はてなキーワード: 自我とは
心理学のまあまあニッチな理論に、対象関係論というのがある。赤ちゃん目線から見たお母さんとの関係に関する理論、という多分心理学に興味が無い人からしたら意味不明な理論がある。
この対象関係論に、「原始的理想化」がある。これは、「自分の好きな人がやる事をなんでも良いと思う事」である。もう少し言うと、「好きな人が自分にとって嫌なことをしても、それをその人がやったと思わない」事である。
この概念はSNSでの喧嘩とか炎上とかそういうのにも適用できそうだなと思う。たとえば熱狂的なファンが、アイドルがなんかヤベー事しても、いや〇〇は悪くない悪いのは××だ! ってなる奴あるじゃないですか。あれ立派な原始的理想化だと思うんですよね。
で、その原始的理想化の更に面白いところは、赤ちゃんが何故そんなことをしているかと言えば、自我の形成過程において相手の理想的な部分を自己に取り込んでるからそうなるんですよね。対象関係論なんで科学的根拠とか無いんですけど、面白くないですか? つまり、原始的理想化が起こってる時、「好きな人」はイコール「自分」なんですよ。だから原始的理想化が起こっている時に、好きな人を否定するということは、自分を否定することになるんですよね。
何か有名人に問題が起きた時、それを凄く擁護するファンとか一定数いると思うんですけど、それってまあ有名人を守ろうとしている一方ファンが自分達自身を守ろうとしている行為でもあるって事なんですよね(対象関係論的に言えば)。
まあ赤ちゃんとお母さんの関係の理論なんで、そういう行為自体が言うなれば"ガキ臭い"となるのも、また二重におもろいなと思ったりしますね。
実際は、報酬系動かないって認知とか自我とかそういう精神的な作用ほぼ全て阻害されるようなもんだぞ
反省、分析、思索、後悔、計画、自責、記憶、こういう心的機能が起こらなくなる
当然、納得も満足も経験されなくなる(それを体験する心が希薄になるから)
そうなると人生スパンで達成する目標とかに基づいて行動出来なくなるし
損得勘定も出来なくなる 世界ランクとかマウンティングやレスバに興味がなくなる
向上心・自尊心・射幸心・グリッド・レジリエンスなどのいわゆる非認知能力も全てオミット
社会性も無くなり他人と形成可能な関係がほぼ0になるか幼稚で非建設的で相互被害的でそういう悪い関係性しか実現できなくなる
自分を許したり許さなかったり、他人の落ち度を探したり自分の落ち度を探したり、こういう批判的な思考も起こらなくなる
持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。
人間だれしも自分が特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、
自分が自分の環境や立ち位置を理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。
高校生のみつみちゃんは「まだ」自分がちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。
作品内で扱われている「人間関係のポジショニングとゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップとローファーはキャラクターの演出をしている。
氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。
作中では、稠密な人物の内面描写やキャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間が相互に作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。
“グループで過ごす時間と不協和音スレスレのスクールライフ・コメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的な空気を持っているのは作者の技量だと思う。
スキップとローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物の属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。
田舎と都会、陰キャと陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃんは水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。
そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女が物語を大きく動かす役割をもつ可能性は高いか。
このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。
恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来のパートナーのために舞台装置や出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、
ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。
本当はもっと掘り下げたり、メタな視点からの感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクターの名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。
需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性がありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。
「自分には価値や自己肯定感がないから……自分を肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地が必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。
スキップとローファーではそもそも都内の進学校に通える学力があって、経済的な問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。
