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2010-10-10

バイトが決まった!!

昨日、長い長いバイト探し生活に終止符を迎えた。ついに。

4月にやめた塾のバイト最後バイトを探し続け、面接を受けては落ちる、そんな毎日を繰り返していた。

最初はただ気軽にすぐ見つかるだろうと思っていた。

正直、それまでバイトなんて履歴書書いて、はいはい言ってれば受かるもんだとさえ思っていた。

しかし今回は違った。

何がおかしいのか、どこを受けてもどうやっても、これでもか、というほど落ちた。

面接回数が2桁を超えたとき、俺はもう数えるのをやめた。

気づけば休日バイト面接日で埋まっている。

これはさすがにヤバいと焦り、自分磨きが始まった。

何が悪いのかを徹底的に調べ、自分欠点リストアップし、ネット、友人、雑誌テレビ、すべてから情報を集めた。

その結果、大学一年にして、髪型を黒&新社員カットにし、ファッション、文字、姿勢言葉、すべてに力をいれた。

それでも落ちた。それでもう、バイトは選ばないと決めた。

というのは、職種はもちろん、場所、時間、そして時給という面でも。

カラオケ居酒屋ファミレス、事務、カフェモール、バー、・・・たとえ時給が800円でも喜んで受けた。そして落ちた。

あのころの俺はまさにハイエナのごとく求人サイトに職があがっては、喰らいつくように申し込んでいた。

この就活ならぬ、バイ活は俺の精神をトコトン追い詰めていった。最初は笑えたこの手の自虐ネタも次第に言えなくなり目が笑えなくなっていった。

そんな俺を見兼ねてか、本気で心配しだしてくれた周りの友人たちは

俺をボイスなり、メールなり、飲み会なりで、会う人会う人みんなが励ましてくれた。

それでもその時期ちょうど彼女と別れていたということもあり、面接に落ちて家に着き、ひとり夜を迎えると不満だけが蓄積していった。いくら励まされても気がヘンになりそうだった。

周りの期待を裏切るような考え方をしてしまう自分がふがいなくて、軽い欝症状というか、常に腹の中が分からない何かに対して煮えくりかえるような、そんな気持ちだった。

普通の人にこんなことを言ったら鼻で笑われるかもしれないが、当時、本当に死にたい気持ちでいっぱいだった。

それは同じ時期にバイトを探していた後輩(♀)が、バイトに受かったことが大きな要因だった。

俺がバイトを探して4ヶ月位の頃だろうか。後輩が新しいバイトを始めたという。おれは少しでも受かる参考がほしかったため、話をきいた。すると彼女は、そこの店長男性で、はじめは無難な質問、応答をしていたのだという。そして最後の質問が

彼氏いる?』というものだったそうだ。

あいにく彼氏のいなかった後輩は、そう答えると『はい、採用。』といわれた。

しかし、後輩は初日でバックれたのだった。彼女は今まで一度も面接に落ちたことがなく、なんとなく

面接の段階でダルくなっては初日でバックれて新しいバイトを探しているのだという。

それにくらべ俺は、落ちては自分で考え、ヘラヘラしろと助言があればヘラヘラ不採用、素の真面目なままでやってみろと助言されれば、真面目にやり、雇用者に『作っているだろう?』といわれる。もうどうすればいいのか分からなかった。

べつに世の中が理不尽なのは今に始まったことじゃないが、この時ばかりは死にたくなった。

俺は男だからバイトに受からないのか。見た目で判断されてしまうのか。そもそも特定の資格を必要としない、誰でもできるバイトにさえ落ちるということは、俺は社会から必要とされていない、存在すら許されないクズなんじゃないかと思った。で、

クズかどうかはこの無秩序な社会が決めることで、俺にはもうどうしようもないのだ。とさえおもった。

バイ活にすら手こずっている俺に、これからあと数年でくる就活という大きな壁を超えられるのだろうか。否、死のう。

これがその時浮かんだ結論だった。

でも、もしここで死んだらバイトが受からないだけで死んだと思われるんじゃないか?

そうおもい、どこかシャクだったので生きている。(言い訳に聞こえるかもしれないが)

今月、10月のはじめ、転機は訪れた。この頃にはもう社会に失望し、自分磨きバカバカしく感じていたのでやめていた。

金もない、職もない、彼女もいない。こんな自分を誰が見ているというのか、自分は背景画にすらならない、むしろ景観を汚す意味のないものだ。と常に思っていた。

そんな俺の元に一本の電話が入った。『飲み会の誘いならカネ無いから行かないよ。』そう思って、電話にでると友人が

とあるバイト求人広告を見たので紹介してくれるという。俺はさっそくメモを準備し、電番を書いた。そしてすぐ面接を申し込んだ。

面接ではいままで様々な人から聞いたアドバイス研究研究を重ねた洗練された受け答えを惜しみなく、何一つ余すとこなく出し切った。自分の中では完璧なやりとり、後悔はない。

これで落ちたら、本当に死のう。青木ヶ原に素直に行こう。あの周辺のことを採用連絡が入る予定の日まで調べていた。

そして、受かった。友人に感謝したい!という気持ちよりも死ななくて済んだ・・・という気持ちが大きかった。最低である。しかし、友人には本当になんとお礼をいえばいいのかわからない。本当に色んな意味で助かった。

ここまでで約半年が経過していた。たとえどんなバイトだろうとやめようとは思わない。たとえいじめられようが掘られようが、クビになろうが職場に行くつもりだ。そして社会自分の利用価値証明していきたい。そして、何十連敗もしている俺を受け入れてくれたこの職場にせめてもの恩返しの意味で、自分の出来る限りをつくし売上を上げていけるよう貢献をしていくつもりだ。

来週の木曜には本社研修がある。楽しみだ。

2010-09-01

http://anond.hatelabo.jp/20100831232446

都心部はアスファルトだらけで、つばが他の都市より目立ちやすいってのがある気がする。

田舎なら、畑とかグラウンドとか草むらとか河川敷とかにつばを吐くのはそんなに目立たないし、そんなに景観を乱さない気がする。

だから美意識の問題でもあると考える。

2010-08-31

トカイとイナカとジャスコ

ずっと「トカイ」にいかなければと思っていた。

育った町は関東に位置している田舎だ。電車に乗れば東京まで一時間半か二時間程度の場所だが、それでも十分田舎だった。電車を目の前で逃すと一時間は待たなければならない。隣駅は無人駅で、最寄駅は7時にならないと自動券売機切符が買えない。バスに至っては二時間来ないこともざらだ。終電や終バス時間も早く、夕方差し迫ってくれば、乗り継いで行った先の終電のことを考えなければならない。東京は近くて、でも遠い街だった。

電車に乗ってあの町が近づいてくると、見渡す限りの田んぼとその中をうねうねと伸びる農道が見える。街燈がぽつぽつとしかない道を闇におびえながら全力疾走で駆け抜ける夜も、夏になると井戸からくみ上げた水が滔々と流れる用水路も、稲穂の上を渡る金色光る風も、その中を喜んで走る犬も、道端で干からびている車にひかれたイタチも、うっそうと道上に生い茂り時々大きな枝を落としている木々も、なにもかもが呪わしかった。どこへ行くにも車がなければ不便で、こじゃれた店は大規模なショッピングモールの中にしかない。それで、中高生はいつもそこに特に理由もなくたむろしていた。

みんな都会に行きたかったのだ。すぐにつぶれてしまう店も、郊外型の広い駐車場も、市街地から外れればとたんに何もなくなって農耕地だけになるニュータウンも、なにもかも厭わしかった。私たちはたまに触れるなにか新しいものを含んだ風にあこがれ、騒がしい日常を羨み、便利さに憧憬を抱いた。都会に行かなければいけない、という思いはまさに呪縛だった。こんな田舎にいてはいけない、田舎はつまらなく、古びていて、垢抜けない。だから都会に行かなくてはいけない。

高校卒業するとともに私を含めほとんどの友人は都会へと向かった。何人かは都会に住みかを確保し、住みかを確保できなかった人たちはどこかに拠点を確保して、毎日時間もかけて都会へと通った。

私は住みかを確保できた幸運な一人だ。山の手のかたすみにある、静かな住宅地最初下宿はあった。学生用の木造二階建ての、半分傾いたアパートだ。四畳半風呂がなく、トイレ玄関は共同だ。同じ値段を出せば、田舎では1DKが借りられる。しかしそんな場所でも、私にとってそこは「トカイ」だった。

トカイでは駅までの道に田畑はなく、駅では10分も待たずに電車が来る。どの駅でもかなりの人々が乗り降りし、夜が更けても街燈が一定の間隔で並んで夜を追い払ってくれる。月明かりに気付く余裕をもって往来を歩けるほどの安心が都会にはあった。そのくせ、私が慣れ親しんできた大きな木々や古い河の跡や、四季はきちんとそこにいて、祭りがあり、正月があり、盆があり、そうやって人々は暮らしていた。盆正月は店が閉まってしまうということを知ったのも都会に出てからだった。

都内にありながら広大な面積を有する大学の中には山があり、谷があり、そして池があった。そこにいると、田舎のように蚊に襲われたし、アブラゼミミンミンゼミくらいしかいないとはいえ、蝉の声を聴くことができた。近くに大きな道路が走っているはずなのに、喧騒はそこまでやってこず、昼休みが過ぎると静寂が支配していた。水辺で昼食をとるのが私は好きで、亀と一緒に日を浴びながらパンを食べた。

あるいは、田舎でそうしていたようにどこへ行くにも自転車で行き、アメ横からつながる電気街や、そこから古書街、東京駅サラリーマンの街あるいはおしゃれな店が並ぶ一帯までどこへでも行った。都会は平坦につながっているように見えるが、どこかに必ず境目があるのだった。境界付近では二つの街の色が混ざり合い、ある臨界点を超えると途端に色彩の異なる街になってしまうのが面白かった。その合間にもところどころ自然存在していて、いつからそこに植わっているのか知らない大きな木々が腕を広げて日陰を作り、その下にベンチが置いてある。くたびれた老人がその下に座り、コミュニティが形成される。それが私の見た「都会」だった。

山の手の内側で育ち、閑静な住宅街で育った人たちは、ここは「イナカ」だから東京じゃないという。私はそれを聞くたびに笑いをこらえきれなくなる。あなたたちは田舎を知らない。電車が10分来ないとか、駅まで10分くらい歩かなければならないとか、店がないとか、繁華街が近くにないとか、そんな些細なことを田舎だと称するけれど、田舎はそうじゃない。

田舎は不便だが、時に便利だ。車で移動することが前提だから、どこか一箇所にいけばだいたいのことを取り繕うことはできる。都会のように一つの場所に店が集まっていないせいで、あちこち足を運ばなければいけない不便性が田舎にはない。確かに近くに店はない。駅も遠い。でもそんなことは本当に全然大したことじゃないのだ。

