はてなキーワード: ゴードンとは
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4151101012
SFの古典であると言われる本書でありますが、そうでなくとも昔に話題になった作品なんじゃないでしょうか。ちょっと前に日本でもなぜかドラマ化されてユースケサンタマリア辺りが主演でやっていたようなかんじ。
海外SFを読み始めようと思って有名作品を手当たり次第よんでるねんけども、これも読みたいなぁと思っていて、ふと家の本棚を見たらあった。誰や買ったの。
内容としてはSFといえば宇宙だのタイムマシンだの思い浮かべる方が多いでしょうが全然そんなのではなく、純粋な空想科学小説であり、且つ、知能とは何かを問いかけるような哲学的な思想もふまえた作品である、とかいう感じでしょうか。
話は主人公であるチャーリー・ゴードンの手記(というか報告書)によって読み進められていくという形式になっている。
知能が高いと言うことは、果たして良い事なのか、等考えさせられる作品。そしてとても切ない気持ちにさせられます。
途中中だるみする部分もありーの、最初の方は読むのがしんどい部分もありますが、名書であると言えるんじゃないでしょうか。悲しくはなったけど、泣けはしませんでした。映像作品なら泣いてるな、と思った。SF初心者の方々は是非読みましょう。
なんか「○○に××を」みたいな題名ばっかりですが、筒井康隆の中期くらいの長編作品です。別にまだ生きてはるんで、中期もくそもないんですが。筒井康隆の名前はちょくちょくあがりますが、確実に言える事としては、短編やジュブナイルは読みやすいが、長編は読みにくい、という事。短編やジュブナイル(中高生の若者をターゲットに絞った小説のこと)が読みやすいのは辺り前といえば当たり前なんですが、筒井さんの長編は難解な事で有名でありまして、それが逆にファンを作ってる見たいな所があって、結構どたばたな内容で、よくわからんまま終わってしまうこともあるわけなのです。よくわからんってことも別に無いけど、想像力を最大限に働かせないとついていけないって所はある感じ。まあ普通の人が読んだら、何これ意味わからん、といって切り捨てるでしょう。「残像に口紅を」はそういった筒井長編の中では、かなり実験的な試みがなされている内容になっていて、有り体に言えば「一章を進む事に、1文字ずつ使える文字が減っていく」というトンデモな内容となっているのである。
当然文字が消えれば小説なので、その文字で表す事のできる事象、物、人物名などすべて表記が不可能となり、作中からは存在そのものが消えてしまう。消えたものは意識化では思い出せるが表現ができないので、それこそ残像のような形になってしまうのだ。
また、作中はメタフィクションな構成になっており、作中人物が、自分がいるのが小説の中であると言うことを認識して、文字の無くなった世界でこういう事をやってみるのはどうかなど、提案したりしてより実験度が明るみになるような内容になっておりおもしろい。
しかし、使える文字が半分以下になっても、しっかりと文書を構築できる筒井さんの語彙の深さには恐れ入るばかりなのです。小説家を目指す人はこういう事ができるようにならないと行けないらしいので、一度読んでみましょう。
これかなああああああああああああああああああり前から気になっていて、映画化されたやつも見たかったけど、見る機会なくてやっと文庫買って読んだってやつ。前にも書いたよね。よね。ですよね。でもないんですよね、どこにも。
内容は松本清張や宮部みゆきが書きそうな感じのミステリって感じで、二転三転する展開構成はおもしろいです。話もうまいこと出来てます。後は、現在の日本の死刑制度とか裁判制度とかそいうった所に焦点をあてていて、まあ社会派サスペンスって部分も兼ね備えている大人のミステリって感じですね。
読んだ後少し陰鬱な気持ちになるような感じかしら。そうでもないけど。
しかし、話はようできていておもしろいです。一度読んでみる価値はあり。二度は必要なし。
