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はてなキーワード: 精神的自由とは

2024-03-25

anond:20240325095310

はい

「二重の基準論」は文字通り性質によって2つの基準を設けるというものであって、価値の高低を論じるものじゃない。

2つの基準を設けてるのも経済的自由はそれが損なわれても、民主的議論手続きの中で取り戻せる見込みが強く緩やかな基準でいいとされてるのに対して、精神的自由民主制のものが壊されてどうにもならなくなるから厳しい基準がついてるだけであって価値なんて関係ない。

わいせつ表現の自由、ここで言う「エロ表現の自由」を経済的自由と同等のものとみなすなんて話は俺は聞いたことがない。最新の判例でそういうのがあったのか?有名どころのチャタレー事件悪徳の栄え事件表現の自由議論の中で語られるのが一般的だろ

この嘘だらけの文章でほぼ唯一明確に正しいことは「学部の1年生で習う話」というところくらいなものだけど、学部1年の試験と言えどこれを答案に書いたら不可だな甘々教員がお情けで可をつけてくれたら御の字かな

2022-10-21

anond:20221021161639 のおまけ?

多数派場合は、多数決民主的にそれができます

少数派でも侵せないもの自由権として守るのです。

たとえば今だと多数決ならとある宗教を「邪教」として禁止さえできそうですよね。でも、多数決でも、「内心で信仰させろ」「儀式は続けさせろ」までは侵せない理由けが自由」です。

https://twitter.com/jikapan/status/1583275451552006144

多数決主義の難点という議論アメリカで古くからある。選挙で選ばれていない裁判官がなにゆ選挙で選ばれた国民代表議会法律を覆すことができるのか、というやつである。これは、単なる哲学的問題ではない。19世紀から20世紀前半にかけて、産業資本の著しい発展の弊害顕在化してきた。それに対して立法対処を行ったところ、裁判所が「契約自由」を盾にしてそれを違憲にしたところから来ている。

 もう少し具体的に言おう。ニューヨーク州議会が、パン屋労働時間規制する法律を作った。一日10時間、週60時間までという規制である。これに反して処罰を受けたあるパン工場経営者は、労働者をどのくらい働かせるかについては、契約自由があるのだからそのような規制違憲であると主張した。そして連邦最高裁はその主張を認めたのである。このような判例法理通用した時代のことを、この著名判例(Lochner v. New York, 198 U.S. 45 (1905))の名前をとってロックナー時代という。

 すったもんだの末ロックナー判決否定されるに至る。どのように否定されたかというと、これがある意味羮に懲りて膾を吹くというようなやり方なのである。すなわち、裁判所議会の制定した法律については、原則として合憲推定を与える。議会制定法については、①目的が正当か、②目的手段合理的に関連しているかしか裁判所審査しない。換言すれば、手段必要最小限度性を要求しないということであり、まことに緩い審査基準である。こうなるとまたしても困った事態が発生する。確かに労働関係規制については、そのくらいゆるい審査で良いかもしれない。しかし、議会に自らの利益代表してもらうことができないような少数派の利益を押し潰すような法律議会が作った場合も、そんな緩い審査基準適用して良いのだろうか。連邦最高裁は、戦前判例の中で、キャロリーヌ・プロダクツ判決脱脂粉乳規制に関する法律問題になったのだが、それは措く)の脚注4で、人種的宗教的あるいはその他の少数者の利益問題になった場合などは、別の処理をするかもしれませんよ(この事件はそういう人が問題になっていないが)、ということを仄めかしている(United States v. Carolene Products Co., 304 U.S. 144 (1938))。

 このような戦前アメリカ判例を取り入れて始まったのが有名な二重の基準である。二重の基準論は、精神的自由については厳格な審査を、経済的自由については合理性審査をという図式として受容されているのだが、実際には、一般的には裁判所合理性基準という緩い審査しか行わないが、政治過程の中で不利になっている少数者の利益問題になる場合は、審査基準厳格化する、というものなのである一般論としては合理性審査しかしない、というのがミソなのである

