はてなキーワード: 季語とは
タイトルだけ見ると意味不明な俳句(シチューは冬の季語)のようだが、先週末に私が実際に体験した悲劇なので他の増田たちに対する教訓としてここに書き記しておく。
不織布マスクの紐が切れてしまい手でマスクを押さえていたところ、「これ良かったらどうぞ」とピンク色のマスクを差し出してくれたのが彼女だった。
正式に婚約しているわけではないが、双方の親にも紹介しあっており、私も彼女も結婚を前提として付き合っていた。
先週金曜のクリスマスイブ、「私がご飯つくるから部屋でゆっくり過ごそうよ」という彼女からの提案に乗った私は定時で仕事を切り上げた。
道中で手土産として適当に見繕ったスパークリングワインとデザートを購入し、予定通り19時前に彼女の部屋に到着。
その日彼女が用意してくれていた夕飯はクリームシチューとバケット、サーモンのソテー、サラダなどなど。
私たちはテレビを見たりくだらない雑談をしたりしながら、ゆったりとした時間を過ごした。
翌日は何の予定も無いからと遅くまでNetflixを見ていたせいか、目が覚めるともう時計は12時を回ろうとしていた。
私よりも少し先に起きていた彼女が朝食兼昼食としてベーコンエッグを作ってくれていた。
「昨日のシチューの残りが少しあるけど食べる?」「食べる!」
私はなにも考えずシチュー皿にご飯をよそって温めたシチューを上からぶっかけた。
「何してるの?」
「ご飯にシチューかけて食べると美味しいじゃん。ほら、ワンプレートで済むから洗い物も減るし」
「いやそういう問題じゃなくて、ご飯にシチューかけて食べるとかありえなくない?」
「・・・(うちの実家じゃ家族全員こうやって食べてたんだけどな・・・)」
「そんな下品な食べ方してる人なんてこれまで一度も見たことないよ!」
「悪かったよ、折角作ってくれたのに変な食べ方して本当に悪かった。もう絶対にしないから」
そうやって私は何度も謝ったが彼女の機嫌が戻ることはなく、食事が終わったあとも無言の時間が続いた。
スマホをいじりながら二人で無言のまま過ごすこと約1時間ほど。
「今日中の仲直りは無理かな、とりあえず一旦撤収して間を空けよう」と決断し「嫌な思いさせて本当に悪かった。今日はとりあえず帰るよ」と立ち上がった私に対し
彼女は「色々考えたけどやっぱ無理かな。別れよう」と切り出してきた。
「は?なんで?ご飯にシチューかけただけだよ。それにもう絶対にやらないから」
「駄目。無理。ご飯にシチューをかけた行為だけが許せないんじゃないの。そういう行為が普通の生活をこれまでずっと送ってきたわけでしょう。
そういう人とこれからも付き合っていくのが無理なの。私の従姉妹も結婚して1年で離婚したんだけどやっぱりそうだったの。
旦那さんがご飯食べるときにクチャクチャ音を立てる人だったんで、付き合ってるときに何度も注意して直させたの。
でもね、それが直ってもやっぱり駄目だったんだよ。お風呂場でシャワー浴びながらおしっこしてるところ見たんだって。私もそんなの絶対無理だから」
(シャワー浴びながらおしっこって普通にしてるけどやってるなんてとても言える状況じゃないな・・・)
「だからね、増田君のことは好きだけど私増田君とは一緒に暮らせない。別れよう」
そして私は何も言い返せないまま、彼女の部屋を後にした。
唐揚げ弁当に入ってるレモンをハイボールに入れて呑むのもギルティ、唐揚げの下に敷いてあるパスタを食べるのもギルティ
なんなら彼女ルールでは納豆にネギを刻むのもギルティかもしれない。
私が30年近くライフハックだと思って実践してきた色々なことは、彼女にとっては憎むべきライフファックだったわけだ。
クリスマスに彼女にフラれ、何もやることが無くなってしまった私は街をふらふらと歩いた。そして酒でも飲んで全てを忘れることにした。
酔い潰れてしまいたい、そう思いながら呑んではみたがそういうときに限ってなぜか全然酔わない。
2軒目の店を出て路地を歩いている私に黒服の男が声をかけてきた。
「シチューご飯豚野郎にはおっパブみたいな下品な店がお似合いだな」と自嘲しながら私は男の手招きに応じて店へと入った。
薄暗い店内に通され、薄汚いソファーに座って待つこと3分ほど。酷く歯並びの悪い女の子が私の横に座ると身を寄せてきた。
