はてなキーワード: アイコンとは
デフォルトアイコンから変えてずっとそのまま、って人も居るだろうけど。
いくつかアイコンを切り替えて今のアイコンに落ち着いた、という人も多いと思うのだが、どうか。
そしたらそのきっかけは何なのかな、って。
「ラブひな」作者・赤松健氏、「月曜日のたわわ」広告への抗議に猛反対「不当な表現規制」「なぜ女子高生に限って?」(よろず~ニュース) - Yahoo!ニュース
b:id:sayuririx | 未成年を性的に見るのが当たり前になってるからなぜ女子高生に限ってなんて言うんだね。納得。 |
b:id:meowcatwings | 創作物が現実に影響しないと思ってるなら、プロパガンダをどう思ってるんだろう。あと未成年の胸見て元気が出るのはいいけど、それを良いことと宣伝するのは倫理的にダメだと思う。 |
b:id:Japonism | 何故かというとその絵には子どもが描かれているからだよね。大人が描かれてるならここまでの騒ぎにならないのわかんないのかなぁ…高校生は子どもだよ?未成年という言い方でもいいけどさ7才がNGなら17才もNG |
b:id:xll | 月曜日のたわわの世界が実は人間が滅んだ世界で、三百歳でJKに似た姿で学校に通っているとしたら、それは全く問題のない表現になるのだろうか。 / 非実在人物なのに『それがJKで未成年だから問題』の意味が分からない |
b:id:sametashark | この方が未成年の女性を自己表現のための道具とみなしていることがよくわかる。不躾な視線への問題提起さえ思考拒否か。本当に議員やる気なら両立する無難な表現へのアレンジ案くらい出してくれないかな。 |
b:id:ikusana | “「なぜ女子高生に限って?」”未成年を性的に描くのは実写ならNG、イラストでも場所をわきまえろってだけの話なのに論点がズレてるよ。 |
今年の4月1日を以て日本も国際基準に合わせて18歳から成年になりました。
したがって女子高生の制服を着た成年女性は日本全国津々浦々に存在します。
女子高生の制服を着ているから未成年であるという類推は出来ませんし、制服を着た女子高生の広告だからといって「未成年の女性の性的コンテンツ」であると判断することはもはや出来ません。
これらのブコメは「女子高生は未成年である」という誤った認識を元にコメントされたものです。
日本の成人年齢の見直しが遅かったために意識のアップデートが追いついていないと思われますからある意味この方々は被害者ではありますが、先進的かつ意識の高いプラットフォームであるはてなにおいてその認識はそぐわないと言わざるを得ません。
制服を着ているからといって未成年であるとは判断できない。しっかりと覚えましょう。
b:id:vkara | 制服を目印にターゲットにされる性被害者が想像以上に多い社会やで。配慮いるやろ。元気になってほしいならアリナミンとかのが分かるわ。山本浩之アナの禿げネタポスターは不快で回収されてるぞ。配慮いるねん。 |
先ほどの意識のアップデートが出来ていない方々と違い、こちらの意見は素晴らしいですね。成年未成年関係なく制服が目印になるという意見です。一貫しています。
転職とか決まる都度GithubやらSlackやらにアイコンを設定しなきゃいけないじゃん?
顔写真にしてる人が多い気がするんだけど、
でも匿名文化で生きてきた自分としてはいくら業務で使うシステムと言っても自分の顔写真をアップロードするのは結構抵抗がある
Iカップのいかにも大人しそうな女子中学生がいたら、うわっデカいなって思うじゃん。
隣を歩いてた友人が思わず「でか!」と口にしてじろじろ胸を見たとして、それに気づいた女子中学生の顔が真っ赤になったとして、友人に対して確かにデカいから仕方ないと思いこそすれ本気で怒ったり引いたりはしないだろう。
口では「やめろよ」と笑いながら言ったとしても、男なら気持ちはわかる。たとえば通りすがりにその爆乳に肘が当たったことを自慢されても気持ちはわかる。楽しく遊んでいる最中に本気で咎めて空気を悪くはできない。
男なら仕方ない。爆乳なら仕方ない。女の子は別に嫌そうな顔はしてなかった、と思うだろう。
小学生の頃から通りがかりに卑猥な言葉を投げつけられたり偶然を装って胸を触られたり教師にニヤニヤしながら凝視されたり同級生の男子にふざけて羽交い絞めにされたり、そういうことがしょっちゅうあったけど中学生らしからぬ巨乳の女子中学生だから仕方ない。
「やめてほしい」と本気で言うと、誤魔化すように笑うか空気を読めよとキレられる。巨乳のくせに本気で怒る私のほうが間違っているかのような雰囲気。
顔色を変えず上手く躱すようになることが大人の女性の本当の賢さだと社会は言っていた。ほんの十年前まで、たわわな女子中学生・高校生は性的な存在として扱われるのは当然だと社会のさまざまな場所で広告されていた。