 芦部説はこのような議論を巧妙に換骨奪胎(?)し、精神的自由制限は、政治過程のものを傷つけるおそれがあるから原則として審査基準厳格化する、という議論を立てた。こういった議論アメリカにも見られる。ところが、これを逆に考えると、精神的自由制限であっても、政治過程のものを傷つけるおそれがない場合には、裁判所合理性基準審査するべきだ、ということにならないだろうか(ロバートボークというある意味悪名高い裁判官が直球でそういうことを言っている)。これが問題になる典型的な事例が「わいせつである。少なくともハード・コア・ポルノ※に関しては、その禁止政治過程を傷つけるとは言えないだろう(アメリカ場合猥褻obscenityに該当する言論については、第一修正によって保護されないので、合理性審査すらしなくても良いということになっているのだが、それは措く)。わいせつ規制は、精神的自由制限ではあるが、厳格審査に服しないというのが、反多数決主義の難点に対して一般合理性審査を行うという解決法を用意した司法審査論の帰結となる。

 ハード・コア・ポルノに対する規制を(も)廃止するべきだと考える者が、表現の自由論や民主主義を素朴に信奉するのも考え物である一般論として合理性審査をもたらす反多数決主義の難点という論点それ事態を疑ってかかる、つまり多数決によって事態が進行する議会政、多数決主義それ自体を排撃したり、あるいは、ハード・コア・ポルノ規制に対しても厳格な審査をもたらすような議論を何とかして立てるほかあるまい※。そういうことをしない表現の自由の信奉者は、表現の自由戦死せざるを得ない。

長谷部恭男憲法』などを読むと、刑法175条違憲論が、単なる「表現の自由」によって支えられているわけではないということが分かる。

2022-09-22

anond:20220921161300

てかそもそもなんでダブルスタンダードダメなの?

日本国憲法精神的自由保護より経済活動自由保護は弱くする二重の基準を設けてるけどこれも増田的にはダメなの?

スタンダードというのはつまり基準な訳であって、適用する対象によって二重どころか何重にもなるのを絶対ダメなことという前提にするのっておかしくない?

もちろん適用する対象が全く同じなのに基準が違ったらあかんと思うけど、それは基準複数あるというよりそもそも基準なんて作ってない案件ではって思う

とにかくダブルスタンダードという単語を用いた批判はよくわからない

2022-05-21

少年漫画ジェンダー観の刷り込みより少女漫画ジェンダー観の刷り込みのほうがやばかった。

https://note.com/tiikawa1216/n/ne14b9644bf7f

当時有名だった少女漫画を読んだ。フルムーンを探して、ママレードボーイ、グッドモーニングキス…  

内容は定かではないものの、すべてとても面白く、良い物語だったと思う。

しかし、いくつかの物語を読むにつれて、私に「空虚さ」や「違和感」が蓄積していくのを感じた。

私が少女漫画から学んだ内容は、「女の子って、好きな男の子と付き合ったり結婚できたらその先の人生は”その他”みたいなものなのかなあ…」であった。

最終的に結ばれる側の男性には仕事の話や大学進学の話など、たくさんの「未来に続く道」が暗示されていた。それにも関わらず、主人公である女性男性と付き合い、結ばれるところまでで精一杯であり、それ以外にやりたいことやどのような将来に向かっていくのか見えないのである男性に一直線に向かって打ちあがる一輪の花火のようなものだ。その花火が咲いた瞬間がマンガクライマックスであり、そのあとにはチリ寂寥感しか残らない。それがなんとも刹那的であり、同じ人間として数十年を生きるという寿命的設定と噛み合わず空虚を感じる。

もちろん現在では、昔に比べて少女漫画多様化が目覚ましい。愛の在り方に関する表現イケメンとのイチャラブに集約されるような一様なものでなくなってきているという事実は、たくさんの精神的自由女性に与えているのではなかろうか。

他者への愛は比べられるものでもなく、好きな人は好きなのである

少女漫画はかつてのジェンダー再生産的役割から個人自由意志や決定をフォローしてくれる役割シフトしてきていると思われる。

2022-05-16

anond:20220515193450

TheHabanero こうやって無辜な羊を装いつつ「じゃあどんな価値観がいいの?」の問いははぐらかし続け、しょうがいか過去発言を追いかけてみると昭和以前の家父長制を再興したい欲望丸出しだった、みたいな奴増えたよな。

