ネットでフィクションの内容が批判されていると、すぐに「自分たちは現実とフィクションの区別くらいつけられます」て反発が湧くし、自分もそうあろうとはしているんだけど、
最近読んだある作品は、なんていうか作者本人が現実とフィクションを分けられていない感じで、考えてしまった。
登場人物の台詞が、まんま作者の思想で主張で、受け手に押し付けてるだけじゃないかって。よくあることだけど。
それ読んでると、どうやら作者は本気で、その作品のメッセージ性で受け手の何かを変えられると信じてるんじゃないかって感じた。
現実に影響を与えることを目的にしたフィクションというのが存在するのなら、「現実とフィクションの区別」を本当につけなければいけないのは誰なんだろう。
なりすましやデマの風評被害や、創作実話なんかも現実に影響を与えるためのフィクションと言えるし。
作者が「これはただのフィクションで作り話ですよ」って前置きしても、キャラや物語に感情移入してしまったファンが、「夢を壊すな」とそれを受け入れないこともあるし。
「自分たちは現実とフィクションの区別くらいつけられます」て言うのは簡単だけど、現実はそんな簡単じゃない気がしてきた。
昔好きだったゲームのシナリオライターが、たまたまSNSで「自分の作品には政治的思想を込めたから、その影響を受けた若者は間違った政治思想には染まらないはず」みたいなことを言ってるのを見て、自分はショックを受けた。
まあ、自分はべつにそいつの意図通りにはならなかったんだけど、まんまとそいつの意図通りに政治的信条まで左右されちまったユーザーはいるのかな?
政治的なことじゃなくても、なんかやたら自分の作品でバカな若者を説教したがる作者ってのもいるし。みんな本当に「現実とフィクションは別物」って信じてるのかな?
みんなの言ってた読みたいやつってこれでしょ?僕が僕の言葉で書くすごく個人的なブログでしょ?
たまに増田に投稿すると結構ブクマ付いたりするんだけど(プロ無職のやつとか)ずっと書いてるブログは全然誰も見にこないから。
基本的には自分で書いて自分で読み返して楽しいからそれで十分なんだけど、いやまぁちょっとくらいは承認欲求も満たされたいじゃないですか。
それに自分と関係ない個人のごく個人的なことが、そのままコンテンツとして成立するってことは、救いじゃないですか。
ともあれお暇な方はどうぞ。量はある程度はあると思います。
んだけどどうすれば良いんだろう
でもその辺で人を刺したって数人しか殺せないだろうし、
世界最強の核爆弾であるツァーリ・ボンバを東京のど真ん中で起爆させたって1000~2000万人死ぬかどうかだ
隕石を落とす以外に何かやり方はないだろうか…
目的は…上下関係なく職場の人間を自分の意向に沿って動いてもらえるように。
操るとかそういう悪い意味ではなくてね。
もちろん、目的を達成するためには、必ずしも心理学からのアプローチでなくてもよいかもしれないけど。
らくになりたい。
物心つく前から私は超が付くほどの泣き虫で、毎日大きな声で泣き出しては母親を悩ませていたと聞く。
幼稚園に入ってもそれは変わらず、朝起きて変な形の寝癖が付いていて/雨が降っていて外が暗くて/朝食の牛乳が熱くて…とまぁ本当にどうしようもない理由でしょっちゅう泣いていた。
子どもの頃から泣き虫の自覚はあってコンプレックスに感じていた。小学校で作った七夕飾りの、短冊にはこう書いてあった。
26歳になった今でも私はすぐに泣く性分を引きずっている。こないだも、狙っていた特売品が売り切れたのを知って一人スーパーで涙を流してしまった。アホちゃうか。
他にも泣きたくないのに涙が出て恥をかいた経験は枚挙に暇がなく、あんまり振り返ってると虚空に向かって「あー!」と言いたくなってくるのでここらで止めておく。
さて、すぐ泣く女というのは世間的にはまぁ重たくて面倒くさくて、関わると厄介な存在と思われがちである。ぶっちゃけ私自身もそう思っている。
しかし涙腺と言うのは思い通りに作動してくれないもので、泣いてる場合でないと頭では分かっていても勝手に涙は出てきてしまうし、止めようとすればするほど止まらない。
泣きたくないのに泣いて、周りに引かれて、自分が心底嫌になって、また泣いてしまう。泣き虫人間ならば一度はそんな経験がある筈だ。というわけで、私が26年この性分と付き合っていく中で培った、なるべくその場の空気をぶち壊さず、かつ自分も気持ちが楽になる工夫を挙げてみようと思う。
自称泣き虫の人は多分皆オリジナルの処世術を持っていると思うので、もしそんな人がいたら是非自分のやり方と比べてみて欲しい。
