はてなキーワード: 「家族」とは
俺は29歳の地方公務員。身長168センチで身体の線も細く顔もパッとせず、女性からは「優しそう」、「真面目そう」と言われる。つまり拭うことのできない非モテオーラが染み付いている男だ。非モテオーラに関してはどんなに努力してもダメだった。髪を美容室でセットしようが、眉サロンに行こうが、女友達に服をコーデしてもらおうが、言われるのは「優しそう」、「真面目そう」である。せいぜい良くて「可愛い」だ。声や話し方まで「落ち着く」という評価。つまりオスとしての魅力がない。
こんな男なので恋愛では辛酸を舐めてきた。中学から好きで、高校で付き合い始めた人生初の彼女には2年付き合った後に「好きな人ができた」と振られ、大学でできた彼女には3年付き合った後に「友達みたいな感じになっちゃった」と振られた。今の彼女は大学を卒業後、社会人一年目にその時の配属先(仕事は違う)で出会った。同い年でお互い一年目同士であったため仲良くなり付き合い始めた。
彼女のことは好きだし付き合えていることは幸せだが、いつか男としての魅力のなさを見抜かれ愛想を尽かされるのではないか?という恐怖にストレスを感じている。最近は結婚の話が出ているので余計にストレス増。魅力のない男がパートナーとの関係を維持し続けるのは本当に難しい。異性として愛され続けるのは絶望的だ。イケメン高身長の男だったらパートナーの女性に横柄に振る舞おうが、優しく尽くそうがどちらにせよ愛され続けるのだろう。しかし、俺のような男は横柄に振る舞えば(振る舞ったことはないが)モラハラとして一瞬で嫌われ、優しく尽くせば「一緒に暮らすことはできるがセックスはしたくない優しい人」になってしまう。これから結婚して何年か経ったり子供が産まれたりすれば、愛してると言われることもイチャイチャすることも無くなりセックスも拒否され、悪い意味での「家族」「夫」になってしまう。そんな事で胃を痛めるうち、「結婚に俺の幸せはないのではないか」という思いに至り別れる事にした。まだ伝えてはいないが、今週中にはケジメをつけたい。
↑左翼
左翼。
資本主義は格差が激しくてついていけないから、もっと平等で公正な社会を目指そうぜ、という感じ。
資本主義によって、土地や工場などを私有する資本家が労働者をこき使って搾取するようになったので、それを打破して平等な社会を目指す。
そのためには、労働者自身が土地や工場などを管理する体制(プロレタリア独裁)を武力を用いてでも築くべきだ(暴力革命)、という感じ。
暴力革命を志向するテロリストや、スターリン・毛沢東のような独裁者を生み出した。
マルクス主義を反省して、暴力革命やプロレタリア独裁を否定し、民主主義を通じて政府に働きかけ、平和的に社会主義を達成しよう、という感じ。
政治面においては「俺たちには自由に生きる権利があって国王や貴族でさえそれを侵害できないぜ」という感じ。
民主主義や共和主義を志向する。フランス革命時における「左翼」。
経済面においては「俺たちが自由に商売すれば自然とバランスが取れるんだから政府は余計な口出しすんな」という感じ。
資本主義や市場主義を志向し、個人の権利を重視して「国家権力は小さくあるべき」と考える。
「社会自由主義」の台頭後は、区別のために「古典的自由主義」と呼ばれる。
古典的自由主義のように野放しにしていると、差別や格差が広がって個人の自由が制限されるから、むしろ国家権力が介入して積極的に差別や格差を是正すべきだ、という感じ。
社会自由主義の反動から、一周して古典的自由主義に戻ってきた感じ。
自由な市場を実現するために、規制緩和をしたり、法人税を下げたり、国営企業を民営化したりする。
右翼。
何らかの急進的な政治運動に対して、それに反対する立場が「保守」と見なされる。
それぞれの政治体制や歴史的経緯によって何が「保守」となるかは異なってくるが、現在の日本においては、政治的には「国家主義」を、経済的には「新自由主義」を指すことが多い。
もとは自由主義と連動していて、誰かに支配されたりするのではなく「俺たち」が中心となって行動すべきなんだ、という感じだった。
しかし国民国家が成立して「俺たち=国家」となると、「おまえも俺たちと一緒だよな」と均質化を強要したり、「おまえは俺たちと一緒じゃない」と排外主義になったりした。
「俺たち」を結びつけるものは「民族」「家族」「宗教」「伝統文化」などであることが多い。
さらに行き過ぎると「個人の権利よりも国家の利益が優先される」という「全体主義(ファシズム)」となる。
↓右翼
極端なことを言っていることを承知で書く。
経営者の二世三世や地主みたいなやつが子供を産むのは理解できる。
なぜなら、何もしなくても食うに困らない金やリソースがあり、それを自分の子供に継承させることができるので(産んだことに対してのある種の責任を果たしていると思うし)
ただ、ただのサラリーマンだったり、生活に苦しい人が子供を産むのって子供からしてみたら残酷なことじゃないか?
