はてなキーワード: 景観とは
これは さも 当たり前のように言われているけど、真じゃないんじゃない?
個人所有の所有物は撮影を禁止できるので、
たとえ、公道から撮っても個人の所有物を撮影することを目的に撮影された物は景観ではないという判断ができると思うけど?
人も同じで、群衆には肖像権がないけど、個人が特定できるスナップで個人を撮影することを目的とした物は群衆ではないので、肖像権が発生するとか判例がなかったっけ?
「公道からの景色」は個人情報ではない。というのは、たまたま写ってしまった物をいちいち裁判していると
いろいろな問題が起きるという事から、背景など、偶然写り混んだものと判断される物については、撮影されても偶然である。とするものであって、
撮影前に撮るなといえば、禁止できる範囲の物だし けっこうあやふやなんじゃなかったっけ?この法律って。
結局、景色なのか、個人の自宅を撮影しているのか?というところが論点になって、それって、1枚1枚の写真毎に違うよねと。
なので、ケースバイケースの法律を盾に民家を撮っても良いとするのは、多少行きすぎ感があるとおもうけど?
でも、今日、スゴく気になることがあったので質問させてもらう。
今日、海に行った。
2年くらい前に知り合って今も仲良くしてる女友達と
そう、2人っきりで海に行くことになったのだ。
いちお、友達程度の付き合いなんだけど、なんか、こう、最近の出会う回数とか連絡する頻度とか考えると、友達の域を超えてるような気がしてね。
で、すごく気になるんだ。
こういうのって恋愛なんじゃないかと
実は、今回が2人で行動する訳ではないんだけど、なんか最近一緒に行動するときの目的地が変わってきたんだ。
なんていうか、こう、まるでデートみたいな。
知り合った頃も、今も、オレは恋愛を意識していない。だから、2人であっても何かを感じる訳でもなく、食事したり、お茶しながらおしゃべりしたり、と。まぁ、人として普通の付き合いをしているつもりだった。ところが、最近は今回のように海だったり、高原だったり、動物園だったり、歴史的景観の保存地区とか…。いわゆるデートスポット的な場所が多くなってきたんだ。
最初は楽しいから「よし!行くぞ!!」って今日の海に行くまでノリノリだった。
だけど、これって男女2人で、しかも友達程度の関係でやることなのか?って思い出したんだ。
でも、昔はいた2人とも。
オレに彼女がいた頃、こういった遊びを良くしたものだった。
ただ一緒にいるだけでいいと思いながらも、色々なデートスポットを訪れた。
今日、一緒に行ったのは、あくまでも「友達」
でも、行き先は海岸。2人っきり。
やっぱりこれはデートになる。
社会人の2人なんで、ここで恋愛とかすると「結婚」とか意識されるだろうからなぁ。
と、考えていた。
オレは、彼女に近づくべきなのか、あくまでも友達として貫くべきなのか
頼む。みんなの意見を聞かせてくれ!!
このエントリ、私は、「スイーツ(笑)なんて所詮バカ女ばっかだしw私は男性と肩を並べて話せる賢い女性だからその点違うし☆」ってなんか勘違い気味スイーツ批判の女性(スイーツを嫌う全ての女性ではないのがポイント)を対称に、皮肉ったものだと思っていたんだけど、コメント欄やはてブの反応が様々すぎてよくわからなくなってきた。
本人が「ネタ」と割り振っているのだし、「スイーツ(笑)を笑う奴(笑)」みたいな立ち位置だと思っていたんだけども。(でも多分この人自身はやっぱりスイーツではないのだろうけど)
どうなん?これ?