これはなんとも新しいというかなんというかな設定の本です。この西澤さんという人は、SF的な設定での「縛り」を設けて、その設定の中でミステリを書くというすごい人らしい。本作の主人公はパラレルワールドを関知できる、というと語弊があるが、時間の繰り返しを認識する事ができるという能力を持っている。これは同軸時間上に異なる次元が平行で存在するという科学的概念があってこそ成り立つ仕組みなんでしょうが、要は同じ日が何度も繰り返されてしまい、その事に気づいているのは自分だけであるという設定になる。このSFばりばりな設定上で、主人公の祖父が殺されてしまい、祖父を助けるべく時間が繰り返される度に試行錯誤を繰り返す、といった物で、まあミステリといってしまうと、そんな物でもないんですが、ラストには驚くべき謎が残されていたりして、そんなこととは思わず読んでいたらびっくり、てな具合でした。
設定もおもしろいが、話も計算されていて、尚かつヒントや複線はそちこちにちりばめてあるという素晴らしい構成。いや、こういうのすごい好きです。SFとミステリが同時に楽しめるのだから二倍お得。文章はちょっとライトノベル風って感じではありますが、さらっとギャグがはいったり、随所で笑わせてもらえます。
他の作品もそれぞれ違った縛りが設定されているので、今後西澤さんの本も読んでいきたい所。
いや、これはすごい。この作品はメフィスト賞受賞作品の中でも評価が高く、所謂叙述トリックものである、という前評判を知っていながらもまんまと騙されて、頭が混乱させられた。
まあミステリたくさん読んでる人からしたら大したことないわって感じなんかもしれませんが、これは京極夏彦並、とまではいかんけど、宮部みゆきよりはすばらしいです。あ、比較対象がわるくてあんますばらしくないかも。
設定も斬新で、「ハサミ男」とマスコミから呼ばれている連続殺人犯である主人公が、次に殺人しようと狙っていた女学生を、別人に自分がしてきた手口とまったく同じやり方で、先に殺人ををされてしまい、真犯人を見つけるべく捜査を開始するという、トンデモ設定であります。
「ハサミ男」というとジョニーデップのシザーハンズなんかを思い出しますが、こちらの方はハサミをのどに突き立てて惨殺する連続殺人犯という設定なのだから、いったいどう収拾つけるのか、展開がまったくよめずハラハラドキドキで、最後にドーン、みたいな。
綾辻行人とか、本格推理系が好きな人は一度読んでみて下さい。これは絶対読み返したくなる。ざったい。はざみ。すみとみ銀行。
言わずと知れた、待ちに待った京極夏彦です。発売当日に買って、一ヶ月もかけてやっと読み終わりました。
いやはや、うーん。何はともかく京極ワールドといった所なんでしょうが、やはりこの京極堂シリーズは少し迷走しているというか、方向性が変わってきてる感がぬぐえない。
ただ、今回は「小説」としては楽しめるんじゃないでしょうかね。毎度の妖怪うんちくや、蓄積された謎と複線の解明とか、そういったモノがないといえばないんで、京極ファンとしてはちょっと肩すかしって感じでしょうか。
話にしても構成にしても、人間がたくさん出てきて、時間軸が読めなくて、不思議がもわもわ沸いてくるという辺りは毎度のごとく、さすが京極というような内容ではありました。どちらにせよ京極夏彦のすごい所は単発の話のおもしろさは当然の事ながら、内容の連鎖制というか繋がりというか、壮大的な世界構成といった所にあると思うので、やっぱり最初から読んでるファンじゃないと楽しめないよなぁとつくづく思うわけである。
でも、巷説百物語シリーズとかはほんまに名作だと思うので、まわりに薦めて行きたいけど、それを読むには前知識として、他の京極堂シリーズ等を読んでいる必要があるので、少しハードルが高めなのが残念。
なんかたくさん書いたよ。まったく。書く意味あんのかな。
それはそうと寿司が食いたい。すししししししし。
握るやつでもまわるやつでもなんでもええわ、と思ってしまうあたり
夜中、大学のプリンターでエントリーシートを印刷して、そのままチャリで自宅のマンションに帰ってる途中のことだった。
見てみるとそれは、小学三年生か四年生ぐらいの男女3人組だった。男の子が二人、女の子が一人。手にはお菓子やらアイスやらが握られていて、彼らはそれをペロペロと舐めながらテクテクと夜道を歩いていた。