基本的な養育(食事や教育など)がなされたあと、教育期間が終わったら、もう基本的に面倒は見ないから仕事して金稼いで頑張ってな
って社会に放り出して、資本家にこき使われる人生(40年続く、今後は50年になるかも)、奴隷は言い過ぎかもしれないけど、普通に進化版の奴隷でしょ
誰かが働かなきゃ社会が維持できないのはわかってるんだけど、第一次産業もある程度自動化されてるし、人口全体が働かなくていいし、社会維持に必要な第二次産業もそこまで人口使う必要ないと思ってるし、
経済成長をしていかなくてはならないという呪いから解き放たれれば、社会全体の仕事する時間の半分くらい減らせるような気がするけどどうなんだろうね。
昔は子供を労働力として使っていたり、「家」が労働力を必要としていた(農家だったり)ので作るインセンティブはあった。
ただ、現在は労働力として扱ったら基本的にダメだし(ゆたぼんのパパとかあれ大丈夫なんか?とは思う)、
逆に教育コストのほうがかかって「家」としてのインセンティブはなくなったと思う。(前述の既得権益層は違うが)
「家」の話をして思ったのは、旧来の「家」という概念を持っている集団は子供をつくるメリットがあるけれども、
その「家族」も「個人」の集合体だから子供を作るメリットが「個人」には薄いんだろうなという考えに至った。
皆さんはどう思いますか?
「常識」っていうのは「いろいろな瑣末な問題を解決するための処方箋」なので、それこそ一般的な「常識」から外れた行動をとっている/取ろうとしたことで発生した、それこそ「常識」が解決してくれるはずの軋轢や瑣末な問題を自己解決しないといけない、ということですよ。
結婚しているのに母親の葬式に呼ばない、呼ばないのにも関わらず花すら受け取らない、というのは「常識」からはかけ離れているので、問題は発生して当然だし、自分が起こしたことであって妻はマジで1mmも悪くないですよ。
ましてや、家族葬というのは「常識」では文字通り「家族」で行うものだから。妻が夫に「あなたは私の家族ではありません」宣言をされたらどういう気持ちになりますかね。
妹が怒っているのは、妹からしたら関係値がないので妻は「家族」ではないのだと思いますが、少なくとも増田が妻を「家族」だと思うのならば、「常識」に従った行動を取ったらいいと思いますよ。
自分は一か月だけアメリカにショートステイしていたので、何となく肌で感じた雰囲気に近い印象。
ただ、もっと単純に「多くのコミュニティに属することこそが重要である」みたいなスタンスを自分は感じたかな。
自分がアメリカにいた一か月の間、3か所のコミュニティを紹介されて、それぞれ週に1~2回自分も参加した。
・宗教団体のコミュニティ(ホストファミリーが行ってた教会を中心とした集団)
・ワンちゃんコミュニティ(近所のペット飼ってる人同士の集団)
一つ一つは日本でも良くテレビで見るコミュニティではあるものの、日本だとこういうのに参加するには結構勇気が要るんじゃないかな?
