しさが求められるシーンは限られている。
正しいことが他の何よりも優先されるのかといえば、当然そんなことはない。
正しさがある程度証明されたからといって、それが何になるんだろうか?
共感を求めている人に正論を叩きつけたり、別のコンテキストに立つ人間同士が正論を言い合ったりすることは、ほとんど無価値だし、むしろ憎悪の原因にしかならない。
エンジニアの仕事でさえも、論理的思考が邪魔になる場面があると思う。
論理的に考えることは、ある程度の時間がかかる。正しさの判断をするために時間をかける必要がない場面は、無限にある気がする。
正しい判断が求められず、速攻で理由もなく決めてしまえばいいようなトピックに関しては、論理的思考がコストにしかなっていない。
つまり、合理的でないが論理的に判断をしてしまうケースはよくある。
それでいても論理的に考えたくなってしまうのは、論理的思考がすべてを解決してくれるように見えるからだ。
もしかしたら人は根源的に、自分が正しいことの保証を求めるのかもしれない。
夢の中でさえ論理的に思考していることがある。もはや論理的思考に操られているのかもしれないと思う。
論理的思考に操られないためには、「正しさの判断が必要か」を考えることだ。
論理的思考はすべてを解決するわけじゃなく、正しさの判断にしかならない。
「感覚で考えること」と「正しくないこと」の両方を肯定する必要がある。
まず、感覚で考えることは、論理的に考えることの真逆というわけでもない。
それに、もし考えが論理的に正しくなかったとしても「別にそれでいいじゃん」と思える寛容さや「間違ってるけど面白いね」と思える柔軟さを大切にしたい。
「君の言っていることはすべて正しいけど、面白くない。」
何年か前に読んだ雑誌のコピーで、当時かなりの衝撃を受けたことを覚えている。
今でもたまにこのコピーを思い出してドキッとすることがある。
エンジニアという職業では特に、論理的に考えることが必須なスキルとなる。
エンジニアの仕事は、正しい方向へ向かうための判断を繰り返すことに他ならない。
ビジネスのためにどのようなシステムを作るべきか?アーキテクチャの選定はビジネス課題の解決になっているか?アプリケーションの実装はビジネスが意図した動作をするか?
職業病かどうかわからないが、日常生活でも無意識に論理的に考えることが増えたように思う。
エンジニアの仕事では論理的思考は役に立つが、日常生活ではむしろ邪魔になることがある。
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正しいことが他の何よりも優先されるのかといえば、当然そんなことはない。
正しさがある程度証明されたからといって、それが何になるんだろうか?
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論理的に考えることは、ある程度の時間がかかる。正しさの判断をするために時間をかける必要がない場面は、無限にある気がする。
正しい判断が求められず、速攻で理由もなく決めてしまえばいいようなトピックに関しては、論理的思考がコストにしかなっていない。
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まず、感覚で考えることは、論理的に考えることの真逆というわけでもない。
それに、もし考えが論理的に正しくなかったとしても「別にそれでいいじゃん」と思える寛容さや「間違ってるけど面白いね」と思える柔軟さを大切にしたい。