俺は元増田じゃないけれど、誰もが自分モラル観を説明できる・少なくとも説明しようと努めるような価値観がいいと思ってますよ。なぜ、どうして、それはアウトなのか、を誰が言ってるかに依存しない形の客観的説明をつけるようにすれば、人の顔色を伺う精神的自由の拘束を受けずに済むから人治主義的な世界じゃなく法治主義的な世界の方が、自分の内側にある理屈にだけ向き合えばいいから戦々恐々としなくて済む。同調圧力お気持ちゴリ押しできない分、説得のコスト必要になってきてしまうけど、「みたいな奴増えたよな?」のように誰かの合意を求めてどこかに呼びかけて、運良く賛同を得られたときだけ説得力を持てる、みたいなバクチに頼らなくていいから、生存に確かなグリップ感が出るはずだ。

2022-04-01

アンパンチの暴力による制裁は仕方ない、について

本来ならばバイキンマン言葉で説得するか、あるいは彼を拘束したのち裁判によって量刑を決めるべきであって、アンパンマン独断暴力を振るってもバイキンマンの肉体的精神的自由を損なうだけで、更生をうながす効果がないのは明らかだ。

鉄拳制裁ののちに、バイキンマン反省して悪事を控えたなどという話は聞いたことがない。

乳幼児にはフィクション現実区別する理性は期待できない。

分別が未熟な成長過程にある子どもの観るアニメなのだから、親たちが「本当は暴力解決するのはいけないんだよ」と教育することで修正しているのだろうが、果たして本当に私たちはそういう教育を受けてきたか…? 反暴力教育は、一体いつ施された?

実は大人になった今でも、「バイキンマン鉄拳制裁を受けて当然だ」と密かに思っているのではないか

いつかバイキンマンあなたを訪れて、ほおに出来たアザを見せてアンパンチの被害告白してきたときに、あなたバイキンマンに寄り添えるか。

「まずそもそもバイキンマンも悪いよね」と口を滑らしてしまうのではないか——…


コラム・ “殴っちゃダメ” は反暴力教育ではない

暴れまわる幼稚園児を、先生や親は「殴っちゃダメ」と叱る。幼児は一旦それで大人しくなる。

でもそれだけでは反暴力の十分な教育にはならない。それは応急処置に過ぎない。

「殴っちゃダメ」の丸暗記では、のちの人生で直面する複雑な局面に応用が効かないんだ。

暴力への理解レベルが初期値のままに知性だけがレベルアップすると、迂回のために高度な理屈発明されることになる。


私はこんな感じの意見をみるたび、暴力が働いているのでは、と疑う。

暴力の主要な効果内面化——… 暴力を目の当たりにして心がひるんでしまい、対抗を諦めて暴力側を受容するために自分を説得する説明積極的に作り出してしまうこと。変形した心の殻に沿うように成長した精神は、暴力正当化する理屈を、本当に自分自由意志で作り出したのだと錯覚する。歳を重ねる過程で、暴力側が正しくて間違ってるのは自分だ、という考えに矛盾しない論理だけを無意識のうちに選択して摂取するようになる。ある日、暴力に侵された彼が自分がされた行為コピーするように他の誰かに手を上げてしまったときに、彼の中にはもはや暴力否定する理屈は残っていない。暴力客観的認識できない。自分暴力が見えない。

2021-06-23

anond:20210623204925

左翼政党労働者組織の扱いが雑になってるのって先進国あるあるだよね

経済的自由精神的自由の下位人権だと思ってるやつらが幅をきかせてることが原因

それで労働者保守政党を支持するしかなくなると裏切りは許さんみたいな思考回路

おかしいよね

2021-04-06

闘う必要があると思う

車椅子で駅に行った記事言及コメを読んで、今までの価値観が変わった。

バリアフリーセーフティーネット助け合い重要だし、障害があっても怪我や病でも変わらず暮らせる社会理想だ。

目が見えないらしい人が歩道の端で行ったり来たりしていた時に声をかけた事もあるし

ひとりひとりが助け合えればと思っていたが、下に引用するコメントを読んでいくうちに自分は間違っていたという気持ちが強くなっていった。

佐川・抜け首・なん on Twitter: "「当時としては、ワガママとされ、暴力的とされ、迷惑とされ、非常識とされ、だけどその騒ぎのおかげで後輩達が恩恵を受けている」 私はいつも「川崎バス闘争」を思い出す。 公共交通機関に「車椅子の人を一人で乗せろ」として、「闘争」があったのだ。

ID:yas-mal 「落とし所」を決める権利が、誰かにあると思ってるの? あの人が「私はこれでいい」って満足しても、日本中車椅子を使ってる人が満足するとは限らない。だから、「差別ゼロしか答えはない。交渉じゃない。

落とし所とは利害関係者同士の合意の結果ではないのか?