例えば、ワンちゃんコミュニティに入るためには、その中の誰かと仲良くなることからスタートだし、そういう情報ってなかなか入手しずらいし億劫。
なので、こうやってショートステイしてきた外国人って言う異物をいきなり突っ込む(しかもその後一か月で抜ける)ところが、アメリカっぽいと自分は感じた。
じゃあなんでこんな風にコミュニティ活動が活発なのか、って言うと、アメリカが「個人主義の国」であり「自由の国」だからだと推測している。
個人主義とか自由って言うと聞こえがいいけど、何の補助もなしに自分一人では生きていけないのはアメリカも日本も基本的には同じじゃない。
日本の場合、一人で生きていくために必要な補助って言うのが社会福祉として存在している代わりに、代償としてある程度の自由を法や環境で制限している。
アメリカの場合は、窮屈さがそこまで大きくない代わりに、一人で生きていくために必要な補助がそもそも足りていないため、「どうやって自分が住みよい環境を作るか?」がとても重要になってくる。
数年前にも以下のような記事が流行ったけど、これもコミュニティ、環境の問題なんよね。
https://tabi-labo.com/280195/on-a-plate
右側の貧困者が生きていくには、より多くのコミュニティを使って、より多くの発言を通せる環境を作らなければ脱却できない。
だから、アメリカでは「生きていくために」自分から進んで自由を一部犠牲にして、多くのコミュニティを活用することが求められている。
こうやってひも解くと、LGBTQ+の問題だって同じで、LGBTQ+の人たちは、「家族」と「宗教」というコミュニティに所属ができないことが一番の問題だったんだよね。
それはそのまま彼らの「自由」が害されることになるから、LGBTQ+って言うコミュニティを作り上げて、そこで活動を始めた、というのが一つのスタート地点として見ている。
元増田が言う「恋愛至上主義」みたいなものは建前としてはとてもきれいで美しいんだけど、「そもそも生きていくために複数の群れにちょっとずつ入ることが求められる」のがアメリカなんだと思う。
ちなみに、自分も海外(ブラジルだっけな?忘れた)の人を一か月受け入れた経験があるんだけど、その人たちとはあくまで家族ぐるみ+学校コミュニティしか紹介しなかったんだよね。
例えば自分の友達を紹介する必要なんかないと思ってたし、自分は自分で、そのブラジルの人は学校でできた友達と遊べば良いやん、って思ってた。
たまに自分の友達と相手の友達を交えた形でショッピングとかすることはあっても、「じゃあ次からこのコミュニティで活動しようね」みたいな感じにはならなかったのよ。
今こうやって考えると、悪いことをしたなぁ、ととても反省してる。
もし、10代を過ごす時、カルトに汚染された家族以外の別の家族に父や母としての役割を演じてもらうことができれば、こんな歪み方はしなかったのでは?
つまり私が言いたいのは、1人の人間に1人ずつの父と母という遺伝子的な繋がりばかりに固執した家族観の冗長性の低さこそが問題の本質だった可能性について考察すべきであるということだ。
今、多くの人の目がカルトにばかり向けられているが、その要因の一つに「そもそも父・母・子・兄弟(+祖父母)のみで形成される家族構成自体を疑う前提がない」ことが見受けられる。
実際カルトはさっさと滅ぼしてしまうべきだし、カルトかどうかとは無関係に21世紀の政治と宗教の繋がりが12世紀のようなレベルであってはいけないと私も思っている。
だが、それとはまた別箇の問題として「そもそも、父と母の両者、もしくは片方だけでも狂った時点で崩壊する日本的家庭の脆弱さを改善できないだろうか?」という議論は積極的にするべきように思う。
今回の事件にかぎらず、多くの劇的な事件の裏に崩壊した家庭環境があり、その原因はカルト・パチンコ・精神疾患と多種多様にわたっている。
その時々において私たちはそれらを個別に批判する(精神疾患に対してさえも積極的に批判するのはどうかと思うが実際批判は行われている)わけだが、そもそも1人の人間の狂気だけで壊れる日本的家庭というモノの作りの弱さについては議論しそこねているように見受けられる。
この機会にそこを議論してはどうだろうか?