しかし、コメント欄でそのまんま何も疑いもせずガチに受け取って、
女の子がいうと、実に素敵やね。
男が言うと、喧嘩売ってるというように取られてしまうから。(そもそもそのように取るのがおかしいこともあると思うけど)
民主主義の話題希望、とか言ってる女子大生もいると知っただけで気持ちが明るくなりました。堅い話でも乗ってくれる女性がもっと増えてくれるとぐっと世の中良くなると思ってしまう程に現状は寒いです、と社会人5年目が愚痴をこぼしてみます。
こんな風にあっさりほだされまくりメロメロりんの男たちがいるのを見て驚いた。
「あ、こんなにわざとらしくてもまだ騙されてくれる人っているんだ」的に。
なんていうのか、「私さー、変わってるって人から言われるんだー。前もこうこうこうだったしー。私自身は変なんて思わないんだけどね?皆そう言うんだよねー。困っちゃうよー」に対して、素で「へー!確かに○○ちゃんってかわってるね!」「変わっててもいいと思うよ!それが○○ちゃんの個性だもん!私はすごいと思うよ!」みたいな返事をした人を見た感じの驚き!
「あっまだいるんだ!そういう人!」ていう。
「私はその辺のチャラけた女たちとは違うのよ」メソッドって、こんなにざーとらしくしても(本人は、皮肉のつもりで言ったであろうからそりゃざーとらしいのは当然なのだが)まだそれで落とせちゃう男性がいるんだ!!って目から鱗だった。いや……はてな民がこういうのに対して耐性持ちすぎてるだけか。一般人ってこんなもんなのかもね。案外。
IEって画像を非表示にする設定って無いんだっけ?Firefoxなら画像を非表示にできるよ。広告ブロックの機能拡張なんかもあるし。
さすがに繊細すぎる人は自衛するしかないよ。自閉したくないって言ってもね…。自閉せずに戦うんならもっと強くならなくちゃ。
異議申し立てがほとんど通用しなくて絶望してる人いっぱいいるからね。例えば日本では景観、音環境なんかを問題にする人はマイノリティ(どころか下手すりゃ気違い扱い)だよね。
それと余計なお世話で悪いんだけど、フェミニズムとかオリエンタリズムとか人種、南北問題とか労働問題とか我々がさらされてる「非対称」性にまつわる問題っていっぱいあるから、そういう事について勉強してみるとかすればいいんじゃないかな。なにか克服できるかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20071216010818
うちはこんな感じ(↑)の家庭で育ちました。
(年収は1000万超くらい、車駐車スペースは無限大だったので少し違いはありますが)
あなたの夢は、跡取りのいない農家に婿養子に入れば叶えられるかもしれませんよ。
「家族4人で、郊外の庭付き一戸建てに(後略」…家族4人といわず、6人とか8人とかの家族を持てます。広い家も既にあります。同じ仕事をするので夫婦の結びつきは強いです。親の仕事を直接見る事になるので、子供は自然と親を尊敬するようになります。
「仕事は自分の能力が最大限生かせて」…意外と高い能力が必要です。物理的なパワーも、精神的なパワーも。
「自尊心をもてるもの」…日本の食を支える一次産業の担い手として自尊心が持てます。
「仕事の仲間たちとの関係も良い」「友人たちと家族ぐるみで車で川遊びなどに行き」…農家同士の結びつきがありますから、ほぼ強制的に叶います。
五十万トンのマンモス・タンカーだって、瞼を閉じるだけで消してしまえるが、一匹の蚊の羽音からはなかなか逃げ切れない。
安部公房「密会」より
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20071005it01.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20071005it01.htm
このブックマークのコメント欄を読んでいてとても不安になったので、ちょっと書きます。
なにが不安なのか?
