はてなキーワード: 群論とは
第1章 並行プログラミングとGHC (上田和紀) 1.1 はじめに 1.2 ターゲットを明確にしよう 1.3 はじめが大切 1.4 GHCが与える並行計算の枠組み 1.4.1 GHCにおける計算とは,外界との情報のやりとり(通信)である 1.4.2 計算を行う主体は,互いに,および外界と通信し合うプロセスの集まりである 1.4.3 プロセスは,停止するとは限らない 1.4.4 プロセスは,開いた系(open system)をモデル化する 1.4.5 情報とは変数と値との結付き(結合)のことである 1.4.6 プロセスは,結合の観測と生成を行う 1.4.7 プロセスは,書換え規則を用いて定義する 1.4.8 通信は,プロセス間の共有変数を用いて行う 1.4.9 外貨も,プロセスとしてモデル化される 1.4.10 通信は,非同期的である 1.4.11 プロセスのふるまいは,非決定的でありうる 1.5 もう少し具体的なパラダイム 1.5.1 ストリームと双方向通信 1.5.2 履歴のあるオブジェクトの表現 1.5.3 データ駆動計算と要求駆動計算 1.5.4 モジュラリティと差分プログラミング 1.5.5 プロセスによるデータ表現 1.6 歴史的背景と文献案内 1.7 並行プログラミングと効率 1.8 まとめ 第2章 様相論理とテンポラル・プログラミング (桜川貴司) 2.1 はじめに 2.2 様相論理 2.3 時制論理 2.4 多世界モデル 2.5 到達可能性と局所性 2.6 純論理プログラミングへ向けて 2.7 Temporal Prolog 2.8 RACCO 2.9 実現 2.10 まとめと参考文献案内 第3章 レコード・プログラミング (横田一正) 3.1 はじめに 3.2 レコードと述語の表現 3.3 レコード構造とφ-項 3.3.1 φ-項の定義 3.3.2 型の半順序と束 3.3.3 KBLとLOGIN 3.4 応用――データベースの視点から 3.4.1 演繹データベース 3.4.2 レコード・プログラミングとデータベース 3.4.3 いくつかの例 3.5 まとめ 3.6 文献案内 第4章 抽象データ型とOBJ2 (二木厚吉・中川 中) 4.1 はじめに 4.2 抽象データ型と代数型言語 4.2.1 抽象データ型 4.2.2 代数型言語 4.2.3 始代数 4.2.4 項代数 4.2.5 項書換えシステム 4.3 OBJ2 4.3.1 OBJ2の基本構造 4.3.2 モジュールの参照方法 4.3.3 混置関数記号 4.3.4 モジュールのパラメータ化 4.3.5 パラメータ化機構による高階関数の記述 4.3.6 順序ソート 4.3.7 属性つきパターンマッチング 4.3.8 評価戦略の指定 4.3.9 モジュール表現 4.4 おわりに 第5章 プログラム代数とFP (富樫 敦) 5.1 はじめに 5.2 プログラミング・システム FP 5.2.1 オブジェクト 5.2.2 基本関数 5.2.3 プログラム構成子 5.2.4 関数定義 5.2.5 FPのプログラミング・スタイル 5.3 プログラム代数 5.3.1 プログラム代数則 5.3.2 代数則の証明 5.3.3 代数則とプログラム 5.4 ラムダ計算の拡張 5.4.1 ラムダ式の拡張 5.4.2 拡張されたラムダ計算の簡約規則 5.4.3 そのほかのリスト操作用演算子 5.4.4 相互再帰的定義式 5.4.5 ストリーム(無限リスト)処理 5.5 FPプログラムの翻訳 5.5.1 オブジェクトの翻訳 5.5.2 基本関数の翻訳 5.5.3 プログラム構成子の翻訳 5.5.4 簡約規則を用いた代数則の検証 5.6 おわりに 第6章 カテゴリカル・プログラミング (横内寛文) 6.1 はじめに 6.2 値からモルフィズムへ 6.3 カテゴリカル・コンビネータ 6.3.1 ラムダ計算の意味論 6.3.2 モルフィズムによる意味論 6.3.3 カテゴリカル・コンビネータ理論CCL 6.4 関数型プログラミングへの応用 6.4.1 関数型プログラミング言語ML/O 6.4.2 CCLの拡張 6.4.3 CCLに基づいた処理系 6.4.4 公理系に基づいた最適化 6.5 まとめ 第7章 最大公約数――普遍代数,多項式イデアル,自動証明におけるユークリッドの互除法 (外山芳人) 7.1 はじめに 7.2 完備化アルゴリズム 7.2.1 グラス置換えパズル 7.2.2 リダクションシステム 7.2.3 完備なシステム 7.2.4 完備化 7.2.5 パズルの答 7.3 普遍代数における完備化アルゴリズム 7.3.1 群論の語の問題 7.3.2 群の公理の完備化 7.3.3 Knuth-Bendix完備化アルゴリズム 7.4 多項式イデアル理論における完備化アルゴリズム 7.4.1 ユークリッドの互除法 7.4.2 多項式イデアル 7.4.3 Buchbergerアルゴリズム 7.5 一階述語論理における完備化アルゴリズム 7.5.1 レゾリューション法 7.5.2 Hsiangのアイデア 7.6 おわりに 第8章 構成的プログラミング (林 晋) 8.1 構成的プログラミング? 