はてなキーワード: 金科玉条とは
お前よくそんな心構えで他人に原作無視するなって言えたもんだな??
今すぐネット回線切って、BD BOXのライブシーン連続再生機能で3Dパート全部見直してから書き込んでくださらない??
なにか? 2Dの方が「正解」だから3Dは「間違い」ってか! 何が「もーちょいアニメの方に寄せて欲しいですね」だ何様のつもりだ??
エルザ フォルテに丸パクリデザイン見せに行ったときの姫石らきの方がお前より慎み深いわ!!
そもそもね、この手の女児向けアニメって、2Dパートだとみーんな不自然なまでにぺったんこなまな板なのが、3Dパートだとティーンエイジャーらしい膨らみがあって、キャラごとにちゃんと大きさが違ったりするんだわ
なので僕は、3Dの方が精密な描写で2Dでは胸が削られていると解釈している。衣装の装飾だって3Dの方が細やかで2Dだと簡略化されてるしね
なのに元増田は削られた方の絵を金科玉条として、それを基準にして盛ってるだのなんだの言ってるわけだ
馬をモデルに鹿の絵を描くタイプの馬鹿か?? オーロラペガサスが馬だと分からないくらいの脳みそしてそうだな!!
あとね
アニメは集団作業なので、チェックを通って出てきた時点でそれは公式です
だいたいこの件みたいに内情が明かされなければこういう判断はできないんだから、視聴者はお出しされたものを受け入れるしかない
そもそも元増田にとっては設定画が唯一無二の正義なのか?? それ以外は劣化コピーなのか??
おつむの硬さがダイヤモンド並みだなお前! 石頭界のダイヤモンドフレンズだわ!!
何でもかんでも設定画の通りにできるんなら原画も動画もいらんわ!
そんなに設定と違うのがお嫌なら、今すぐお手元のBDを全部捨てて、作画資料の設定画を一生眺めていればいかが??
【追記】
何か勘違いしてるレスがあって「急に本題とは違う話したのは申し訳なかったなー」って思うのだけれど
言葉を充填できないので簡潔に。
前提として、
・差別問題で「不寛容な意見」といえばヘイトスピーチのことを指す。
・「寛容な社会」は不寛容な意見=ヘイトスピーチに対して寛容であってはならない(不寛容には不寛容を)
不寛容には不寛容を、ある程度はわかるし、できる限りそうでありたいとは思ってる。それは正しい、という前提のもとで書く。ヘイトスピーチにも寛容にしろ!という意見ではない、としっかり主張しておく。
ここまでが前提、これを前提と置いたので、「ヘイトスピーチにも寛容であるべき」は今回の議題ではない。それは別でやってくれ。
さて、ヘイト野郎のヘイトに対して「お前の口から垂れたクソが『意見』だなんて思い上がんな」くらいは言っていいとは思っている。「ヘイト野郎のヘイトに対して」は、だ。ただし、差別問題にいっちょ噛みしたダサ坊が人格攻撃に走って「だからお前はダメ(社会で通用しない、田舎者、友達がいない、ロクな人生じゃない、モテない、真っ当な人間じゃない、猿同然)」なんだ」みたいなことを言うやつは、オブラートくらいしかかかってない差別主義者だと言いたい。
差別の問題はなにかというと、差別するつもりがない人も差別的な考えをナチュラルに持っていることだ。「俺は差別なんてしてないよ」って言ってる奴がどれだけ信用ならないかは、差別問題に関わったことがあるなら絶対知ってるだろう。明確に差別をしてる人間が楽に見えるくらいだ。反差別的な考えを持っているから「俺は差別しない」、事実に基づいているから「俺は差別しない」、俺には黒人の友達がいるから「俺は差別しない」、全部ろくでもない「俺は差別しない」なことくらいわかるだろう。「俺は差別する」のほうが、差別主義者の顔してるのは確かだ。
さらに勘違いしてほしくないんだが、差別主義者の顔してるかしてないかは別で、差別主義者には不寛容であるべきなのだ、前提からして。差別主義者の顔してるだけマシ、なんてことはない。馬鹿な差別主義者も聡い差別主義者も差別主義者。
ここまでは、私が妥当だと思ってる推論。