求めれば求めるだけ無限提供されるリソースなんか存在しないのに、交渉も無くどうやって物事を進めるつもりなんだ?

どんな権利行使にも誰かの同意や協力が必要なのに何を言ってるんだ?


ID:zyzy 我儘で暴力的迷惑非常識からと言って世の中を良く変えられるとは限らないが、繰り返せば変えられる。そして我儘でも暴力的でも迷惑でも非常識でないものが世の中を良くしたことは一度もないのだ。一度も。

ID:B2igwzEE 現実主義者現実のものを変える力はないという毎度おなじみかつ当たり前の話。今の当たり前の現実を作ったのは、かつて非常識・非現実的だととがめられた人たちだったりするんだけどね

なぜこんな事を平気で書けるのだろう?

様々な困難にチャレンジした先人達非常識や非現実的と表現するなら理解できる。

そんなチャレンジを実現するには、平穏社会を支える、そこで生活を営む一人一人の存在が不可欠だ。

だが、今回の行為はそれと同列のことか?自分は全くそう思わない。


ID:sewerrat 支持する。こういう「言論マッチョ」こそが精神的自由を重視する真のリベラルだと思う。皆が自身の持つ人権理論武装して言論で殴り合うことで適切な均衡点が見つかる。「思いやり」みたいなヌル世界じゃない(笑)

これが言論か?人権理論武装

人手の無い所に行って、100Kgはある電動車椅子階段で運ぶよう強く求めた。

駅員の人権どこ行った?どこに理論がある?

設備制度の不備を指摘すれば良かった。SNSでも、JRや省庁への公開質問状でも可能だった。

バリアフリーを求めるのは良い、制度の不備を指摘するのも良い。どんどんやった方がいい。

当事者視点が無ければわからない事だから必要なことだ。


「思いやり」みたいなヌル世界じゃない(笑)って凄い台詞だ。

これは障害を持つ人間権利から、思いやりではなく健常者が協力するのは義務だということか?


かに権利を認めると、その権利行使させたり守ったりする義務が発生する。

障害者を助けるコスト事実上納税の義務として課せられているが、障害者だけにかかるコストではないし、社会全体に必要コストだと思っていた。

だって助けられ、助け合うのが社会じゃないのか。

しかしこれが闘争だ、思いやりじゃないと言われると受け止め方は変わる。



何が適切な均衡点だ。思いやりも交渉否定して権利を主張する人間が消えることが自分にとっての均衡点だ。

2020-12-29

anond:20201229133702

養豚場に生み落とされても、洗脳により精神的自由は奪われても、鎖につながれて肉体的自由は束縛されても、

それでもそこに幸せを見出すことができる程度に人間はたくましい一面を見せるだろうけれども、

わざわざそんな不利な条件を作り出すこの世の神というものを恨まずにはいられないだろう。

唯一残された心のよりどころが論破であるなら、好きなだけ論破させてやるのが俺ら上級国民のせめてもの慈悲というものであろう。

2020-09-01

anond:20200901181857

広告を含む表現というのは人間精神的自由というとても大切な問題に関わる重大問題ですよ?

人はパンのみに生きるわけではないのですよ?

2020-06-30

表現の自由を語る上で考えなければならないこと

はてなでは表現の自由金科玉条のように扱われているように思われる。

あいちトリエンナーレや、ネット上の発信、漫画規制などの話題では同然にこの言葉が使われる。

しかしなぜ表現の自由はそれほどまでに大事にされているのだろうか?表現とはなんだろうか?

そう考えると表現の自由についての理解必要であると考える。

表現の自由憲法学では精神的自由の中においても優越的地位にあると考えられている。

その根拠として、精神的自由は侵されやすく、また回復が困難である

では表現の自由はどうであろうか?