8.2 型付きラムダ計算 8.3 論理としての型付きラムダ計算 8.4 構成的プログラミングとは 8.5 構成的プログラミングにおける再帰呼び出し 8.6 おわりに:構成的プログラミングに未来はあるか? 第9章 メタプログラミングとリフレクション (田中二郎) 9.1 はじめに 9.2 計算システム 9.2.1 因果結合システム 9.2.2 メタシステム 9.2.3 リフレクティブシステム 9.3 3-Lisp 9.4 リフレクティブタワー 9.5 GHCにおけるリフレクション 9.5.1 並列論理型言語GHC 9.5.2 GHCの言語仕様 9.5.3 GHCのメタインタプリタ 9.5.4 リフレクティブ述語のインプリメント 9.6 まとめ
http://anond.hatelabo.jp/20101118060341
みなさん分かってると思いますが上のは嘘ですよ。
これは豆知識の部類ですが、割り算の記号は国によってばらばらです。「÷」「/」「:」がほとんどだと思います。
ピーターフランクルが「:」を使ってたので、東欧のほうではこれなんでしょう。
左から割る記号に「\」を使うのは数学で一度だけ出会ったことがあります。群論で剰余類で類別するところです。
参考: http://www.econ.hit-u.ac.jp/~yamada/algebra_pdf/2_2_subgroup.pdf 2ページ目の記号のところにありますね。
普通はこの意味で「\」を使うことはありません。差集合の意味で使うのが普通です。
参考: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E9%9B%86%E5%90%88
整数どうしの割り算には大きく2種類の意味があります。等分除と包含除です。
上に書いたように5人で分けると1人分はいくつでしょうといった等分除と、3個ずつ分けると何人に分けられるでしょうといった包含除です。
参考: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A4%E6%B3%95
普通に算数を学んだ人は、この2つの違いを意識することはないと思います。
どちらも同じ割り算という計算をすれば答えが出ることをすぐに思いつけるレベルになっているでしょう。
即座に割り算だと分からないと、割り勘も出来ないし生活で困るはずです。
むしろ、この2つの違いを意識して式を立てるほうが異常だと思います。
3×5 の定義は3を5回足し合わせること。すなわち 3+3+3+3+3 である。もちろんこれは正しいことです。
よって、3×5 は3個のりんごを5組集めてきたときの総数という意味に解釈しなければならず、5個のりんごを3組としてはならない。これは完全に誤りです。
定義は掛け算の計算方法を定めているのであって、意味を定めているものではありません。
たとえば、掛け算には面積を計算するという重要な意味もあります。縦3m横5mの長方形の面積は何平方mでしょう?
3+3+3+3+3=15
により15平方mと解いたならこれは自信をもって×にできます。
3mを5回足すことに面積を求めるという意味はありえません。大体、左辺と右辺で次元が違っています。
3×5を定義で置き換えることで完全に意味が変わってしまいました。これは定義が意味を示してるわけではないということです。
割り算も同じです。等分除で定義した割り算も包含除で定義した割り算も計算の結果は同じです。意味が違うだけです。
意味が違うからと違う記法を導入してはいけません。数学は意味を捨て去って計算を抽象化する学問です。結果が同じならみんな割り算と呼んでやればいいのです。
意味の違いを捨て去ることで算数のレベルはひとつ上がりました。掛けられる数は常に左で必ず個数だと決めて覚えるのはもちろんレベルダウンですよ。
掛け算は何を意味するのか?それは定義ではなくて掛け算の性質(=定理)から得るのが自然だ。
3×5は定義から「3個×5組」という意味にとれるし、交換法則と定義から「3組×5個」という意味にもなる。
「3m×5m」なら面積だし、「3m×5本」なら長さの合計でもいい。
大事なのは上のように式の意味をたくさん見つけてくる能力を強化することと、逆に意味から式を作る引き出しを充実させることだ。
みんなこのプロセスを辿ってきたから、等分除とか包含除とか意識せずに割り算できるし、掛け算の左と右を区別するという引き出しの容量の無駄遣いなんてしなくなったはずだ。
わざわざ理屈で考えて式をひねり出させるような問題ではない。そんなことができるのは算数が得意な利口なのだけだろ。
相対論量子力学って、相対論的量子力学(クライン・ゴルドン方程式とかディラック方程式とか)のこと?それとも相対論と量子力学ってこと?