差別は、どれだけ差別に敏感な奴でも、どれだけ差別を研究してる奴でも「してしまう」ものだと思っている。常識とは偏見のこと、みたいな言葉もある通り、偏見が誰にでもある以上、差別的なことを発してしまうことは誰にでもある。そこに「不寛容だ!不寛容に殴るぞ!」をやるインターネットイナゴは絶対に発生する。とくに「不寛容には不寛容を!」を金科玉条に掲げて周りをシバく奴には、「おっ、お前不寛容だな、不寛容には不寛容で殴る蹴る打つ吊るシバく刺すぞ」など、当然と言っていい反応になる。まさか「彼は普段不寛容に不寛容なんだから、彼の不寛容には寛容になれ」なんて寝言を言えるはずがない。本人が不寛容な発言をした本人を、絶対に許せないはずだ。これは自縄自縛の、もっともメンタルに悪い行為でしかない。自分で自分が許せない、そんな状態になったとき、人はどうするか。撤回して謝罪できたとしても、何万回と蒸し返されることを覚悟しなければならない。本当に差別というものが嫌いならできるだろうが、不寛容には不寛容原則から行くと、せいぜいなれても「元ネトウヨ」という経験則としては最も信用ならない部類になってしまうのだ。だから無自覚に差別的発言をした人は元ネトウヨレベルに墜ちないために「私のこれは差別ではない」に固執してしまう。一生解決しない。
不寛容に不寛容であることは、基本的には問題はない。差別を唱えるものには罵倒を以って対応していいと思っている。しかし、今差別的な考えを是正しようとしている人に、いちいち不寛容である必要はない、と思うのだ。
ジェリドのせいでやたらと槍玉に挙げられる「汚名挽回」だが本当に間違いなのだろうか?
汚名挽回は間違いだ派はよく「汚名を取り戻してどうすんだよw」と述べるが本当にそうだろうか?
劣勢挽回というコンビネーションがあるが、何故かそちらはスルーされている。
ちなみに以前にTwitterで三省堂国語辞典の中の人は汚名挽回は間違いではないと指摘している
そこで、ジェリドデマが広がる前に書かれていた文章で「ネガティブな言葉+挽回」がどれだけあるか青空文庫で検索してみた。
検索ワードは「挽回」のみで、挽回とコンビネーションされる単語を調べる事にした。
T署の刑事を予算超過に増員しても追付かぬ 殷盛 ( はんじょう ) に、不景気挽回
https://www.aozora.gr.jp/cards/001782/files/56514_65211.html
おまえはわしに代ってこの道場を支え、一時の汚名を、将来の精進で挽回してくれい……と、こういうのだ
https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52399_49787.html
https://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49633_37944.html
衰勢を 挽回 ( ばんかい ) せしめたるものは実に役者絵中興の祖と称せらるる
https://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49634_41512.html
頽 ( くづれ ) を挽回する
清水紫琴 誰が罪
https://www.aozora.gr.jp/cards/001146/files/43517_16588.html
https://www.aozora.gr.jp/cards/001402/files/49940_57497.html
https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52413_51064.html
不利を挽回しようとするだけではどうも弱い
https://www.aozora.gr.jp/cards/000055/files/56499_51225.html
となり、全て列挙しているわけではないが山程出てくる。
ちなみに多すぎて省略しているが、青空文庫で「挽回」とのコンビネーションで圧倒的多数派なのが「頽勢挽回」だ。
頽勢(たいせい。衰えてゆく形勢)なので、間違い派に言わせると「衰えてゆく形勢に戻してどうすんだよw」となるが、これが間違いだとすると間違った用法が一番多い用法となってしまう。
「汚名挽回じゃなくて名誉挽回だろwww」と汚名挽回間違い派の金科玉条のように例として挙げられる「名誉挽回」だが、意外にもむしろ少数派で、確証はないが3件ほどしか見つからなかった。(太宰治 善蔵を思う、A Secret Service フレッド・M・ホワイト Fred M. White 奥増夫訳、正岡容 小説 圓朝)