あまり一度に1人の人間がアレコレ言い過ぎると議論の血の巡りが悪くなるので、私はひとまず問題提議をしたことで自分の分の役割・発言力のようなものは使い切ったと判断して一度「見」に回ることにする。
アメリカだって欧州だってレイオフしたら訴訟リスクはあるし現に訴訟されてる
だから実際にはアメリカでもレイオフが無いような安定的職業の方が人気が高い
レイオフされても次の職がすぐ見つかるかどうかは景気次第なところがあって
実際にリーマンの時なんて高給取りがいっぱい野に放たれた
じゃぁなんでこういうレイオフがあんまり問題にならないのかっていうと文化的な側面の方が大きい
例えば「会社=家族」って考えてるか、「社会=家族」って考えてるかの文化的な違いがあったりする
会社を家族と捉えてるような日本企業的文化からすると「社員育成」「内部昇格」を当たり前に考えているし
だから解雇したり減給したりすると「家族から追い出された!」っていう風になって問題に捉える人が多い
英語だとbrotherだけど日本語では兄弟っていう風に上下関係に名前が付いているように日本的文化だと年長者が重んじられる
これが会社になると長く居る人ほど立場が上っていう考え方になる
給与が年功序列っていうのもこの辺から考えが来ているし、上司の方が高給とかいうのも同じような考え方だと思う
長く居るほど給与が上がるからクビにはなりたくないし転職もしたくない
加えてこういう文化の上に国が成り立ってるので税制だってそれを引きずっていて
住民税は前年の収入から計算されるのでいきなり大幅な減給されると次の年の税金を払うことができない
「家族」なんだから、父の日、母の日、誕生日、勤労感謝の日、クリスマス、バレンタイン、敬老の日…には感謝を込めて何かを用意するのが当然だと言い含められていたから、そういうものか、と思って今まで特に疑問に思わずやってきた。
実家を出てからは、お中元やお歳暮、折々の仏前のお供えなんかも送ってきた。
家族の好みや世間の流行りも考えて何を送るか考えるのはそんなに苦ではなかった。
けど、感謝されるでもなし、そもそも5つ下の妹は何も用意したことないにも関らず特に親から何も言われてもいないのを知って、なんか家族のために心を砕くのも時間をとるのもお金をかけるのも馬鹿馬鹿しくなってしまった
そしたら、母親からしょっちゅう送られてくる「仕事やめて地元に帰らないか、帰らないならせめて結婚しないのか」というお小言も、父親から毎日のように送られてくるクソどうでもいい写真やクソ滑ってる親父構文も、ぜーんぶ相手するの嫌になっちゃったー!あははー!
彼氏?ではないらしいけど書き捨て
好きな人ができたとかなんとかでわたしの母から離れる宣言をしながらも、
気に入った家が見つかるまでと居座ってるらしいので
私もこの人とは二十年くらいの知り合い。
「好きな人ができたとは言ったが恋愛感情がわからないので違うかもしれない」
の繰り返しで、こんなに話通じない人だっけ…となっていた。
変わってる自分に酔ってる?なんなのかな
母もそこそこ年齢が行っていて、
母の感情の起伏が激しくなっているのも気になるし、
お金の問題ならホテル代を出すので家が決まるまでビジネスホテルに宿泊してほしい。
と伝えても「僕は気にしない」「僕が見る限り体調は大丈夫」と…
挙句「きみよりお母さんといる時間は長いんだから僕のほうがわかってる」と言う。
ただただ悲しかった。
若いころの彼を知っていて、
人格者だなあと思っていたので母だけじゃなく私も結構動揺してしまい、
とにかく一度は娘だと言った人間のわがままだと思って聞いてほしいと押し通した。
彼が母と一緒に住むとなったとき(すでに私は独立してたけど)、
「じゃあこれから〇〇ちゃんが娘なんだね、目に入れてもいたくないね」
と言っていた彼を信じてしまっていた。
結局彼はそんなこと言ったことすら覚えていなかった。
「変わらず何かあったら呼んでほしい」
と言われたが、本当に、本当に申し訳ない、無理。
「家族」となる前ならできたのかもしれないが、
こんな終わり方じゃ無理だ。
なんというか20年も母も私も、何を見ていたんだろうという気になってあれからとてもむなしい。
揃って見る目がなかったんだな。
【追記】
なんか優しいコメントもらっていた。
ありがとう。泣いた。
母と件の男性が知り合って20年、一緒に住み始めたのはここ数年ってかんじです。
人に説明しづらいところがあったので吐き出せて少しすっきりした。
