子供を生むか産まないかで、結婚するかしないかを判断すべきだと思う。
男の中には結婚したい人が多分多いだろうけど、中には結婚したくないって人もいるだろう。
結婚は男にとっても束縛だと思うし。
そういう男性の方と付き合った方がよいと思います。
100年後の気温が3℃上がり(かもしれない)先進国含めた(かもしれない)世界の10億人ぐらい(かもしれない)の人がすげー困る(かもしれない)くて
原因は二酸化炭素(かもしれない)でその対策によって二酸化炭素が5%減らせるんだけどそれによって問題が解決できる(かもしれない)問題と
この程度じゃね
一応突っ込んどくが、ヨーロッパ系の言語でも主語目的語とかの省略があるのはよくあること。ないとされてるのは現代英語くらいのもの。ひょっとして英語が普通の欧米の言語だと思い込んでないか?ヨーロッパ系の言語は動詞や形容詞の主語とかに合わせて語尾等を変化させるのが一般的なはず。だから省略しても通じる。英語はそういうのはBE動詞三人称単数くらいしかやってないから略すると通じなくなりやすい。英語でも日常会話なら略して空気のようなもので把握させたりはするだろうけどね。
もうそんなら始めから付き合うなよ。
ちがうよ!サービス残業をやらされても文句を言わないとか、理不尽な命令でも文句をいわないとかそういうこと。
どれいだね!!!
なるほど。でも大抵の会社の仕事って個人にとっては理不尽だと思うよ。さらに消費者を相手にしたときの会社の人は奴隷以下のロボットくらいの扱いだよね。それを受け入れなきゃいけないならみんな奴隷じゃない?
まぁ、なんにしても「どれいだ!」って言いたいんだね。それはわかるよ。ボクも奴隷は嫌だモン。
部下ならバカにしてもいいんですね!わかります!!!
勝手なボクの解釈だけど、元増田の感性からいえば仕事が出来て優秀な人は、それが出来ない人と区別されて当然だって意識があると思うよ。そういう意味では、部下(すなわち自分より仕事の出来ない人。現実の上司であっても仕事が出来なきゃバカな格下)をバカにしても良いという感覚だと思うよ。
んで、ボクはね。仕事が出来るとか出来ないとか立場や見方に次第でいくらでも評価を変えられるようなものを軸にしちゃいけないと思うんだ。結局のところ評価できる軸がないのだとしたら、みんなで仲良く過ごせるってことだけを目標に仕事をすればいいと思うんだよ。だからこそ最低労働賃金と雇用契約書が重要だと思うんだよね。
体育会ってけっこうしんどいよ。
毎日練習行って(欠席すると怒られる)、下級生のうちは雑用も鬼のようにあって、もちろん大学の勉強だってある程度はしなきゃいけない。
そういう中で、4年間とかの期間、きっちりサバイブしたっていうのは、それだけで一つの能力じゃないかな。
理系は、学問と実社会の関係が比較的強固な分、そっちの能力のほうが優先的に評価されるってことじゃないかな。
箸でぐるぐる渦を作って油の流れる様を観察するのもまた一興。
なんだろう。自分がおかしいだけなのかもしれないけど。
時期はまあ、大体2年後、ということだった(あくまでも予定)
女に産まれたからには「結婚しよう」といわれたら天にも昇るような心地で
とてもうれしく思えるのだろうが、意外なことに自分はただ「ふーん」という感じで
正直なところ、あまり嬉しいという感情は沸かなかった。
小さいころから親が夫婦喧嘩するのをよく見ているし、姉が子育てやらなんやらで、良くも悪くも色々結婚の
現実を見せてくれているので、冷めているのかもしれない。
後、もう一つは「自由が束縛されるなあ」という漠然とした不安がある。
これは、どっちかというと男っぽい考え方なのだろうと思うけれども、例えば姉を見ていると、結婚すると相手方の親戚とのつきあいも考えなければいけないし、とにもかくにも「面倒くさい。」
男の人が結婚を面倒くさがるのも、一人暮らしなどに比べて生活に融通が聞かなくなるし、子供なんて産まれれば、子供様様(藁)のお相手で精一杯なわけだしね。
こういう事を言っている時点で、自分は多分結婚には向いていないのだろうと思う。
しかし、別に料理や家事が嫌いなわけではなく、住環境を大事にすることそれ自体は好きなほうで、料理とかの本を眺めているのは楽しい。
ただ、そこに付随する「暮らし」以外の要素があまりにも重いなあと思えてしまうので、冒頭のような心境が生まれるのかもしれない。
後、ぶっちゃけ、これから仕事に打ち込みたいし、覚えることも一杯あって、とにかく大事な期間なのに、そんな時にんな細々したこと考えてられっかよ!という心境。
しかし、そんな自分でも29ぐらいになったら
結婚していた場合 →あーよかったとか考えている
していなかった場合 →必死に結婚相手を探している
のだろうか?