そもそもこんなものを列挙しなくても「遅れを挽回する」「劣勢挽回」などネガティブ+挽回の用例は身近にいくらでもある。
にも関わらず「汚名挽回」”だけ”がネタにされ続けるのはなぜなのか。
この結果を見てもまだ汚名挽回の汚名は『挽回』されないのだろうか
また、こちらも参照されたし
そもそも出生前診断への批判をしたって何の問題もないのは分かってるよね?おかしいことが前提のように話してるけど
出生前診断するかどうかを選択できるのは子供を作った夫婦であって、それは出産や子育てをするのが当人たちだから今は出産する側の権利が優先されてるってだけに過ぎないよね
例えば全く責任を負ってない出生前診断を行う医療機関や国に対して障害者団体が意見を言うのは何の支障もないし、当然の権利なんですよ
当事者団体の言うことが金科玉条なのか!って、松尾スズキとかいうアホやお前みたいなアホの信者のカスよりはよほど優先されるべきなのは当たり前でしょう
それを権利関係が複雑な問題を出して反論に使えるな!と判断する辺り本当に頭が悪いんだろうね
まぁ「対象を選ばず全員を笑い物にする」のが正しくて素敵って思ってるアホに何言っても無駄だろうけど
他人を笑い物にするのがまずおかしいし、全員に同じ扱いをすること自体公平からは程遠い行いだって少し考えれば分かる話だからね
出産は命がけ、というのは「いつでも死ぬ可能性と隣り合わせ」という意味であって「妊婦の何人かに一人は必ず死にます」と言っているわけではない。
もうちょっと言うと、今の医療が発達した状況であれば、妊娠、出産に関して死ぬということは非常にレアケースだ。
だけど、それは「戦地に行って生還する確立がこれこれだかが戦争は命がけとかっておかしくない?」というのと同じ話だ。戦争が命がけじゃないとか言う人っているのかな知らんけど。
戦争に行っても余り死ななくなった、というのは、やはりテクノロジーや戦略、はたまたルールが発達してきたから、生きて帰れるようになった、ということであり、ミスを犯せばいつでも死ぬ危険性がある事自体は不変だ。
では一方で、妊娠、出産について書いていこう。こちらもなにかしくじると死ぬ、ということは間違いがない。大概の問題は医療でどうにかできるので、もはや問題ではなりにくくなった。だが、「本質的に命がけ」というところは変わっていない。
なので、統計(死産、や分娩中の事故での死亡)とかを見ても意味がない。みんな「ここから先は死ぬ」の線を超えずに済んでいるだけだ。
じゃぁ、性教育だ。
まず、女性は妊娠すると、胎児という異物を免疫で退治しないために、免疫力が著しく低下する。ここでしくじれば病気になってアウトだが、今は社会的に衛生が行き届いているので、最悪の自体は免れられる。
次に、妊娠から出産までの間に、いろいろな体調の不調が起こる。産婦人科に行けばもうこの人死ぬんじゃないかっていう女性がちらほらいる。これもしくじれば体力がつきてアウトだが、今は医療のおかげで何をどうすれば死なずに済むかの知見が溜まってきているので、辛いが乗り越えられる
最後に分娩だが、これも適切に行わないと、太い血管が破裂して死んだりする。ごく稀に未成年の妊婦が変なところで出産しようとして死んでしまう、というのがあるが、そういうことだ。これについても、どういうふうな手順で赤ちゃんを取り出せばいいかのノウハウが蓄積されているので、めちゃくちゃ痛いし時間もかかってヘロヘロになるが、大概無事に出産できる
そして、それでも突発的な急変によって死んでしまう、作業中のミスによって死んでしまう、などの事故は起きている。それに、戦場なら、戦争のプロしかいないが、日常なら妊娠出産に対して無知な人、理解がないばかりか攻撃的な人もいるので、余計にリスクは高まる。ここに気を貼ってヘロヘロになりながら生きている妊婦も多いかもしれない。この辺の精神的な消耗が実は一番大きいかもしれない。
はてなでは表現の自由が金科玉条のように扱われているように思われる。
あいちトリエンナーレや、ネット上の発信、漫画の規制などの話題では同然にこの言葉が使われる。
しかしなぜ表現の自由はそれほどまでに大事にされているのだろうか?表現とはなんだろうか?