大きな木が育っていてもそれを管理せずに朽ちていくばかりにする田舎邪魔になればすぐに切ってしまうから、町の中に大木は残らない、それが田舎だ。古いものは捨て、新しいもので一帯を覆い尽くすのが、田舎のやりかただ。昔からあるものを残しながら新しいものをつぎはぎしていく都会の風景とは全く違う。人工の整然とした景観があり、そことはっきりと境界線を分けて田畑が広がる区域が広がる。その光景あなたたちは知らない。人工の景観の嘘くささと、そこから切り離された空間の美しさをあなたたちは知らない。新しく人が住む場所を作るために農地や野原を切り開いて、道路を通し、雨になれば水が溜まる土壌を改良し、夏になればバスを待つ人々の日陰となっていた木々を切り倒し、そうして人工物とそれ以外のものを切り離していくやり方でしか町を広げていくことのできない田舎を、あなたたちは知らない。人々は木漏れ日の下に憩いを求めたりしないし、暑さや寒さに関してただ通りすがった人と話をすることもない。車で目的から目的地へ点と点をつなぐような移動しかしない。それが田舎なのだあなたたちはそれを知らない。

盆や正月田舎に戻ると結局ショッピングモールに集まる。友人とだったり、家族だったり、行くところはそこしかいから、みなそこへ行く。しばらく帰らない間に、高校時代によく暇をつぶしたショッピングモールは規模を拡大し、店舗数も増えていた。私が「トカイ」で足を使って回らなければならなかったような店が、都会よりずっと広い売り場面積で所狭しと並ぶ。それがショッピングモールだ。上野秋葉原新宿池袋渋谷原宿東京丸の内もすべて同じところに詰め込んで、みんなそこは東京と同じだと思って集まる。田舎は嫌だ、都会に行きたいと言いながらそこに集まる。

ABABというティーン向けの店でたむろする中高生を見ながら、私は思う。下町を中心としたチェーンのスーパーである赤札堂が展開しているティーン向けの安い服飾品を、田舎の人は都会より二割か三割高い値段で喜んで買う。これは都会のものから、垢抜けている、そう信じて買うのだ。確かにその服はお金のない中高生が、自分のできる範囲内で流行りを取り入れて、流行りが過ぎればさっさと捨てるために、そういう目的合致するように流通している服飾品だ。だから安い代わりに物持ちが良くないし、縫製もよくない。二、三割その値段が高くなれば、東京に住む若者はその服は買わない。同じ値段を出せばもう少し良いものが変えることを知っているからだ。田舎に暮らす私たちにとってのしまむらがそうであるように、都会に住む彼らにとって最低限の衣服を知恵と時間をかけてそれなりに見えるように選ぶのがABABだ。そのことを彼らは知らない。

ABABのメインの事業である赤札堂は、夕方サービスタイムには人でごった返し、正月が近づけばクリスマスよりもずっと入念にかまぼこやら黒豆やらおせち材料を何十種類も所せましとならべ、思いついたようにチキンを売る。あの店はどちらかというと揚げ物やしょうゆのおいがする。店の前には行商のおばさんが店を広げ、都会の人たちはそれを喜んで買う。若いこどもはそれを見てここは「イナカ」だという、そういう光景を彼らは知らない。田舎ではショッピングモールの商品棚のなかにプラスチックくるまれた商品があるだけだ。そうするほうが「トカイ」的で便利でコミュニケーションがいちいち必要いから、田舎人間はそれを喜ぶのだ。

そして私は「トカイ」という呪縛から逃れていることに気付くのだ。

どちらもよいところはあり、悪いところはある。便利なところはあり、不便なところもある。都会の人も「トカイ」にあこがれ、ここは田舎だというけれど、「トカイ」というのは結局幻想しかないということを、私は長い都会生活の中で理解したのだった。便利なものを人は「トカイ」という。何か自分とは違うと感じるものをひとは「トカイのものだという。それは憧れであり、決して得られないものだと気づくまで、その呪縛からは逃れられないのだろう。

「イナカ」はその影だ。「トカイ」が決して得られない憧れであるなら、「イナカ」は生活の中に存在する不便さや不快さや、許し難い理不尽やを表しただけで、「トカイ」と表裏一体をなしている。「イナカ」も「トカイ」も幻想しかない。幻想しかないのに、私たちはそれを忌み嫌ったり、あこがれ、求めてやまなかったりする。だから田舎はいやなんだというときのイナカも、都会に行けばきっとと願うときトカイも私の心の中にしか存在しない、存在しえない虚構なのだ


私はオフィス街の中で聞こえるアブラゼミの声が嫌いではない。でも時々その声が聞こえると、田畑を渡る優しく澄んだ夕暮れ時の風を思い出す。竹の葉をすかす光とともに降り注ぐ、あの鈴の音を振るようなヒグラシの音が耳に聞こえるような気がする。




補記:母は東京イオンがないという

記憶の片隅に、一面に広がる田んぼと、稲穂の上で停止するオニヤンマの姿が残っている。

父方の田舎は、人口の一番少ない県の市街地から車で一時間半かかるところにあった。周りは山と田畑しかなく、戦前から10軒もない家々で構成される集落だ。隣の家は伯父の家だったはずだが、確か車で15分くらいかかったと思う。幼いころにしかいなかったので記憶はもうほとんど残っていない。免許証本籍地を指でなぞるときにふと頭の中によぎる程度だ。父はあの田舎が嫌いで、転職と転勤を繰り返して、関東に居を構えた。あの村で生まれて、育ち、その中から出ることもなく死んでゆく人がほとんど、という中で父の都会へ行きたいという欲求と幸運は桁はずれだったのだろう。時代が移り変わって、従兄弟たちはその集落から分校に通い、中学卒業とともに市街地へ職や進学先を求めて移り住んでしまった。今はもう老人しか残っていない。日本によくある限界集落の一つだ。

引越をした日のことは今も覚えている。きれいな街だと思った。計画的に開発され、整然と並んだ町並み。ニュータウンの中には区画ごとにショッピングセンターという名の商店街があり、医療地区があり、分校ではない学校があった。電柱は木ではなくコンクリートだったし、バスも来ていた。主要駅まではバスで40分。駅前にはマクドナルド本屋ミスタードーナツもある。旧市街地門前町として栄えていたところだったから、観光向けの店は多くあったし、交通も車があればどうとでもなった。商店に売られているジュースは何種類もあったし、本屋に行けば選ぶだけの本があった。子供の声がして、緑道があり公園があり、交通事故に気をつけろと学校では注意される。

バブルにしたがって外側へと広がり続けたドーナツの外側の淵にそのニュータウンは位置しているが、新しい家を見に来たとき、祖父母はすごい都会だねぇと感嘆混じりに言った。

父は喜んでいた。田舎には戻りたくない、と父はよく言った。都会に出られてよかったと何度も言った。ニュータウンにはそういう大人がたくさんいた。でも、都心で働く人々にとってニュータウンは決して便利の良い町ではなかった。大きな書店はあっても、ほしいものを手に入れようとすると取り寄せるか、自分都心に探しに行くしかない。服屋はあるけれど、高いブランド物か流行遅れのものしかない。流行はいつも少し遅れて入ってきていた。都心に日々通う人たちはそのギャップを痛いほど実感していたに違いないと思う。教育をするにしても、予備校や塾は少なく、レベルの高い高校私立中学もない。食料品だけは安くて質のいいものが手に入るが、都会からやってくる品は輸送費の分、価格が上乗せされるので少し高かった。都会からじりじりと後退してニュータウンに落ち着いた人々にとって、言葉にしがたい都会との微妙時間的距離は苦痛だったのだろう。

子供にはなおさらその意識が色濃く反映された。簡単に目にすることができるからこそ、もう少しでつかめそうだからこそ、都会は余計に眩しいものに思えた。引力は影響を及ぼしあうものの距離が近いほど強くなるように、都会が近ければ近いほどそこへあこがれる気持ちも強くなるのだ。限界集落にいたころには市街地ですら都会だと思っていたのに、ずっと便利になって都会に近づいた生活の方がなぜか我慢ならない。

そして子供たちは大きくなると街を出て行き、後には老人だけが残った。さながらあの限界集落のように、ニュータウンもまた死にゆこうとしている。幸運なことに再び再開発が始まっているようだが、同じことを繰り返すだけだろう。

祖父母にとって東京得体のしれないところだった。東京駅に降り立った彼らは人込みの歩き方がわからず、父が迎えに来るまでじっと立ちつくしていた。若いころだってそうしなかっただろうに、手をつないで寄り添い、息子が現れるまで待つことしかできなかった。そういう祖父母にとってはあのニュータウンですら、生きていくには騒がしすぎたのだ。あれから二度と都会へ出てくることはなく二人とも、風と、田畑と、山しかないあの小さな村で安らかに一生を終えた。

たまに東京に出てくる父と母は、あのとき祖父母が言っていたようにここは騒がしすぎて疲れる、という。どこへ行くにもたくさん歩かなければならないから不便だと言う。車で動きにくいから困ると言う。智恵子よろしく母は、東京イオンがない、と真顔で言う。私が笑って、近くにイオン系列ショッピングモールができたし、豊洲まで出ればららぽーともある、といっても納得しない。田畑がない、緑が少ない、明るすぎるし、どこへ行っても人が多い。すべてがせせこましくてあわただしくて、坂が多くてしんどい。それに、とことさら真面目な顔になって言う。犬の散歩をする場所がない。犬が自由に走り回れる場所がない。穴を掘れる場所もない。彼らはそう言う。

あんなに都会に出たいと願ってやまなかった若いころの父と母は、あのニュータウン生活に満足し、さらに都会へ出ていくことはできなくなったのだ。それが老いというものかもしれないし、身の丈というものなのかもしれない。生きてゆくべき場所を定めた人は幸せだ。幻想右往左往せず、としっかりと土地に根を張って生きてゆくことができる。

私の住む東京千葉の境目も、不満に思う若者は多いだろう。都内はいっても下町からここは都会ではない、と彼らは言うかもしれない。都下に住む人々が都会に住んでいない、と称するように自分たちの住む街を田舎だと表現し、もっともっとと願うのかもしれない。引力は近づけば近づくほど強さを増すから逃げられなくなるのだ。でも、もしかすると、都会の不便さを嫌って、彼らは田舎志向するかもしれない。一つのところへ行きさえすれば事足りる、点と点をつなぐだけの便利な生活。地をはいずりまわって丹念に生きる必要がある都会と違って、郊外は行く場所が決まっているし、ネットがあればなんとかできる。彼らには、私たちが引力だと思ったものが反発力として働くかもしれない。未来は分からない。

それでもきっといつかは、みんな、どこかに愛着を抱くか、よんどろこのない事情で立ち止まるしかなくなるのだろう。祖父母がそうであったように、父と母がそうであるように、どこかに満足して、ここ以外はどこにも行きたくない、と主張する。それまではきっと都会と田舎という幻想の間を行き来し続けるのだ。

成田に育った:http://anond.hatelabo.jp/20080929192856

2010-08-23

建築基準法

建築基準法

昭和二十五年五月二十四日法律第二百一号)

最終改正:平成二〇年五月二三日法律第四〇号

 第一章 総則(第一条―第十八条の三)

 第二章 建築物の敷地、構造及び建築設備(第十九条―第四十一条)

