はてなキーワード: 確率論とは
判断というのが確率的な期待値を目標にして何らかの行動を起こすことだとすると、それはn数を稼げる人(警察で対策考える人とか)にしか意味のない考え方
踏んだら一発アウトのケースでは期待値を目指そうとしてもn数が稼げないので結果が収束しない(期待値が得られない確率が上がる)
「n=1の話は意味ない、私のnは50万だ 」みたいなやつ(もう消えた)に対する反論のフォローのつもりだった
n数を稼ぐことはやり直せない事象において個人の確率的な判断に寄与しないという意図
「なんか確率低いからOK」の判断はみんなどこかで線を引いてやってるものだと思うけど、その線の上か下かっていうだけの話だと思う。そこにはそれほど思いはない(追記:主張がないということではなく議論する気はない、しても仕方がないという意図)
(それを確率から判断しているというか確率っぽい数字やその他いろんなものを見て総合的に判断しているというかは人によるのでは?自分はそれは確率的な思考ではないと思う。)
ただ、50万の話は全体の確率であって風呂場で親の目がない場合の条件付き確率は考慮されるべきだとは思う
n数あげると結果が収束するから確率論の予測が当たりやすくなるけど、n数上げられないと収束しなくて確率論が絵に描いた餅になるよ
だからn数上げらんないなら確率とか気にせずに世間でやっちゃいかんとされとることはやらん方がいいよ
っていう感じ
我々の空間は四次元方向に歪んでいる。つまり移動するにつけても四次元目の座標の値が変化していることを知覚できない(我々の身体自体が四次元的に歪んでいることも)。
地球の北極と南極間をz軸が貫くように座標系をとれば、北極から南極に渡ったときz以外のx,yの値がもとに戻るように、宇宙が三次元球面という仮定上では、宇宙全体において我々がいまこの瞬間にいる地点と我々からもっとも遠い地点を四次元目のたとえばu軸が貫くように座標系をとれば、我々の今いる場所ともっとも遠い場所の(x,y,z)の座標が同一になる。
四次元という視点から見て宇宙全体のその形状は(かなり)扁平な碁石のようなものだ。
量子が確率論的にそこにあったりなかったりするのは、u軸のもとでその振幅のたびに、我々の地点とそこから最も遠い所を通過することを繰り返しているからではないか。
量子にとってみればこの世界は扁平すぎる。このことが量子の非局在性と少しは絡んでいるのではないかとにらんでいる。
またここから予言できることとして、我々からもっとも遠いところにもし光などがあるならば、それは我々のいるところでも観測されうるものではないかということだ。
というのはまあそのとおりなんだけど、どちらを仮定しても見えてる現実は同じ。仮定が違うだけ。
なぜ見えてる現実が同じかというと、
だから多世界があるかとかそういうのを証明するには量子自殺というのをしないと検証できないらしい。
量子もつれに対して今持ってるイメージ。量子もつれが量子間の距離に関係なく起こることを非局在性によるものと言って片づけるのははっきりいって説明から逃げてるだけだよな。なぜ空間の大きさなど無視しているかのように振る舞うのかか疑問なのにそれに対して非局在性があるからというはトートロジー的というか理由になってない。
二種類の色玉が入ったガラガラ回すタイプの抽選機があったとして、この抽選機は普通のものと違い玉の出口にホースのようなある程度曲げたりできる、不透明な筒が垂れ下がった状態で接続されているとする。
抽選機を回せばどちらかの玉が排出されるが排出口と筒の入り口はぴったりくっついてるので何が出たかは確認できない。
玉は重力に従って筒の中を安定した速度で転がっていくが、とにかく転がっている先の方で筒を切ってみることではじめて何が排出されたか確認できる。
この玉が何が何色かわかれば抽選機に入っている残りの玉の色も観測せずと確定する、という具合か。
最初に抽選機に玉を入れる作業が人為的に行うもつれの設定に相当する。でも具体的に各量子にがどの状態であるかについては人為的に設定、関与できないから、どの色が排出されるかが確率論的であるように、量子もつれという現象が起こるのではとイメージした。このイメージだとなんの不可思議なことは起こっていないことになる。確率論的であるからといって抽選玉が重ね合わせを起こしているわけでは当然ないのだから。