おっぱいパブには入ったもののそこまでおっぱいを触りたいわけではない私はその子のとりとめもない話に耳を傾けた。
その話を要約すると「コロナで普段からマスクをするようになってこれまで以上に歯並びがコンプレックスになった。マスクを外したとき男性が露骨にがっかりするのが本当に辛い。
ここでお金を稼いで歯の矯正をしたい」ということらしい。私はその話を聞いて素晴らしいことだと思った。
「ちょっと聞くけどさ、もし彼氏が白ご飯にシチューをかけて食べてたらどう思う?」
「は?そんなの別に普通だよ」 良かった、この子は私の側の人間であった。
「つかさ、わたしの元カレがガチ屑でさ。何回ゴムしろって言っても絶対にしないし、出す時に人の顔に精液かけてくることもあったし。」
なるほど、それに比べれば私の行為の方がよっぽどマシに違いない。
「おにーさんだっていきなりシチューぶっかけられたら嫌でしょ、ほんとマジありえねーし」
その子の何気ない一言に私は脳天をスレッジハンマーでぶっ叩かれたような衝撃を受けた。
そうだ、私は何もかも間違えていた。今この瞬間に至るまで「なぜご飯にシチューをかけるという愚行に及んでしまったのか」とずっと悔やみ反省し続けていた。
しかしそれは大きな間違いだった。正しいのは私で断罪されるべきは彼女。私があのとき取るべき行動は彼女にシチューをぶっかけて立ち去る、その一択しか無かったのだ。
間違いに気づくきっかけを与えてくれたお礼をせねばなるまい。
店の出口までの見送りの際に「これ歯の矯正と豊胸手術の費用の足しにして」といって二千円札を一枚渡した。
「貧乳バカにすんな、死ね!」そう言いながらチップを受け取る彼女の笑顔はとても魅力的だった。
店外に出て私は何も考えずコートすら羽織らないで外出してしまったことを後悔していた。突き刺すような冷気が私を取り囲む。
全身の震えが止まらない。でも震えているのは寒さのせいではなかった。
万葉集には季語は入ってないけど日本トップクラスの歌集だよね。
そんでもって季語なんてなくても季節感なんていくらでも出せる。
つまり季語って本来は必要がない癖に誰かが後付で偉そうに付けたタスポやB-CASカードみたいなゴミなわけ。
わざわざ季語なんて発明した理由ってマジでキモくて、結局の所は「俺達がマジで凄いことしてるってのアピールしやすいように縛りプレイしようぜ」っていうマジキモすぎるキモさなわけ。
聞く側の気持ちとか一切考慮せずに「俺達が身内でやってる芸がマジで最強であるってことを教えてやるために敷居高めたろ」でしかないの。
つまりは何の哲学も持たない料理人が「ヴィーガン料理名乗れば客くるし高くても売れるらしいから俺野菜縛りするわwwww」ってやるのと何も変わらねーわけよ。
マジキモくね?
俺はありえないと思うよ。
突然の雨音に誘われて窓を見るとそれが夕立であり同時に今が夕方だと気づいた
実際、私は今象印の魔法瓶を洗っていて、それは今日という日が終わりへ差しか返っていることを意味している
今日もまたあっという間に過ぎたなとふと思った
私選評
夕立という夏の季語から象印の魔法瓶には冷たいお茶が入っていたことが想像されます。
その魔法瓶を洗っているということで、暑さに負けず1日をやり終えたという気持ちが伝わってきます。
頑張っていたらあっという間に1日が過ぎてしまったという感覚と、強い勢いで降り注ぎあっという間に終わってしまう夕立がよくリンクしていると思います。
きれいに洗った魔法瓶、雨上がりの澄み切った空、それらのイメージからこれから爽やかな夕方という時間の広がりを感じさせます。
読み手の年齢は58歳、人生の夕方へと差しかかかっている自分自身に対しての前向きながらもどこか寂しさのある気持ちを詠っているのかも知れません。
魔法瓶の中の冷たいお茶というイメージは、伊藤園お~いお茶大賞に応募する詩としてとても良いと思いました。
ってなるかなあ。
もしもお茶のラベルに書かれているのをお茶を飲みながら漠然と読んだら。
でも作者のコメントを見ると、コレは間違った情景を思い浮かべたことになるんだよね。
私は私の頭の中に広がった、夕立の音を聞きながら流し台でピカピカに魔法瓶を磨いているおばちゃんの後ろ姿を素敵だと思ったんだけど、この景色は「不正解」なの?