 第三章 都市計画区域等における建築物の敷地、構造建築設備及び用途

  第一節 総則(第四十一条の二・第四十二条

  第二節 建築物又はその敷地と道路又は壁面線との関係等(第四十三条―第四十七条

  第三節 建築物の用途(第四十八条―第五十一条)

  第四節 建築物の敷地及び構造(第五十二条―第六十条

  第四節の二 都市再生特別地区(第六十条の二)

  第五節 防火地域(第六十一条―第六十七条

  第五節の二 特定防災街区整備地区(第六十七条の二)

  第六節 景観地区(第六十八条

  第七節 地区計画等の区域(第六十八条の二―第六十八条の八)

  第八節 都市計画区域及び準都市計画区域以外の区域内の建築物の敷地及び構造(第六十八条の九)

 第三章の二 型式適合認定等(第六十八条の十―第六十八条の二十六)

 第四章 建築協定(第六十九条―第七十七条

 第四章の二 指定資格検定機関

  第一節 指定資格検定機関(第七十七条の二―第七十七条の十七)

  第二節 指定確認検査機関(第七十七条の十八―第七十七条の三十五)

  第三節 指定構造計算適合性判定機関(第七十七条の三十五の二―第七十七条の三十五の十五)

  第四節 指定認定機関等(第七十七条の三十六―第七十七条の五十五)

  第五節 指定性能評価機関等(第七十七条五十六・第七十七条の五十七)

 第四章の三 建築基準適合判定資格者の登録(第七十七条の五十八―第七十七条の六十五)

 第五章 建築審査会(第七十八条―第八十三条)

 第六章 雑則(第八十四条―第九十七条の六)

 第七章 罰則(第九十八条―第百六条

 附則

   第一章 総則

目的

第一条  この法律は、建築物の敷地、構造設備及び用途に関する最低の基準を定めて、国民生命健康及び財産保護を図り、もつて公共の福祉の増進に資することを目的とする。

2010-08-21

妥協とかクソじゃね

街は50年代、60年代、70年代、80年代、90年代最近流行にあわせた都市景観が雑居してるんだけど、気持ち悪い。統一的な雰囲気を維持しようって気はないのかね。死ねばいいのに。あと、そういう景観が、強者の都合で決められたり、滅ぼされたりするのがむかつく。妥協とか誰も面白いと思わないだろ。特定の正しいと思える価値観で支配されるのが面白いんだろ。妥協は死ねよ。

2010-07-20

起きて半畳寝て一畳、缶詰の如き部屋は暗い。

味気のない味付け鰯に成り果て、夢も希望も無い俺は夢うつつのまま、湿る布団から起き上がるなり、

日曜の朝に延髄蹴りを食らわしたつもりが壁に足を打った。本当に辟易としている。

こんな足の指の痛みにも、慰めにもならない僅かな休日にも。それらに誤魔化される俺にも。うんざりだ。


昼は近所のハンバーガー屋に向かった。

洋風肉挟みパンの類など滅多に食わない俺は、店に足を踏み入れると、爽やかで騒がしい音楽や複雑な注文形式に戸惑った。

暖色の制服に清潔なエプロンを引っ掛けた笑顔の奴さん、開口一番「店内でお召し上がりですか?」言うに事欠いてこれだ。

前言を翻訳すれば(お前みたいなドブ臭い下種がミーのハイセンスな店内で犬食いしてると美的景観を損ねるから

買うもん買ったらさっさとお引取り願いたいのだが、どうだね?)となる。明らかに。

勿論、俺だって人間の端くれ、恥や理性の欠片くらいは残っている。分相応に野良で食うさ。いいえ。

間髪入れず俺は「チーズバーガー」と一言。そこへ奴さん笑いながら、被せるようにして清涼飲料や揚げ芋なんかを勧めてくる。

他人様の食生活に干渉してまで売り上げを伸ばしてえのかくの社畜め、とは口には出さず、

口に合いもしない身の丈に似合いもしない「ポテトジンジャエール」を追加した。

この紙袋、右手に温かく、左手に冷たい。


―――先週の日曜日の事だ。

総合家電量販店の個室トイレに入って屁を捻り出していた俺は、

蛍光ピンクチョークでドアに大きく書かれた《それ》に度肝を抜かれた。

 《イケメンチーズバーガーをぶつけると死ぬ》

全く意味が分からない。

ただ、その呪詛めいた断言が、全く根拠の無い為に却って凄まじい説得力を持ち、

トイレットペーパーが彫刻刀となって頭骸骨の内側に透かし浮き彫りされた。

俺のウンコ同然の自意識が、人々の青春幸福といった光明に晒される度に、

腹の底で波打つコールタール状の胆汁に、火傷のような二十文字を打ち込んだ。―――


本当かどうか、試したくて堪らなかった。

だが、チーズバーガーを手に入れ、いざ実行出来る体勢が整うと、はたと思い止まった。

公衆電話の上からドバトが言った(怖気付いたか馬鹿者よ)いいえ。

そのイケメンとやらには、何の縁も恨みも無い。

通りすがりの該当者に実験の協力を仰ぐ事も出来るが、もし万が一、相手方を死なせてしまったら取り返しが付かない。

俺は殺人者になりたい訳ではない。事の真偽を確かめたいだけだ。

しかし、死を勧めるに値する知人も憎悪する個人も居ないからには、手近で試す事が出来ない。

ここは(古今の開拓的科学者達がしばしばそうしたように)自らを実験体とする他に術は無い。


近隣公園に着き、脚部が太いスプリングになっている青い馬に跨った。

紙袋からチーズバーガーを取り出し、柑橘類の皮を剥く要領で包み紙を開いた。

食欲をそそる匂いカタチ温度のソレを、空中に向けて低く放った。

頭上を見上げながら、空に跳ねっ返るソレ、落下地点に照準を合わせて首を体を傾けた。

息を飲んだ。

目を瞑った。

当たった感触。

どうなったか。

目を開ける。

地面には二つに割れたパンが転がり、チーズのついたハンバーグが砂まみれになっていた。

何より、俺は生きていた。

この結果から、いくつかの可能性が考えられる。

まず「俺が《イケメン》という条件に該当しなかった」か(これは当然の大前提だが)、

あるいは「この《チーズバーガー》とは違う《チーズバーガー》でなければならない」か、

そもそも「《イケメン》は《チーズバーガー》が当たっても死なない」のか、色々と仮説が立てられる。

ただ一つ確実に立証されたのは「俺にチーズバーガーをぶつけても死なない」という事だ。

本当にどうでもいい。一体何をしているんだ。青馬を嗾けて、前後に揺れた。何も進まない、何も起こらない。

非道く悲しくなって、俺は泣いた。


汚れたパンとチーズハンバーグを拾い、雑に整形して紙袋に入れた。

帰り際、生け垣の中からドバトが言った(思い知ったか馬鹿者め)はい。

どんなに有り得ない事だと思っても、誰かに言われても、笑われても、

こうして一つずつ着実に確かめていくしかない、誤魔化しの利かない現実に俺は味を占めた。

2010-07-14

日本学歴社会だろ

学歴社会の中で景観ファッション改善されただけであって容姿社会なんてきてないよ。

2010-03-26

ムカつくもの

笑いの金メダル。つまらない芸人寒いキャッチコピーで紹介されるのとか、女ばっかの観客の声のとか、進行女子アナの「おおわらいで~す!」とか。ぶっとばしたくなる。

ボランティアとかやっちゃってる大学生私大だとさらに。勉強して国公立いっとけよ、浮いた授業料ユニセフにでも寄付しておけ。

あとファッション紙とかムカつく。ガーリー(笑)キッチュ(笑)こいつら頭おかしい。http://kw.allabout.co.jp/glossary/g_fashion/w006353.htm解説読んでも理解できない、キモい

ドンキホーテ。クソごちゃごちゃした店内を歩いて、無条件で腹の立つ手書きっぽい値段ポップを見たらさして値段も安くないのに、

近所のスーパーを名指しで徹底価格抗戦とか言っててなりふり構わない感じが生理的に無理。ペンギンキャラとか、本当消えてほしい。

都市景観を無視した看板の下で、DQNカップルたばこ吸ってるのとか言うまでもなくムカつく。

電車で足閉じない男。テメェだよテメェまじでちぎれろ金玉潰れろ。スカートの裾広げて座る女、お礼を言えないお年寄り携帯鳴らすのも音漏れしてんのも全員万死に値する。

子供が土足で座席に立ってるのに注意しない親もいいね、子供の将来が楽しみだ。可哀そうだね。

電車バス。車。自転車。徒歩。外。家。店。どこに行っても何をしててもムカつくよ。みんな死ねばいいのにな。

そしたらとってもすっきりだ、きもちいいよ。

日傘を盗んだお前と今日自転車を盗んだお前はじわじわとなぶり殺しにしてやるよ。本当もう、世の中がにくいね。

2010-02-14

おもったこと。

http://anond.hatelabo.jp/20100213044616

 TOKYO人口は3300万人(東京都、とすると、23区だけの認識で830万人しかいないのだけど、TOKYO districtとすると周辺地域が含まれる、らしい)

 ソースはここ。http://amolife.com/great-places/top-10-largest-cities-in-the-world.html とか、他にもあるが割愛。

 これらのサイトからすると、東京世界で一番大きい街。二位のソウルは2300万。6位のNYですら2100万で断トツで多い。

 子供の頃、NYとかもっとデカイ街かと思ったら、 行ってみたら東京の方が大きいと思った。

 

 

 東京が凄いなあと思うのは、その密度でありながら、ヨーロッパの街の大きい街と同じ様な連続性があると言う所。ヨーロッパの街て、小さくまとまる代わりに、一つ一つの街がとても濃い。街の中心から45分くらい車で行くと、街の終わり畑の始まりのような地点に行く。こじんまり。 東京だと街の中心から30分じゃその端まで行けない。ヨーロッパ首都や国を代表する都市レベルになると、ちょっと場所をずらすと金持ち達の街だったり、貧民区だったり 若者の街だったりそういうのが凝縮されている。だけど、このレベルの街になると、有名なスポットスポットの間にも「駅前のエネルギー」があるなあと思った。ヨーロッパ大都市は一つもランクインしてないけれど、ある程度有名な都市になると、人口は全く少ないにも拘わらず大抵多種多様文化を持ち合わせる事が出来るような凝縮度がある、と思う。

 大阪にその凝縮度は無いとは決して思わない。人口も凄く多い。この上のサイトで行くと、大阪世界11位

 ただ、東京比較して大阪の町の景観空間の持たせ方には余裕があるなあと思う。

 所謂若者の集まる心斎橋東京渋谷だと、やはりちょっと雰囲気が違う。

 町の中の歩き回る距離も随分心斎橋の方が多いように思える。自分が慣れてないからかも知れない。

 