後、やつは多分どっかしら煮え切らないものを感じていると思う。
私が子供を産みたくないということは知っているが、自分は欲しいと思っている。
これから先気難しい彼女(=私)を説得するのか、もしくはあきらめるのか、それとも最悪な結末として「別れ」ることになるのか、わからない。
というか、女である以上絶対に産まないといけないの?
産まないと女=嫁候補じゃないの?
こんなイジメがあったり何かと金のかかる、自分だけが生きていくので精一杯な世の中で、子供を産むって自分には狂気の沙汰にしか感じられないのだが。
こういう事を言うと大体「そういうやつに限って子供産むんだよねー」「産んでみたら可愛くなるよ」「女に生まれたからには子育てをして云々」とか、無責任かつバカな発言を繰り返す香具師が男女問わず必ずいる。
こいつらなんなんだろう。「女は無条件に子供を産む」教でも入っているんじゃなかろうか。
考え始めると本当に疲れるけれども、女である以上ひしひしと猶予期間は過ぎていくわけで本当に面倒くさい。
こういうことに関しては、あまり考えなくていいぶん、男の人が羨ましく思える。
男性は「産む」ではなく「産んでもらう」だけだしね。
なんとなく、今の彼氏とは、子供云々の部分でいずれひと悶着あるのではないかという不安が拭えない。
価値観が一致しなければ結婚も、結婚生活を続けることも無理という事を、やつはわかっているんだろうか。
愛だけでなんとかなることなんて、この世の中にほとんどありはしないのに。
ラーメンのつゆの上に浮いてる油をはしでつついて一箇所に集めて巨大な丸作るやつだよね。ハマるハマる。
とは誰のことを指していますか?http://anond.hatelabo.jp/20080705220130を書いた私でしょうか?それとも、http://anond.hatelabo.jp/20080705211857を書いた方ですか?『元増田』という非常に不安定な名詞で誰を指しているのか察しろというのは、それはまさしく空気を読め、という文化の話にならないでしょうか?
また、私自身は日本語は非論理的であることも論理的であることも出来るという点で欧米圏の言葉よりも優れていると感じています。
国民には3つの義務があるとされる。
子供に教育を受けさせる義務、労働する義務、税を納める義務の3つだ。
なぜこのように3つに分類されるのかはよくわからないけど、前者2つは義務であると同時に権利とも言い換えることができる。
しかし、税を納める権利、とはなかなか言わない。
では、ひとが税を納める義務に対応する権利とでもいうべきものはどのように表されるのだろう。
それはおそらく、公民権というものだと思う。これは辞書的な意味での選挙権や被選挙権といった参政権の他に、広い意味では警察や病院、道路や学校など社会生活上の公的サービスを享受する権利というものも含むとここでは考える。
これらの幅広い公的サービスというのは、市場原理に基づいた経済活動ではなかなか満たされないニーズだとされる。みんなにとって大事だけど、儲からないと。だから政府のような公的部門がみんなを代表して、税というかたちで財源を徴収して、一括的に公平なサービスを行う、とされる。
だから、ここで“納税義務と公民権”というかたちでフェアな対応関係が存在することになるし、その執行する主体である政府は、納税者に対してできるだけフェアになるように行政活動を行わなければならない、ということにもなる。(もうひとつ、税制にはお金持ちと貧乏なひとの資源の再配分という効果もあるのだけど、ここではさておき。)
これが一般的な民間のサービスだったら、コストとパフォーマンスの対価的関係がわかりやすい。払った分が、当然、商品やサービスという形で還元される。しかし、行政活動はなかなかそれが見えにくい。(そもそも行政法的思考からすると、税には公共サービスとの対価的関係は存在しない、という考え方もあるが、それはさておき。)
政府がお金を無駄遣いして、納税された分に対して十分な公民権をペイしてくれないかもしれない。とすると、この納税義務と公民権のフェアな関係の正当性はどうやって担保されるのだろう。