まず表現とは人格の発露であり、人が人らしく生きる上で欠かせないものであるとの認識がある。

そして発露であることからなんらかの行為を伴うものである

そのためただ思っているだけでは規制されない人の精神活動表現を伴うことで侵害されやすくなるのである

したがってこれを保護する必要がある。

次に表現内容について考えてみよう。

表現多種多様であるが、その内容は多岐に及ぶ。そこでここでは政治的意思芸術の2つを考えてみよう。

この二つについては関連することも当然であるが、まずは切り分けてそれぞれの側面から見ることにしたい。

はじめに政治的意思であるが、これが表現の自由において語られるのは、民主制との関連である

人々は民主制意思決定をしているが、そこでは人々が各々考え方を示して、それを戦わせることによって収斂させていく。

するとある事柄に対する政治的表現が失われてしまうと、そこから生じる決定からも失われてしまう。すると正しい決定ができない。

またそのような表現規制することは他の考え方に基づく決定したい人にとっては規制したい誘引が大きく、侵される可能性も高い。

ここに政治的表現保障する意義があろう。

次に芸術表現であるが、人々は自ら考えそれを外部に行為として表現する。これは人格作用にとってかけがえのないものである

こう考えると表現の自由にも内容に差があることがわかる。

これに即した考え方が必要であろう。

書いてて思ったが、今、ネットで語られてる表現規制はこの違いを明確に意識する必要がない気がする。

なぜなら多くが単に自分の気に入らないことを正当化根拠もなく、規制したい人ばかりだと捉えられるからである

詳細に考えれば、あいちトリエンナーレなんかは芸術における政治的表現をする場について、公権力表現され、議論されること自体価値中立的支援することの必要性とかが語られるべきなのに、

誤解に基づく単なる気に入らない表現行為正当化根拠もなく、ただ規制したい人々の話にしか感じられないな。

これはネットの発信や、漫画規制もそうかも。

表現行為価値正当化根拠の詳細な検討が行われてるケースなんてどこにもないわ。

これなら単なる意見の相違でしかない(大半は正当化根拠すらない)から表現の自由から考えなくてもいいか

いたことで納得できた。

2019-09-20

実子以外に愛を持てるのか

なかなか難しいんじゃないか

どんなキレイごと並べても我が子が産まれとき可愛さが勝ってしまいそう

でも、生物としてはそれが必要不可欠な気がする

義理の親を持って違和感や居心地の悪い子どもたちは一刻も早く自立して、精神的自由と新たな愛を産む家庭を作るのがいいよ

自分も早くそうすればよかった

2019-04-09

景観保護表現の自由否定しない。

芦屋市日本一厳しい景観条例施行、「営業自由」より「景観」が優先される?

https://www.bengo4.com/c_1018/n_4863/

兵庫県芦屋市で、屋上広告全面禁止し、看板の色や大きさを厳しく規制する「屋外広告物条例」が7月1日施行された。広告制限で有名な京都市を上回る規制もあり、「日本一の厳しさ」などと報道され、話題になっている。

「実際に、今回の芦屋市景観条例や、これまで一番厳しいといわれていた京都市景観条例についても、『憲法違反である』という声が目立つという状況にはありません。

それは、景観条例による広告規制営業自由憲法22条)などが制約されるにしても、市民の良好な景観を求める利益を守るための条例なので、『公共の福祉憲法13条、22条など)による制約としてやむをえない』という見方一般的になっているからだと考えられます

また、憲法上の人権の中でも、営業自由などいわゆる『経済的自由』と呼ばれる権利は、他の種類の人権精神的自由生存権など)と衝突する場面では、ある程度制約されてもやむを得ないという考え方があります

このように、景観条例による広告物の制約については、国民市民に広く支持される状態になってきているように思われます

俺は景観政策・・・国土交通省景観行政団体を支持する。

景観保護はゾーニングと思えばいい。

自分敷地内で外から見えないようになら好きに家も看板電柱さえも好きに建ってていいだろうが。

見たくもない人に対しても見せて表現の自由にはならないと思うよ。

俺はエロ漫画を好んで読むけどフィクションフィクションとして自宅で読んでいるだけだしね。

ま、俺自身ゴミなんで景観が汚くてもまあ良いとしても問題はこれからを生きていく子どもたちだな。

せめて良好な環境で育って欲しい。

2017-12-11

https://anond.hatelabo.jp/20171208202331

いやいや。流石に時代が違うから、たとえ裏にどんな事情が隠れていたとしてもあの程度のゴタゴタ(事件に至った経緯として語られているものは残念ながら全国各地で散見できる程度のありふれた事情しかない)の結末の口封じで刃物持ち出させるような真似はさせるのだって難しい