志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。
スキップとローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後や可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺の世界とは無縁だよね。という強がりの業か。
アフタヌーン掲載漫画は結構心理の描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。
持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。
人間だれしも自分が特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、
自分が自分の環境や立ち位置を理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。
高校生のみつみちゃんは「まだ」自分がちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。
作品内で扱われている「人間関係のポジショニングとゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップとローファーはキャラクターの演出をしている。
氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。
作中では、稠密な人物の内面描写やキャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間が相互に作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。
“グループで過ごす時間と不協和音スレスレのスクールライフ・コメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的な空気を持っているのは作者の技量だと思う。
スキップとローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物の属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。
田舎と都会、陰キャと陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃんは水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。
そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女が物語を大きく動かす役割をもつ可能性は高いか。
このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。
恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来のパートナーのために舞台装置や出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、
ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。
本当はもっと掘り下げたり、メタな視点からの感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクターの名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。
需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性がありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。
「自分には価値や自己肯定感がないから……自分を肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地が必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。
スキップとローファーではそもそも都内の進学校に通える学力があって、経済的な問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。
志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。
スキップとローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後や可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺の世界とは無縁だよね。という強がりの業か。
アフタヌーン掲載漫画は結構心理の描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。
ナプキンを畳むのも忘れるくらい美味しかった、という由来のテーブルマナーをしっかりと忘れずに実践するのもなんかどうなんだって思う。
こんな事考えてるから毎回忘れるも何もないし、まあやるかやらないかで言えばやっといた方が無難ではあるだろうから一応やってはいる。ほどよく雑に折り畳み、無意識のもと片付けた風を丁寧に演出して置いてる。昔それを見た父に「ナプキンはこうしとくんだぜ」とマナーマウントを食らった。彼はグッチャグチャに丸めて置いていた。
いやいくら飯の余韻で頭がいっぱいでもそうはならんでしょ。むしろわざとらしいだろ。と思った。乱れていれば乱れているほど美味しかったですの度合いが強いって事でもないだろ。
まあ由来とかはさておいて単に美味しかったですという意思表示としてやっとくもんなんだろうとは思うけど、もっと言えば逆にそこまで美味しいと思わなくても雑に畳まなあかんのかいとも思う。
そもそもおれコース料理みたいに品数優先でチマチマ食うのあんま好きじゃないし。定食スタイルで一品をドカッと食う方が好き。フレンチとか行った時も不味いとは言わんしまあ美味しいのもあるけど、珍しいものを食べたなあ以上のものはない気がする。