だから向こうの一緒に住む=結婚じゃないって主張は分からなくもない。
多分向こうはそれじゃ変わらないしもともとそういう人なんだなと思い直した。
昔の母と私がしんどかった時期に支えてくれた人でもあるんだけど、
ベルリンの壁崩壊後の1990年に「女性解放の理論が、マルクス主義の射程から脱け出ていないのは、マルクス主義だけが、ほとんど唯一の、(近代)産業社会の解明とそれからの解放の理論だからである」としており[28]。その後にも、ハンガリー動乱とプラハの春以降もヨーロッパの社会主義者であった人らについて、2008年に「ソ連があるにもかかわらず社会主義者になった、良心的・体制批判的な人たち」と社会主義を「善」とする立場をとっている[29]。2009年には女性の抑圧を解明するフェミニズムの解放理論には社会主義婦人解放論、ラディカル・フェミニズム、マルクス主義フェミニズムの三つしかないと主張している。労働者階級が勝利し階級支配を廃絶すれば女性も解放されるという「社会主義婦人解放論」を強く批判、「ラディカル・フェミニズム」も「社会主義婦人解放論」と同様に「市場」と「家族」が重なり合った近代産業社会における資本主義社会を前提としていることが固有の女性差別の根源であると主張し、マルクス主義フェミニズムを支持している[30]。
34歳女、総合職、結婚願望なし、子供も欲しくない。10年ちかく恋人はいない、アプローチされても断ってきた。でも最近そろそろやっぱりパートナーはいてもいいかな〜と思いはじめマッチングアプリを始めたが、自分がいいなと思うひとはいない。いいねしてくれる人はゆくゆくは結婚したそうな人が多い(確かに30〜40代でマッチングアプリに課金する男性はそうなのかもしれない)。会ってみても友達にはなりたいけど付き合いたい人はいない。アセクシャルではないが別にもう一生セックスしなくてもいい、むしろ面倒臭い。という自分がイマイチ理解できずなんなのだと思っていたのだがこの記事を見てピンときた
https://ta-nishi.hatenablog.com/entry/2022/02/23/132151
さらに彼・彼女らと私はどこまで行っても「点」の関係でしかない。趣味なり酒なりネットなりを媒介にして私は友人たちと繋がっていますが、どんなに親しい友人でも、どんなに気の置けない仲間でも、どこまでいってもそれは媒介を通した「点」の交わりでしかなく、生活や想い出の積み重ねといった「線」としての繋がりではない。それが「友人」の持つ限界なのです。
私の人生を知る存在は、私の「線」としての人生を共有する存在は、この広い世界に私ただ独りしかいないのです。それは、なんと孤独で寂しいことなのでしょう。そう、私は「生活友達」が欲しいのです。趣味や店といった「点」ではなく、日々の積み重ねの共有という「線」で繋がった「生活友達」が。
そしてそうした「線」としての存在は、現在の日本社会では結局のところ「家族」という形式をとらなければ得難いものなのでしょう。そう考えたとき、私は結婚をしたくなりました。「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」
これに全然共感できなくて、気づいた。自分は自分の人生で起こった楽しいことや嬉しいことや面白いことを、独り占めしたいと思っているところがある。親しい友人は遠距離で数人いるけど数年に1回合えば楽しいし時々メールで近況を報告し合うのが楽しい。友達と毎日会うとイライラし始めて仲が悪くなりかけたこともある。昔付き合っていた恋人とも全部は打ち明けなかった。確かに好きだったがもっと境界が欲しかった。
「自分だけの考え」「自分だけの感動」を他の人とシェアしたくないと思っている。どんなに仲の良い人間でも所詮他人であり、感動を100%伝えることは不可能なので、「伝わらなかったフラストレーション」が生まれるのである。本を読んだ後の感動とか、絶対誰にも喋らないようにしている。仕事が終わった後に一人の家に帰るのが至福である。帰った後に家で誰かが待ってると思うとゲンナリする。それを守るならば孤独死もしょうがない、人生の最後10年間が大変だったとしてもそれまで楽しく生きてれば人生積分的には満足である。今を大事に生きているので今のところ人生の後悔は特にないし今後もそうだろう。「点」の友達をつくって一人で生きていくのは自分に向いているのかもしれない。