塾の帰りなんかな、くらいに思ってそのまま横を通り抜けようとした瞬間、ちょっとスルーできないものを見てしまった。
子どもたちの中の、一番背の小さい坊主頭の男の子が、ポイっとビニール袋を投げ捨てたのだ。
さすがにこれは黙ってられねーと思い、チャリを止めてその坊主に後ろから呼びかけた。
「おい、お前何やってんの」
坊主は振り向いて、眼を丸くし、黙ってすぐにさっき投げ捨てたビニール袋を拾いに戻った。
聞き分けが良くて助かったが、さすがに黙ってその場を去るのはどうかと思い、「信じらんねーよ」とだけ言って彼らの横を通り過ぎた。
その後、他に言うことなかったのかよ……と反省しながらチャリをしばらく走らせていた。
だけどまぁ、坊主が指摘された後すぐにビニール袋を拾ったことは確かなので、そんなに気にするほどのことでもないのかもなー、と思って、思考をこれから書かなくちゃいけないエントリーシートの方へ切り替えようとした。
だが問題はその後である。
チャリでそのまま道をまっすぐ進み、子どもたちからおよそ70〜100メートルは離れたかと思われるころ、後ろからあのガキどもが叫ぶ声が聞こえた。
「うっせーんだよじじいー! ギャハハハハハ……」
……なにこれ、文字列にすると超可愛らしい。なんかこんなことにムカッときた俺が器が小さいみたいじゃん。(実際小さいのかもしれない。いや多分小さい)
はいはいそうですね、君たちにとってみれば21歳の就活生とかただのクソジジイですよね。
まぁそれはおいといて――
よっぽどそのまま回れ右してあのクソガキどもをとっ捕まえてやろうかと思ったけど、そんなことしても逃げるだろうし、逃げたそいつらを追いかける気力はないし、ヘタしたら児童虐待で明日のYahooニュースのトップで実名で報道されちゃうかもしれないしで、とにかくやめておいた。
でもね、その後色んなこと考えたんです。
なんか、あの瞬間わかったのだ。見えてしまった。こないだ見た映画『ルーパー』のクライマックスのジョセフ・ゴードン・レヴィットの如く。
仮にあいつらをとっ捕まえて、その場で何分説教したとしても、ポイ捨てがいけないことをどれだけ懇切丁寧に説明しても、多分あいつらを反省させるなんて不可能だってこと。
だから、あいつらを、切り込み隊長風に言うなら「ペチーンとやる」以外で反省させる方法がないこと。
直感的にわかるのだ。10年程度昔に公立小学校に通ってた時の経験を思い出せばそんなこと肌感覚でわかる。
教室に缶詰させて、何が間違ってたのか自分で言えるようになるまで説教する?
いや、絶対無理だよ? だって知ってるもん。ああいうやつらの性根がそんなちっちゃいことじゃ変わんないこと。
俺の当時のその類(つまりクソガキ)の友達も、教師の前じゃ「ぼくが〜したのがいけませんでした。すいませんでした」ってしおらしく反省してても、説教終わって教室から出た瞬間「あのクソ(ババア|ジジイ)」ってその教師のこと罵ってたからね。そして今日会ったクソガキどもが同じ種類のガキであることは明白すぎるほど明白だ。もうね、その友達と態度とか振る舞いとかそっくりだったからね。
体罰「何が許されて何がだめなのか」 橋下市長も苦悩 線引きどうすれば…
だからわかりたくもないのに、わかっちゃったよ。このニュースの顧問の先生らの気持ち。(もちろんバスケ部の、全然悪いことしてないのに殴ったみたいな話は論外)
もちろん絶対にいけないことだし、暴力以外の方法探さなきゃいけないんだけどさ。
でも俺が当事者なら「このクソガキどもを更生させるにはボコるしかない」と思っちゃうよきっと。いや、ビビリだから実際はやらないけど。
Z武さんレベルの徳を積んだ人なら、暴力に訴える以外でどうすればいいのかわかるかもね。
だが、全ての教師にそこまでの人間性を求めるのははっきり言って酷だ。つーか無理だ。
ほんと、どうすりゃいいんだろう。この世に蔓延る『クソガキ』に対して、大人は暴力以外の方法でどうやって対処すればいいのだろうか。
つーか、よく考えたらあそこらへんに学習塾とかないし、そもそも周りは工場だらけで夜の9時にあんな小さい子らがプラプラ歩いてるのおかしい。近くの警察署につき出しときゃよかったかしらん。
イアン・ブレマーとデビッド・ゴードン「日本は最も頼れる同盟国である」