 と東京で育って大阪でちょっと暮らしていてヨーロッパにも暮らした経験から言ってみる。

 私もヨーロッパの街というものを知りたくて、ヨーロッパに住みました。

 街を知るにはそこに住んで、生活インフラを色々攻略していくのが楽しかった。

2010-01-22

http://anond.hatelabo.jp/20100122125330

そもそも消費や景観のために不細工とか言っているわけないだろ

理由となっていないことを否定しても不細工という言葉を否定は出来ない


まぁ一般に言われている容姿差別恋愛就職が多いと思うけど

恋愛なら個人に選択の自由があるし

容姿は異性の魅力として社会心理学的にも示されているから

合理的な目的性を有するから差別じゃない

就職の場合は容姿が合理的な目的性を有することは少ないし

私企業にも多少は公共性を求められるからグレーゾーンかもね

でもイケメン不細工って言葉恋愛に関して用いられることが圧倒的に多いと思うし

そもそも差別は基本的に変更が困難な性質に対するものだけど

容姿なんて整形せずともある程度は変えられるんだからそおれを差別というのはおこがましい


そして何度も消すな

2009-11-14

http://anond.hatelabo.jp/20091114183306

あとヨーロッパアメリカ製品の質は

ブルジョワ向きを除き大抵質は悪い。

せいぜい住宅景観で負けているくらい。

でも日本のほうがGDPで負けているか同レベルなのは

質の良さをGDPとしてカウント出来ていないって事。

全部陳腐化と関わってる。

2009-11-10

数は力。

イタリア人の反中感情が爆発寸前で、中国人の身が危険。 「グレーゾーンでの商売やめろ」

ttp://aresoku.blog42.fc2.com/blog-entry-1449.html

102 名前ノイズo(dion軍)[] 投稿日:2009/11/07(土) 02:47:41.18zXgQhtdO

中国人移民に飲み込まれるヨーロッパ大陸

しかしながら、中国マフィアフランスで息絶えたわけではない。

その定着ぶりは今日ヨーロッパ規模のものとなっているのだ。

三合会とも呼ばれる彼らにとってこの旧大陸は、

あらゆる種類の不法行為を行うための絶好の場となっている。

麻薬取引、売春賭博や、不法移民組織管理などだ。

これらマフィアのなかには、広東系の14Kや、香港最大の非合法組織

であるSunTeeOnも含まれる。

国際的な広がりを持ったこの種のギャングたちの力は、

あらゆる大陸に及んでいる。

ロンドンからはじまり、アムステルダムマドリッドベルリン

そしてパリに至るまで、ヨーロッパ首都で彼らの影響力と

無縁のところは皆無なのだ。

現在ヨーロッパは、「孔子作戦」という名の

三合会撲滅計画を用意している。

だが、彼らの暗躍に対する戦いは簡単ではない。

分かりにくさこそ、裏社会の特徴のひとつであるからだ。



103 名前ノイズo(dion軍)[] 投稿日:2009/11/07(土) 02:49:30.83zXgQhtdO

中国人移民に飲み込まれるフランス

フランスではここ最近中国からの密入国が爆発的に増加している。

ロワシー空港の待機ゾーン現在、最も数が多いのが中国人なのだ。

2003年国境逮捕された12000人足らずのうち4000人、

すなわち約35%がこの中華帝国出身者で占められていた。

なぜ中国人なのか? 年率9パーセントの成長を遂げているとはいえ、

中国経済発展はまた、給与生活者にとって最低限必要なものを保障

していた古くからの仕組みを破壊した。その結果、市場経済への移行は、

赤字国営企業の閉鎖により仕事を失った社会階層からの移民

も産んでしまったのだ

フランス当局は、このような移民にとりわけ不安を抱いている。

中国人社会の一部がはびこらせた地下経済が、予算担当者を驚愕

させるほどの額に上る税金逃れの窓口となっているのだ。

最新の調査によると、毎日約50万ユーロが、不法な、あるいは

入り組んだ銀行ルートを経由して中国へ送られるという。

内相は、このような金額の背後に、30万にものぼるフランスにおける

中国人社会の存在があるとする。

ラジオフランスアンテルナシオナルHPより



104 名前ノイズo(dion軍)[] 投稿日:2009/11/07(土) 02:50:31.28zXgQhtdO

中国人移民に飲み込まれるスペイン

一攫千金夢見て欧州を転々 スペインで急増する中国人移民

 スペインでここ数年、大きくクローズアップされている問題のひとつ移民

なかでも中国人移民の急増だ。

中国人スペイン人の利害の対立が、

中国人業者の靴倉庫焼き払いに発展する事件も起きている。

また、中国人移民には不法入国者も少なくないため、

彼らの入国をあっせん裏シンジケートの暗躍に関する報道も目につく。

彼らは何を求めて、はるばるヨーロッパの西端にまでやってくるのだろうか



105 名前ノイズo(dion軍)[] 投稿日:2009/11/07(土) 02:52:47.91zXgQhtdO

中国人移民に飲み込まれるイタリア

中国人移民イタリアミラノで暴動

ヨーロッパ , 宗教文化 , 移民問題

最近ヨーロッパで暴動があったというニュースを聞くとイスラム移民による暴動が

すぐ頭に浮かぶのだが、今回イタリアミラノで起きた暴動事件はなんと中華街

中国人移民によるものである。(Hat tip Occidentalism)

ことの起こりは商品を違法自家用車で運搬していた中国人女性が摘発され罰金

課されたことがきっかけだという。

100人以上の中国人商店街商人たちが中華人民共和国の旗を翻して人種差別

批判して暴れはじめた。

その結果10人の警察官が負傷しほぼ同数の中国人もけがをした。

日が暮れるまで続いた暴動では車は倒されるわ、警察バトンを振り回すわ、罰金

課された女性逮捕されるわ、で大変だったようだ。

イタリアでは現在11万4千人の中国人がすんでいるといわれるが、違法移民の数

もかなりあるため実際にはその倍以上だとされている。ミラノだけでも中国人

人口過去10年で1万2千にふくれあがっているという。

ローマプラト、タスカニーといった大都市でも中国人労働者の数は

かなり増えているようだ。

特にローマミラノでは中国人経営ビジネスが町の一画を完全に仕切っており、

中国産繊維類の運搬で付近の道がかなり混雑していたことから

普段から地元警察中国人商人との間でかなりの摩擦が起きていたようだ。



107 名前ノイズo(dion軍)[] 投稿日:2009/11/07(土) 02:54:08.09zXgQhtdO

中国人移民に飲み込まれるアメリカ

NYのチャイナタウンは、ウォール街から貳ブロック北にひろがる

キャナルストリート」(運河街)にある。

もともとは広東からクーリー貿易で移住してきた中国人労働者が開いた、

暗くて、雑多で猥雑な街である。

 華字誌がならび、世界日報華僑新聞も、そして『中国之春』も中華麺、

食材、卵、人参などと並べて売られている。

街のやや中央部にある「北京ダッグ」の名物店は行列ができるほどの盛況で、

コッチ元NY市長も食べにきた(この店はアルコールライセンスがないので、

酒は持ち込まなければならないのだが。。)。

 猛毒食品の非難囂々だったとき、チャイナタウンで「CHINA FREE」

中国産品、扱っておりません)のステッカーが張られていた。これは一種、

ブラックユーモア世界だが、アメリカ企業家の心胆を寒からしめる動きが、まだある。

 チャイナタウンの急膨張とそのはてしなき増殖ぶりの凄まじさは、すでにおなじみ。

北隣りのリットルイタリアをとうの昔に呑み込み(八年前に行ったとき、

すでにイタリア街にイタリア料理店は二軒しかなく、ほぼ九割が

中華レストランだった)、ブロードウェイの対岸ソーホー地区さえ中国人が呑み込んだ。

 ▼イナゴの大群のような不法移民

 イナゴの大群のように押し寄せる不法移民。それを合法化してグリーンカード

取得させる「辣腕」の弁護士たちが、これまたワンサカとチャイナタウンに蝟集し、

商売繁盛

この街を歩くと、あの大声を挙げて何かを叫ぶという阿鼻叫喚風景は、

まさしく広東の市場の雑踏にいるか、と錯覚するほどで、

ときおりみかける英語ポスターで、「いや、たしか、ここはアメリカだ」

と我に返るくらいなのだ。



108 名前ノイズc(新潟県)[] 投稿日:2009/11/07(土) 02:55:12.17fvaTXe2p

日本報道してみろ、中華朝鮮のの犬糞マスゴミ



109 名前ノイズo(dion軍)[] 投稿日:2009/11/07(土) 02:55:45.81zXgQhtdO

中国人移民に飲み込まれるカナダ

カナダトロントに出現した“チャイナタウン異変”

