はてなキーワード: 負け犬とは
https://note.com/chuushin/n/n76168d3c4350
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/chuushin/n/n76168d3c4350
これ見て本当に情けなくなったよ。
俺は日本保守党の街宣で集まった人間の数・熱気・層を見て結構ヤベーと思った。
なんか全体的に身なりがいいんだよ。
身なりの汚い白髪頭ばかり集まる共産党の街宣と比べると差は歴然。
結構いい服着たまだ頭の黒い中高年が多いなと感じた。
確かにそういうマグマがあって上手く引き当ててるんだと感じた。
俺この集まってる層の画像や映像見て、昔冷やかしにいった幸福実現党の選挙説明会?を思い出した。
ホテルでやってるから笑いの種に見に行ったんだけど、全体的に身なりのいい「ちゃんとした人」って感じなの幸福の科学の信者って。
知らずに見たら日舞の発表会とかそういうのかと思う感じの客層。
保守党支持者はあれに似てる。
もちろん過剰に恐れる必要もないけど
どういう主張をしててどれぐらいの数が居るのかって言うことをまず調べて警戒すべきところ
街宣の手際が悪かったとかそんなことばっか書いて留飲を下げて
異様に集まってる頭数や熱気を警戒しないって言う
お前等本当に負け癖の染み付いた野党支持者ムーブだなって感じ。
真面目にやってないよね。
支持者は楽しみだった気持ちを消化できずに、いたるところで集まり、話合いをしていた。「私は昔、自民党支持だったが、安倍派の権力が弱まって、今のままではダメだと思ったら、日本保守党ができたんだよ。自民党はダメ。」「岸田はダメ」「河野太郎って、中国と日本の二重国籍やからな」「今、信用できる政治家は、高市早苗ぐらいだな」「太陽光パネルのせいで熊の被害が増えてる」「ワクチンなんか打つか」「会社では、誰も分かってくれない」と。思い思いの言葉を伝え合っていた。
これとかさ、
「ほらこんなバカどもだ!」
って読者のチ○チ○を慰撫する為だけの文章なのは見りゃわかるけど
「会社では、誰も分かってくれない」
とかさあ。
左派は保守政党支持者を見るとすぐそうやって「どうせ社会の負け組だ」と考えて気持ち良くなる悪癖(左派としてどうなのそれ?)があるけど
俺は保守党の集まってる人間パッと見ただけでも負け組とは違う層に見えてならない。
変に身なりのいい人間が多かったってのは繰り返し言っておきたい重要なポイントだと思う。
つまりお前等は「敵」を真面目に見据えて事実を分析する姿勢すらないんだよね。
「保守の新党がどういう層にリーチしてるのか」を真剣に分析する気がない
「どうせあいつらは負け組!」と言って気持ち良くなっておわり。
おめーらみたいなのがノイジー支持層だから日本の野党は負け続けるんだと思う。
熟年負け癖野党支持者の気持ちいい所をこしょこしょするのに特化した記事だよな。
これ本当に中学生が書いてるのか?
リベでも左派でもいいんだけど若い人の感じが全くしないんだわ。
俺もおっさんだから、中学生どころか大学生新聞だとしてもほんとにその年代の人が書いてるものなら
なんかしら「あ、目の付け所とか調理の仕方とかが俺の親しんできたものと違うな」の感を受ける筈なんよ。
そういうのが全くない。
例えばだけど
もっと正面からその主張や党是を批判・論難したりするんじゃない?(百田なんてツッコミどころだらけなんだし。)
なのにこういう、「集まってたやつは会社に居場所のない負け組」「陰謀論者が居た」とか
そんなことばっか言ってニタニタする感じ。
これ若さ感じるか?