http://www.ft.com/cms/s/0/3b8ffadc-f82c-11e1-bec8-00144feabdc0.html#axzz26b7CnMWJ
スイスの教授、ジャン・ピエール・リーマンが反論「日本イラネ」
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/99321782-fb4d-11e1-87ae-00144feabdc0.html#axzz26b7CnMWJ
イアン・ブレマーとデビッド・ゴードンがなぜか寝返る(翻訳はTOEFLスコアに定評のあるチャイナネット)
http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2012-09/15/content_26531355.htm
・もはやほとんどの人が求めてなかったラーズアルグールサーガを引っ張った。
・ベイン役の人がチビなので引きの画面が辛かった。
・「都市を閉鎖」「爆弾で市民を人質に取る」は前作でもうやった。
・前作で笑って否定した「殴り合いで決着とかwww」を大真面目にやった、しかも2Rもかけた。
・黒幕のタリアが出てきたとたんしくしく泣き始めてでくの坊化した。
・タリアの言いつけを破ってブルースをすぐ殺そうとするのはあまりにもありえなかった。
たかが復讐でこれだけ偏執的な計画を実行しておいて手順を最後までちゃんとやらないのはありえなかった。
・間一髪で飛び込んできたキャットウーマンに砲撃されていい加減に退場は酷すぎた。
この「間一髪!」ってやるためだけにブルースを殺そうとしたのも酷すぎた。
・土壇場でババーンと黒幕バレして出てくるがその後別に何も面白いことをやらない。
・話の盛り上がり的には出てくる必要性が全くない。
・むしろ「ベインから焦点がぶれる」「ベインが急速にでくの坊化してガッカリ」など弊害が大きい。
・なんでその復讐に自分達の命を投げ打ってるのかもまるでわからない。
・ブルースへの復讐なら「父にベインとの仲を反対された」という情報は要らない。
・話の根を思想や正義の激突ではなく「女の恨み」にしてくれたので
キャラ配置の段階で変に役割もなく目立ってたからなんかあるのがバレバレ。
・本国ではキャスティングだけで撮影段階からバレバレになってたらしい。
・つまりこの映画の筋と噛み合わない原作の設定を持ち出している。
・レイチェルレイチェルって8年引きずってヒッキー化してる設定だったのに
突然自宅に押しかけてきたタリアといい感じになっちゃうのが意味不明。
・観客にタリアをヒロインだと誤認させるためだけの濡れ場なので
ブルースの立場からもタリアの立場からも有り得ない浮き上がったセックス描写になっている。
・牢獄カイロプラクティックで背骨を直すと軟骨摩滅した膝まで治る。
・突然インドまで拉致されて単身戻ってくる大富豪、というシチュが『ゲーム』っぽい。
・閉鎖されてるはずの街にどうやって入った、氷の上を這ったんか。
・ 大都市の地下で超核融合炉作って遊んでるこいつがどんなマフィアやヴィランより一番まずい。
・なぜ突然新エネルギーに執着したのかも過去作含め納得出来そうな理由が示されない。
テロリストに強奪されて爆弾に使われるために用意してたとしか思えない突然さ。
・出てくるたびに誰かを殴っている
・泥棒と言うより強盗ばっかりやってる
・覆面強盗だけやってれば無敵なのに
つい美貌も生かそうとしてお色気サギみたいなことやるせいで足がついたに違いない。
・ベイン&テロリストに拉致されても華麗な下水ダイブで脱出するゴードン。
・トラックをバットマンがボカボカ砲撃するけど耐えるゴードン。
・ついにトラックがクラッシュしてタリアは致命傷を負うがピンピンしてるゴードン。
・もう本部長ではなくジョン・マクレーンになってることを隠す気も無いゴードン。
・でもゴードンファンは大満足だからこれは別に欠点じゃないかもしれないゴードン。
・一見ゴードンと役回り逆なんじゃね?と思われがちなブレイク。
・だが「警察の限界」という着陸点ありきゆえに常識的な活動に徹するブレイク。
・ゴードンの組織を一切無視した単身ダイナマイト刑事(デカ)アクションを知らずに