   あっという間に50万人のチャイナタウン景観を激変させてしまった

***************************************

 トロントは美しい街である。

いや「だった」と書くべきかもしれない。

 ポルトガル人、イタリア人、そしてユダヤ人街は、それぞれが典型のタウンハウスで、前庭には小さな噴水や花園があった。

一角は綺麗な風景で、朝夕、老人達が花々の手入れをしていた。

 中国人が、ある日、この一角に現れ、つぎつぎとタウンハウスを購入し始めた。過去一、二年で、40万人から50万人の中国人が住み着くようになった。

 瞬く間の出来事だった。

 最大の変化はなにか。購入したタウンハウスの前庭を、いきないコンクリートで潰して、空間の有効利用を始めたため、どの家からのガーデンが消えたことだ。

 トロント伝統的な街の景観を変えてしまった、とカナダでは大騒ぎになっている(多維新聞網、10月31日付け)。



112 名前ノイズo(dion軍)[] 投稿日:2009/11/07(土) 02:57:57.16zXgQhtdO

世界で唯一、品行方正な、日本在住の中国移民

世界中で猛威を振るっている中国移民 それは、まるでイナゴの大群のように思える

そして、どこの国においても現地住民と深刻な対立を引き起こしている。

中には、欧州に対してイヤガラセをする為に、

いったん自国に中国人を引き入れ、その後大量に欧州

送り出しているユーゴのような国もある。

しかし、世界で一ヶ国だけ、現地に溶け込んでいる中国移民がいる。

それは、皮肉にも、世界一先進国日本である。

日本においてだけは、他国で起きているような深刻な対立が生じていないのだ

理由についてはいくつか考えられる

日本は他の国と違い不信の社会ではないから

日本には人種差別がないから

日本人は親切で穏やかだから、素行の悪さを恥かしく感じるようになるから

日本語性格を穏やかに変えるから

中国本土の序列では日本在住の中国人最上位に位置付けられているから(*

・・・・・・など

本当の原因は不明だが、中国人日本での共生ぶりは驚異的であり

中国人対策に頭を悩ませている他国の責任者の関心を集めている。



123 名前ノイズn(東京都)[] 投稿日:2009/11/07(土) 03:15:51.838KJXEzkJ

>>112

中国人は気まずくなると「日本語ワカラナイ」で逃げる

波風立てない主義の日本人にとって、それでそこまでなんだよな

他の在日外国人もそうだけど



120 名前ノイズe(中国四国)[] 投稿日:2009/11/07(土) 03:13:39.19gBlgG776

イタリアミラノ中国人暴動

フランコさんのイタリア通信。

これからのミラノ、これからの中国

ttp://www.1101.com/francorossi/2007-04-17.html

ttp://dogma.at.webry.info/200704/article_13.html



130 名前ノイズo(神奈川県)[] 投稿日:2009/11/07(土) 03:25:26.24aLkUJuCD

>>120

これはおもしろかった

2009-10-07

鞆の浦差し止め判決マンセーだらけで気持ち悪い

はてな」辺りを見ていると、鞆の浦差し止め判決の住民側勝訴について

マンセー」な意見ばかりである。

元来、天邪鬼な小生は、皆が皆「マンセー」だと、気持ち悪く感じる。

八ツ場ダムのように「税金無駄遣いな公共事業はやめろ」というアプローチなら、まだ理解できる。

しかし、「気持ち悪く」感じたのは、「景観を守れ」という、極めて個人の主観

属することを、さもはてなーが「国民の総意」のようにすりかえて、

価値観押し付け」をしているところが、気持ち悪い。

もっといえば、宮崎駿監督の「判決を評価する」コメントとの相乗効果。

つまり、「宮崎駿世界観が絶対善で、それが国民の総意」とでも言いたげな

価値観押し付け」が、気持ち悪いのだ。

景観と言えば、東京オリンピック(今回誘致失敗した奴じゃなく、1964年の奴)開催時に、

「屋外に洗濯物を干すのは、来日する外国人から見れば景観を乱す行為なので、控えましょう」

という運動が存在したらしい。

これなどは「洗濯物が干された光景は、醜い」という「価値観の押し売り」である。

それでも景観が大事、と言いたいのであれば、あらかじめ鞆の浦を美観地区などに指定して、

法的手続きに則って保護すればいい。

そういう必要な法的手続きも経ないで、事後的に美観の押し付けをして争う、

そういえば最近これに似た話があったなあ、と思い起こせば、鳩山弟の

東京中央郵便局いちゃもん事件」であった。

あの際はネット世論も「二分」されていたと思うのだが、今回の鞆の浦の件では、

一方的に住民側マンセー

これを「不健全」と思う小生が悪いのか?

宮崎駿の良さが分からないなんて、欠陥人間、かわいそう」ということなのか?

ええ欠陥人間で結構ですよ、映画を見て大して感動もしていないのに、

周りに合わせて「宮崎駿に感動した」と自分ウソを付く人間(結構存在すると思う)

よりマシだと思う。

そういえば、以前会社職場女性2人が「千と千尋の神隠し、あれって何が言いたい映画?」

「さあ~、川をきれいにしましょう、という映画なんじゃない?」という

「間の抜けた会話」をしていたが、世間に迎合して「宮崎映画、感動しました」と

ウソを語るぶりっ娘よりは、「ホンネ」をさらけ出していて、好感を持った。

http://itaru-m.hp.infoseek.co.jp/sport/110.htm 

2009-07-31

ワッハ上方の闇6

【 平成20年  9月 定例会本会議-09月29日-04号 】

◆(堀田文一君)次に、ワッハ上方についてです。

 千日前からワッハがなくなるという報道の後、全国各地の学校から、来年修学旅行のコースに組めるのかなどの問い合わせがきています。道具屋筋商店街での一日商売体験とワッハの見学が、修学旅行のコースにもなっているからです。ワッハが、道具屋筋などの商店街と協力してミナミに定着している事実は貴重です。この事実知事は御存じですか。

知事橋下徹君)次に、上方演芸資料館ワッハ上方についてでありますが、地元道具屋筋商店街が受け入れている修学旅行生の体験メニューの場を提供しているほか、イベントの共催など、地元とさまざまな連携が図られているという事実そのものは承知しております。

【 平成20年  7月 臨時会本会議-07月01日-01号 】

知事橋下徹君)上方演芸資料館ワッハ上方)は、貸し主から大幅な賃料引き下げ等の御提案をいただきましたが、現地ですべての施設機能を維持していくためには多額の費用が必要となることから、展示機能と演芸ライブラリー機能を存続することとし、二十二年度末までに府有施設等へ移転いたします。

【 平成20年  7月 臨時会本会議-07月07日-04号 】

◆(宮原威君) 次に、ワッハ上方上方演芸資料館)についてです。

 一九八九年に伝説漫才師砂川捨丸氏の御遺族が鼓を、夢路いとし喜味こいしさんが秋田実の直筆台本大阪府に寄贈、岸、中川知事時代に計画が進められ、一九九六年に開館しました。関係者府民千人からの収蔵品は五万七千点、毎日放送朝日放送関西テレビ読売テレビラジオ大阪NHKなどから昭和二十六年から二千六百六十五番組映像、音声が提供され、日本で唯一の笑い文化の殿堂です。三百五席のホールは七八%、七十席のレッスンルームと五十席の小演芸場は九九%の稼働率、文字どおりミナミ都市力、文化力の拠点です。わずかとはいえ黒字です。

 問題は、委託料一億三千万円、吉本興業への賃借料に二億八千万円、計四億一千万円の大阪府の負担でした。知事は、ワッハに行ったとき、値引き交渉はと質問されました。その後、吉本興業から来年度から半額以下の一億四千万円以下にする提案があり、今後も交渉の用意があると発言されています。また、五千万円の収入をふやすことも含め、運営に当たる放送六社とNPOの要望書も出されています。

 ワッハは、千日前でこそ値打ちがあります。笑いと健康パック事業も開催され、府民も元気をもらっています。ミナミ健全な発展のためにも、大阪府の負担を大きく減らしながら、マスコミ、笑いを愛する府民吉本などの協力で現地存続に知恵を出そうではありませんか。答弁を求めます。

知事橋下徹君)

(略)

次に、上方演芸資料館ワッハ上方)につきましては、貸し主から大幅な賃料値下げ等の御提案をいただくとともに、管理運営している指定管理者からも経費節減の提案をいただきました。

 しかしながら、現地ですべての施設機能を維持していくためには、なお多額の費用が必要となることから、展示機能と演芸ライブラリー機能を存続することとし、平成二十二年度末までに府有施設等へ移転という結論に達したものであります。ホールは、吉本さんが運営されるというような御提案もいただきました。

 ですから、展示品やライブラリー機能を移設、移転することというような結論に達したわけなんですが、この移転があったからといって、大阪吉本さん、松竹さんを初めとする笑いの文化が弱まるとは私は思っていません。それほど大阪の笑いはやわなものではないというふうに思っております。

◆(宮原威君)

(略)

ところが、職員の賃金教職員や警察官の苦労や努力は、府民には余り知られていません。ましてやセンチュリー交響楽団ワッハ上方の人が、年収二百万から三百万で頑張っているということなどは知られていません。客観的事実が知らされないまま、公務員たたきが一部識者などによって行われています。知事は、職員の苦労と役割をもっと府民に知らせて意見を聞くべきです。

【 平成20年  7月 臨時会本会議-07月10日-07号 】

◆(清水義人君) 次に、ワッハ上方についてお伺いします。

 一つは、今回の移転案の大きな原因となっておりますのが運営費用、約二億八千万円の賃料が大きな負担になっていると。これはかつてからの課題ですけども、今回家主の吉本興業さんから、契約期限満了前の来年度からでも家賃を半額にします、また指定管理者からも運営委託費、収支改善を図りますと、こういう声明が寄せられていると聞いておりますが、知事はこの提案を即座にはねつけられたと。今回の財政再建プログラム案においても、この移転縮小の方針は全く変わっていないんですが、この金銭の問題ではなくて、初めから移転縮小ありきと、こういうふうに見える知事の判断基準とは何かをお伺いしたいと思います。

 それから、またワッハ上方は要らないという一部の有名タレントの方の発言があったと聞いておりますけれども、これはプロアマ問わず、大阪から劇場が次々なくなっている、そんな中で発表の場に困っている次の世代、次代の演芸演劇界を担う若者とりまして、このワッハ上方、大変重要な施設になっています。

 大阪の文化を担う人材の育成を図ることは、府文化振興条例の基本理念です。ワッハ上方は、その場であると考えますが、どうお考えでしょうか。

 それから、寄贈資料の保存、展示は必要だと、ライブラリー機能はそのまま移転すると、このようにおっしゃっておりますけれども、これら貴重な資料は、ワッハ上方理念に賛同された在阪の放送局府民プロダクションの方々から寄贈していただいている。現在指定管理者であるNPO法人ニューウェーブ大阪--在阪民法六社でつくられておりますけれども、この公益性、公共性を重く見て実は設立された。こうした経緯から移転縮小となりますと、こうして提供、寄贈していただいた資料の返還ということも起きてくるのではないかと。これでは、展示機能、ライブラリー機能を残すという府の計画は破綻いたします。ワッハ上方も、そうなるということも想定されての判断だったのか、お伺いしたいと思います。

 一方、知事は、大阪ミュージアム構想の中で、大阪の再発見、発掘を提案されている。私は、このワッハ上方をさらに磨きをかけたら、立派なすばらしい大阪文化財ではないかと、こういうふうに思っています。落語漫才だけではなくて、能、狂言文楽歌舞伎上方舞、そうしたジャンルの公演もホールで行われています。多くの府民の方々がそこに楽しみに来られている。そういう意味では、このワッハ上方大阪を輝かせ感動させる基幹施設となると私は思うのですが、そういうことも踏まえ、この四点について知事はどのようにお考えでしょうか。

○副議長(鈴木和夫君) 知事橋下徹君。

   (知事橋下徹君登壇)

知事橋下徹君) 上方演芸資料館ワッハ上方)につきましては、貸し主から大幅な賃料値下げや上方演芸振興に向けてのさらなる協力の御提案をいただくとともに、指定管理者からも経費節減の御提案をいただきました。

 また、文化振興条例の基本理念に、大阪の文化を担う人材の育成があり、ワッハ上方がその場を提供してきたことは承知しております。

 しかしながら、現地ですべての施設機能を維持していくためには、なお多額の費用が必要となることから、展示機能と演芸ライブラリー機能を存続することとし、平成二十二年度末までに府有施設等へ移転という結論に達したものであります。

 収蔵資料を大阪の誇るべき笑いの資料として残すということは、本府が果たすべき役割と認識していますので、引き続き府民の皆さんや在阪放送局プロダクションの方々に提供、寄贈していただけるよう、誠意をもってお願いしていきます。

 また、これら貴重な資料につきましては、大阪の大切な文化資源として、内外への発信に努めます。

 きのう、繁昌亭の記事が出ていまして、三十万人の来館予定者、前倒しで達成されたというような記事が載っていました。

 今は、繁昌亭、大変大阪観光名所となっていまして、地方から繁昌亭目当てにバスで乗りつけてこられると。チケットを買おうにも、今はなかなか買えないような状況になっております。

 僕は、以前、桂ざこば師匠にそのお話を伺ったときに、芸人さんは血のにじむような活動、努力をされていると。高座に上られるときに、あのいわゆる僕らが聞いている一流の落語家さんが、ええ、こんな金額でと、それこそ学生アルバイト程度のお金一生懸命になって努力をされていると。いろいろ確認したところ、公的な助成は一切入っていないということでした。私は、お笑いの文化というものは、これはもう大阪に必要不可欠だと思うんですが、その文化の根差し方ということを考えたときに、このように公的な助成が多額に入った中で、本当にその機関が、施設が血のにじむような努力をするのかどうなのか、僕はあの繁昌亭がひとつ大阪の文化を発展させていくこのムーブメントを起こしていますが、その手法というものをやはり我々はきっちりと認識勉強した上で、文化の発展というものを考えなければいけないのかなというふうに思っています。ワッハ上方がこれまで果たしてきた機能を全否定するわけではないんですが、やはりこの繁昌亭が、今成功しているこの現実というものは、民間が血のにじむような助成がない中でやっていることによって府民に根づいていっているという事実だけは、僕はこれはきちんと受けとめた上で府政を取り仕切らなければいけないなというふうに思っています。

