はてなキーワード: 統合失調症とは
統合失調症=犯罪者予備軍というステロタイプが日本に浸透しているから
逆に、統合失調症にも色々あるよね、ていうのが浸透してたら別に問題にならない
統合失調症=犯罪者予備軍というイメージを強化させる作品は、ステロタイプを強化させる意味でメジャー作品としては歓迎されない
集英社がクレーマーに屈したという意見もあるけど、統合失調症の症状がわかりやすく記載されている以上、統合失調症の方々への偏見を助長させないために表現を修正したことは妥当だろう。
今回の件は、特定の個人・団体に影響が無いため公共の福祉の制約を受ける範囲外なんだろうけど、統合失調症の対象者の範囲が狭いから、問題になってしまう。
統合失調症の方々に悪影響が出る可能性がある表現をそのまま放置することは、表現の自由の濫用と感じる。
なお、繰り返しになるが、元の表現であっても法律上の問題は無いだろうし、公共の福祉の制約の範囲外だろうから、今回の判断の基準は、倫理・道徳(2021年最新)の問題だろう。
統合失調症だけじゃないんだよ。今回の例で他の障害者やらポリコレやらフェミやらその他諸々も介入しやすくなったといえる。統合失調症だけの限定的な配慮だけじゃ収まらなくなっていく。
別に作者が明言しているわけでもないのに、多くの人が『ルックバック』に京アニ事件を読み込んでいるという事実は
それだけで彼らが統合失調症患者を「意思疎通の出来ない危険な存在」とみなしていることの証左だと思うんだけど。
それを無視して「なにも統合失調症患者がみんな意思疎通の出来ない存在だとは思っていない」という主張は難しくないか? と思うんですが、どうでしょう?
だいたいTwitterで言い尽くされてるんですが、
は全部地続きなんですよね。自分は統合失調症ではないけど。ここの肌感覚がある人とない人――まあない方が幸せなんですが――ではやはり受け取り方が違うと思う。自分は修正前の描写にはどうしても引っかかりを覚えた側。作品全体のパワーがそれを些事とするほど圧倒的に強かったのは事実ですが。
大前提としてあれは創作物なんだし、それが誰かを傷付ける(もっとはっきり言うと「ただでさえ生きづらい人の人生をさらに困難なものにする」)ものであっても別にいいとは思うんですよ。とゆーかそれ自体があの漫画のテーマの一つだった説もある。ただ、それならそれで思慮と覚悟が必要だろうよと。「幻聴に駆られて人を殺す男」という描写を選ぶことが必然だったのであれば、必要なのは安易な修正ではなく説明だった。あるいは編集部の名前において「我々が責を負う」という言明だった。逆に単に文字をちょいと書き直すだけで済む話なら最初からそうすべきだった。どっちにしても残念な展開だな、というのが素直な気持ちです。
あと「京アニ放火事件に重ねてるんだから精神病患者が出てくるのは当たり前なのでは?」という話について。
とゆー事実関係を踏まえた上でなおもそう主張する人がいるのであれば、「精神障害者が無差別殺人を起こす」という偏見の見事なサンプルになってしまうので、みんなのために静かに口を閉じておいた方が良かろうかと思います。よろしくな。
【追記】
https://anond.hatelabo.jp/20210802181530 自分が意図した通りの回答をしてくれた人がいるのでリンクを張っておきます(ありがとうございます)
微妙に話が通じてないな
それとは別に、というか同時に「誰が言ったか」を当事者側が触れないのは
外側から見た時に「なーんだそんなもんなのか」と
恐らく一番リーチすべき「うっすら偏見持ってるけど統合失調症に関心は薄いルックバック読者」がしらけてしまうよという話
全体として損してるよねっていう
雑誌掲載時と単行本化と、その後の重版の際で台詞が異なることはよくある話。手塚治虫のように時代に合わせて数年単位で変わるものだってある。
