はてなキーワード: アスリートとは
そのアスリートも筋肉や神経組織という一点物の作品をつくってるメーカーの人間とおもえば別に違和感はなくね
一点物の大事なものだから怒りで内部崩壊させるわけにいかず八つ当たりで怒りを外部化するんだろ
冗長化によってコアを守るのは自動車でいうダンパーやサスペンションの役割だ
(つまり敗北という現実に対する怒りで気が狂いそうだったから、というあたりまえな文学的表現も普通にできるわけだが)
あえていうならそれを子供もみるニュースにわざわざみせびらかすマスコミだの自分がメーカー本人でもないのにマナーの問題だという増田が問題だろ
私の両親は、経済的理由から高校進学を断念して中卒だったが、真面目なブルペン捕手だった。子供時代の私が馬鹿なことを仕出かしたのを叱るのに、時々手が出ることはあった(昭和の時代には当たり前のことだった)ものの、素手で物に当たるようなこと、自分の拳を傷めるようなことは決して無かった。私が生まれ育った地域社会は、どちらかと言えば粗野な部類だったと思うし、隣近所や学校では、一時的な感情の爆発で物に当たり散らして、物を破壊する人間など珍しくもなかった。学校では週に一回ぐらい、授業中に何処かのクラスの窓ガラスが割れていた。隣近所の家々でも似たようなものだった。しかし私の両親は、そういう粗暴な行為を決して素手ではしなかった。裕福な暮らしではなかったが、乱暴な地域社会の中で自分の体を傷つけないように生きてきた両親のことを、今でも私は誇りに思っている。
自分の体を破壊しないようにするというのは、みんな痛いのは嫌いだから何ら珍しくないと、世の人は思うことだろう。怪我をしたら痛いし不自由だし病院代で出費を招くのだから。
しかし、それ以上に、私の父はブルペン捕手だったから、我が家では「自分の体を故意に破壊する」という行為は「仕事の道具を粗末にする、恥ずべき悪徳。卑しい振る舞い」と両親から教育された。「人間として、卑しい真似をするな」というのは、両親が口を酸っぱくして常々私に言い聞かせてきた言葉だ。
私は野球をしたことは無いが、聞いたところによれば、ソフトバンクの左腕投手の年俸は5300万円らしい。そんな人が利き手でベンチを殴って拳を破壊するというのだから、何とも豪勢で贅沢な話である。金は天下の回りものと言うが、その順回路に今も昔も含まれていない我が家からすれば、5300万円もする自分の手を故意に叩き壊すことなど、夢のまた夢である。
それとも、こんな私でも、何かの弾みでスポーツ選手になったとしたら、ひょっとしたら数千万円の体の部位を簡単に壊すようになるのだろうか。その拳の向こう側に存在する、それを買った球団の存在を忘れて。
私は、彼が左拳を平気で叩き壊した姿を見ると「ひょっとしたら『利き手はやめておけ』と制止した城島捕手のことを、自分と同じ『人間』と思っていないのではないか?」という思いを拭えない。
おそらく彼も、最初から何千万円も稼ぐトップアスリートではなかったはずである。人生のどの時点で、彼は痛みに耐えて自分の拳を心置き無く壊すようになったのだろうか?それを壊せるようになった時、彼は「自分の拳が壊れたら困る人がでるぐらい、自分は好投手になったのだ」と誇りに思ったのだろうか?