音にまつわることに関して、良いとか悪い以前に問題ですらない、そんなことを問題にするのは異常だと一部で思われていそうなことが不安。
ちょっとオーバーに書くとこんな所だろうか。
「なにが悪いの?」
「こんなことで文句いうなんて頭おかしいんじゃないの?」
「神経質。きちがい。」
「子供たちがせっかく楽しく遊んでいるのにその音が良いとか悪いとか問うこと自体が異常。」
「がまんしろバカ。」
「出て行け!引っ越せ!!」
ぼくはこの新聞記事を読んで正直言ってとてもホッとした。
数年前、呉智英氏が防災無線から流れる音楽によって、静かな生活を送る権利を侵害されたと地元の自治体に放送の差し止めを求めた訴訟を起こしたのだが、
あっさり敗訴してしまった。
予想された判決とはいえ、その事があってから、もうこの日本で少しでも静かな生活を求めるのは不可能に近い事だと思い知ったからだ。
防災無線から流れる音楽というのは、毎日夕方になるとドボルザークの曲(遠き山に日は落ちて)を大音響の電子音で流す例のあれだ。
おそらく日本中のあちこちで曲目こそ違えど、同じことが起こっているだろう。
この音楽は子供たちの安全のために帰宅時間を知らせる大切な役割を担っているそうである。
そう「子供たちのため」だ。
「子供たちのため」「防災のため」と言われれば誰だってとても反対しにくい。
言う方は善い事をしているつもりなのでまさか自分の正義を疑われるなど許される事ではない。
だが、ある人にとって心地よい音楽が、大きな音量だと他人にとって騒音になるのと同様、子供たちのかわいい歓声も度を超せば当然騒音になりうる。
冷静に考えれば、場合によっては子供たちの歓声も音の暴力となりうるという事は、それほど理解が得られにくいという事は無いだろう。
(もちろんこの記事のケースが本当に耐えられないほどの騒音であったかどうかは現場を知る人にしか分からない事なのだが。)
しかし実は「子供のため」という事と「音」の問題は、切り離して考えなければいけないだろう。
もはやこの東京では不可能に近い、青臭い理想論で申し訳ないが、やはり子供たちの遊び場の確保はきちんとした都市計画によって解決するべきで、
子供たちの遊び場を守る事、と、近隣住民の静かな生活を守る事は、本来両立できるように努力するべき事だからだ。
ましてや防災無線のドボルザークなど、呉氏の件でも指摘されていたように子供たちが遅くまで塾に通う昨今にあってはなんの意味も無いし、
情操教育上、悪影響すら与えかねないだろう。
では「音」に関して。
ある音に対してそれがうるさいと思うかどうかを論じるのは難しい。
同じ音でも人によって感じ方が違うのは当然であるし、場合によっては同じ人物でも状況によっては全く同じ音が快にも不快にもなってしまうものだからだ。
しかも、ともすれば
「おれは貴様ら田舎者と違って音に対して敏感なんだよ。もっと気を使えよこのアホ愚民ども。」
「へぇへぇ、どうせあっしらは音に対して鈍感ですよ。ご立派なこったい。そんな気になるんなら、あんた様ここから出ていっちゃどうだい?」
などという不毛なやり取りになってしまいかねず、らちがあかない。
ではそんな面倒な事そもそも話題にするなよ、なぜことさら取り上げなきゃいけないのか、というとひとえに「音からは逃げられない」からだ。
冒頭の引用の通りである。
耳栓は緊急避難としてはもってこいかもしれない。しかし常時耳に詰め物をするのはつらいだろうし、強力な耳栓だと必要な音も聞こえなくなってしまう。
ちゃんとした効果のある防音工事というのはとても費用がかかり、おいそれとできるものではない。(それでも深刻な場合は考えるべきだろうが。)
このような消極的な対策よりは、何か音を発する前に、その音が本当に必要なのかどうかをまず良く考える事が大切ではないだろうか。
音を鳴らすか鳴らさないかどちらか選択肢がある場合に、迷わず音を鳴らす方を、少なくとも今の日本では選択しがちなのではないか。
などなど