国語警察です。増田の書き込みにはいくつも間違いがあり、看過できません。
1つめ。まずお茶のペットボトルに書いてあったのならそれは川柳ではなくおーいお茶の伊藤園が主催する新俳句大賞です。夕立という季語を入れているので、作者は俳句としての読み取りを求めていると解することができます。俳句の解釈にはいくつかフォーマットがあるので、読み取りにはある程度それを知っておく必要があり、簡単に云々するのは適切ではありません。
2つめ。件の句は大変面白い句です。やや読み口が未熟ではありますが、賞に選ばれるだけの作品だと言えます。以下、少しだけ解説をします。
まず、夕立を季語として用いているので、季節は夏。象は「夕立」が降る日本でよくいる動物ではありませんから、場所は動物園とほぼ確定できます。夏の夕方に作者は動物園を訪れているわけです。事情はさまざま、ですが、一般的にいってどんな心境だと想像できるでしょうか。夏休みの家族連れ?詠み手は子供?親? 確実に言えるのは、詠み手はそう不幸な状況にあるわけではないと考えられるということです。不幸な人は、夏のさ中に動物園に来たりしませんし、夕立の中でぼーっと象を眺めたりもしません。むしろ想像できるのは、それなりに幸福な人で、新鮮な心と驚きをもって周囲に向き合っている人だということです。そこで、そういう心で、目の前の情景に向き合ってみましょう。
何も心配することのない子供のころの心で、夏のさ中に動物園にやってきた状況を想像してみてください。いろいろな動物のむせかえるような匂いに少しへきえきしながらも、非日常感に心躍らせる思いで時間はあっという間に過ぎ、気づけばもくもくと黒雲が辺りを覆っていて、不意に夕立が訪れます。象はいつも動物園の人気上位です。目の前の象の圧倒的な非日常感は、この日一日の中でもとりわけてあなたの心を喜ばせたでしょう。そして、夕立。遮るもののない中で、夕立は普段よりもいっそう激しく感じられます。雷もなってあなたは少しひるんだかもしれないし、あるいはワクワクしたかもしれません。ですが、目の前の象はどうでしょう。象舎に入るでもなく、動じるでもなく、まるで心地よいシャワーでも浴びるかのように、何物にも動じません。そんな象の姿は、あなたの心を揺さぶらないでしょうか。それが、象への感動なのか、夕立への感動なのか、二つが混ざった状況は、目の前の柵の存在すら忘れさせて、ふと見たこともない遠いアフリカでスコールを浴びる象の野生すら幻視させるかのようです。象が夕立を浴びている風景を、主語を逆転させ、夕立が象を洗っている、と見たのは、夕立に象に劣らぬ存在感や主体性を詠み手が感じたことを表しています。そして、夕立というあまりにもありふれた題材が、象という、俳句にはなりにくそうな題材と出会うことで、なんと生き生きと、生々しく荒々しい存在感を生み出していることでしょうか。異質な二つが出会うことで取り合わせの妙が生まれる、つかず、離れず、のこの関係を「不即不離」と言います。上質な俳句に欠かせない、新鮮な感動だけが生み出す言葉のマジックです。
最後の「またたく間」もとても素晴らしい。夕立は短いものですが「またたく間」というほどかというと少し誇張なので、このあたりやや詠み手の未熟さ若さと捉えられるかもしれません。しかし、この「またたく間」は、まさに瞬きも忘れるほどこの情景に見入っていたこども心の「またたく間」であり、必ずしも一瞬とは限らないとも言えます。また、ウォッシュされた結果クリーンになるのがまたたく間だった=それほど激しい夕立だった、と取ることもできますし、さらに読みを深めれば、これらの幻視、ひいてはこの日一日の非日常の全てがこの瞬間に込められており、夕立とともに非日常ははかなく消え去っていく、ただし、後に残るのは夕立の後のような爽やかさで、この一言とともに、象と夕立の幻視に閉じ込められていた詠み手が再び現世に返り、我々読者もその爽やかな読後感を共有できる…そんな終わり方です。幻は一瞬であり、一瞬であるがゆえに永遠。この句はそんなことまで感じさせてくれます。