たとえ何千万円もの年俸を稼ごうとも、ホークスの勝利など知らぬと言わんばかりに拳を破壊する彼の姿は、私の目には非常に面白く見える。
でもまじでいい投手だったんだよな、杉内。
江夏の再来よ。
同意。
「人の作った物をどうしようが購入者の勝手」が成り立つのなら、スポーツ選手は自分の競技風景をどれだけズリネタ動画として消費されようが文句なんか言わなければよい。
ラケットを破壊することがOKでズリネタには文句付ける、ならば「用具の製作者は愚弄されてもよくて自分たちは愚弄されてはならない存在だと思っているのですね」「つまり、あなたは競技用具製作者を自分と対等の人間とは見なしてないのですね」という批判が確かに成り立ってしまう。
「いやいやズリネタOKですよ。所詮スポーツなんて自慰ですし」って言うなら、ラケットを破壊する行為にも首尾一貫したものがあると言えるが、少なくともそういう考えを公表するアスリートの話は聞いたことがない。
彼女が戦っている所がどれほど天高く居続けるのが困難な場所かってのが分かってないのでは。
大事にしている車でも緊急時にはウィンドウガラスをぶち破るだろう、世界最高峰の競技の場ってのはそういう緊急事態に近い極限の地なんだよ。
そういう場所で命がけで戦ってるのにヌルい場所にいる凡人から平時のヌルい道徳を説かれてもバカバカしく思える。
モノへの敬意も大事かもしれないが、世界トップクラスのアスリートは人類の最高峰なわけでそういう超人への敬意がない方が気になるわ。
90年代前半、講談社から出版されていた『Mr.マガジン』という漫画雑誌で『ピカイチ』(原作・木内一雅、作画・三山のぼる)という作品が連載されていた。ストーリーの細部は忘れてしまったが、以下のようなエピソードが有った。
= ここから粗筋 =
主人公は中間材となる工業部品を製造する工場に勤務しているが、工場の従業員たちは「自分たちの仕事は取るに足りない、価値の無い仕事」と考えて意欲を失っていた。それを見かねた主人公は、彼らを大人の見学旅行へ連れ出す。
主人公が労働者たちを連れて行った先は、彼らが製造した中間材部品が、新幹線を始めとする鉄道車両に使用されて組み立てられる工場であった。
彼らが従事する工業部品製造の仕事は、華々しさとは無縁で地味な仕事かもしれないが、もしも部品の性能に問題が有れば、事故の発生などにも繋がりかねない。
彼らの部品が使われている鉄道だけでなく、我々の社会が滞りなく機能するのには、彼らのような工場労働者の真面目な仕事ぶりと、それによって生み出される信頼性の高い工業部品が有ればこそなのである。
こうして、主人公が見学旅行に連れ出した労働者たちは「自分たち工場労働者の仕事は、決して無価値ではない」と、人間としての誇りを取り戻し、仕事に前向きになる。
= 粗筋ここまで =
「フィクションにすぎない。そんな簡単に労働者が誇りを獲得できるものか」と言ってしまえばそれまでかもしれないが、それでも、リアルタイムで読んだ時に私は、日本の労働者の琴線に触れるものが有る話だと思った。このエピソードに心を動かされたのは、私自身が非都市部の低所得者層・労働者階級層に生まれ育ったからだ。この漫画で出てくる工場労働者の姿は、私が生まれ育った社会を思い起こさせたのだ。
私の両親は、経済的理由から高校進学を断念して中卒だったが、真面目な労働者だった。子供時代の私が馬鹿なことを仕出かしたのを叱るのに、時々手が出ることはあった(昭和の時代には当たり前のことだった)ものの、癇癪を起こして物に当たるようなこと、物を壊すようなことは決して無かった。私が生まれ育った地域社会は、どちらかと言えば粗野な部類だったと思うし、隣近所や学校では、一時的な感情の爆発で物に当たり散らして、物を破壊する人間など珍しくもなかった。学校では週に一回ぐらい、授業中に何処かのクラスの窓ガラスが割れていた。隣近所の家々でも似たようなものだった。しかし私の両親は、そういう粗暴な行為には走らなかった。裕福な暮らしではなかったが、乱暴な地域社会の中で節度を保って紳士的に生きてきた両親のことを、今でも私は誇りに思っている。
物を故意に破壊しないようにするというのは、貧しい家庭の多くが贅沢を敵とし、節約生活を美徳としているのだから何ら珍しくないと、世の人は思うことだろう。物を壊したら修理や買換で出費を招くのだから。
しかし、それ以上に、私の父は物作りの人間だったから、我が家では「人が作った物を故意に破壊する」という行為は「それを作る仕事に実際に従事した労働者の誇りを踏みにじる、恥ずべき悪徳。卑しい振る舞い」と両親から教育された。「人間として、卑しい真似をするな」というのは、両親が口を酸っぱくして常々私に言い聞かせてきた言葉だ。
私はテニスをしたことは無いが、聞いたところによれば、テニスラケットの価格は一般人が使用するものでも数万円以上はするものらしい。それを叩きつけて破壊するというのだから、何とも豪勢で贅沢な話である。金は天下の回りものと言うが、その順回路に今も昔も含まれていない我が家からすれば、数万円もする物を自分の手で故意に叩き壊すことなど、夢のまた夢である。
それとも、こんな私でも、何かの弾みで大金持ちになったとしたら、ひょっとしたら数万円のものを簡単に壊すようになるのだろうか。その物の向こう側に存在する、それを作った労働者の存在を忘れて。
私は、彼女がテニスラケットを平気で叩き壊す姿を見ると「ひょっとしたら彼女は、物を作る労働者階級の人間のことを、自分と同じ『人間』と思っていないのではないか?」という思いを拭えない。
おそらく彼女も、最初から何億円もの賞金を稼ぐトップアスリートではなかったはずである。人生のどの時点で、彼女は何万円もするテニスラケットを心置き無く壊すようになったのだろうか?それを壊せるようになった時、彼女は「こんな贅沢もできるぐらい、自分は金持ちになったのだ」と誇りに思ったのだろうか?