また、ああいう凶行に対しても「本庁離脱たらこうなるぞ」という見せしめ意味だって持たせられんよ

社家の子は俗家の子とはまた違った価値観で育てられる

大きい神社ほどよりその傾向は強くなる

で、後継ぎとして育てられ継承し、様々な束縛から解き放たれると同時に莫大な時間的自由精神的自由経済的自由を得るとさらに一気にその価値観ねじ曲がる傾向がある

ただし、素行やら社内政治上敗北やら何やらで結局自分の家からドロップアウトするようなタイプお金持ちの子じゃ、どこまで価値観ねじ曲げたところで、肉親にためらいなく日本刀振り回すような度胸根性気迫はまず醸成され得ないだろう、とは思うし、傍から見てる人間が一番不自然さを感じる点もそこだろう

でも、気の小さい子でも、どこでも丁重に扱われる事、大きな態度を取る事、粗暴に振る舞う事に徐々に慣れていくと暴力への抵抗も薄まってゆくもんだ

見たところ、明確に使嗾した奴はいなくても不満の塊の弟に耳触りの良い言葉をあれこれ吹き込んだ奴はいるな

でもそいつらの責任は問えない、そんなとこだろ

爆弾自然発火してもお日様のせいにはできない

もちろん爆弾本人が一番悪いが、

火薬を爆発させるのが怖くて爆弾を作ってしまった奴、

近くに置いておくと爆発するからとそれを爆弾扱いした奴、

面白がって爆心地まで転がしてった奴らも全員悪い


30代女性? ああ、運転手に斬りかかって境内の外まで追いかけてって周囲から通報されて、で重傷は負わせたもの境内戻ったって話だったか

状況的に運命共同体はいえやはりどこか他人事だったんだろ、ただの共依存で後戻りできなくなっただけかもしれんが

2017-06-14

[]

公権力による法的強制力のない要請でも 表現の自由侵害に該当するのか?

e.g 政府メディア批判記事自粛要請

公権力による要請違憲審査対象になるのか?

経済的自由ではなく精神的自由制限に該当すると思うんだけれど

制限対象犯罪発生との密接な関連性を示すデータとかあるんすか?

メディア報道と「模倣犯」の因果関係は立証されていないけれど

報道では一定制限をかけている場合もあるけれど、創作にも同程度の規制必要とされるのは適切?


あのマンガ犯人ラストどんなオチだったけ?

[]

公権力による法的強制力のない要請でも 表現の自由侵害に該当するのか?

e.g 政府メディア批判記事自粛要請

公権力による要請違憲審査対象になるのか?

経済的自由ではなく精神的自由制限に該当すると思うんだけれど

制限対象犯罪発生との密接な関連性を示すデータとかあるんすか?

メディア報道と「模倣犯」の因果関係は立証されていないけれど

報道では一定制限をかけている場合もあるけれど、創作にも同程度の規制必要とされるのは適切?


あのマンガ犯人ラストどんなオチだったけ?

2015-12-22

堯觀乎華。華封人曰、嘻、聖人。請祝聖人、使聖人壽。堯曰、辭。使聖人富。堯曰、辭。使聖人男子。堯曰、辭。

 荘子は先秦(戦国時代)における最も特異な思想家のひとりである

彼は孔子を祖とする「儒家」の人々が強調する仁義道徳をこざかしい人

間の作為として排斥し、あるがままにあること――「自然」を愛し、何

ものにもとらわれることのない精神的自由の境地――「道」世界にあ

こがれをよせた。しかも彼はその思想を、彼一流の風刺皮肉や寓言に

託して表現したのである。その著『荘子』の中の「天地篇」にあるこの

話も、そうした彼の「寓言」の一つとして読むべきであって、むろん史

実ではない。

 

 その昔、聖天子として聞こえの高かった堯が、華の地方に巡幸された

ときのことである。その地の関守役人がうやうやしく堯の前にまかりい

で、ご挨拶を申し上げた。

 

 「おお聖人さまよ。謹んで聖人さまの将来をお祝し致します。まずは

  あなた様の御寿命の幾久しくあられますように。」

 

 「いやいや。」

 

 堯は思慮深げに微笑みをたたえながら答えた。

 

