はてなキーワード: 明治時代とは
日本だけなんだろうか
アマチュアリズムって聞いて、なんか金はないけど手弁当で頑張ってます的な発想になってしまうのって、本来の海の向こうのアマチュアリズムと全然違わね? って思っちゃうんだけど
そもそもアマでアスリートなんかやっても食っていけるっていうのは、つまりそれだけお家に金がある上級国民に他ならないわけで、要は金もらってスポーツやるような下賤な輩なんか入ってくるんじゃねえよってことでしょ?
単に自分らの階級だけで独占したいってのが本音で、商業主義の排除とか言われてもそんなん二の次じゃねえかって感想しかない
今見たらWikipediaですらそんな感じのこと書いてるし、実際ラグビーなんかまさにそれだったし、そもそも日本も明治時代にスポーツが入ってきた時は似たような感じだったはずなのに
制作関係者を非難する悼んでいる人への批判として、「それを言うならお前らだって酷いだろ」というのは、悼んでいる人のロジックの都合の良さを指摘しているのであって、悼んでいる人を責める事は眼目にない。悼んでいる読者が「たしかに何も言わずに消費していた私たちも悪いんだけどさ…」と自省しているなら彼らの論理のスジは通るが、そんな人はいない。
関係者に弔意が無いかはわからない。「外在する読者」にとっては弔意が無いように見える、たとえ関係者が釈明したとて「だから何?」で、そう見えてしまっているだけで十分非難に値するということなのだろうけど、そういうのを認めていくと、歴史は真実を無視した大衆の印象で決まる、ということになってしまう。
少なくとも明治時代から広告・宣伝業者に節操がない、というのは正しいのだろう。けれども、フェミニストなどの粘り強い批判によって、彼らのモラルも変わってきた。批判もまた表現だから、読者が作者からの影響を受けるのと同じように広告サイドも変化する。反省するし、人員が入れ替わっていくことで作る体制が刷新される。だから良心を期待しない方がいい、なんて事はない。
ところで、お書きになった増田の本論自体はとても面白いですね。「作品は誰のものか論」。作者と読者が相互に影響を与えあって歴史に意味を刻んでいくなら、「面白い」とか「良い作品」とかの概念はなんなんだろう。その時の人間たちがどんな感性をしているかで作品の価値が決まるなら… ある時点から見た価値はなんら正しい保証はなく、それどころか評価する人間のグループによっても変わってくるということにならないか。イギリスの料理はマズイ、マズイと昨今の日本人はいうけれど、「イギリス料理はマズイ」と言い切れる人はどこにも居ない、発生しえない。そうなってくる。さらに、作品自体のクオリティをあげるのではなく、ファンに働きかけることで作品の評価を向上させる、そんな戦略も有りになってくるはずだ。そういうのは邪道だと思っていたのだが、この見方に基づくと、戦略の優劣、それを比べる意味は消えてしまう。ならば何を持って作品を評価していけばいいのか。クオリアというか、寄って立つものが無くなってしまう。
コンビニやネット上のレシピ、地域ごとの料理店など、料理に関しては新しい物を生み出すだけの土壌を日本は持っている。
ところが技術研究に関してはイノベーションが起きないと長年言われている。なぜか。
米国の成功事例を持ってきて改善すれば成果が出た時代はバラまいていれば成果は出たし、研究費の抑制につながっていた。
OISTのように優秀な人にお金をつければ結果は出るのはわかっているが、
明治時代に見られたように、世界トップレベルの人を招待し、そこで学んだ人材を活用することが1点。
2店目が、学んだ人が起業し新しい産業を作る必要があるが、できていない。
産学連携もあるが、既存のビジネスに貢献できなければ承認が降りないので、新しい産業はうまれない。
宇宙関係を見ると技術力が足りずに国産品では品質を確保できず、輸入部品に頼っている。
車とスマホは作れるくらいの技術力はあるが、とりあえず高品質な物を組み合わせて新しい物を作るというのができる環境にない。
③身の回りに物が大量におけるくらいのスペースがない
身の回りにある物を組合わあせて新しいものが出てくるのが大半だが、居住スペースが狭い、研究スペースが狭いなどで物が置けない。
料理の場合新しいものが出てくるのは、材料の入手性からトライ&エラーを繰り返しできるのもあるが、大型スーパーが見本展としての役割を果たしているのではないか。
真田十勇士はまだしも知られてるけど
どんな話だったんだろうと思ってググってみたところ
その内容を簡単にまとめてみることにした。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/891033
Wikipediaによると
十勇士の人物像について始めて具体的に記述された史料は、文化8年(1811年) - 文政4年(1821年)にかけて刊行された『絵本更科草紙』である。
この書は、幸盛の母である更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語である。書と共にこの話は全国的に広まったようであり、この後には、十勇士を題材にした浮世絵の描画や歌舞伎の上演、また十勇士が描かれた絵馬が神社に奉納されるなど、世間一般にこの話が浸透していったことが分かる。
明治時代に入ると、先の『絵本更科草紙』と同じ内容で、表題を『尼子十勇士伝』とした書が刊行される。明治44年(1911年)12月、『絵本更科草紙』の内容を簡略化し、大衆向けに噛み砕いた文で表した書、『武士道精華 山中鹿之助』が立川文庫より発行されると、尼子十勇士の名は一躍有名になる。
というわけで簡略版の簡略版ということになるが、
わりと長くなったので短く分けてトラバに書いていく。
(1)「稲作」が普及した奈良時代まで(100万→500万)
(2)「二毛作」「牛馬の使用」など農業が改革された室町時代終わり(800万→1200万)
(3)「小農の自立」が起きた江戸時代前期(1200万→2500万)
(4)「産業の改革」が起きた明治時代(3000万→6000万)
(5)「経済成長」が起きた戦後(7000万→1億2000万)
となる。
もちろん医療の充実とか社会構造、家族関係などもこの間には変化しているんだけど、こう並べてみると結局「食い扶持」に連動して人口は変化するのだと分かる。社会構造がどう変わろうが、医療がどう進歩しようが、社会全体でその人口を支えられなければ結局人口は増えないし、社会がそれをまかなえる限り、人口は増えていくもののようだよ。
だから、個人的には「●●年後には日本の人口は半減!」とか煽る未来予測は嘘だと思ってる。冨がなければ人は増えない、冨があれば人は増える。多分、長期的にはそれくらい単純に出来てるものみたいだ。