これらの音は多数の人にとって騒音と認められる。対策をとれるかとれないかは別として、苦情申し立てをしても不審がられる事は無いだろう。
ほとんどが個人の力では解決不可能な問題であり、自治体など全体で取り組まなければ解決しない問題だ。
これらの音は相手が善意で行っている「悪意の無い音の暴力」。
これらの音を本当に発する必要があるのかどうか、ぼくたちは個人個人もっと真剣に考えなければいけないのではないだろうか。
さて、問題提起ばかりグチグチしていても仕方が無い。
ほんの少しでも音に注意を払うようになるにはどうすれば良いだろうか。
彼はランドスケープ(風景)に対して「サウンド・スケープ(音の風景)」という概念を提唱している。
これは我々をとりまく音の環境を、景観問題などと同じくきちんと観察、考察し、デザインしていこうというものだ。
彼は子供の音楽教育についての著書もあって、その中にこのようなゲームがある。
「しばらくの間、静かに目を閉じ、周りの音を聴く、そして聴こえた音を紙に書き出す。書いたものを友達と見せ合いっこする。」
とてもシンプルなゲームだが、周りの音に注意を向ける訓練にはもってこいだと思う。
例えば電車を待っている間、仕事の合間にできた手持ち無沙汰なちょっとした空き時間などにこのゲームを試してみよう。
もちろん一人でやっていいし、紙に書き出さなくてもいろいろな音が聴こえる事を確認するだけでもいいと思う。
子供さんのいる方はぜひ一緒にやってみてほしい。
そのうちそんなに意識しなくてもふっと周りの音を聴く習慣ができればしめたものだ。
こんな事で騒音問題は解決するわけないが、少しでも音に対して注意深くなるためには、まず身の周りの音を聴く事から始めるしかないだろう。
10年後に日本はどんな国?って聞かれたら「音のない国」と言われそうだ
というコメントがあったが、安心していいと思う。この音のあふれかえる日本が静かになることなど、少なくとも近い将来絶対にないだろう。
このコメントを書いた方はとても静かな場所に住んでおられるのだろうか。皮肉などではなく素直に本当にうらやましいと思う。
ぼくは科学博物館に行くのが好きなのだが、先日まで行われていた「インカ・マヤ・アステカ」展では展示に合わせて効果音や民族音楽の類が館内に流されていた。
どれもとってつけたような音や音楽で、展示物に比較して余りに稚拙な効果音やBGMには苦笑するしかなかった。このような乱暴な音の演出は今回の展示に限った事ではない。
だが国立のこのような施設でも音に対しての感覚は田舎のひどい観光地と基本的に変わらないのではないかと思う。
美術館でもこのようなひどい例がある。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1051714554/967-
通常、静かにすべきと言っても不審がられないであろう美術館や博物館ですら、このように音であふれている。
その音が本当に必要かどうか、もし必要無かったら出さない努力をどうかお願いできないか。減らす努力はできないか。
繰り返しになるが、音からは容易に逃げられないのだ。
さてキモい新聞の社説を下手糞にしたような文章を長々と書いて申し訳ない。なんだかとりとめのない内容になってしまった。
これを読んでくれた方が、もしほんの少しでも今まで気にしていなかった音を気にしてくれるようになったら、ぼくはとてもうれしいです。
そして今、悪意の無い音の暴力に苦しんでいる人へ。
「あきらめろ。この問題は絶対解決なんかしない。文句があるならとっとと日本から出ていけ!!」
http://anond.hatelabo.jp/20070210230240
トラックバック先から感じた別の議題だったので、何だかごちゃごちゃとややこしくしてしまった感があります。反省。
私は、秋葉原をうろつく人たちとだいたい同年齢くらいであろう男なのだが、あのエントリーで言いたかったのは、単純に男としてあの街をうろつくのって恥ずかしくない?照れない?というようなことだったのだ。