表現の自由は憲法学では精神的自由の中においても優越的地位にあると考えられている。
その根拠として、精神的自由は侵されやすく、また回復が困難である。
では表現の自由はどうであろうか?
まず表現とは人格の発露であり、人が人らしく生きる上で欠かせないものであるとの認識がある。
そのためただ思っているだけでは規制されない人の精神的活動が表現を伴うことで侵害されやすくなるのである。
次に表現内容について考えてみよう。
表現は多種多様であるが、その内容は多岐に及ぶ。そこでここでは政治的な意思と芸術の2つを考えてみよう。
この二つについては関連することも当然であるが、まずは切り分けてそれぞれの側面から見ることにしたい。
はじめに政治的な意思であるが、これが表現の自由において語られるのは、民主制との関連である。
人々は民主制で意思決定をしているが、そこでは人々が各々考え方を示して、それを戦わせることによって収斂させていく。
するとある事柄に対する政治的表現が失われてしまうと、そこから生じる決定からも失われてしまう。すると正しい決定ができない。
またそのような表現を規制することは他の考え方に基づく決定したい人にとっては規制したい誘引が大きく、侵される可能性も高い。
次に芸術的表現であるが、人々は自ら考えそれを外部に行為として表現する。これは人格の作用にとってかけがえのないものである。
こう考えると表現の自由にも内容に差があることがわかる。
これに即した考え方が必要であろう。
書いてて思ったが、今、ネットで語られてる表現規制はこの違いを明確に意識する必要がない気がする。
なぜなら多くが単に自分の気に入らないことを正当化根拠もなく、規制したい人ばかりだと捉えられるからである。
詳細に考えれば、あいちトリエンナーレなんかは芸術における政治的表現をする場について、公権力が表現され、議論されること自体の価値を中立的に支援することの必要性とかが語られるべきなのに、
誤解に基づく単なる気に入らない表現行為を正当化根拠もなく、ただ規制したい人々の話にしか感じられないな。
表現行為の価値と正当化根拠の詳細な検討が行われてるケースなんてどこにもないわ。
これなら単なる意見の相違でしかない(大半は正当化根拠すらない)から表現の自由から考えなくてもいいか。
書いたことで納得できた。
アニメ作品について「三話までは見てから判断しろ」という言説がある。
私はこれに強く反発する立場だ。
盛り上がる場面に来るまでは直接的に面白さを表現できない場合でも、面白くなりそうな予感を表現できているべきだろう。
いわゆる「ツカミ」の部分ということだ。
それに失敗している作品について面白くなるところまで我慢する義理はなかろう。
三話まで見ないと面白さがわからないような作品を作るというのは三話まで見る人をターゲットにするということだ。
逆に言えばそうしない人を切り捨てるということだ。
もちろんそのようにターゲットを設定するというのならそれでもよいのだが、ツカミの失敗を三話まで見ないやつが悪いかのように言う人が少なからずいることに辟易としている。
作品が私をターゲットにしておらず私がその作品を面白いと思わない。
わたしの心を奪うくらいの男がいないってだけの話なのに結婚して調子こいてる友人らから見下されるの吐きそうだし旦那の愚痴うざいし子供とかもいちいち見せてくれなくていいよって思うしなんかつらい
生きづらい
彼女らからしたら別段未婚差別をしている意識はないんだろうけど
集まりにおいて旦那の愚痴と育児の愚痴は金科玉条。とにかく同調しないと許されないしよく頑張ってるねと褒めてあげないといけないしでも最終的に着地点は旦那さんの事を褒めてあげてなんだかんだ愛されてるでしょw仲良し夫婦wという結論で締めてあげないといけない。きもい。