「微分積分」の次に群論が来るのも奇妙だし、その次に何故か相対論量子力学とやらが来るのも変だよね。
知識の順序がぐちゃぐちゃ。群論の前に集合と位相とかから入るべきだし、相対論や量子力学の前に正準形式の解析力学を理解するべきだよね。
ほんとに理解してるのか?なんかwikipediaからそれっぽい言葉を良くわからずに引っ張ってきただけのような印象を受ける。
あとむしろ社会人なら数理統計とか非線形系とかを少しは勉強するべきだよね。
その辺はわかってるのか?
英語はやっぱTOEIC900程度じゃどうにもならんし、最低限その程度はやるべきだと思う。
こういうのを見ると、「英語ができる」とみなすレベルが高すぎるように思う。高いレベルを目指すこと自体は別にいいんだが、英語ばかりに限定するような風潮になってるのがよくない。その熱意を他の分野でも発揮してほしいもんだと思う。挨拶程度の読み書きできるくせに「日本の教育では英語は身につかない(キリッ」といいつつ、微分積分や群論とか相対論量子力学もろくに理解してなかったり、税金や労働法の知識もほとんどなかったりするし。なんだかんだいっても英語はできない状態というのが可視化されやすいんだろうか。英語以外の分野についても低脳であることを自覚し「もっと教育しろ」「その程度では社会人としてやっていけない」と叫んでほしいもんだが。
http://anond.hatelabo.jp/20100307133147
森毅は「数学者」だったということを考慮に入れなかったために起きた勘違い。
天才というのは
「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない、つまらない数字だったよ」
これを聞いたラマヌジャンは、すぐさま次のように言った。
「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」
実は、1729は次のように表すことができる。
1729 = 12^3 + 1^3 = 10^3 + 9^3
すなわち、1729が「A=B^3+C^3=D^3+E^3」という形で表すことのできる最小の数であることを、ラマヌジャンは即座に指摘したのである。
という狂った逸話の残るラマヌジャンのような人間が想定されている。
未就職博士 (OD) の問題がついに新聞紙上に姿をあらわした。昨年秋の札幌の学会で、当地の若い人達がOD問題のビラを配っていたが、内容は”われわれをどうしてくれるのだ”ということであった。筆者の大学では、1967年物理系の学科ができたが、教官定員はアッという間に優秀な人達で埋められてしまい、もう空き定員はない。その後いろいろな方面から就職の照会があるが、ない袖は振れず、如何ともし難い。このようにして、われわれも事の重大さを数年来感じてきたが、何等の有効な対策も講ぜられぬまま今日に至ったのであろう。素粒子関係では未就職者の数は600名とか1000名とか聞く。この人達は本職ならざるアルバイトをしたり、周囲の庇護のもとに生活しているのであろう。現在のわが国は数千名のODを養う経済的余裕があるのかも知れない。しかし、たいていの人はODとなって何年か後には”おれをどうしてくれるのだ”という不満をもつにちがいない。いや既に各所でこの問題が表面化しておればこそ、新聞種にもなるのだ。
筆者の近所にはいわゆる教育ママがたくさんいて、小学校のうちから一流大学を目指して子供をしごく。愚妻もその1人であって、大学の非常勤講師手当を上回る額を月々進学塾に貢いでいる。このまま大学までずっと勉強を続けるのが母親の念願なのであろう。大学で勉学をするのは当然なことだが、最も熱心に勉学を続けた人のなれの果てがODではないか。筆者は時々愚妻に”子供をルンペンに仕立て上げるつもりか”と言う。しかし、大学入学以後のことまでは考えが及ばないようで、あまり効果がない。
たしかに物理学は若者の心を魅了するものをもっている。筆者の教壇からの経験をいうと、1年のクラスでは話が熱力学第2法則とか相対論のくだりになると、日頃ゴソゴソ私語を交わしている学生でもフト熱っぽい眼をする瞬間がある。”私は物理学にだけは強い幻想をもっている”と言ったある全共闘の学生を忘れることができない。”1次元振動子の理論はよくできすぎている”と溜息をついた学生もいた。同じ意味で、群論の量子力学への応用とか、Dirac方程式などには何者にも替え難いBeautyがある。ところで本講座『現代物理学の基礎』の各巻を執筆される方々は、物理学をいかに美しく展開するかに薀蓄を傾けておられるであろう。そして多くの学生を魅了することであろうが、彼等に対してわれわれは責任を感ずべきではないだろうか。少なくとも彼等が物理学への興味を失うことなく、正常な姿で生活できるようにと願うのは自然の感情であろう。筆者は博士課程、とくに理論方面に進む希望の学生に対しては、ODの現実を説き、物理学の汚い半面を強調して、その夢を醒ますことをまず試みる。それにもかかわらず、素粒子とか生物物理を志す学生はあとを絶たないのである。