これは、三権分立のチェックアンドバランスの考え方からすれば、行政権に歯止めをかけていくのは、立法権や司法権である。一般の人は司法権にほとんどタッチできないから、やはり行政活動に対するメジャーな歯止めの手段としては立法権、つまり参政権の行使というのが一番身近なものだと思う。
というか、逆に言えば一般的には選挙での一票でしか行政に対する自らの意思表明を行えないのです。
ここが今回の考慮すべきところだと思うのです。
つまり、この国で普通に生活するだけで、所得税や固定資産税、消費税やガソリン税といった様々な納税行為が強制的に課されるにも関わらず、それに対する異議表明は、例えばデモやオンブズマンによるチェックなどもありますが、究極的に実効性があるのは選挙での一票という、非常に限られたものである点です。
あまりに当然と言ってしまえばそれまでなのですが、僕には納税義務という大きな負担と、その見返りたる参政権、異議表明のための権利の小ささがバランスとして釣り合わないような気がするんです。
ちょっとうがった見方をすれば、民主的選挙という装置が存在しているがゆえに、その納税義務がいつのまにか、いつも正統化されていまっているのです。「お前たちが決めた政治家の判断だ。文句あるまい。」と。
ただ、逆に今以上に一般のひとたちに税の使い道を決める裁量権を与えるから自分たちで決めてください、というようなシステムになったとき、はてどうしたものかと、もっと困ったりしそうだな、と思ったりもします。
つまり、国民は税さえ払っていればあまり細かいことを気にせずに・タッチせずに自動的に安全、安心を得られる、というのも行政のひとつのメリットでもあると思うんです。
このように、納税義務とそれに対する異議表明手段のアンバランスさというのは不条理に僕は思うわけですが、かといって税の使途を細かく裁定するような手間や専門複雑性の問題から、その裁量権の行政府への大まかな負託というのもまた、あまり軽視していいものでもなく、これがまた問題を難しくしているのだと思います。
日本語は場合によって主語や目的語や動詞など、あらゆる単語の省略が許される時点で、欧米諸国の言語と比べると非論理的です。そして、それらを省略せずに論理だった文章を書くことも出来る言語でもあります。
『僕はうなぎだ』という文章が日本語として成立しているのを考えていただければわかると思います。そしてこの文章が日本語として成立する背景には、みんながお店でメニューを注文しているという場の空気がどうしても必要です。しかしながら、動詞を省略せずに『僕はうなぎを注文する』といってもいいわけです。
主語の省略については、『富士山が見える』という文章がいい例となるでしょう。富士山を見ているのは誰なのか?富士山が見えるのはどんな状況に置いてなのか?それを日本語は場の空気で表します。これを場の空気に頼らず、『僕は今富士山を見ている』というように状況や誰が富士山を見ているのかを明確にすることもまた出来ます。しかし、少なくとも英語では"I see Mt.Fuji."を"Mt.Fuji is viewing."などという変な英語で置換することは決して出来ないのです。逆に言えば、英語は主語の省略が許されない点で日本語と比べると論理的である(というより、論理的でなくては言語として成立しない)といえると思います。
>>http://anond.hatelabo.jp/20080705092603
体育会系な組織はタテ社会で先輩、後輩の上下関係がしっかりしている。
上から指示をもらって行動することに慣れている。
伝統、慣習を重視することに慣れている。
組織の構成員とそれなりに仲良くやっていける。
体力がある。
これらの特徴を持っている人は日本企業の仕事の仕方と親和性が高いから重要視されるんじゃないだろうか。
上司の命令によく従うこと。
同僚と協力して仕事を進められること。(少なくとも進めているように周りからは見えること)
いちいち文句を言わないこと。
長い時間働くこと。(長く働いている方が働いている人と思われる)
部下に仕事を与えてやること。
同僚が困っていたら自分の仕事ではなくても助けてやること。
結局のところ日本企業は文句を言わず指示に従う兵隊がほしいってことなんじゃないかな。
さすがに全部じゃないけど、そういう人がほしい企業は多い。
じゃあ、そこでどうやったら幸せになれるのか?