まずはここから始めた。成人するまでほぼ毎日泣いていた(特に問題を抱えていたわけではなく「なんとなく」泣いていた)ので、このままではマズイと思った私は毎日泣いてるときの精神状態を観察することにした。「あ、涙出始めたなー」「今頭がカッとしてるなー」「なんか周り見れなくなってんなー」「なんとなく止まりそうな感じがしてきたなー」…これを毎日繰り返すうちに、私は自分が泣いている姿を観覧者の目で眺めることができるようになった。後頭部あたりにもう1人の自分がいて、眺めている様な感覚だ。
もちろん今でも、喧嘩したり、映画を見たりするとどうも観覧者の目になれない日もあるが、それも半年に1回あるかないか程度になった。これによって、まず「涙は出ているけど気持ちはコントロールできる」状態を作ることに成功した。
いずれバレてしまうのだ。隠していたって仕方無い。
泣く姿を見られてしまう前に、「私が泣くのは日常的なことである」「泣いていても頭の中は割と冷静だったりする」「私が涙を流し始めても放っておいて」「もし不快であれば正直に言って」と、できるだけライトな明るい雰囲気で周知徹底させておくと、後々人間関係もそんなにこじれずに済むと分かった。
また、普段から神経質な態度でいると、いざ涙が出た時にどうしても「積もり積もったストレスで爆発してしまった」風に見られるので、日頃からなるべく「おおざっぱなおちゃらけキャラ」で人と接するようにした。少々イジっても誰も罪悪感を持たないくらいの感じで居ておくことで、色々やりやすくなった。
例えば仕事中、電話口で客に怒られて涙が出たとする。そういうときに一番やってはいけないのはメソメソすることだ。ありえないくらいその場の空気が壊れるし客は困惑してしまう。
自意識過剰とメソメソは隣り合わせの存在だ。自分のことばかり考えて涙を流す時、人は多かれ少なかれ可哀想な雰囲気を醸し出す。
周りの人はどう感じるだろう。なんだか自分が悪い事をした様な気になって、モヤモヤした気分になる筈だ。しかし、メソメソ泣いてる人の涙をしっかり咎められる程胆力のある人はそういない。
可哀想な人は最弱故に最強なのだ。だからこそこういうときは絶対にメソメソしてはいけない。
一番意識しないといけない対象は客であり、対応であり、要は目の前の仕事である。泣いてることなど本当-----ーにどうでもいい。
涙の存在を頭から消し去る。一番手っ取り早く涙を止められる。もし涙が出続けても、全神経を仕事に集中させる。「涙よ止まれ」と思うことも禁止。ほっといたら勝手に止まるものの心配なんてしなくても良い。
涙は液体なので、顔面を伝ったり視界を曇らせたりして気を散らしてくる。その時は「目ヤニ邪魔だな〜」と思いながら涙を拭う。不思議と涙に意識が向くことはない。
普通に仕事してる+なんかよく分からないけど目ヤニがめっちゃ出る、といった自己認識で動いていると、声色やテンション普段ともあまり変わらない自分がいることに気付く。
周りも普段と一切変わらない態度で接してくれる。
残念ながら、どんなに心頭滅却しても私が泣き虫であることには変わりない。私が重い印象にならないよう努力しても、周りの受け流し方次第では、重たくて面倒くさくて関わると厄介な存在にも十分なり得る。
今周りにいる人達は私がすぐ泣くことをスルーしてくれて、たまに泣き虫をイジってくれる。誰も腫れ物に触るような応対をしてこないことが心地良い。
ちょっとしたことですぐ涙を流すのを見て、イラつくことがあるかもしれない。謂れのない罪悪感でモヤモヤするかもしれない。でも、皆それを受け入れてくれている。申し訳なさを感じる。ありがたい。
のんびりした空気の時を選んで、私は「いつもすみません、ありがとうございます」と伝える様にしている。その時は泣かない。泣きそうだなぁと思ったらまた別の機会にする。そのくらい徹底している。
仕事で悩みを相談したり、素直な気持ちを話す時、私は絶対泣かないと決めている。冷静に話ができる人だと思われたいから。
工夫さえしていれば泣き虫でいてもいいのだ、と思うようになってから、私は少しずつ泣く回数が減ってきた様に感じる。
もしかしたら、オバサンになる頃には私は泣かなくなっているかもしれない。
ただ現状、周りの人達の良心に大きく依存していることは確かなので、理解に感謝しつつ自分でももっと工夫できることがないか考え、色々試していくのは続けていきたいと思っている。
いろいろと情報を漁ってみたらちゃんとした情報として少しは効果あるっていうのばっかり出てくるやんけ
そらガンが治るとかみるみる痩せるとかそういう効果は全然みあたらんし
理屈はわからんくても統計的に偽薬以上の効果出てるんやったら十分科学的な検証されてるやんけ
頭ごなしに叩くようなもんでもないやろ
「これまでにない 新しい体験を」
確かに…。日曜を充実させることを考えないとですね。
チェーン店やイオンに批判的かどうかだって、要は同化政策と異化政策の違いでしかない。
例えイオンのもたらすものが東京の文化ではなく、千葉や埼玉のそれだったとしても、
チェーン店が田舎に浸透する頃には、実はもう東京ではオワコンだったとしても、