○副議長(鈴木和夫君) 清水義人君。

   (清水義人君登壇)

◆(清水義人君) 今、お話ありました繁昌亭、確かにすばらしい取り組みです。ただ、民と私たち公と、どこで一緒に協働してやったらいいのか。ここは民に任せよう、ここは公が責任を持とうというのは、それぞれ一つ一つで点検していかなければなりません。また、そのまちの景観ということからすれば、当然その施設があることでその地域の人たちとも一緒になって協議していこうと。ワッハ上方というものをどう生かすかということについても、当然管理運営者、家主さん、その地域の方々、そしてそれをつくった大阪府が一緒の場で協議するということをぜひ知事にお願いしたいと思っています。

2009-07-01

http://anond.hatelabo.jp/20090701132409

んーそうして金儲けする人がいるよ、じゃなくて日本人根底にある精神性なんじゃないの?なんていうか日本にある美って、デザインされたものじゃなくてたまたまあったものを、美しく捉えるってものな気がする。写実的じゃなくて、抽象的な美を、共通見解として「きれいだということにしよう」みたいなさ。陶芸とか、書道とか茶道とか華道とかってそんな気がする。たまたま目に映ったものを、よしこれはよきものとしよう!見たいに始まった気が。

これって実際にどうなのか俺にはわからないよ。

それでも多くの人の中で時間をかけて洗練されてきたものがあるだろうし、

たまたまって事はないんじゃない。言いたい事はわかるけど。

金儲けに関しては、お金が無いと生きていけないんだから、そういう精神性はあるに決まってるよ。

最初の元増田の発言に「空々しい」という言葉があったから、

手段を選ばない金儲けの中でそういうものが作られるんじゃないかと思って書いた。

アニメとかフィギュアとかもたまたま評価されて市民権を得てしまったけどさ、以前は景観破壊するまではいわないけど、もっともっと日陰ものだったと思う。

景観破壊しているのはパチンコサラ金の話じゃなかったっけ。

新宿ドヤ街写真にとって、この退廃したモダニズムがうんちゃら・・・とか言いたがるけど、たまたまそうなったものをそう唱えているだけ。

評価されているなら、それに共感した人間がいるんだから、たまたまって事はないんじゃないかな。

http://anond.hatelabo.jp/20090701115948

んーそうして金儲けする人がいるよ、じゃなくて日本人根底にある精神性なんじゃないの?なんていうか日本にある美って、デザインされたものじゃなくてたまたまあったものを、美しく捉えるってものな気がする。写実的じゃなくて、抽象的な美を、共通見解として「きれいだということにしよう」みたいなさ。陶芸とか、書道とか茶道とか華道とかってそんな気がする。たまたま目に映ったものを、よしこれはよきものとしよう!見たいに始まった気が。

アニメとかフィギュアとかもたまたま評価されて市民権を得てしまったけどさ、以前は景観破壊するまではいわないけど、もっともっと日陰ものだったと思う。街の景観もそうなんじゃない?新宿ドヤ街写真にとって、この退廃したモダニズムがうんちゃら・・・とか言いたがるけど、たまたまそうなったものをそう唱えているだけ。

自分で作り出して、言葉要らずで共感を得て、魂を掴むような美や芸術景色がない国だと思う。そしてそれを求めない、感謝できない民族なんだと思う。

http://anond.hatelabo.jp/20090701112709

意識について空威張りする人間は確かにいるし、自分たまにするけど、

そういう薄汚い景観を作ってるのは金儲けをしている人間じゃないの。

意識まで金儲けの道具に組み込まれてるんだから、空々しくもなるよ。

金儲けをするなと言いたいんじゃなくて、手段を選ばなさすぎる。

http://anond.hatelabo.jp/20090701112134

常に、というより何かの折に美意識の高さ、この国の美しさ、、、とか文化性が、、、とかを空威張りしたがるじゃん?あれが空々しい。先進国でこの薄汚い景観はありえんぞほんと。

2009-05-21

神戸南京町中華街】の問題点

これは神戸南京町にある中華街への問題提起です。。

ここは中華料理屋台が盛んで、200円や300円といった安い価格ミニラーメンやミニチャーハンギョーザ、串揚げなど様々なメニューを少量ずつ食べ歩

きすることができます。

しかし、そんな一見楽しそうな屋台も、すぐにストレスを感じることになります。

食後の容器(ゴミ)です。

屋台で買ったミニラーメンの器や箸は、それぞれ買ったお店でなければ捨てさせてもらえません。これは少し体験してもらえればすぐ分かるのですが結構不便です。

食べ歩きしながら他の屋台を覗いて見たり、通りの中央にある広場などでゆっくり食べている人が多いのですが、食べ終わるとわざわざまた買ったお店まで

戻って容器だけ捨てさせてもらう必要が出てきます。

それが嫌なら、その屋台の前で完食するまで立ち止まるか、容器を持ち帰るしかありません。

そうと知らないお客さんは食べ歩きしながら、ゴミ袋を見つけて容器を捨てようとすると「ウチで買ったもの以外は捨てないで!」とすごい剣幕で追い返さ

れてしまいます。

容器を捨てることに気を遣いだすと、多少気になるものがあっても、後の処理を考えて、もう食べるのはいいかなという気分になってきます。

中央の広場にある自動販売機で缶ジュースなんて買ってしまってはもう最悪です!

缶用のゴミ箱は当然のように用意されていないですし、もちろん屋台では捨てさせてもらえません。缶を飲み干しても中華街にいる間はずっと携えてなけれ

ばいけません。お店はどこも受け取りたくはないので、缶は持って帰れということだそうです。

この缶もどうせ帰路の途中のどこかのゴミ箱で捨てられるのでしょから、お店側は結果的に自分達(中華街)以外のところで捨ててくれればそれでいい。とい

う身勝手な対応になってしまってます。

街がこんなことではポイ捨てする心無い人が出てきてしまうのも仕方ないとさえ感じてしまいます。

そしてぽい捨てしないようにガードマンまで雇って見張っているのも驚きです。そんなお金があるなら皆で当番でもしてごみ処理をした方がよっぽど有益だと

思います。

せっかく楽しみに行っているのに、容器なんかで悩まされるのなら、また行きたいなんて思えませんよね…。

もちろんお店の立場に立てば、他の店で出たゴミをなんで自分達が処理しなくちゃいけないんだ。という気持ちも理解できないでもありません。

しかし、こんな役に立ちそうなエピソードがあります。

とある温泉街では、客足がおとろえる中、なんとか客足を取り戻そうと各旅館が競うようにして変わった温泉で話題を呼び、宿泊客をつかまえようと躍起になっていました。

我先にと、ある旅館が大きな看板を掲げれば、その隣の旅館はさらに大きく目立った看板を。さらにその隣はもっと変わった温泉で興味を引き、さらに大きな看板を。もうきりがありません…。

やがて情緒ある街並みも大きく目立った看板ばかりでぎすぎすし景観を損ない、結局その温泉街に客足が戻ることはありませでした。

しかし、温泉街の皆で協力し合って、せっかく様々な温泉があるのだから少しでも多くお客様に楽しんでもらえるようにと、今ままでライバルだった旅館温泉にも入浴できるよう「温泉共通券」を作ってどこに宿泊しても街の全ての温泉が楽しめるようにして客を迎えたところ、この温泉街はたちまち人気とになり、温泉街にくる客自体を増やすことに成功したんだそうです。

同業のライバルを出し抜き自分達だけが得をしようとするよりも、知恵を出し合い協力した方がその業種全体を盛り上げることができ、遥かに良い結果を得られるというお話です。

南京町は今後、各店舗が協力し合って自分達の街を盛り上げようとする人は出てくるのでしょうか。

店舗が街ぐるみで協力し合い、積極的にゴミを回収した方が、客にわずらしい思いもさせずに済み、南京町全体の売上もきっと違ってくるのではないか、その方がはるかに得策なのではないかと私は思います。

皆さんはどう思われますか?

2009-03-26

http://anond.hatelabo.jp/20090326231534

美的センスねーし、社会性もねーし。看板の乱立が古都景観をぶっ壊しているとか。

好かれようって努力がねーから見方が増えねーんだよ。

2009-02-19

ミンスでも自滅党でもどっちでもいいから早く太陽光発電を推進すべき その1

ごめんね、タイトル釣りだよ。

大仏が率いる政党太陽電池パネルを全世帯に普及させるぞ!と吠えた、と言う記事がはてなブックマークで出ていたのを見たんだけど、すごく批判が多いのでぼくおどろいちゃった。

よく読んだら、僕がの知ってる程度の知識でもおはなしできるようなコメントがあったので、書いてみる。とはいっても「優先度が違うよ!」「この金があれば××ができるからむだだよ~」と言った話の本質からちがっちゃうコメント(そんなこと僕が知るわけないよねっ!)とか「政治的な意図に騙されるな!」なんて話は興味がいないのであんまり反応してないからよろしくね。

と言っても僕は専門家ではないので増田に書くチキン野郎ですさ~~~せん。なにか間違ってたらおしえてエロエライひと!

……なんて記事を書いてたら、あるふぁぶろがーさんが似たような記事をしかもコンパクトに書いてるじゃないか!むっきー!ひきょーだぞ!

さらにそれに対して反応だって?ちっくしょー。おぼえてろよ!

元が取れるの?系

まずいっちばん最初に、「自然エネルギーとして、どの段階から環境にやさしくなるか」という環境コストと、「いくらから儲かるか」という金銭面のコストを混同していると話は全く違う事をはっきりさせておくよ。そうしないと利権屋さんの詭弁に騙されちゃうからね!

これってどういう事かって言うと、たとえば「自然にやさしいことが付加価値ですから普通のやつより値段が高い」というありがちなボッタクリ商品だとこの環境コストと金銭面のコスト反比例することになるんだけど、一緒にしたら自然に優しいという付加価値をつけたボッタクリ商品のほうが自然に厳しい、地球いじめ商品なっちゃう。

この点で例の武田のおいちゃんなどは、意図的に混同してミスリードをさそってるね。(ちなみにこのおいちゃん、出している資料が古かったり間違っていたり、目盛りや単位がないグラフを載せていたり、下手すると事実無根なことを根拠なしに言いふらしてお金儲けしているよ! 商売上手だね! 僕もお金大好きだから、あんなコンビニ300円コミック並に原価が低そうな、はなっから出版社さんもキワモノ本として作ったに違いない簡易装丁の本であんなに売れるなんてうらやましいな~っておもうよ。僕もそういうボロい商売してみたい~っ)

環境コストの話よりもやっぱりお金だよね!というわけで、この間セールスにきた工務店のおいちゃんにきいてみたんだけど、うちの日照条件で2kwをコンスタントに使えるぐらいにすると、だいたい償却まで一回の電気系統の交換と年間メンテナンス、ローン金利等含めたパックを利用してだいだい27年かかると言われたよ。この年数、一般的な家の償却年数とほぼ同じだね。ちなみに工務店のおいちゃんによれば、メンテナンスのパックに入ってもらえば、年間いくらで保守できて保証もしますよって言ってた。

もうかるの?って話について、工務店のおいちゃんによれば「はした金程度しか儲からんけど、地球環境のために行動していますと表明したときに集まる注目の視線と優越感や、災害などで停電している時、愚民共が助けを求めてくるのをエアコンの効いた室内からワイン片手に眺める最高のながめの事を思えば安いもの(意訳)」だっていってたよ!すごいメリットだね!