「警官の限界を感じたので辞めます…」と辞意表明するのは結果的にすごくピエロっぽくなってしまっているブレイク。
「上着をかける」とかそういう精神的なことじゃなくて
妻子とも別居してるしね。
ttp://agora-web.jp/archives/815585.html
メディアの報道は直近の決算動向に集中しがちだが、株価にとってもっとも重要なファクターは長期成長予測なのである。
国民全体の所得であり一国で創出される付加価値の合計であるGDPの多くが企業活動から生み出されるのだから、利益の長期的な成長率とGDPの潜在成長率はほぼ同じものだと考えていいだろう。実際、ゴードンモデルの成長率は通常、GDPの長期成長率の予測値が使われる。このGDPが富のパイであり、GDPに税率をかけたものが国の税収でこれが福祉のための財源となる。このGDPを増やしていくことが極めて大切だと多くの経済学者は考える。小泉・竹中の構造改革もいかにして経済を成長させるかということを目的として政策がつくられたのである。
民主党政権が誕生してからの日本株の低迷は、世界の投資家が民主党政権では日本経済は成長せず長期停滞に陥るのだろうと予測していることを意味する。株価とはもっとも正確で客観的な将来予測なので、その意味するものは重い。残念ながら株価は成長戦略なき民主党政権が日本経済を長期停滞にたたき落とすことを予想しているのである。
ひとりでいる時よりも、他人と話したり遊んだりしている時のほうが、孤独感を感じる私は異常でしょうか? - Yahoo!知恵袋
絶対に分かり合えないんだ、という事を前提にしない限り、分かり合えないんだよ。 | レビログ (Make your life happier)
私は私のことをします。ですから、あなたはあなたのことをして下さい。
人間は一生、他人の心などわかるはずもない。MASTERキートン
君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し
[biz]中ぐらいの勝利で満足する者は、常に勝者でありつづけるだろう。
常に他人と違っていなければならない。
ココ・ シャネル
たとえ友人を失ったとしても、誰が気にするだろうか。そして、
それらを失わないようにするのがよい。
君は君の友にあまりに近づきすぎて彼に隷属せずにいることができるか
だから孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間にほかならぬ。
人間の自由を奪うものは、悪法よりも暴君よりも、実に社会の習慣である。
J・S・ミル
人と違っているということは孤独になるということ。
孤独は山になく、街にある。
人々が自分に調和してくれるように望むのは非常に愚かだ。ゲーテ
たいていの友情は見せかけであり、たいていの恋は愚かさでしかない。
愚か者でないかぎり誠実であることは危険である。バーナード・ショー
浴場での出来事、つまり湯をはねかける者、押す者、罵る者、盗む者
[ロバ売りの親子][粉屋と息子とロバ]粉挽きとその息子と驢馬
[biz]中ぐらいの勝利で満足する者は、常に勝者でありつづけるだろう。
【人間関係】「僕は全く誰にも期待しない。だから幸せなのさ。」
友を探し求めるものは不幸である。
というのは、
忠実な友はただ彼自身のみなのであるから。
友を探し求めるものは、
己自身に忠実な友たりえない。
Amazon.co.jp: 友情を疑う―親しさという牢獄 (中公新書): 清水 真木: 本
友人たちよ、友人などいないのだ。アリストテレス
友人と親しさの差異は何か
結果的に、
これらの言葉が「使えない」という唯一の可能な使い方であるという結論に辿りつかねばならなかった
p190
だから孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間にほかならぬ。
人と違っているということは孤独になるということ。
君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し
他人はみな軽薄かつ不公平で、嫉妬、気まぐれ、偏見に満ちている