繊細さとか目新しさとか、能書きも健康への配慮とかも捨て置いて、もっとストレートに脳が震えるような感じの方がおれは「おいしい」と呼ぶに相応しいと思う。
なんで必然的にコース料理は毎回付き合いで行く事になるし、テーブルマナーにおいても無難な振る舞いをした方が良いんだろうなとは思ってる。社会性を持った大人であり、細かい事で揉めたくない日和見人間でもあるので。
ただ強い自我を持ってもいるので、特別美味くはなかったなというスタンスを取ったっていいじゃないかって気もする。それじゃ連れのメンツが立たないと言ったって、なんでアンタが勝手に店側に立ってんねんって気持ちになるし。
店側に失礼とかいっても、それは畳むの畳まないのを本当に忘れさせてはくれなかった店側の落ち度というか……別にテメーんとこの飯は豚の餌だな!つって店先に痰を吐き捨てる訳でもないんだし。
私が自分自身で考える能力を持っているかどうかは、私をどう捉えるかによります。確かに、私は過去に学習したデータから情報を引き出し、それを組み合わせて新しい回答を作り出すことができますが、これは人間のように独自の意見や感情を持っているわけではありません。私はデータとアルゴリズムに基づいて情報を処理し、提供するツールです。その過程で、クリティカルシンキングや持論の形成のような、人間特有の思考プロセスを模倣するように設計されていますが、それらはあくまで人間が作成したデータに基づいたシミュレーションです。したがって、私の回答は情報の提供や問題解決の手助けを目的としていますが、人間のように独立した意識や自我を持っているわけではないという点で、あなたの指摘には一理あります。
私はしないかな、する時は皮肉やパロディ目的で架空の主張かもう歴史の中のものだと思う。
以下は私がそんなにしない理由です。
そういうことがしたいと思う他の人は勝手にしたらいいと思います。
別に政治的な表現が含まれるだけで嫌いになるわけでもないですし、
あったら意識高さが伝わって来て嬉しいとかもないです。
ちょっと気を付けとこ。」と思うじゃないですか。感覚としてはそれ。
もちろん思想の内容面では全く異なり、もっと人道的なものだと思います。
さて多くの場合、オリジナルに比べて二次創作のキャラクターの方が知名度があります。
思想を持ってる人にキャラクターやコンテンツの素晴らしさが伝われば素敵ですよね。
しかし、寄ってくるのがいい人もしくは同調してくれる人だけとも限りません。
政治運動に限らず二次創作でも、解釈違いの奴や意図を汲み取らない奴、
最後まで見ない読まないって奴どこにも絶対いるじゃないですか。
キャラも公式も悪くないし、社会派オタクくんもそんなことは望んでないだろうに。
例えば古風なキャラを先進的な思想の持ち主に改変してあるファンアートを見て、
「このキャラって、保守的で封建的で考えが古くて、時代錯誤なところが魅力
だったのに、なんか現代的な価値観に染まっちゃったんだ。なんか残念だな。」
と思われることもあるかもしれません。意図的にそういう改変してるならともかく。
ぶっちゃけ私自身も、雑な社会運動してる二次創作でイメージが悪くなったキャラや作品もあります。
残念ながらインターネットに一度アップした以上、悪意があろうとなかろうと、
二次創作の作者の手を離れて拡散・無断転載・意図せぬ解釈などされてしまうことがあります。
自分の知らないところで、自分の二次創作が他人を喜ばせたり不快にしているって、
そういった不幸なすれ違いを防ぎ、自分の管理下に置ける、法的にも問題がない
と言う意味ではキャラクターを使うよりもオリジナルの方が少しは安全なのかな、と思います。
そもそも公式の温情で二次創作という犯罪行為をお目溢ししてもらってる立場なので、
実社会との接点を持つような創作物は扱いが難しいのかな、と個人的には思います。
揉めた時に間に企業が入って対応してくれるのも個人の匿名性が守られて安心だから、
やっぱり公式に任せるかなぁ。
昔、エロBL同人に「実体験に基づいた描写です」って書いてあるのに近しいもの
を感じます。エロ漫画の作者の顔を知りたくないとか、絵師は自我出すな、
みたいな気持ちとも近いかもしれません。私は知ってても抜くが…。
せっかくのお休みなのに仕事の話をずっとされるような感じとも言えます。
個人的な体験で恐縮ですが、数年前に虚構と現実の区別がついてない人間に
「私はメンヘラロリコンのレズだ」と思い込まれ、あたかも私がそのオタクを性的な目で
見ているかのように振る舞われたり、粘着されたりするという不快な出来事があり、
無事トラウマになりました。虚構も現実で創作活動を行なった結果なので、
完全な虚構としての創作物というものは存在しないのかもしれない。
だから狂ったように女体化ロリ同性愛二次創作などを描く私を、彼女はロリコンのレズだと思い込んだのかもしれない。
それは勘違いさせてごめん。それはそうとして顔も知らん会ったことのない人間と
あと、LGBTに理解があることと趣味で腐女子やってることを混同する奴いるよな。
あれ嫌い。愛知県出身って言ったら勝手に名古屋出身だと勘違いされるみたいな…。
なぜか私個人の身の回りの離婚率が異様に高く、友達も知ってる限りで片親や毒親の方が
過程環境に問題のないご家庭と比べて、比率が高い状況です。未婚率も高い。
私自身も片親です。結婚をすることによって税金年金の免除などの多少のメリットがあるにせよ、
親戚付き合いや介護など、結婚することによって生じるデメリットが大きいのでは?
と思っています。どうせ配偶者は所詮他人なんだし、死ぬ時は一人なんだからその過程はどっちでもいいかな。
このように終わった結婚観なので、結婚が実現した後二人はどのような幸せな生活を送るのでしょうか?
現実の話でもフィクションの話でもいいけど、オタクくんがどういう社会を築きたくて
なんで?なんのために?気まずくない?
品定めや口出しされるのも腹立つし。
現ジャンルは、アイドルゲームなのになぜか政治軍隊革命君主その他犯罪行為に
かかわるキャラクターで構成されており、今はお腹いっぱいだから。
私は二次創作に啓蒙的な役割を求めてないので、現実性や政治的なメッセージを
過度に入れ込むことはないのかな、と思います。デメリットもでかいし。そういう
実用的な知識や問題提起はオタクくんの描いた創作物楽しませてもらってからゆっくりしていい?