まあこのイメージは多分穴があるんだろう。
なのでもう一つ考えておく。
凸型と凹型の互いがぴったりくっつくパズルピースの一方を誰かに運ぶとする。
ただしそのパズルピースは加工される段階で凸型と凹型に分離する前に、決まった面積の判子がランダムな位置に押されたうえで、各ピースにそれと同じ大きさの不透明な薄片がぴったり貼られる。一連の流れはブラックボックスのなかで機械処理によって行われ人間は完成品だけを見ることができる。
運ぶ側が凸を運ぶか凹を運ぶかの指定はできる。これはもつれを設定した量子のうちどっちのモーメントを送るかということに相当する。
しかし測定器を傾けた場合にどう観測されるかというところまでは人為的に関与できない。傾けた場合に観測されるモーメントがピースの片方に押された分のハンコの面積に相当する。
送られた側は薄片を剥がしてハンコの面積を図れば、送った側が持っているピースのハンコの面積も確定するという具合か。
ようはモーメントを矢印とみなしたとき、人間が指定できるのは、左か右かということだけ。←、→。
しかし人間はこれを「平面的にしか」捉えられない。というのもこれは、上あるいは下にも矢印が突き出た矢印のようなものなのだ。Lがたの積み木のようなものを上から見れば出っ張っているかどうか分かりづらくなる(場合によっては分からなくなる)ことを想像してほしい。
もっといえば左か右かということは指定できるが、それが「左手系」か「右手系」かには関与できない/いままでのもつれを確かめる実験でしてこなかったようなものだと思う。
左かつ左手系(上)なら、もう片方のもつれの関係にあるやつは右かつ右手系(下)なんだよ。同じ左でも右手系ならその相棒は左手系なので上なんだよ。もつれを調べる過程でモーメントを指定する過程において、そのモーメントがここでいう右手系のものか左手系のものなのかは観測できないので区別できないから、こういうことが起こるんだと思う。観測できないなというのは、観測したら確定しちゃってもつれがあるかどうか調べられなくなるからね。
確率というのものは、数学的構造としては面積とほとんど全く同じなんですよね。
つまり、重なっていない土地の面積は足すことができるとか、重なっている土地を合わせるときは重複を差し引かないと合計面積にならないとか、そういうことです。
普通の意味での面積との違いは「全体の面積は1」ということだけです。
(これを測度論的確率論と言います。より詳しく言うと物理的な面積にとって意味のある測度はルベーグ測度ですが確率空間の場合はそれに限らないため、無限要素数や連続体濃度が関わってくるときに違いが出てくるわけですがまあそれは普通は考えなくていいことです。)
面積とほとんど同じ意味しか持たない確率という構造それ自体に「ある特定の家族の子供が女である確率」とか「家族を100組集めてきたときの頻度として子供が女である確率」とかいう意味を自然に持たせることは不可能です。
そこはユーザーが別途やるしかないわけです。具体的には、面積の切り方のパターンを全列挙してこの面積はこういう意味(ある特定の家族の子供が男であるという意味、など)、この面積はああいう意味、という感じで、面積の切れ端と表現したい意味の対応づけを逐一定義する必要があります。これをやって初めて意味を踏まえた確率の議論ができるようになるわけです。
(これがσ加法族および確率変数の定義ということになります。)
モンティホールや元増田の設定などで毎回毎回議論が紛糾するのは、議論している人それぞれが頭の中に浮かべている面積の切り方のパターンと意味づけが異なっているからです。違うσ加法族、違う確率変数についてあーでもないこーでもないと言っているわけです。違うものを議論しているので意見が一致することはありません。
確率という構造およびそれと現実との対応について、何を明記すれば同じものを考えていると思ってよいかを整理したのがコルモゴロフの測度論的確率論の偉大な成果です。これは現実における確率の議論において避けることが絶対にできないものですが、中学高校の教育課程ではこのことを巧妙に避けて教えようとしているのが問題ですね。結局失敗して確率を国民に理解させられないままになっているから毎度紛糾するわけです。