あるいは、
こんなこと書くと日本企業とか体育会出身者を攻撃しているように見えるかもしれないけど
そのような意図はない。
劣っているとは思っていないし、まして優れているとも思わない。ただそれだけ。
本題から逸れまくり。
>日本語は論理だった言語ではなく、『空気』を察することを前提とする非論理的な言葉だと言う。
時々見かけるこの手の言い回しに強烈な違和感を抱いてしまう。
○○語に比べて△△語が論理的とかどうとか、
とりあえず「日本語」という言語の話と、「空気」という文化の話がごっちゃになってる気がする。
なんでこういうこと言うんだろ。
あるあるw 自分の場合は突然紫外線アレルギーになっちゃって目が開かないほど顔が腫れたり爛れたりして、それでも通学や通院で外でなきゃいけないのが苦痛だった。治ってからも他人が見て笑ってるような気がして視線が怖かったな。
でもある時、自分にあてはめて考えてみたんだけど、美人や美男ならじーっと見る気持ちもわかるけどわざわざブサイクや見た目がグロイ(私の場合爛れてジクジクしてたので)のを眺める人もいないよなあ。見て気持ちいいもんでもないし、と思ったら気が楽になったよ。他人なんて見てないもんだよ。見てたとしても記憶に残るなんて滅多にないし、すぐ忘れちゃうもんだよ。大丈夫大丈夫!
私は移民政策に反対だ。日本のように今まで単一民族でやってきた国家に労働者階級としての外国人を入れることは、治安問題において重大な懸念となるからだ。しかし今大学で学んでいるゼミの先生によると、日本人は古くから移民を招き入れていた雑種民族だというのだ。単一民族だと思われがちな日本人には実は渡来人や南方ポリネシア系の民族などの血が混ざっているという。けれどもそんな彼らは今は立派な『日本人』になってしまったというのだ。
それは時間がそうさせたのか?と質問した。
しかしその先生によるとそうではなく、彼らは日本語を話すようになって『日本人』になってしまったというのだ。
日本語は論理だった言語ではなく、『空気』を察することを前提とする非論理的な言葉だと言う。その『空気』を読むことを要求する日本語を扱う力が日本人を日本人足らしめているというのがその先生の論だ。だからたとえ労働者階級の移民であってもしっかりと日本語の教育をすれば、ドイツやアメリカのようにゲットーが発生したりして社会問題化することはないという。
その先生はドイツへの6年ほどの留学経験のあるドイツ語の先生で、東洋哲学の研究者というよく分からない履歴を持った方だ。ドイツでは社会問題になっている移民問題を直接目にしてきただろう。その経験を経てなお前述のような主張をされるところに驚愕する。移民国家のアメリカのことを私が子供の頃は『人種のるつぼ』といっていたが、人種は混ざりあわないという理由で近年は『人種のサラダボウル』と言い換えている。そんなアメリカやドイツの現状をふまえてもなお、日本語というツールは人種間の壁を溶かしてしまうというのだ。
この先生の論を積極的に支持する勇気は私にはない。もしこの論が間違いだったならそれは日本にとって取り返しのつかない打撃を与えるからだ。しかしその一方でこの論に魅力というか希望を感じたりもするのもまた事実である。日本人は外国の風習を日本人になじむように取り入れるのが非常に上手い。その外国の文化を自国風に取り入れてきた実績が、移民をも日本風に取り込んでしまう可能性を示しているということは確かにあるのではないか?そしてそのための非常に大事なツールが空気を読むことを前提とした、なぁなぁな日本語だというのは確かにあり得るのではないか?