ちなみに、僕にとってはどうでもいいことだけど、環境コストについてもてきと~にに調べてみました。算出方法にもよるけど数年で環境コストが取れると言う試算もあるみたいで、そうじゃなくてもだいたいの試算では一桁年数で環境コストプラスに転ずるとするのが多いよ。ちなみにこれはよく比較対象になる原子力発電所に比べれば圧倒的に早い数字なんだ。なんか原子力推進派の人は意図的に事故の際の環境への影響や、海などに大量に熱をまき散らすことなんかのコストを無視して単純に経済コストだけ問題にする人がいるけど(すごいのだと太陽光発電パネル製造コストは加味するのに原発製作コスト、燃料の採掘・処理コストは無視するんだよ! 人に意見を通すときはこれぐらいの能力がひつようだね!僕もみなわらなくっちゃ)環境コストは、リスク評価まで含めてまじめに計算するとすごいことになるはず。ただ規模も用途も耐用年数も能力も違うので全く評価対象としては不適切だけど。(ここをわざと家庭用太陽光発電原子力発電を比較対象に選んでる人は大抵わかっててやってるから気をつけようね!)

ちなみに、環境コストだけど、これ最近大幅に改善したので、5年ぐらい前の文献の数字はすでに古いので注意が必要です。ここのところの高効率化戦争は恐ろしいな~。しかもこの不況の中で集中的に投資されて中の人プレッシャーも大きいんだろうね~。中の人!死なない程度にせいぜいがんばってね!

それから、儲かるとわかったからか、最近いろいろな新技術や新方式がでてコスト削減に結びつきそうなものもたくさんあるけど、その割には量産品の効率と経済性がなかなか向上しないのはおそらくお金の問題なので、そのあたりに血税をつっこんで一気に競争力を上げるというのはありだと思うよ!

で、この環境コスト現実コストのボッタクリ価格環境保護が当たり前になってくれば来るほど縮まってくるはずだとおもう。環境にやさしいことがあたりまえになって、付加価値と言うより「環境保護がうたわれていなければ売れない」ようになれば。だけど残念ながらそうなるまでが一番コストがかかるかなって思う。そこの部分のコストを国が請け負って、一気にすっ飛ばしてある程度許容できるぐらいの量産効果が現れるまでの段階まで一気に押し上げるのはありだと思うな。今のタイミングでうまくすれば国家として見れば元を取るどころかガイジンから金をむしり取れるしね!

だけど結局は環境にいくら金がはらえるか、って話だよなーとおもったり。

結局は今まで集中的に税金なども使われて賄われてきたインフラの一部を各家庭に分散化するわけだから、設置者が負う有形無形の余計なコストが増える、手間が増えるのは当然だよね。それをどこまで許容できるかなーという。

あと「作る方が削減できる効果よりも環境コストが高い」と言うのは思いこみだと思うので、ちょっと資料をあたってみてくださいな。近頃の文献でそういったことが書いてあるのなんて武田のおいちゃんの本と、武田のおいちゃんのビジネスモデルをぱくった人ぐらいだよ。(資料を読んでも本気でそういうことを言っている人は、きっと数字の読み方もわからないイエローモンキーかクロンボかホワイトトラッシュゆとりユダヤ三国人か、もしくは何かやましいことのある既得権益利権を持つ政治家とその一派に違いないね!)

耐久性が悪く、減価償却できるまでもたないだろ 系

太陽発電パネルそのものは基本的には致命的な劣化は起きないよ。だいたい20年で10%効率低下と言われているみたいだけど、そこまで劣化が起きる場合は理論値一杯まで高効率で発電しての結果だから、とっくに元が取れているわけで実際にはもっと低いはずだよ。基本的にエネルギーを変換だけだし、可動部分がないしね。「機械は必ず壊れるもの」と言っている人がいたけど、機械メカ)じゃないから壊れないよ!(形あるものはいつか壊れると言われちゃうと厳しーけど、そんなこと俺も貴様もいつか死ぬのでどうでもいいね!)ただこれは過去の例なので、今後はさらに改善していくっていってた。

このあたりって、太陽発電パネル技術は実は結構古くさいいいかんじに発酵してそろそろ隣のおいちゃんみたいな臭いすらだたよいそうなそうな技術なので、明らかに投資する時期を間違えたかわいそーな先人の遺体肥料にして育てた経験保証しているよ。すっごく枯れた技術なんだ。近頃おはやりのシリコン使用量を減らした太陽発電パネルとかも、フレーム保護材などの耐久性ノウハウは基本的には一緒だから、もうかなり枯れた古くさい技術と言ってもいいと思うよ。

ちなみにパネルメーカーも20年保証と長期保証普通みたい。つまり、経済的なコストが償還できるぐらいは平均保証があるんだね!僕んちに来た工務店のおいちゃんは、メンテナンスプランに入れば30年は保証するって言ってた。

で、一番劣化するのはコンバータなんかの電気を整える部分。これがだいたい15年ぐらいといわれてる。太陽発電パネルからできる電気直流なので、それを交流に変換して家庭で使えるようにしたりするシステム面なんだけど、(いわゆる変圧器とか、AC-DCコンバータとかいわれる部分)。で、こいつのコストだけど、こいつは人類電気を扱い始めてからずっとついて回ってる技術なので、予想寿命のころにだいたい壊れる。なので、馬鹿正直な業者にお願いすれば、コストに組み入れて計算できちゃうんじゃないかな。

後当然バッテリーを使っていればバッテリーも。まぁこちらは車載用ほどはシビアじゃないから問題なくなるだろうと思うよ。なんたって自動車産業が自腹切って大実験やってくれるんだから! だからそんなに過大な負担かな?こんなレベルで「耐久性に問題がある」なんて言われたら僕泣いちゃうよ。泣くと絡むよ僕。それでもいい?

ちなみに、AC-DCがかなりエネルギーをロスするんだよね。なので、大電力が必要なもので、なおかつ設備として一度設置すればほとんど動かしたり電源を抜き差ししたりしないものについては、AC-DC等を通さないシステムを考案するのも手だと思うんだ。たとえば電気自動車の充電システムや、空調、給湯、廃人正気じゃないドライヤー内蔵暖房機能付きゲーミングPCや、キチガイ自宅サーバロリ画像のためにWinnyを24時間稼働させてるPC、冬でもあたたかいPS3などにね。上手くすればXBoxの本体並みにでっかいアダプタだってすごく小さくできるかも知れない。そういうのに専用配線を使って供給すると言うのも手だと思うよ。え?ACにすると感電しやすくなって危ないって?そんなこと僕が知るわけないじゃないか。エライ人なんとか考えてよ。

メンテナンスできるの?系

砂などによる太陽光発電への劣化って、せいぜい最悪でも5%程度なんだって。なのでその分見越して多めに設置すればOKなレベルなのさ。ちなみに電気発電所から送られてくる際の送電ロスは5%だから、ほとんど無視できるレベルだってことがわかるよね!

なので今のものでも基本的にメンテナンスフリーでOK。時代遅れだって評判の自動車趣味の人の車みたく、いつでもぴっかぴかにしておきたいなら別だけど、多少の落ち葉や鳥の糞といったものでもそんなに影響しないそうだよ。というか、発電パネルに影響するぐらいの極端と主張する場合は、まず家の心配するか、施工業者を話が違うと訴えるか、キミ自身の強迫症のおそれを心配した方が良いと僕は思います。そんなところを気にするなら、日照条件なんかを気にしようね!

それに、従来一番やっかいだと言われていた幹線道路沿いの家の劣悪な環境で発生していた煙害や油分を含んだ粒子状物質などによる曇りだけれど、今は太陽発電パネル光触媒をはじめとした汚れ除去の技術が発達してきているので、ほとんど磨いたりする必要はないよ。

光触媒って紫外線によって働く触媒で、強烈な太陽光に晒すことが前提の太陽電池パネルはまさに光触媒と相性が良い技術なんだって。え?光触媒で透過率がおちないかって?そりゃ落ちるでしょうけど、それを感じられるほど発電量が落ちるなら、きっときみはなにか騙されているから訴訟の準備をしたほうがいいよ。

で、砂、ほこりやちりじゃなくって、雪じゃどうなの?と言う話があったけれど、融雪機能付き太陽電池パネルなんてのがあるよ!シャープさんによる技術解析がわかりやすい(PDF注意!)これ結構よくできていると思いました。さすが目の付け所がシャープだね!商品の特徴を一切説明しない意味不明キャッチコピーCMばかりの会社とはおもえないね!

普及にはやっぱりコスト課題なんだけど、基本的にはコンバータを双方向にするかどうかの話だけみたいなのでこれは時間の問題だと思うよ。で、普通太陽発電システムと比較してのコストが下がれば、あの雪下ろしの腰の痛さを知っている身からすると下手すると雪国の方が早く普及するかも知れないとすら思っちゃうな~。だって死活問題だもの。あ!ちなみに勘違いしないでね。雪は全部溶かす必要はないのよ。滑らせて雪を落とせばいいので。

何かあったときの専門的なメンテナンスの方だけれど、こちらは量産されればほとんど問題がない話だね。たとえば上下水道が普及したから「水道トラブル五千円!トイレトラブル八千円! 払えなきゃ、奥さん体ではらってくれてもいいんだぜ?」なんて商売ができるようになったわけで、量産さえ始まればメンテナンスを請け負う業者は増えるはず。なので、産業としてのスタート時のコストを国が請け負って、一番コストのかかる時期を全部すっ飛ばしていきなり普及期に押し込むと言うのもありだと思う。

自然エネルギーは安定供給ができないから電力計画が狂うだろ 系

おそらく自然エネルギーが普及する上で一番の問題はこれだと思う。そして、時期はともかくとして、将来的にこれが問題になり、長い間問題として続いていくことは明らかだと思う。だってこれは構造的な話だものしょうがないね。

なので、学者連中が禿頭をさらにハゲさせるぐらいハゲんだのか、結構いろいろな解決案が出てるよ。

その中で僕一押しなのが一番シンプル太陽電池とともに大容量のバッテリーを備える方式。いや、これをしても限度があるだろ、って話はありますがね。でも、これを利用することでピーク電力の山を大幅に落とすことができるはずなんですよ!