今では秋葉原の街でも女性が割と歩いてたりする。そうすると、私みたいな男はその女性たちの目が気になったりするのである。「この女性はこの街を歩く男の姿を見て、男ってこんなもんよね、とか思ってるのかな」とか思うのだ。そして家に帰ってみるとネットやらテレビの情報番組で「男ってのは誰でも性欲を持ってますからねw」と、フィギュアに囲まれた部屋でインタビューに答えているオタクが居たりして。そこで「男」って一括りにすんじゃねぇ!って思うのですよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070210235340
http://anond.hatelabo.jp/20070211035152
この辺のエントリーに関係するんだけど、秋葉原ってもはや街自体がツタヤのAVコーナーみたいになってる気がする。そこで先の私のエントリーは「AVコーナーって何か照れない?」という様な、冷静に考えるとある種当たり前のようなことが言いたかっただけだった。
かといって私も健全な男子としてツタヤでAVも借りる。だけど、それはやっぱりある程度パーテションで仕切られていたり、18禁と書いた暖簾をくぐったりして、行いたいものだ。そのようなフィルターを介せない『街』という場だからこそ、秋葉原には女性も歩いている。そのとき私は、AVコーナーに女性(もしくはカップル)が入って来たような気まずさを感じる。
最近では、秋葉原という地名自体がそのフィルターの役目をしていると言われればそれまでだが(歌舞伎町の様に)平面のパネルにブルマ姿の小学生の様な絵が描かれている光景は、堂々と構えないで欲しいなぁ、と思う。
ちょっと「自分の趣味は一般的だという主張」が「布教」にまで拡大解釈されてしまったか。反省。
俺も流石にオフラインでまで積極的布教をしてる奴が多いとまでは思ってなくて、
ってとこだろうか。つまり指摘された時の反応の話が主。
少女漫画もエロのヤバさでは負けてないし、その他男性向けのヤバいエロも色々ある。でもその辺は男子秋葉系文化みたいにオープンに語られることは少ない。腐女子界隈の閉鎖性なんて驚くぐらいだ。何故そうなのか、ってのは良く分からん。純粋にネット人口に占める男性オタク層比が今でもまだまだ高いから目立つのかもしれん。
あと「あんまオープンにすんな」って話に、秋葉の街並みを含めるのはちと違うんでないかな。
誰かが「秋葉のコードと歌舞伎町のコードは違うから」と言ってたけど、そうかなあ。風俗街は普通にキモいと言われてると思うよ。でもそういうのが風俗街だという認識があるから別に自分は近寄らない、近所にできたら嫌だけど、ぐらいな認識で。秋葉も似たようなもんじゃねえか。そこにわざわざ踏み込んでって「気持ちの悪い景観が許される街」と言われてもなあ、とは思う。
まあ秋葉の外で言うなら、確かに電車の中でカバー掛けずにメイド漫画読む奴もいる。勘弁しろよとは思う。しかしエロ小説全開の新聞読むおっさんとか、ドン引きの煽り文句満載の表紙のレディコミ誌を読んでるおばはんとかもいるもんなぁ。ま、やっぱ良くも悪くも目立つのはネット上の話なんだな。
> 秋葉原駅前にあるのはサトームセンとヨドバシカメラであってメッセサンオーとかあきばおーじゃないだろ?
確かにそうだが、日曜の歩行者天国ん時に中央通り歩いてみ。コミケの西館屋上を持ってきたような凄い事になってるから今。あれは引きまくるぜ。あれはいくらオタク風俗街・秋葉でも酷いんでないの、とオタクですら思うから(これも少数だが声(行動)のでかい奴が目立つ例かもしれん)。
それに良く考えてみたら、もう既に駅前からしてメイドの客引きで溢れてる様は十分引くな。昼間っからキャバの客引きで溢れる街。駅前の路面にコトブキヤのディスプレイが広がり、でじこタワーがキャンペーンやってる。やっぱ風俗街みたいなもんだなあ。
だから「秋葉原の裏路地で肩身狭くぶるぶる震えることしかできない」は違うだろと思う。と言っても「キモいと思うならわざわざ秋葉に寄るな」で終わる話だと思うがね。