ただ今回のは作品の評価と認知度が一気に高まったのと、それに合わせた批判側が極めて声が大きく、世間というより極一部の人の個人的な見解同士がガチンコした形にちかいものがあった。実際に変えないと収拾が付かないってのはわかる。ただ、どっちの場合でも自分の意見がとおったような愉悦に浸るのはつまらないことだなって思った。
台詞を変えても、「統合失調症への差別であるという俺の意見がとおった」
台詞を変えなくても、「変えない方が良いという俺の意見が正しかった」
落とし所って大事だよな
BLMが盛り上がってた頃に、ホワイトセイヴィア(白人の救世主)が話題になった。映画においては白人が最後に救世主の役割を果たすことが多い、という話で、派生して黒人の描かれ方も俎上にのぼった。犯人役として蛮行をおこなう黒人像はもちろんのこと、マジカル二グロ(ちょうどいいところで白人のアシストをしに来る黒人)なんてのも、もうポリコレ的に描けない状況になった。
藤本タツキの『ルックバック』で統合失調症に誤解をあたえるような表現があったとして変更があったらしい。個人的に、こうした声に創作物が左右されていくのはとくに興味がない。社会がそう変わっていってみんなが幸せになるならそれでいいんじゃね、と思う。
でもさ、もう統合失調症を悪く描けないのだとしたら、それはそれでどうなの?って感じもする。
例えば極端な話、推理ものの映画で、犯人候補が統合失調症患者、ゲイ、黒人、白人だとしたら、もう犯人は白人で決定なんだよ。だってそのほかは「まるで〇〇全員が殺人鬼であるような誤解を与える」って言われたら終わりだから。
ルックバックだってそうじゃん。別に統合失調症って単語も、統合失調症を主人公が憎んだり悪しざまに罵ったりする描写がなくてもこのザマなんだから。
商業的にリスクなく悪役として描けるのが「社会的な強者」しか残らない、っていういびつな構造なんだけど、その辺はどう考えているんだろうね。
糖質が「京アニ事件をネタにしてるぅうううううううううううう!!!これは統合失調症を馬鹿にしてるぅううううううう!!!」と下らない妄想を喚き散らしてそれにジャンプ側が屈してしまった
ラッスンゴレライやディズニー公式ツイッターの「なんでもない日おめでとう」に因縁つけて発狂してたネトウヨみたいな連中を相手にしちゃダメなんだよ
「統合失調症ってなに?」という人が大半だろう
少年ジャンプ+に載っている藤本タツキ氏の漫画「ルックバック」が以下のように修正されている
修正前
111ページ目
「オマエだろ馬鹿にしてんのか?あ?」
「さっきからウッセーんだよ!!ずっと!!なア!!」
男はこの時も被害妄想により自分を罵倒する声が聞こえていたと供述
「うるせええええええ」
113ページ目
「オイ」「ほらア!!」「ちげーよ!!俺のだろ!?」
「元々オレのをパクったんだっただろ!?」
「ほらな!!お前じゃん やっぱなあ!?」
修正後
111ページ目
「なああああああああ」
113ページ目
「オイ」「見下しっ」「見下しやがって!」
さて、この2つの描写を比べた時にどちらが統合失調症の患者に近いセリフかと考えるのならば
どちらでも無いというのが正解だろう。
それは例えば精神科医の斎藤環先生も似たような事を言うのでは無いかと思われる。
そもそもこのようなセリフでもって犯行に及ぶ事と統合失調症であるかは関係ないというのは既に何度も指摘されている筈だ。
ただ現実で京都アニメーションのスタジオに侵入して放火を行った青葉真司容疑者が修正前のような事を言っていた事と
なので「『青葉真司容疑者が犯行に及んだのが統合失調症のせいである』と考えてしまっている人達がそのような偏見を強めてしまうのでは…」
と恐れている人達にある程度配慮した修正になっているのは確かなのかもしれない。