そんな、まるで壮大な幻を一編の短編映画に仕立てたような幻想を、わずか17字に詰め込む、これこそが俳句の妙であり、これはそんな俳句という表現形式の魅力を存分に発揮した作品だと言えるでしょう。実に見事というほかはありません。
3つめ。これは一番勘違いを修正いただきたく、返信をしようと思った最大の理由ですが、「分け入っても分け入っても青い山」は、種田山頭火の俳句です。川柳ではありません。無季自由律であってもそこに俳句スピリットがあればそれは俳句だ、というのが彼らの主張であり、その主張自体をどう取るかは人それぞれの考え方にもよりますが、「あれは俳句ではない」と主張するならまだしも違うジャンルの呼び名で呼ぶのは、俳句に対して、川柳に対して、そして山頭火に対して、あまりにも失礼で不当です。この勘違いは、即刻修正していただきたいです。
最後に、俳句と川柳の面白さはまた違うところにありますが、川柳の面白さはもっと言葉の響きや並びの妙といった所にあるので、「情景が浮かばないとダメ」といったような狭い(ある意味俳句的な)縛りの下にあるものではありません。その点も、増田は勘違いを修正された方がよいと思います。俳句の世界、川柳の自由さは、それぞれに面白いものであって、それぞれの特長をきちんと知ることで、それらの作品をより深く味わうことができるようになります。知らないで否定することは簡単ですが、それはあなたの世界を狭くしてしまいます。分かったつもり、の人生より、世の中にはまだ知らないことがたくさんある、という人生の方が、楽しいと思いませんか。お茶のペットボトルを飲み捨てることなく、そこに書かれた一言に目を向ける精神は素晴らしいと思います。どうかそのように、物事を簡単に切って捨てるのでなく、小さなところにも発見のある人生をお送りください。
ヘンに古臭え概念とLINEやコンビニなどをおり混ぜてギャップを狙ってるのか?気持ち悪いんだよな
杜若、じゃねえですよ そんなんその辺に生えてっかあ?生えてたらごめん
とにかく浮いているのだ季語が
なんなんだ なんで漢字で書くんだ
おまえ、🌻みて、あっ向日葵だ!なんて思ってんですか
あれはなあ、ヒマワリですよ
いかにもノーテンキじゃないすか なにが向日葵だ 表現のために自分を曲げるな 世界を曲げるな
思考を57577に整えるっていう行為、ある程度正気じゃないとできないので、中身が「エモい」ほど、どうなってんだという感じが出てくる
たとえば長く付き合った恋人とどうしようもないすれ違いの末別れた、っていうのをうつくしい短歌として詠まれると、感情どうなってんねんとしか思えねー
彼女にフラれて悲しい、を表現するリアルな言葉は、グエーしかないんだ
水滴とか風とか、トイレの水とか、知らねえけど、そういうものに感情を仮託するな
これが一番キモい これさえなくしてくれれば、俺はここまで俳句と敵対しなかった
「してをり」みたいな表現が突如混ざってるのを見るとはらわたが煮えたぎる
オマエそれ言わないだろ、日常で!!
言ってんのか?
言ってたとしたらそれはそれで尊敬するけど、言わねーだろ、絶対
ゐる、とかさあ、キショイんですよ 本当にキショい
いま「ゐる」って打とうとして、けっこう変換に手間取ったぞ キショ俳句人間、毎回変換に手間取ってまでわざわざゐるって言ってんだとしたら死ぬほどキモいし、辞書登録をしてスムーズに打っていたり、予測変換が覚え込んでしまうくらいにゐるゐる言ってんだとしたらさらにキモい
救いようがないですよマジで
アーバンな感じがしてすげえムカつくわけ
すっげーイケてない、コンビニもない、ウンコみたいな田舎、実際に空気にウンコのにおいが混ざっていることもあるような、そういう場所の感じがしねえんだよな
全員シティーボーイっぽい、つうか、なんなら、三大都市圏っぽい
三大都市圏の人間が、「私は雅を介します!」みてえな顔して、都市の風景を詠み、しかも生意気にも季語なんかを盛り込んだり、古語っぽい表記をしてみたりするわけじゃないですか
そういうのはよくないし、許せないし、許すべきではないし、許されるべきではない