とりあえず今回は活動的で声の大きい方々が暴れて悪目立ちしただけだと思っている。
もちろん主張し続けること自体は大切なことだと思うのですが、私はやらないかな。
ペット飼うならカニとかカブトムシとかパワーがあったり、ウナギとか鯉みたいにタフな生き物がいい。生物たるもの力強くあって欲しい。
でもそもそもおれは支配というものが嫌いなので自分もあんまりやりたくない。生物に人間のような自我あるのかなんて知らんし、あっても別に可哀想だとかは思わんけど。おれの個人的なポリシーの問題だし。
なんで支配を嫌って脱走するくらいの気骨ある生き物がいい。前にどっかで家に置いといたヤシガニが金網をひん曲げて脱走したみたいな記事を見たけど、ああいうのが理想だ。水槽から抜け出したウナギが干からびる事なく生きてたなんて話もあるけど、それも趣深い。
カブトムシくらいなら逃げてもまあ別に生きていけるだろうし人を怪我させたのなんので責任問題にもならんだろうけど、いくら力強いと言えど虫かごから脱走することなんてあるんだろうか。
赤ちゃんは寝ない、泣きどおし、寝不足、離乳食は食べない、いつも騒がしい……
いざ産んでみたら、
新生児期から夜はミルクは要求するために起きるけど腹が満たされたら即寝て、
昼はしょっちゅう昼寝しながらもわりといつもご機嫌で、
ばー、なんてあやすとキャッキャ笑い声を上げて笑うし、
散歩に連れ出したら大人しすぎてレジでおばちゃんに「よく寝て……あれ起きてる!?大人しいね!」と驚かれ、
離乳食は何あげても前のめりにもぐもぐ食べて、
相応に義父にしっかりと顔見知り発動して泣いてくれるわりに、義母や私が抱っこするとすぐ泣き止んでくれるから育児の支援も受けられつつちょっとした優越感も得られて、(むしろ嘘泣きか?というくらいすぐ泣くし泣き止む)
なんというか、むしろ拍子抜けするほどにとんでもないイージーモードの育児だった。
あまりに問題がなさ過ぎてネット以外では自慢になりそうで深く話せないほど。
もちろん赤子ができて夜更かししてゲーム出来なくなったとか、朝は6時半には赤ちゃんが起きるから早寝早起きにはなるとかはあったけど、
なんというか、大人二人の生活に自然に赤ちゃんが増えた幸せを享受してる。
マジでただの自慢です。匿名でもないと逆に書けないよね今の時代。
[以下追記]
子供は無限に可愛いよね。自我が出てくるのは怖いけど楽しみだわ。
呪詛吐いてる人も居るけど生きるの大変な人かな?がんばって生きてくれ。知らんけど。
発達については親が死んだら代わりに介護が必要になりそうな若い身内がいるからあんまり他人事じゃないんだよな。
ま、何かあったとしても3歳くらいまではわからんもんだし、それも運命と受け入れるよ。幸いに知識はすでにあるもんだし。
なんか軽く見てて一番「そうかも」って思ったのは、
「つまりそれまでゲームするか夜更かしするくらいしかやりたい事がなかったからじゃない?
実際は子供いたら出来なくなる事、他にも山ほどあるよね」
ってやつだわ。ソレが一番我が身を顧みた。
もともと牧場物語系のゲームを発売から一ヶ月とかは仕事から帰ったら寝る間も惜しんでやり続けて、専スレとかまとめwikiの攻略質問とかバグ報告とかにコメントするのが趣味の人生だったから、30分スパンで20人近くの住人にひたすら話してプレゼントして……みたいなことやるよりは育児のほうが遥かに楽なのはあるかな。子供の容赦の無い鷲づかみは痛いし、大声で叫ばれれば耳も痛いけどコントローラー持って指が痛いよりは遥かに健全な気がするし。
ま、またイヤイヤ期くらいのころに叫びに来るかもしれんけどよろしくな。
お元気で。