はてなキーワード: シットコムとは
もう終わってしまったけれど、『ザ・オフィス』というテレビコメディがあった。主演は『リトル・ミス・サンシャイン』『四十歳の童貞男』のスティーブ・カレル。元はイギリスの同名コメディ(日本語タイトルは『ジ・オフィス』)だけれど、結果的に本国版より息の長い番組になった。ちなみにイギリス版もアメリカ版も hulu で観られる(はず)だ。
『ザ・オフィス』でスティーブ・カレル演じる製紙会社の課長は日本で言えば昭和世代のセクハラおやじである。ゲイフォビアで男根主義的、アメリカン・マッチョな価値観に染まっていて、ことあるごとに自分の面白ジョーク(大半は性差別、人種差別ネタ)で課内の雰囲気を和ませようとするが、逆にそのジョークのせいで場の空気をきまずくさせてしまう。なにせ、自分の部下がその当該マイノリティであることが多いのだ。
しかし自由の国アメリカといえど、上司に反駁するのは容易じゃない。カレルはアブナイおっさんなのでことあるごとに人事権や給与査定をタテに(実際にその権限が彼にあるかは別にして)振る舞う。部下たちは自然、事なかれ主義でだんまりを決め込んでしまう
しかも、カレルは場の空気を悪くしているのが自分であることに無自覚だ。勇気ある誰かから「それは差別じゃないか?」と指摘されると「これは差別じゃないよ。ただの冗談だろ?」とキレる。本当に差別ではないと信じこんでいるのだ。あげくのはてに破綻しそうになると、別の部下に責任を押し付けようとしたりもする。
まあ、要するに、最低のセクハラおやじが職場の空気を最低にするドラマなのだ。
ドキュメンタリーという体裁だから、シットコムみたいに「ここが笑いどころですよ」という観客の歓声も挿入されておらず、しかもカレルに対するツッコミはなされないか、なされたとしてもシリアスな雰囲気にならざるをえない。
こんな悲惨な番組がコメディになるのか、といえば、なってしまう。アメリカでは成立してしまう。
『ザ・オフィス』で笑うためには、まず「無自覚な差別ネタをジョークのつもりで放言しまくって場の空気を凍らせてしまう困った人(しかも自分では差別ではないと信じている)」というステロタイプを共有していなくてはならない。いわゆる、あるあるネタってやつなのだが、これが一筋縄ではいかない。
このステロタイプで笑うためには更に「こういう困ったおじさんは時代遅れのダサい人間である」という認識も広まっていないといけない。現状ではこういうおっさんが存在を許されないものという(現実はともかく)共通了解が流通していなければならない。
『ドラえもん』やちょっと前のドラマで日本でもあった、「江戸時代の人間が現代にタイムスリップしてきてカルチャーギャップを体験し、その反応に視聴者が笑いをもたらす」タイプの話とキモは一緒なのかもしれない。
仮想の原始人を笑いの的に立てるのだ。
その「原始人」に「かつてどこにでもいて、今もおそらくは地域によっては跳梁しているであろう人間」をあて、都市部のリベラルな価値観、すなわち我々の言うところのポリティカル・コレクトネスの観点からその野蛮さを笑う。言い方は悪いかもしれないが、そういう捻れた観方をできる人間がすくなくともこの番組を8年140エピソード続けさせられるぶんだけ存在する、ということだ。
そうして恐ろしいことに、『ザ・オフィス』は例外中の例外ではない。『サタデー・ナイト・ライブ』といった老舗番組から、オトナ向けのカートゥーンアニメまで、そうした政治的正しさが視聴者の間で広く染み込んでいることを前提にギャグをスケッチしている。
アメリカン・コメディにおける政治的正しさとはもはや「あるべき理念」でもなんでもない。常識であり、前提だ。
アメリカは広いし、チャンネルは山ほど存在するので、コメディ番組がすべてそうだという確証はない。
けれど、日本に紹介されてくるコメディ番組は肌感覚のレベルで政治的正しさを呑み込んでなければなかなか笑えない。
むしろ、政治的正しさに反発を抱く人より、「あるべき理念」としてフィクションに政治的正しさを求めている人のほうが笑いにくいかもしれない。リベラルの風刺とは身内にすら向けられる過激さを持つもので、笑いの矛先が政治的正しさそのものに向けられることも珍しくないからだ。それを半可にしか理解できてなくて、そういうジョークを無理してわかったフリして喜ぶ人間は多いけれど(私もその一人だ)。
シリアスな映画とかはまだわかりやすく「女性が強い」とか「マイノリティが救われる」とかをストレートな形で描いてくれるから、日本でも受け入れやすいんだろうけれどね。マッドマックスみたいに。
海の向こうには、「政治的正しさを前提にしたホンづくりしてる」なんてわざわざ公言しなくても、そんなもん当然前提に据えてるだろって界隈が存在するのだ。おそろしい、おそろしい。
余談だけど、「空気を読めない人の空気の読めなさ加減を笑う」という点ではアメリカ版よりイギリス版のほうが百倍ブラックだ。もはや、気まずい場の空気そのものを笑いに換えているといってもいい。これもこれで、ウルトラハイコンテクストな文化だよなあ、と思います。
(訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)
村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。
ところがその目論見は外れることになる。
期待していたのは、バルセロナやパリやベルリンのような街だった。
そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ、劇場、文学、シットコム、フィルム・ノワール、オペラ、ロックといった、
西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタンな世界都市を私は期待していた。
誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。
実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。
そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。
アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、
私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。
最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、
どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。
私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。
そして蜂の巣状のガラス製ピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき、
ついにユキという村上のアシスタントに見つけてもらうことができた。
あまりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。
実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。
そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。
村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初の記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなたの最初の記憶はなにかと尋ねる。
それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。
彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。
流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル。
そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。
「明確に覚えている」と彼は言う。
「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」
村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。
その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶は自分の中にある、と感じた。
ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。
村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分の記憶を写し込んでいたのだ。
村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中、
週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。
その結果、電力、公衆衛生、メディア、政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。
大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。
この本はアジアで数百万部を売り上げ、
まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。
62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学の最高峰としての地位を確かなものにしている。
疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界の大使となった。
そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。