しかし、思ってもみるがよい。なぜOD問題が生じたのか。講座増を希望したのはわれわれである。教官定員が増え、万年助手が昇格し、研究室が活気を帯びたのも束の間、学生は年々入ってくる。これらの学生は産業界には出てゆかない。そこで再び教官定員増を要求する。しかし政府はある学生数に対して教官を配置するという方針を墨守しているから、この悪循環は急速に発散して今日の事態となったのではないか。すなわち、非は数年先のことを考えずに(または考えていながら)教官の定員増を要求した大学側にある。
一昔前の話になるが、筆者が米国の某大学で、物理学科の学生1人1人に、学位を取ったらどこへ行くかを問うたところ、1人の例外もなく、"Industry" と答えたのに驚かされたことがある。学位を得て産業界に入れば指導的地位を約束されるそれに対して日本の産業界は、修士を受け容れる体制はできたが、博士となると”固まりすぎて融通性がない”という理由で敬遠する。わが国の産業界はまだ博士を必要とするほど発達していないというのは一面のいいわけで、これも大学側に責任があると思う。米国の大学では博士たるものは1つのテーマについて研究を仕上げると共に、年に何回か行われる試験によって物理学全般の知識についてチェックされる。また学部下級生の講義や実験指導をする "Teaching Assistantship" の制度もひろくゆきわたっていて、これがどのくらい彼等の学問と社会性を育てるのに役立っているかわからない。一方、日本の博士課程では3年なり4年なりの間自分の専門に閉じこもり、社会とは隔絶して研究をしていればよい。このようにして彼等は”固まって”しまい、物理学の極めて狭い分野の専門家となるのである。われわれの世代も実はこのような道をたどったので、あるいは、物理学者が社会に眼を奪われるのはもっての外、就職に頭を悩ますなど言語道断と言われる方もあるかもしれない。現に某大学で学生の就職に無関心であると非難された教授が、多分売り言葉に買い言葉であろうが、君達が大学院に入ったのは学問をするためか、就職をするためかと開きなおったそうである。たしかに就職など世俗のことにわずらわされることなく学問ができたらそれにこしたことはない。そこで筆者はこのような理想的な環境として、またOD問題の解決策として次のことを提案する。
それは宗教的教団に似たInstituteを作ることである。名づけて日本素粒子教団、生物物理教団等。この教団に属する人は、世間から僅かな喜捨を仰ぎ、粗衣粗食に甘んじ、妻帯の望みも絶ってひたすら学究生活をする。たまたま在家のわれわれも修業をしたければ年期を限り、なにがしかの費用を払って入団できる。このような教団は古代にもあったようだし、僧侶階級をみてもわかるように、比較的永続きし、しかもすばらしい業績を挙げうるものである。もしかするとOD問題は古代からあったのではあるまいか。
しかしODの中には一応の社会的なセンスをもち、このような教団に属するよりは、世間の人と混ざって生活し、積極的に世のため人のために尽したいと思っておられる人もいるにちがいない。その方々に筆者の日頃思っていることを述べて同憂の士をつのる。われわれは実は手がなくて困っている。現に筆者は、1年・3年・4年・大学院と週10時間の講義を持っているが、年々新たな講義をしようとすると並大抵のことではない。しかも、どの大学でもそうだが、1年生は大教室で講義を受けさせ、入学当初から大きな幻滅を与えている。この1年生への講義ほど、物理学者にとって大切なものはない。つまり受講生の大多数は、将来物理学を専攻しない学生であり、これらの学生の教育こそ物理学が社会全体に正しく理解される足がかりとなるはずである。物理学が正しい姿で社会に浸透すれば、物理学者の発言権も強まり、ひいてはわれわれの社会的地位の向上にもつながる。それなのにわれわれは、その教育に手を抜いている。少なくとも上級生の教育ほど力を入れていない。これは間違っていると思うが、人手が足りないから致し方ない。若しも教官の数が、学生数が現在のままで倍になり、昔のように少人数の講義ができたら、どんなに幸せであろう。さらに少数の学生が1人のTutorまたはAdviserの指導を受けるような制度でもよい(英国の大学またはモスクワ大学のように)。そしてODを全国の大学に吸収するのである。しかし、これを実現するには、学生数に対して教官数を算定する政府の基準を改めさせ、さらにはその根本にある考え方を変えさせなければならない。これを行うだけの政治力が物理学者(基礎科学者)にはないものだろうか。 OD問題をこのままで放置し、破局的状況に持ちこんで、政府をして嫌でも対策を講じざるをえないようにするのも1つの方法ではあろう。しかし筆者は歳のせいか、できるなら破局的状況は避けたいと思うのである。