たとえ何億円もの賞金を稼ごうとも、物を作る労働者の誇りなど知らぬと言わんばかりにテニスラケットを破壊する彼女の姿は、私の目には非常に卑しく見える。
某議員の「種の保存」発言には腹立つところもあるけど、マジョリティ側の感覚でいくとおおよそ正しいんだろうなと思う自分がいる
かと言ってLやGの人は同性婚を認めないからって異性婚しようとは思わないわけで
異性婚と同性婚を同列に扱われるのが嫌だ、って言ってる人もいるらしいですが、それって何が問題なのでしょう?
無意識に同性愛者を見下してるからそういうこと(=異性婚である意味がなくなる)が言えるのではないですか?
あと、T(トランスジェンダー)について
政に関わる人がまさか性別移行者の分類もできずにLGBT法案がどうこうって言ってるわけじゃないですよね
好きで性別移行してる人と性別移行せざるを得ない人を一括りにしてませんよね?
まずもって、トランスセクシャル(性同一性障害)当事者の多くは性別適合手術をしないうちから性別移行後の浴場に入ったり、スポーツで無双してやろうなどとは考えていないはずです
スポーツ界の件については性同一性障害MtF(男性から女性への性別移行者)への懸念かと思われますが、
総じて、身体的違和感の強い当事者は基本的に身体が思わぬ方向へ成長するのを忌避します
なので、MtFならば、身体を鍛えるなんてことしたくない、と考えるのが普通なのではないでしょうか
例えば握力なんて右18kg/左15kgしかなく、
10kgのお米でも両手で抱えて持つのがやっとです
私の場合は極端かも知れませんが、これでも生来の女性に比べて筋力が優れている、と言えるんでしょうか
でも確かに、アスリートとしてやっていく前提で性別移行後に鍛えていたら有利になるのかも知れませんけど、
そこは内部的にハンデを入れたりで調整すればいいのでは?と思ったりします
(そうなると、当事者に対するハンデを一律にすることで別の問題が出そうではありますが)
浴場問題については、今回の法案には盛り込まれてはいないですが、性別移行なしでの浴場利用が合法化されてしまうと悪用する男性が後を絶たないと思います
身体違和があって性別移行する当事者なら、性別移行前の身体を他人……異性にも同性にも晒したくないと思って当然ですし、
「一流の選手」って誇り高くプロみたいに語ってるけど、二次創作である以上誰かが作ってくれた世界観とキャラクターのゲタ履いといて「一流の選手」もクソもなくない?
例え物凄く名文の、名作の、素晴らしいものが出来たとしても、ゼロから作った誰かの世界を借りて遊んでるだけじゃないか
その努力は無駄じゃないし、ゲタ履こうと面白いものは面白いけど、作った本人が「私が作ったものです!クオリティ!一流の創作者!」って鼻高々だったら滑稽にプライド高すぎる
100%赤の他人が作った世界に依存していて、他人の作った世界の延長線でしかないじゃないか
ましてや公式のノベライズみたいに、プロとして誰かの意見を聞いて取り入れるプロセスや労力も経てない、趣味人がひとりで好き勝手にやるだけの自己満足なのに
他人の世界に依存して、ひとりで好き勝手書いてる以上プロじゃない
アスリートじゃないんだよ、その「すりむいた傷」も含めて「趣味」、娯楽の一部でしかない
その作家気取りの高いプライドを捨てて、「他人のゲタ履いて作家ごっこしてるけど、ごっこだとしてもいいものは作りたい、『本気の遊び』だ」って思えれば、高くなりすぎたプライドをどうにか処理してまた書けるんじゃない
自分を「一流の創作者でありたい」と思ってるから身動き取れなくなってるみたいだし