 「わしは寿命を望もうなどとは思わぬものじゃ。」

 

 「ならばあなた様の御富のますます豊かにあられますように。」

 

 「いやいや、わしは富を増やそうなどと夢考えてはおらぬのじゃ。」

 

 「なればあなた様の男の御子たちが、いよいよ数多くあられますよう

  に。」

 

 「いやいや、それもわしの望まぬことじゃ。」

 

 「はてさて。」

 

 関守役人はいぶかしげに堯の顔をうちみやりながら訊きかえした。

 

 「寿命と富と男子の多いことは、誰でもの望むことでござりましょう

  に、あなた様だけがそれをお望みなさらぬとは、なんとしたことで

  ござりましょう。」

 

 「さればさ、男子が多くあれば、中には不出来の者も出てきおって、

  かえって心配の種になる。富めば富むで余計の仕事が増えようし、

  寿ければ、辱を残さねばならぬような羽目に遭うことも多くなろう

  というものじゃ(寿ければ則ち辱多し)。この三事、いずれも我が

  身の徳を養うには無用のものといわねばならぬわい。」

 

 それを聞く関守役人の目にはありありと失望・軽侮のいろが現れた。

彼は堯に聞こえよがしにこう呟いた。

 

 「ちぇっ、やくたいもない。堯は聖人と聞き及んでいたのに、今の言

  い草じゃ、たかだか君子くらいの値打ちしかない男と知れた。子供

  が多くともそれぞれに分相応の仕事を授けてやれば、何の心配もあ

  るまいし、富が殖えたら殖えたで人に分け与えてやるならば、何の

  面倒もあるまいに。本当の聖人というものは、鶉のように棲み処を

  選ばず、ひなどりのように無心で食らい、鳥の飛んで跡なきがごと

  く自由自在であるべきもの世間がまともであれば、皆人とともに

  その昌えを楽しむがよし、まともでなければ、我が身の徳を修めて

  隠遁するもよし、千年もの長生きをして世間がいやになったその時

  は、仙人となってかの白雲にうちのり上帝の郷に遊ぶもよい。病・

  老・死の三患に煩わされることなく、身は常に殃なしとすれば、寿

  くともなんで辱の多いことがあろうものか。」

 

 こう言い捨てて関守は踵をかえした。見事に虚をつかれた形の堯は、

ハッと気を取りなおして後を追いかけ、

 

 「待たれい。今しばしお手前の話を承わろうではないか。」

 

 と声をかけたが、かの人は、

 

 「えい、うるさいわえ。」

 

 と一喝したまま後を振り返りもせずに、どこともなく姿を消した。

 

 荘子はこの寓言によって、「儒家」的聖人である堯と対比しつつ

「道」世界に生きる自由自在人――「道家」的聖人の姿を示唆しよう

としたのである

 

2014-07-06

http://anond.hatelabo.jp/20140706141031

精神的自由についてだけど、教養の少ない状態っていうのは、自分経験によってしかものごとを見られない、極めて不自由な状態なのね。自分自身意志に従って行為していると自分で思っていても、その判断基準は、偶然自分が通ってきた経験によって大部分規定されている。

ものごとについて一つの視点からしか見られないってことは、「立場が違う他人にとってそれはどういう意味を持っているのか」ということを考えにくくするし、全てのものごとを自分にとっての損得や好悪で判断しがちになる。自分に縛られた状態だな。

この「他人」っていうのは同時代の人々だけでなく、過去未来も含む。特に、今ある世の中の仕組みや、産み出された作品っていうのには、それを作り出した人々がいるわけで、それを作り出した過去の文脈からものごとを眺められると、自分視点だけで見ていてはわからなかったことがわかるようになったりもする。

専門を学んでゆくことでその分野についてのパースペクティブは得られるけれど、日常生活社会を成り立たせているのはひとつの専門分野のアウトプットだけじゃないからね。

もちろん、人間、完全に他人視点を獲得するなんてことはできないんだけれど、少なくとも自分を縛っているものが何かについて自覚的できれば、その外側に踏み出して眺めてみるって努力もできるだろう。そうする時、少しづつ自由になってゆく感覚があるよ。

教養って何だろう - 自由になれる?