建前上はやってはいけないことだが、実際にそれが行われたのを見た大人の男は「気持ちはわかる」「男の本能だから仕方ない」と言う。この苦しさは、ずっと欲情させる身体に生まれてきた自分が招いたことだと信じていた。
この巨乳はあまりにも人目を引き、これまで接した男性たちに「この女は性的な存在として嘲笑していい」というメッセージを送り続けた。
私に大小の性的な接触をしてきた人々は決して低能でも粗暴でもなく、普段は人のいい友人たちだ。ごく普通の善良な男性に性的な欲情を起こさせ、ラインを超える言動をさせるのは、私の身体だ。
私自身は重度のオタクだし、自由主義者であり性的表現規制には慎重な考え方だ。
だが同時に、私が子供の頃から好んで読んだり見たりしてきたメディアで示された性的表現に自分が影響されてきたことも知っている。
周囲に溢れるバラエティやドラマ、漫画やアニメによる刷り込みで、コミュニティの中で性的なアイコンとして振舞うように求められるのは当然だと学習してきた。
辛いと感じるのは私が弱く、大人のスキルをもっていないからだと思っていた。
大学でジェンダー論に触れ、あるいはいくつかのフェミニズム論に触れて初めて私は怒ってよいのだと言ってもらえたとき、目からうろこが落ちたようだった。
それまでずっと私が受けた性被害は性被害ではなく、それは私自身が招いたもので、受け流せない自分が悪いと思っていた。
私の身体は私のものだと言ってはいけないと思い込んでいた。私の身体のせいではない、社会が間違っている。この社会を変えられると言ってもらって、涙が出た。
漫画やアニメが実際の性犯罪を惹起する確率は低い、というのは理解している。
だが私は漫画やアニメから「性的な存在として振舞うのが正しいあり方です」というメッセージを受けとって成長してきた。
データを示せと言われたら困る。私は持っていないのでこれはn=1のただのお気持ち表明だ。
これから性被害を受けるかもしれない子供たちに、それを肯定するような表現を見せたくない。あなたの身体はあなた自身のもので、踏みにじられそうになったら本気で怒っていい。あなた以上にあなたの周囲の大人たちも怒ってあげると言ってあげたい。
私が公的な場所での性的な表現をやめてほしい理由はこういうことです。性犯罪を誘発しかねないという理由で性的表現を批判していることについては否定的に見ています。
という言葉を河瀨直美監督の東大入学式の祝辞を読んで思い出した。ナチスの将校にも、大日本帝国の兵士にも、自分たちの行為を正当化する「内在的論理」があった。
だからこそ、それを悪魔化して切り捨てることなく、真摯に分析して、過ちを繰り返さないために再び社会に包摂していくというプロセスが必要になる。
ロシアという国もいずれは国際社会に復帰し、そのようにして再統合される日が来るだろう。
しかし、彼らの主張を他の正義と同じ水準に並べることには慎重でなければならない。なぜならそれは彼らの蛮行を正当化する主張に力を与える行為に他ならないからだ。
河瀨監督の真意はともかく、その語りの重心が「悪魔化された対象の包摂」よりも「ロシアの蛮行の不用意な相対化」に傾いていることは否定しがたい。
ひとりの宗教家の「あれらの国の名前を言わへんようにしとんや」という遠回しな言葉を引用するとき、「ロシア」「ウクライナ」という具体的な国名があえて補われている。
そして「その国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら」と相対化を試み、「一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?」とダメ押しが加えられている。
が、「ものの本質」が何なのかという具体的な説明はなされないまま、語りは「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです」という一般論的な自省へと流れていく。
ここで分かるのは、「ロシア」と「ウクライナ」は一見するとまったく具体的な固有名詞のようだが、このテキストでは単に「同じ水準で対立する2つの正義」という抽象化されたアイコンにすぎないということだ。そしてそのような使われ方によって、両者の「正義」の対立が同水準であることが暗示されてしまっている。
また、ロシア悪玉論を揺さぶるオルタナティブな視座として提示されているらしい「それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?」という問いかけは、実のところは開戦当初から繰り返しメディアに登場してきたものだ。
これもまた「ロシアを悪とする議論はこのような基本的な問いかけすら踏まえていない」という誤った矮小化を導きかねないものだと思う。
河瀨監督がミスリーディングを意図したとは思わない。だが、このウクライナ問題の扱われ方は、同じ祝辞の中で語られる「たった一つの窓から見える光景を深く考察すれば、世界に通用する真理に到達できる」という世界観の限界をまざまざと示している。