現在日本の電力は、高効率で高出力が可能な原子力や、安定していて低コストの水力をベース電力として、変動する電力を火力やその他の調整しやすい発電方法でまかなってるのは周知事実だね。え?知らない? 貴様!謝れ!でんこちゃんに謝れ!今すぐ謝れ!土下座してすりむけるまで頭を擦れ!ハゲろ!腐れ!

と言うことはどーゆうことかというと、大都市部のヒートアイランド現象が発生する真夏冷房をがんがん使うようなピーク時と、深夜寝静まって、かわいそうな労働条件でしか働けない弱者負け組のみなさんと、オンラインゲーム廃人馬鹿学生ぐらいしか起きていない深夜との電力差は、高効率で環境負荷も低い発電ではなくて、石炭発電や火力と言った発電に頼らざるをえないんだ。このベース以外の調節可能な電力というのは、高コスト環境コストも高いものがおおい。そりゃそうだよね!高効率の発電所を常に回しておくほうに使った方が、全体に金がかからなくて済むもの。

と言うことは、ここを削減するキーは、いかにピークの消費電力をあげないか、と言うことになるわけ。

で、ここに太陽光発電ですよ。太陽光発電はピーク時はだいたい真夏の一番暑い=一番太陽光が強い時期だからだいたい気温に比例して太陽光発電発電効率が上がるって性質がある。と言うことはつまり、ピークの時に必要なベースに加えての発電量を削減する効果があるんだ!

で、ここで「暑い夏の雨の日などはどうする気だ」とか「夕立とかの時どうするの?」と言う話が出てくるんだけど、そこで出てくるキーポイントが「各家庭で備蓄する」というのと「日本全国規模で平準化する」と言うこの二点。

「各家庭で備蓄する」というのは非常に単純な話で、いくからかの蓄電池を設置すればいいわけさ。早朝まだ暗いうちから電車に乗り、深夜終電でへとへとになって帰宅して、楽しみが唯一アニメ鑑賞という一体何が楽しくて生きてるのかわからないような人だって、これがあれば安心! 昼間の電気をためておけば、摩擦運動による自家発電するときも便利!であると同時に、特定のタイミングによる急激な需要の増加を和らげる効果が期待できるはずなんだ。洪水時の調整池みたいな感じかな。

え?バッテリーが高い?それは大丈夫だよ。ほっとけば車屋共が勝手に改良してくれるから。奴ら今かわいそうなぐらいに必死だからまぁニッポン名物カロウシは多少起きるかも知れないけど、その屍と悲しみを乗り越えた先には、数年以内には急速に値段が下がるはずさ。

で、日本全国規模で平準化するというのはつまり、規模がでかくなればなるほど、局地的な夕立などの現象にもカバーしやすくなると言う事。

わかりやすく言うと一人で走りに行って信号無視をすると捕まるけど、たくさん仲間を引き連れて走れば、多少一人や二人捕まっても全体としては一定量の人が確保できるってわけ。上手くすればポリ公や権力の犬共を混乱させて、全員うまいことまけるかもしれない。

と言うことは普及しはじめが一番つらいということで、本来なら誰か馬鹿な奴をだまくらかしておっかぶせる必要があるけど、リスクがあるし訴えられたりしたら面倒だよね!だからそこの部分のコストを国が請け負って、一気にすっ飛ばしてある程度カバーできるぐらいの規模まで一気に押し込むというのもありだと思う。

この手の話題を出す人の中の一定数は、エネルギーミックスのことを全く考えてない人がいるんだけど、あんまり相手にしちゃいけないよ。彼らはなぜか「火力」なら「火力」「原子力」なら「原子力」「太陽光」なら「太陽光」と特定のものですべて賄うかのように反論してくるんだけど、それぞれ一長一短。カバーしあえばいいのさ。

たとえるならたまにやたら不細工な馬鹿男に綺麗なよくできたお嫁さんがついてることあるでしょ? でもよくよく聞いてみると旦那は性格はよくって、奥さんがアレだったりするよね!そんな風に世の中は全体でバランスがとれるようにできているのさ!

ちなみにこの件については、家庭でも常時通電保証のある電源ラインと、別にある程度ダウンタイムがあってもいい電源ラインをわけて、各家庭のブレーカーをさらにインテリジェントにして契約で振り分けを行うようにすれば解決するって話もあったね。これも僕はいいとおもうな。

風力発電のことも忘れないであげてください……系

別に太陽光発電を設置しても、風力発電ができない、と言うことではないので対立する話ではないのだけれど……。

日本の場合、各地で大型の風力に対して、「正気かな?」って思わず疑っちゃうようなおばちゃんや既得権益の犬、宗教その他反対運動でご飯を食べている人たちが沸いて結構反対運動が多いんだ。景観を崩すだの、よくわかんないけど科学的には測定できない「低周波」と言った話もあるんだけど(スカラー波みたいなものかな?)、結構感情的とも言える反対運動が起きてるんだよ。これにのせられる脳が足りない政治家も多くてこまっちゃう。

その点で、なんとなくいい物ってイメージのある太陽光発電の方がデメリットうまいことイメージの向こう側において、たくさんの人をだましやすいと思うんだ。また、可動部分がないだけ太陽光発電の方がメンテナンスフリーだっていえちゃうので(機械なので必ず壊れるよ!)、一般人が仮定に設置するなら、風力より太陽光だと思う。

僕としては、峰に回る巨大な風車ってな光景は、いかにも人類が緩やかに滅びていく終末的な光景でいいな~って思うんだけど、わりと感情的な反対が多いみたいで残念だなぁ。「無風と強風が入り乱れる季節のはっきりした日本のような土地でわざわざあんな馬鹿みたいなもの建てるなんて馬鹿じゃねーの?そもそも風力で独立して採算がとれる見込みなんてあんのかよ?プゲラ」とかなんておもってないですよ?

もちろん!風力発電装置のかなりの部分は外国から買わないといけないってのも問題だと思うよ。わざわざホワイトトラッシュ共に金をくれてやることなんかないもの。あいつら金を与えるとすぐに戦争するでしょ?まるで発情期のわんこみたいに。

とは言っても、産業としては普及させないことには奴らにやられっぱなしになっちゃうんで、研究費はどこかで助成する必要があると思うけど。だって儲け損なったらもったいないじゃない。

なぜか長文を投稿すると最後まで表示されない増田の糞バグ仕様のせいで分割する羽目になったので、その2へ続くよ!

2009-02-14

http://anond.hatelabo.jp/20090214192228

それはアニメに限ったことじゃないと思う。

古都に住んでると伝統とやらに固執する人や観光業者が躍起になって景観と干渉しようとするのでうんざり

そういう人にとってはオナニーや商売のネタなんだろうがこっちにとってはただの住処。

2009-01-31

考えるメモ

景観であれ建築であれ何であれ)「生活の営みの集積で結果としてできてしまった無意識の造形や、エンジニアリングが卓越したために思わぬ形態をとった造形」を超える,“美しさが意図された”デザインを達成するには,卓越したエンジニアリングや蓄積された膨大な生活の営みを超えるだけの提供側の本気度が必要だ.

それだけのエネルギーが必要であるのは何故か。下の「気持ち悪さ」と関係するような気がする。

提供側が受け手に媚るようなデザイン,不自然存在感を放つ間に合わせのデザインは,景観に限らずとても気持ちが悪い.

この「気持ち悪さ」は何から生まれるのか。

2008-12-23

置きゴート

昔、常備敵として女の子なかよしグループ内に置かせてもらっていた。どこのグループでも、ちょっと生き様の違うおとなしめな子を「出来の悪い子」「頭の悪い子」としてグループ内に一人置いて、その人をみんなで毎日ちくちくして親睦を深めるという慣習が広く行われているところだった。

わざわざグループに置かせてもらっていたのは、一人でごはんを食べている人がいるとクラスその他の景観が悪くなるから、という理由だった。自分としては一人でごはん食べる方が断然楽なので、できればそうしたかったけど、実際に一人で食べたりしたら周りの迷惑になっている自覚がないとみなされ、大勢の人につつかれてしまうので、小さめのグループに常駐させてもらっていた。

自分は「努力する才能がない」ってカテゴリでつつかれてた。増田見て思い出した。増田書いて思い引っ込めることにした。

自分が置かせてもらっていたグループ女の子達は、「うさぎとかめ」のかめにやたらめったら感情移入してる人達で、努力する人が最後に勝つのよ、という会話を事ある毎にきゃっきゃしながら言い合ってた。一人勉強ノートが何冊目に突入したという自慢をよくされた。努力して順位が上がったの、これは価値ある順位よ、という話をテスト順位が貼り出される度に聞いた。

自分勉強というか家庭学習の習慣が一切付いていない、宿題すらできない駄目人間だった。今もそうだけど昔からそうだった。授業中も一切寝る気はないのに毎日夢の中ワンダーランドで、ノート夢日記帳だった。

テストの出来は学年 200人中の 10位以内くらい、グループの中ではトップになることが多かった。グループ女の子達は、お昼ごはんを食べながら、努力せず取った点数は薄っぺらい、努力してる私達(一名除く)って深いという話を、気持ち程度のオブラートにくるんで、目の前でぽいぽい投げ合ってた。家でペットボトルバター入りココア詰めて持ってきたら昼にはココアが冷めてバターが固まってた時より気まずかった。わざとテストの点を低くしても常備敵という立場は変わりようがないので、そういうことはせず、ただじっと耐えた。

実際に「努力する才能がない」っていうフレーズを直に言われたことはない。自分脳内でずっと鎮座してるだけだった。言ったら今日増田並みに波風立ちまくるのが予測できたから、言わなかった。彼女らの持論は、「才能は(私の中にいないから)敵である、そして、努力才能ではない」というものだったから、無駄ケンカ売ることにしかならなかった。

普段から彼女らは才能とその顕示を嫌悪して、叩いたり牽制したりしていた。労せずにテストでいい点取るというのも才能のひとつとして認識していたらしいので、自分がその辺の話題に触れることはなかった。触れなくても貼り出されるからあんま意味無いけど。

努力できる能力才能として認識してしまうと、努力自慢ができなくなるので、「努力才能ではない」と断定していた。言ってる事とやってる事が裏腹だったけど、誰もそこにつっこむ人はいなかった。つっこまない方が平和だったから。

卒業文集のひとことに、「うさぎとかめ」って真理をついてる、みたいなことを書き合って、グループのみんなはめいめい自分の知らない学校に進学した。自分は毒にも薬にもならないことを書いて、地理的に一番近い国立大に進学した。先生に「ちょっと努力すればもっと良い大学でもいけるよ」って言われたので、じゃあ自分にとってほぼ一択じゃんてことでそこだけ受けて受かった。書くの忘れてたけど今までの話は高校の頃の回想。十年くらい前。

努力才能があればお昼ごはんのおいしさを最大限発揮できるなあと当時は考えてたけど、それで努力努力言いたがる人、見せ付けたがる人になっちゃったらみっともないなあとも思った。

努力下手な頭の悪い子のまま大きくなって、知性おいてけぼり自分語り未満を書くような増田になったけど、元々満足値のボーダーがそう高くもない性格なので、毎日幸せに暮らしてる。お昼ごはんのおいしさ 120% 発揮させてる。ココアバターは入れなくなった。

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