でもこのような持って回った言い方での配慮した修正を行ったと言う事は出来ても
差別を減らす修正をしただの統合失調症の特徴を想起させる表現を修正しただのと端的に言ってしまうのは間違いだと思う。
twitterやはてなブックマークでは一見統合失調症に配慮しているという姿勢をとっている人が
そのような端的な評価をしてしまう事があるが、その端的な言い方自体が統合失調症への偏見を無くさない事へ繋がってるのを認識して欲しい。
今回の修正は単に青葉真司容疑者の特徴と離れるような修正を行ったに過ぎず
(それが漫画の意義が変わってしまったという批判はあるのかもしれない)
・修正前の方が、犯人も創作者だったことを仄めかしていたぶん、キャラの対比もあって構造としてはよかった
・でも統合失調症に対する差別を助長すると言われればその通りだと思うし、修正は妥当だと思う
・でもそういう批判が来ることを予想してなかったのかよと言う気持ちもある
・この修正を批判してるネット民、地上波のドラマに典型的なオタクっぽい外観の男性が犯罪者として登場したら烈火のように怒りそう
・そもそも最終的に修正するかどうかは当然作者の判断が入っているわけで、「作者は不本意に違いない」という前提で話してるやつが多過ぎ
・「今後あらゆるクレームに対応を迫られる」とか言ってる人が結構いたけど、そんなの都度対応すべきものだけ対応すれば良いだけだろ
たまに脳内で実在しない人間、いわゆるイマジナリーフレンドと会話することがあるんだけど、これってどれくらいの人がやってることなんだろう。社会学者の古市さんが同じようなことをしてるってのはテレビで見たことがある。スタジオドン引きだったっぽいけど。
自分は若干メンヘラ入ってるくらいで統合失調症でも解離性同一症でもないし、イマジナリーフレンドと話すことで日常生活にほぼ影響はないんだけどさ。まあこんな話は家族にも友達にもできないのでここに書き捨てる。
とりあえず自分の中にいるイマジナリーフレンドとか人格について書いてみよう。
頭の中で会話するときは、「自分自身が話している」というより「自分の中にある『自分』という人格が話している」ような感覚がある。よく分からんけど、現実世界と違って建前が一切なくなるからかね?
自分とタメくらいの男。顔は曖昧だけど背は高めで細身。これといった特徴はない。優しく無害な人間。
中学生の頃、自分が女であることが嫌すぎて作った男の人格。当時は「サトルが本来の自分で、女の自分は自分じゃない」と思っていた。厨二病だね。恥ずかしいね。
高校入って以降(自分が女であることを受け入れてから)は、主に話の聞き役、相談役になっている。主人格が精神的に疲れて虚無になってるときに呼び出して話を聞いてもらう。話は聞いてくれるが解決策は提示してくれない。
彼に対して恋愛感情とか全くなく、「裏側の自分」みたいな感覚。
5個上くらいの女性。眼鏡をかけたバリキャリOLみたいな外見。美人で胸がでかい。
就職して以降現れた人格。完璧主義で攻撃的。落ち込んでるときに現れて「役立たず」「甘えるな」「早く死ね」とか罵ってくる。口答えは許されない。ドン底まで落ち込んで心臓が痛むくらい傷つくので正直あまり出てこないでほしいけど、自分が深層心理でそれを望んでいる自覚はある。希死念慮を補強してきやがる。
インナーチャイルド。成人して以降ふとした瞬間に出てくるようになった。会話は不可能で、脳内にできた実家の部屋で彼女が泣いているのを外側から傍観するしかない。モラハラ父とアル中母に挟まれて大変だね。出てくると気持ちが沈むのであまり出てきてほしくない。フラッシュバックとは違う感じ。
以上、自分の場合こんな感じ。読み返したらだいぶやべぇなって感じだけど笑
同じようなことしてる人いたらぜひ話聞かせてね〜