わたしが多少職場の愚痴なんか言おうもんなら「いうて独り身でしょ」「独り身はいいよね~楽で」的なニュアンスを言外に含ませて来る。気がする。被害妄想かなあ
仕事で頑張った話とか趣味で楽しかったこととか話してても軽くあしらわれて「子育てしてる人間が一番大変だし偉いし立派(だから多少仕事や趣味でなんかしたってしょうもない)」というニュアンスをちらつかせてくる・・・
こういう会に顔出してたらめんどくさいしくやしいし、さっさと結婚したいなって思うけどこんな人間(旦那の愚痴をさかなに盛り上がり承認欲求とマウントのおかずにする人間)になりたくないなともおもう。
あと単純に忙しいし。仕事は20~21時くらいに終わる。退勤したら近所の焼き鳥屋でプロ野球中継みて、野球終わったら贔屓以外の球団のニュース追って、風呂入ったらマイクラしたり最近はビルダーズしたりしながら晩酌してたらあっつうまに1時になるし。
みんなが言うみたいに旦那の世話なんかしてる余裕ないなって思う。
楽しく生きてる。
食べ物を美味しいと思うこと、スポーツをすること、好きな異性と一緒にいること、などなどで人は自分が主体的に幸せを感じていると信じて疑わないが、これらは所詮体内のある化学物質の増減が脳を気持ちよくしているだけにすぎない。
恋人と一緒にいられるから幸せなんじゃなく、セロトニンが増えたから幸せなのだ。裕福になれたから幸せなんじゃなくて、セロトニンが増加したからなのである。
身体は遺伝子の乗り物、とはよく言ったもので、人が幸せを感じるのは、種が存続するために好ましい行動を身体がするために遺伝子がそう仕向けているだけなのだ。ゆえに幸せであることも誰かを幸せにすることも本当は、本質的には重要じゃないと言える。すなわち、生きる理由は本能が生きようとしてるからというだけである。
のうのうと幸せを謳歌している人は気づかないが、これに気づき、深く考えてしまったひとはまさに不幸せである。自分が生きる意味が一切無いことが明らかになるわけだから。
そこで、人類は宗教に逃げた。問答無用で正しい存在、全てを超越する最強の存在として「神」を仮定したのだ。神の言うことは絶対に正しい。神は金科玉条である。神が自分を作った、その一点で自分の存在意義が担保されてしまう。
このように宗教にすがってしまった人は考えることをやめ、思考、逡巡を停止した人である。私は、このような、言ってみればチートプレーをすることなく、生について考えていきたい。( 厂˙ω˙ )厂うぇーい
あなた達が掲げている金科玉条が「マイノリティにも人権を」というものに見えるので、同じマイノリティであるペドフィリアを挙げているわけです。
「殺したい人と殺されたくない人」の議論は確かに明快ですが、マイノリティの人権を考えるにあたってはあまりに極論すぎるでしょう。この題で同等の思考実験をするのなら、殺したい人の欲求が人間的な欲求であるという社会通念上あり得ない前提を持ってこないといけません。
あなた達が「マイノリティにも人権を」というフレーズを客観的正義として掲げながらペドフィリアのみを例外とするのなら、客観的にペドフィリアの欲求は否定されるべきという論拠を提示するべきですが、しかしながらそうした論拠そのものがペドフィリアに対する差別となり得ます。
これらを踏まえて、私の質問は以下です。
1:マイノリティにも人権を、という言葉をどう捉えていますか?
これは私の問題設定が勘違いでないかということを確認するための質問です。私には先進的な人々が「マイノリティにも人権を」という題を金科玉条として唱えているように見えていますが、これが私の誤解である可能性があります。
2:自分の主張が主観的なものではなく客観的なものと思うとしたら、その根拠はなんですか?