一応東京に準じた暮らしをさせてやるんだありがたく思えって言われる方がまだマシだ。
何が面白いかってまずこのニュースのシチュエーション、小4が喧嘩相手を殴り殺したって時点ですでにちょっと面白いんですけど、本気になりすぎだろみたいな。でもまあそれは前菜みたいなものなんです。単体で笑うほどのものではない。
http://www.huffingtonpost.jp/2016/05/26/kenka_n_10137902.html
上のURLを見てもらえるとわかると思うんですが、殴った少年は「やり過ぎた」と供述しています。
いやいやいやwwwwwwwwwwwwwwwww言う事それかーいwwwwwwwwwwwwwwwwwwそこそこ仲良かった同級生殺しといての感想それかーいwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww怖っわwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
これ小4が言ってることがミソです。年はまだ9歳、10年も生きてない、チン毛も生えてないガキからにじみ出るやばいくらいのサイコパスエキス。怖すぎでしょこれ。将来性抜群ですよ。誰かを殺して「やり過ぎた」なんてホントはみんなと遊びたいのに自分の持つ強大な力ゆえに知らず知らず周りの人を傷つけてしまう悲しきモンスターしか言わないですよ。
更に考えてほしいんですが、この少年は「やり過ぎた」と過度に殴ったことについては反省してるんですが、殴ったこと自体に関しては反省していないんですよね。つまり殺していながら内心まだちょっとムカついてもうてるんですよ。どんだけ怒ってるんですか。ここまでくると被害者の子供ももう相当なことをやったんじゃないかって思えてきますよね。その割にそいつだけ病院送りになって死んだし。
まあ結局僕が何を言いたいかっていうとどんな深刻なニュースでも自分に関係がない限りただのエンタメでしかないんですよね。終わり!
http://teihen-writer.hatenablog.com/entry/2016/05/26/132553
(なんとなく、繊細なイメージを持った。繊細さが、特性として、良いのだろうな。)
「無限の彼方は皆底辺」氏とは、まるで路線が異なる感じがする。
http://anond.hatelabo.jp/20160526160029
増田の目標とするところはっきりさせるところからが、スタートではないかな?
リアルに人心掌握をしている人の言動を間近に見るのが良いような気がする。
人の心を掌握できている人は、無意識のうちに、わかっているんだと思う。
谷沢永一がという大学教授が司馬遼太郎を「人間通」として絶賛していた。歴史上の人物で、自分が手本としたい人を見つけたりとかは、なんとなく、良さそう。
Simon_Sin @Simon_Sin 2016-05-07 11:55:42
これはとても大切な事なので何度でも言うけど、日本でもここにしかない郷土資料館を壊して日本中どこにでもあるスターバックスを作って喜んでいるような奴のことを「田舎者」というのです
コレな、「流行のお店が3年でつぶれるわけ」とかにもつながるんだけど、じゃああなたこの田舎に対して何かしてたんですか?って話なんだよね
貴重な郷土資料館つぶすなんてもったいない! 信じられない田舎者!っていうけどじゃああなたこの施設利用したことあるの? 存続されるような活動少しでも何かした?って話よ
上から目線口だけ出してで文化人ぶるのなんて誰でもできるんだけど、ツイッターで偉そうなこと言う前にできることしたら?と田舎者は思うんですよね
カクヨムに投稿してるけど、やっぱりなろうの方が流入は多い。UI は洗練されてて使いやすいと感じるんだけど、やっぱり利用者がいないとね。
ニコニコのグローバルメニューからカクヨムにリンクが貼られるようになったり時報スペースで流れたりして、ニコニコユーザーが流入した結果、ランキングに異世界モノや俺tueeモノが増えたりしていて、結局なろうとの差別化に失敗している印象。オフィシャルプラットフォームとしての強みもあんまり活かせてないかな。二次創作はランキングで見かけないし。
作者として不満なのは読者との距離が遠すぎる事。なろうのようにダイレクトな感想がない時点で、フィードバック不足は否めない。スターだと物足りないし、レビューというのは第三者に向けたものだよね。返信もできないし。かといって外部の SNS でつながるのも迂遠だし、面倒だと感じる読者が多いはず。
結果として承認欲求はあまり満たせない。この状況で飽きっぽい中高生が連載を続けるのは無理だと思う。せっかくニコニコと連携してるんだし、いっそ段落ごとにコメント付けられるぐらいのレベルでも良いと思うんだけどなぁ。