まともに議論をしたければ、自分が想定しているσ加法族(面積の切り方のパターン)と確率変数(標本空間から実数値への、想定したσ加法族に対して可測な写像)を明示しましょう。それ以外に解決法はありません。
https://cruel.hatenablog.com/entry/2022/10/30/214634
※ブコメでは、上記記事中における確率の議論が不正確なことを揶揄するコメントも多数見られますが、個人的には、こういう一見逆説的な問題設定を作り、それを上手に言語化されているのがとっても素晴らしいなと思いました。一般に、良い問題を作るには優れたセンスが必要で、それと比べれば、(私を含め) 単に問題が解ける人なんてのは大したことないのです。
以下では、該当箇所を引用しながら回答を書いていくので、先に上記の記事を読んでいただければ幸いです。
また、表記の都合上、以下ではプレイヤーの「ぼく」を「Y先生」、「ハギーワギーくん」を「HW君」と書きます。
(引用)
理屈はまったく同じだ。あなたは当然、ハギーワギーくんにも選択を変えろと助言する。つまり、BのドアよりもAのドアのほうが確率が高いぞ、と言うわけだ。それは……ぼくが最初に選んでいたやつだ。
結論から言うと、このときHW君は選択を変えるべきではありません。
Y先生は最初にAのドアを選んでいて、司会者はBとCのドアのうちCはハズレだと明かしました。
ここで重要なのは、Y先生が事前にAのドアを選んでいたという事実ではなく、司会者は必ずBとCのどちらかのドアしか開かない (Aを開くことはない) ということです。
であり、これらは同時に起こらない (排反事象である) ので、
となります。したがって、
ということで、「司会者は必ずBとCのどちらかしか開けない」という制約のおかげで、Aを選び続けるよりも、選択を変えたほうがお得になるという寸法です。
司会者はHW君がどのドアを選んだかとは関係なく「BかCのどちらかのドア」を開けます。一方、なぜBかCのドアしか開けないのかというと、これはY先生が最初に選んだドアがAだからということです。ここに、Y先生とHW君の非対称性があるわけですね。
ただし、Y先生とHW君との違いはこの点だけであって、仮にCのドアがハズレだと明かされたとすると、Y先生もHW君もBのドアを選んだほうがお得であることに違いはありません。
(引用)
でも……この説明だとハズレドアを一枚あけるという行為、あるいはそれがもたらす情報は、ぼくの選ばなかったカードにだけ影響するようだ。なぜ?
上記の説明で納得いただけた方には、この点は簡単かと思います。上の繰り返しになりますが、「司会者は、(Y先生が選ばなかった) BとCのドアしか開けない」ということが本質であるためです。
(引用)
「選んだカードを変えますか?」という問題ではなく「最初の選択をご破算にして、どっちか選びなおしてください」という問題設定にしよう。そうなったら、どっちかのドアの後ろに賞品があって、それは等確率だから、どっちを選んでも確率は1/2だ。それが、最初にぼくが選んだドアか、そうでないか、というのはまったく問題にならない。そうだよね? (上にあげたWikipediaページにもそう書いてある)。
残念ながらこの主張は誤りで、問題の言い方を変えただけでは話は変わりません。これも上記の HW 君と一緒ですよね。最初に何を選択していたとかは関係なく、「司会者がBかCのドアのうちハズレのものを開ける」という事実 (Aのドアは開けないという事実) さえ確かであれば、 BとCのうち残ったほうを選べばお得なのは変わりません。
※Wikipedia の英語記事をざっと一通り見ましたが、該当箇所は見つからず……
(引用)
どうもこの一連の話では、ぼくが最初に「Aの扉を選んだ」というのがずいぶんご大層な意味合いを持ってしまうようだ。でも、「選ぶ」と言ったって何かを変えたわけじゃない。「こっちかなー」と思っただけだ。
Y先生がAのドアを選んだことを「司会者に伝えた」というのが何より重要なポイントです。この行動によって、司会者は (Aを除外して) 必ずBかCのどちらかしか開けないという状況に立たされるわけです。