これも私の問題設定の是非を確認するための質問です。あなた達が主観で自分の主張を唱えているだけ、と自覚しているのならば私にはもう何も言うことはありません。しかしながら、自分の主張が客観的な正義である、と思っているのならば、それは違うと指摘させていただこうと思います。
以上、お返事お待ちしております。
【追記】
これは全く正しいけど、しかしこれじゃ彼らの目標は満たせないんだお。
研究員に対する「まだそんな研究していたのか」発言は、研究機関では多々見られます。これは、不器用な期待表現の一つと思われます。一般に企業研究の場合、研究テーマは事業部門からの委託によるものが多く、将来の事業創出につながるブレークスルーの研究は誰がやっているんだという指摘があります。現場の研究者からすると事業部門からの要請があるのだから何が悪いという意識もあり、事業部からの委託研究は金科玉条的免罪符となりがちです。研究所の幹部には、会社経営トップから、事業部門からの要請のみを行う研究所は不要という指摘もあり、苦悩は並大抵ではありません。もちろん研究投資は、現状の事業ニーズに基づく明日のテーマと現状ニーズの延長上にない明後日のテーマをポートフォリオ上に位置づけられるべきです。現状の事業ニーズに応える研究者は必要であり、「まだそんな研究していたのか」発言は、人格やテーマの重要性を否定するものではありません。現状事業ニーズに基づいた今今の研究投資は事業部門が行うべきという考えによるものだと思われます。事業部門は、自部門の損益確保のため開発投資を抑制して、研究所の投資を活用したいという想いがあります。その発言は、研究所責任者としては無理からぬ意見と思います。そのテーマを継続したければ事業部門でやってほしい、大きな期待をかける研究者にはもっと大きな飛躍につながるテーマをやってほしいという意味と理解すべきでしょう。
研究と事業ビジョンの関係は、具体的に経営者やCTOが示すべきかもしれませんが、専門性の高い研究テーマの事業ビジョンは、現場の研究者がある程度示さざるを得ません。それができなければCTOではないという指摘もありうるかもしれませんが、CTOとしては、できるだけ将来のビジョンを示して、そこにつながる研究を現場の研究者に考えてほしいという想いがあります。その結果、最高給のブロガーと揶揄される批判を甘んじて享受して発信を続けます。そんな批判に耐えて情報発信する経営幹部は、稀有ではないでしょうか。その内容は、もしかすると共感する読者からみて最高級といっても過言ではないかもしれません。もちろん、読み手によっては、薬にも毒にもならないビッグワードの垂れ流しの評論で、具体的な行動や指示ではないと感じる方もいるでしょう。それは読み手の解釈であり、自身の研究テーマでファンドを得るために彼のブログの内容を活用してやろうと思う研究者にとっては宝の山に見えます。したたかな研究者にとっては、彼のブログは予算獲得のための親切なヒントであり、金科玉条的指針となります。つまるところ、CTOは自身の立場をキャピタリストとして位置づけたのではないでしょうか。そのCTOは、研究予算を獲得して何が何でもこの研究をやりたいという研究者をフィルタリングして、キャピタリストを納得させる研究提案を提示させるというフレームワークを確立したようです。そのフレームワークを機能させるために、研究投資の指針やヒントをブログにを垂れ流し、そのブログを薬や毒にするのも研究者次第というスタンスだと思います。
人事
個人的には、CTOがキャピタリストみたく受動的でいいのかなと感じます。あまりに他人事過ぎて研究に対する熱さがない冷徹なマネージメントとなりがちです。研究所長やCTOたる者には、スティーブジョブズや本田宗一郎のような熱いリーダーシップを期待したくなります。しかしながら、研究の中身がわかってリーダーシップを発揮できる分野は、一個人だと限界があります。したがって、分野ごとに任せる存在が必要になります。そのあたりは、高度な信頼関係に基づく極めて難しいマネージメントになります。その役割は、理事とやらが担うのかもしれません。一般に、現場の研究者のことを考え自ら具体的に行動して指示してきた方が、成功するかどうかは、その仕事を任せるCTO次第です。失敗を部下の責任とすること(成功と認めないこと)もよくある話です。CTOにもの言う方であれば、なおさらありそうな事です。そのあたりは、幹部や当事者でないとわからないので、表面的に論評するのは控えたほうが良いかもしれません。
最後に
個人の努力が報われるかどうか、個人の努力だけではどうしようもないことがあります。ただし、研究者として生きていくためには、研究ファンドの獲得(キャピタリストの信頼獲得)は、不可欠です。プロの研究者として、ご自身をどのように位置づけるか、つまりキャピタリストに自分を適応させるのか自分に投資するキャピタリストを見つけるのか、どちらかにチャレンジしければなりません。おそらく、CTOも現場の研究者に自分を適応させるのか、自分の方針に従う研究者を集めるのか、苦悩の上決断してチャレンジしているのでしょう。そんな苦労もなく好きな研究に没頭できるのは、恵まれた方だと思います。遅かれ早かれ、誰もが経験するチャレンジです。今までの経験を踏まえて、技術立国日本をリードするプロの研究者としてご活躍されることを祈念しております。