これほどまでにアラフィフ元朝日新聞記者みたいなダシが出まくってる老舗系ラーメン出されて
「中学生が作りました」って言われて眉に唾つけないのは常軌を逸している気がする。
「#どうして解散するんですか?」系の何かじゃねーの?これ。
というか「#どうして解散するんですか?」の方がよほど若々しさを感じた。
(実際バレてみれば「#どうして解散するんですか?」やってたのは大学生ぐらいの若者だった
どうせ言葉ではかなわないからってこっちを悪者にして被害者面したいだけなんだろうな、と思ったわけだ
君のような人は役所で暴言はいているクソ爺と同じく、相手の態度が悪いとか上から目線に精神的被害を受けたとか言い出す輩だからね
生きていることに意味もなければ、子孫を残さなければならないこともない。
恐竜が絶滅(絶滅してないとも言える)したように、人間が絶滅したところで何も問題ない。地球上の生物の一種がいなくなるだけだ。
何の因果か知能というものを持ってしまった為に、あれこれ悩んだり、苦しんだりするが、だらだら生きるだけに焦点を合わせれば気楽に生きれたりする。
あれもしたい、これも欲しいと人間社会に適応したり、競争したりすると負荷がかかる。
良い人間になりたいとか、立派な人になりたいとか、成長したいとか言っていると、とても大変だ。
そうは言っても現代社会の人間という思想をインストールされている我々には、それを選択しないということは難しい。
思想を狂信的に実行すれば社会で地位を得られるだろう。しかし、思想内競争に勝てないと分かると惨めな思いをする。
惨めな気持ちから抜け出す方法は思想を捨てることだ。すぐには難しいだろうが、ひとつずつ価値観(思想は価値観の集合体)捨てていくことだ。
よく考えたら別にこの価値観はいらないな、この価値観を維持するの面倒臭いな、この価値観を得るのに努力したくないな、と。
勝てない負け犬の逃げ戦略と考えるか、仏教の解脱と考えるか悩むかもしれない。
私が言えることは知能が高い個体、身体が丈夫な個体、社会に適応しやすい性格を持って生まれたと生物の個体差でどうしようもないことがある。どうしようもないことを悩んでも解決することはない。
必要ないもの、得るのが難しものはさっさと捨てて、自分の出来ることだけを見定めて気分良く生きた方が楽しいということだ。不幸せの為に時間を使うのはもったいない。
社会はいつでも思想に染まれと誘惑し、時には暴力的に拷問をしてくる。強い言葉で感情を揺さぶり、美味しそうな餌を見せてくる。
だが、それはカロリーオーバーだ。美味しいものはカロリーが高い。
自分の消費できるカロリーを超えて食べてしまえば、贅肉が付き、動きが鈍くなり、不健康なものになっていくだろう。
IQを自慢する自称Mensa会員や、何の実績もないのにIQだけが自慢の一部の人々を見て、皆さんも思ったことがあるかもしれませんね。彼らは、あくまでIQだけが全てで、その自己陶酔に陥っているように思えます。しかし、その自己陶酔がどれほど無益であるかに気づいていないようです。
同様のことが学歴にも当てはまります。本当に自信を持っている人々は、自分の学歴について口にする必要はありません。学歴の話をするのは、自分自身を高めようとせず、他人よりも優れているように見せかけるための努力をしている負け犬の典型です。実際には、学歴だけが自己陶酔の対象で、それ以外の価値観やスキルについては深く考えていないことがよくあります。
私はさらに進んで、「学歴は不要である」と言いたいと思います。この立場は、個人の存在そのものを尊重する哲学から出発しています。人間は生まれながらにして意味を持つ存在であり、その存在自体には不可欠な価値があるのです。学歴やスキルは、私たちの存在を完全に定義するものではありません。
また、この立場は、個人の自己決定と自由意志を強調します。人間は自分の道を選び、自分自身の目標や価値観に基づいて行動する自由意志を持っています。学歴に縛られず、自分の道を切り開くことは、個人の自己実現と自己表現に対する尊重を意味します。
そして、「学歴不要論」は、アイデンティティの多元性を尊重する視点からも支持されます。個人のアイデンティティは学歴やスキルだけでなく、文化、価値観、信念、感情など、多くの要素によって形成されています。アイデンティティは固定的なものではなく、変化し成長するものとして捉えられます。
さらに、個人が自己認識や人生の目的について深く考え、内面の豊かさを追求することは、知識やスキルだけでは到達できない領域における重要な価値を示唆しています。
学歴の不要性を認識することは、社会的公正と機会均等にも関連しています。学歴が不要であることは、社会的なバリアを取り払い、異なるバックグラウンドや状況の個人に公平な機会を提供する手段となるのです。