アメリカによる戦後占領を受けた1949年の京都、日本の前首都である。
「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。
「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。
「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。
彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、
そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である。
彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説とジャズに没頭して十代を過ごした。
二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブを東京で開いた。
掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、
作家としての村上のキャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。
どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生を根底から変えてしまう。
29歳の村上は地元の野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴ・ヒルトンというアメリカ人助っ人バッターが二塁打を打つのを見ていた。
平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上は天啓に打たれた。
そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。
そして彼は書いた。
数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。
それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。
アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。
わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。
『名犬ラッシー』、『ミッキーマウス・クラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲、フランスの映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディラン、マーヴィン・ゲイ、エルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストック、サム・ペキンパー、ピーター・ポール&マリー。
以上はごく一部に過ぎない。
そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本の芸術の引用がまったくない。
村上作品のこうした傾向は日本の批評家をしばしば苛立たせている。
そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆に時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。
「時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。
30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。
すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。
彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。
そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。
「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」
そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。
30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンル(SF、ファンタジー、リアリズム、ハードボイルド)と様々な文化(日本、アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。
どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。
そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。
彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。
なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。
とはいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。
特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。
安全な言葉遣いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。
私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。
数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。
彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロン掛けが好きだという)。
靴は履いていない。
彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップでブラックコーヒーを飲んだ。
その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からのお気に入りの小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。
話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。
その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。
「大きいな」と村上は言った。
「電話帳みたいだ」
ドラゴンボールの実写は、海外ドラマ「サブリナ」の男版みたいな1話完結のシチュエーションコメディードラマにすれば案外いけるかもしれない。と妄想してみた。
http://anond.hatelabo.jp/20080721222220
そこまでディープではないつもりの俺が彼女に紹介したアニメの反応を書いてみるよ。
彼女は非オタで、洋画のファン。よくSex and the Cityとかを一緒に見てる。
大学生くらいまで少女漫画を読んでたらしいから、完全な非オタとは言えないかも。
ちなみに、こっちから押し付けたことはなくて、一人で見ていたら「私にもなんか見せて」と言ってきた。
同棲しているのに時間を共有してなかったのが気に入らなかったらしい。多分。
で、そんなことは想定もしてなかったから適当に好みのを見せたんだけど、大体こんな感じだった。
プラネテス:大好評。しばらくしたらまた見直そうと言っている。元増田のブクマにもあったけど、最初はこれで鉄板じゃなかろうか。
攻殻機動隊SAC:好評。でも途中まで見てから引越しとかがあったせいでその後止まってる。そこまでのヒキはなかったんだろうか。
みなみけ:頭空っぽにして見られるのと言われてなんとなく。評価もそれなり。
蟲師:これも好評。
マスターキートン:それなり。そんなにヒキもなかった感じ。地味すぎるんだろうか。途中で放り出してある。
君が望む永遠:痛いって言うな。分かってるから。まぁ中身はソープドラマだし、むしろ反応が知りたくてチョイス。
以外にもそれなりに好評だった。凹んだとか言ってたけど。暇でしょうがないときに一人で見直してもう一度凹みなおしたらしい。
いや、それで苦情を言われても困るんだけど。
さよなら絶望先生:これも反応に興味があった。案の定全く分からんとのこと。そうだろうなぁ。
無限のリヴァイアス:現在だらだらと視聴中。それなりにヒキはある感じ。
数えたら10本ないけど、まぁ誤差の範囲内ってことで。
コードギアスとかも紹介したい気持ちはないでもないけど、ああいう少年向けサービス満載な絵作りをされてしまうと、
紹介しづらくなるから困るんだよなぁ。
とりあえず、蟲師とかプラネテスとか、1話完結のシットコム型の方が俺の彼女には入りやすかったってことらしい。
プラネテスはそこから続き物的なストーリーの収斂が後半進んで、ますますはまり込んだみたい。
まぁ、付き合ってれば趣味をちょっと共有してみたいって思うのは良くあることだから、とりあえず釣竿にアニメをぶら下げて
食いつくのを待つというやり方でよろしいのではないかと。後、彼女の趣味もバランスよく共有するといいよ!
こっちが一方的に共有しようとすると向こうはそれで満足してこちらの趣味に興味を示さなくなるので、バランスが大切だと思う。
今までの経験から言って。
でも、元増田の要求水準はどう考えても高すぎるので、もう少し肩の力を抜いたほうがいいと思うよ!
他人の趣味にそこまで入れ込めるほどの暇人はそんなにいない。よほどの適性がない限り。自分の趣味の時間に相手が付き合ってくれるだけで
個人的には十分満足なんだけど。深いオタはそれじゃぁ満足できないんだろうか。