教養って何だろう
http://anond.hatelabo.jp/20140704205502

インターネット暇人ものおかげで教養の様々な側面を覗けた。大変参考になった一方で、当然いくつか疑問が湧いてくる。以下はその疑問について。(なお、私は小説思想書も哲学書もまったく読まない)

教養があると自由になれる】

gingger4 教養とは、運命として与えられた生まれ育ちから自身解放すること (参考)家庭環境読書の習慣のこと/図書館となら、できること http://bit.ly/KWHFw2

showgotch 皆俺流教養論を語るんだけれど微妙にずれててワロタ。歴史的教養は自由になるための学問なんだけど同時に貴族学問でもあったためオペラ歌舞伎を楽しむ素地として連帯の道具でもあったわけだ。ハイパーメリト

seachikin 狭い世界に生きてると視野が狭くなるからせめていろんな情報を集めて他にもいろんな世界があるということを知るってことが教養だと思ってる。んで私は本は読むけど教養はあんまりない。

tyshu 全然読書をしなかった自分が、思い立って1年に100冊読書するってのをやってみたことがあったけど、知識と知識がリンクする様な、世界の広がりを感じたのが印象深かったなと。読書はその時だけで今は…

sardine11 ナボコフ流に言うなら良き読者とは芸術気質科学気質が結合した人。つまり客観的世界に対する主観的認識多様化させ心を打ち震わせる経験をする、それが読書そして教養意味。娯楽と知識の境目に教養がある

a22222111544 この世界で起きていることの大部分を「ひとまずは」愛と理性で把握するために必要古典的知識の体系と、あとはそこにアクセスするための言語能力だと思います本来的な意味での教養を持っている人はごく少数。

kybernetes この世界の様々な側面の見取り図を作れ。その目でこの世界を見よ。

bell_chime_ring238 教養は世の中で起きることを解釈する下地かな。本当にすごい人は、何気ない話題でも全然違う次元で考えてるし、こちらも自分の知らない世界に行けてしまう。体感できれば、教養人格を作るって理解できるよ

p_shirokuma 己の世界観娑婆観の構成素子のなかで、事後的に確認できるもの総体が、しばしば教養と言われているような気がする。

magurohonsha 世界を見るための偏光器だよ。

kirakking つまらない世界自死しないための保険じゃないの。冗談です。

exterminator 必ずしも読書量ではない。世界を体系化して見るため/自分を少しでも自由にするためのもの環境とか文化資産()どうこうより上より下を見て人の足引っ張るような人が多いとこにいると身に付けるのが難しくなる。


なるほど、教養があると自由を獲得できるのか。通時的にも(リベラルアーツ云々)共時的にももっともらしい主張だ。私もそのような側面があるとは思う。ただし、これにも疑問が残る。

疑問を述べる前に、自由とは何だろう。ここでは、他のものから拘束・支配を受けずに自分自身意志に従って行為できる状態、としておく。そして、自由には経済的自由精神的自由の2つがある、ということにしておく。

経済的自由については、いくつかの専門分野について十分に学習すれば達成できそうではある。逆に、小説/思想書/哲学書を読んだり芸術を鑑賞したりを自分なりに咀嚼しながらいくら深く広くたくさん行ったところで達成できそうになさそうである(それだけ文学/思想/哲学/芸術精通していれば少なくとも批評家などにはなれそうではあるが、彼らの年収の最頻値を知らないので、それが経済的自由を獲得できる程度のものなのかについては保留する)。

精神的自由については、小説/思想書/哲学書を読んだり芸術を鑑賞したりを自分なりに咀嚼しながら深く広くたくさん行っていれば獲得できるのであろうか。いくつかの専門分野について学習をしていくだけでは達成できないものなのだろうか。学習する専門分野を十分に増やしていっても、あるいは専門分野ごとの理解を十分に深めていっても達成できないものなのだろうか?

また、経済的自由なくして精神的自由はありうるのだろうか?フレデリックダグラスは生涯奴隷のままで精神的自由を獲得できたであろうか?

フレデリックダグラスについて
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-377.html

【締め】

まぁ、お前らの思うところを書いてけや。

なお、他の疑問については分割する。インターネット暇人どもは長いエントリーを読むのに苦痛を覚えるからな。開発をやる人間の口を借りれば、きっと、このエントリーに限らずそもそも増田なんかにはユーザーが何分も滞在する価値なんてねー、と宣うに違いない。まったくである

 
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